第三 酒宴の部屋の安息



 一章の十五節より二章の七節までを見ますと、愛に引かれて信仰の安息に入ることを得た経験を読みます。ヘブル書四章のように、ここでどうしてその安息に入る事ができるかを明らかに解ります。十五節より読みますと、そこで主は救われた者の心のうちに与えられた恩恵めぐみのために感謝したまいます。私共わたくしどもが幾分でも聖霊の感化を得て、幾分でも聖霊の実を結ぶ事を得ましたならば、これは主の眼の前に喜ばしき事であります。主はそれを喜びそれをめたまいます。

十五節『あゝうるはしきかな わが佳耦ともよ あゝうるはしきかな』

 私共が救われた者でありますれば、必ず主の前にうるわしき者であります。聖霊の感化を得ましたから天国に移った者でありますから、神の眼の前にうるわしき者となりました。私共はたびたび自分に目をつけて、自分の不足や自分の欠点、また自分のけがれ等を見て、自分は恐ろしき罪人つみびとであると思います。けれども主は私共をその御血潮おんちしおによりてきよめられ、聖霊の働きを得た者としてご覧なさいますから、私共のうちうるわしさを見たまいます。おおどうぞそれを深く考えとうございます。またそれにより主の愛を見とうございます。主はたびたびこの十五節のごとく、聖書の聖言みことばによりて救われた私共のうるわしさを示したまいます。

『なんぢの目は鴿はとのごとし』

 新郎は新婦に鴿はとの霊、すなわち柔和なる聖霊の感化のあるのを見て喜びたまいます。主はそのように新婦のうるわしさをたたえたまいます。けれども十六節を見ますれば、新婦はそれを見たくありません。かえって新郎のうるわしさを見て、それを感謝します。

十六節『わが愛する者よ あゝなんぢはうるはしくまた樂しきかな』

 新婦は新郎が自分のうるわしさの源泉であることを言い表します。そして主のうるわしさをたたえ、それを喜び楽しみます。またその節の終わりに、

『われらのとこ靑綠みどりなり』

 これは相互の交わりが幸いなことを言い表したことばであります。詩篇二十三篇の二節のように『ヱホバは我をみどりの野にふさせ』たまいます。また、

十七節『われらの家の棟梁うつばり香柏かうはく その垂木たるきは松の木なり』

 すなわちこれはその交わりの堅固なことを指します。主と私共との交わりはただ感情的な変わり易いものでなくして、香柏こうはくのごとく、また松の木のごとく堅固に建てられたものであります。ヘブル書十一章十節にある『もとゐある京城みやこ』のようなもの、またマタイ伝七章二十四節の『いはの上にたてたる家』のように動かないものであります。なぜなればその交わりは神の契約よりずる幸福であるからです。神の契約が動きませんから、その交わりも必ずいつまでも変わらない堅固なものであります。

 またこの交わりは人間の作ったものではありません。十六節の『靑綠みどり』はすなわち野の景色で人の作ったものではありません。十七節香柏こうはくと松の木は材木を言ったのではなくして、これは立木を指します。(英語改正訳を見ますと、複数で書いてありますから、それが解ります。)主と私共との交わりはそのように堅い、また神に作られたもので、少しも人間の働きまたは力のためではありません。またうるわしい野原の景色のごとくうるわしく、また作った家のごとく狭くありません。

 香柏こうはくは朽ちざる樹でありますから、香柏こうはくの意味はいつでもよみがえりであります。ペテロ前書一章三節我儕われらをしてイエスキリストのよみがへり給ひしことによりいけのぞみを得させ』。そうですからこの交わりはよみがえ生命いのちを得た者のために得られる幸福で、またよみがえりの生命いのちのごとく限りないものであります。この世のことや肉のことのためにけがれを受けず、豊かなる生命いのちによりて断えずよみがえった主と交わることを得ます。その生命いのちよみがえりの生命いのちでありますから、いつでも聖潔の生涯を暮らして、主と交わることを得ます。

 ソロモンは香柏こうはくと松の木をもって神殿を建てました(歴代誌下二・八)。そのように新婦と新郎の交わりは、神の家の厳粛なるきよき交わりであります。すなわち天国における交わりと同じものであります。

 新婦はそのように新郎のうるわしさをめ、また新郎との交わりの楽しい幸福なものであることを申しましたが、自分はただ小さい野花のばなのようなものであると申します。


第 二 章


一節『われはシヤロンの野花のばな 谷の百合花ゆりなり』

 何の価値もない賤しい、小さい野花のばなのようなものであります。けれども主はその野花のばなを見て、その中にさえもうるわしさを見たまいます。

二節女子等をうなごらなかにわが佳耦とものあるは荊棘いばらなか百合花ゆりのあるがごとし』

 周囲にはいろいろのけがれもあり、悪魔のわざもあります。けれども聖霊の力に断えず守られて、荊棘いばらの中にある百合ゆりのようにうるわしさを保ち、かんばしき香を出します。

 主の聖言みことばは力があります。主がこのようなことを私共に耳語ささやきたまいますなれば、今までこういう経験がありませんでも、今その主の聖言みことばを受け入れますならば、今からこの荊棘いばらの中の百合ゆりのようなものとなり、そのようなうるわしいものとなることができます。

 けれどもこの新婦は自分の得た恵みに目をつけず、かえって愛する救い主のうるわしさに目をつけます。

三節『わが愛する者の男子等をのこらなかにあるは林の樹のなか林檎りんごのあるがごとし』

 愛する新郎にいましたときに、ちょうど疲れたえ渇ける旅人が、偶然に林の中に立派に熟した大きな柔らかな林檎りんごっている、林檎りんごの樹を見出したようであったと申します。私共は疲れた魂をもって、この世の旅の途中において救い主に出遇であいました時に、ちょうどそれと同じ満足を受けることを得ました。そのために満足を得、そのために新しき力を得、またそのために心の喜悦よろこびを得ました。

 林の中に林檎りんごを見出すことは、普通とうていできぬことであります。林檎りんごの樹は決して林の中にあるものでありません。そのように人間の中にて救い主に出遇であうことは普通のことではありません。そうですから特別に大いなる満足と喜悦よろこびとを得ました。

われふかくよろこびてそのかげにすわれり』

 そのために安息を得ました。けれどもそればかりではありません。

『そのはわが口に甘かりき』

 すなわちその林檎りんごを食べて、新しき力と養いを得ました。なお大いなる満足を得ました。ただそのうるわしい林檎りんごの樹を見て喜ぶだけでなく、そのを食べて味わいます。林の中に林檎りんごがありますれば、誰でもそれを自由に取って食べることができます。『あゝなんぢらかわける者ことごとく水にきたれ かねなき者もきたるべし 汝等なんぢらきたりてかひ もとめてくらへ』(イザヤ書五十五章一節)。

 この新婦はそういう幸福を得ましたから、喜んでそれを他の人々にあかしいたします。この三節はそのあかしであります。おお愛する兄弟姉妹よ、あなたも度々たびたびこういう経験がありますか。しゅ出遇であい、新しき安息、新しき喜楽よろこびまた新しき満足を得たことがありますか。私共は度々たびたびこんな経験があるはずであります。毎日、主を求むる時にこのような幸福を受けるはずであります。もし主を遠ざかり、祈禱いのりの霊を失い冷淡になっておりますれば、近頃のうちにそういう経験がないかも知れません。もしそうであれば、ただいま悔改くいあらためて、砕けたる心をもって、主のうるわしさを見て主を求めなければなりません。

 けれどもただ主のを受ける事のみでなく、四節を見ますれば、なお進んで主ご自身と一緒になり、親しき交わりを得て、主の喜楽よろこびることを得ます。

四節かれわれをたづさへて酒宴さかもりいへにいれたまへり』

 ただ自分のを食べさせるだけでなく、ご自分をあらわし、そのご臨在を悟らせて、ご自身『われをたづさへて酒宴さかもりいへにいれ』たまいました。そしてそこで最もうるわしき天の葡萄酒ぶどうしゅを飲ませ、ご自身と一緒に天にける喜びを得させたまいます。

 酒宴さかもりいえに入れられました。牢屋でなく、また外科手術室でもなく、また学校でもありません。主とのこの楽しい交わりをだ経験しません者は、主に身も魂も献げますならば、牢屋に入るように自由を失うと思いましたり、外科手術室に入るように痛い目にわねばならぬかのように思いましたり、またちょうど学校にでも入るように苦しんで学ばなければならぬように思います。しかしこれはみな間違いであります。主に身も魂も献げて主との交わりに入る事は、ちょうど酒宴さかもりいえに入るごとく楽しい事で、そこで安息と幸福を得るのであります。またその経験をする時に、

『そのわが上にひるがへしたる旗は愛なりき』

 すなわち主の愛にまもられて、主の愛したもう者となることを得ます。兵隊が城を攻め取りますならば、その上にっている敵の旗を除いて、味方の旗をひるがえします通りに、今主はこの人の上にご自分の旗をひるがえしたまいます。そうですからこの新婦は主の愛に感じ、主の愛に満足し、愛の空気を吸うて生涯を暮らす事を得ます。既に主に降参し、主のうるわしさを見ましたならば、主の手に渡されし城のような者となり、主のものとなったのですから、主はその上にご自分の旗をひるがえしたまいます。おお感謝すべきことではありませんか。

五節ふ なんぢら乾葡萄ほしぶだうをもてわが力をおぎなへ 林檎りんごをもて我に力をつけよ 我は愛によりてやみわづらふ』

 愛の交わりの深い経験を受けるために、格別に力を受けなければなりませんから、ここでそれを願っています。エペソ書三章十七節にキリストを心に宿すことが書いてありますが、そのためにはまず十六節のようにうちの人がつよすこやかにされなければなりません。また黙示録一章十七節にありますように、主と交わりてその聖声みこえを聞くためには、まずその力ある御手みてよりよみがえ生命いのちを得なければなりません。

 このように強められて主との交わりができますれば、六節のようなうるわしき安息と保護とを経験いたします。

六節『かれが左の手はわがかしらの下にあり その右の手をもて我をいだく』

 これはちょうど申命記三十三章二十七節と同じことであります。『永久とこしなへいます神は住所すみかなり 下には永遠の腕あり』。これはヘブル書四章にあるような信仰の安息であります。主の御手みてうちにありて主にまもられ、主にいだかれ、主の愛に感じて生涯を暮らすことを得ます。そうですから七節を見ますと、こういう安息を妨げる者のないことを願います。

七節『ヱルサレムの女子等をうなごらわれなんぢらにしかの鹿とをさし誓ひてふ 愛のおのづからおこるときまでは殊更ことさら喚起よびおこさますなかれ』

 どうかそのような楽しい安息を妨げぬように、そのような喜ばしい愛の経験を妨げないようにと願います。信仰によりて自分の心のうちに主が宿りたまいましたためにそのような経験を得ましたから、それを妨げることの起こらぬように熱心に祈ります。

 この人の信仰は未だ弱うございますから、鹿がものに恐れて早く逃げてしまうように、主が早く去ってしまいなさることはないかと思います。しかしそのように思うことは、ただ自分の不信仰のためです。主は決してそのように早く去りたまいません。エペソ書三章十七節に『キリストをして信仰により爾曹なんぢらの心にをらしめ』とある『をらしめ』という語の原語はとどまって住むとの意味であります。エレミヤ記十四章八節の『一夜寄宿ひとよやどり旅客たびゞと』のように早く去りたまいません。もし私共が主の足下あしもとやすむことを選びますれば、ルカ伝十章四十二節にあるように、この主との交わりと安息に必ず私共よりられることはありません。



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