第二 糧 を 求 む
五節より十四節の終わりまでにもう一つの譬えがあります。ここからは新しい一段で、この一段の大意は養いを求めることであります、一節より四節までの一段によりて、神との美わしき交わりに入り神の庫に入ることを得ました。そうですから続いて神に養われることを願います。これは平生の順序です。私共は恩恵を得れば得るに従って、だんだん養いを求めます。ペテロ前書にも同じ順序を見ます。この書の一章八節において前に申したような経験を得ましたから、二章二節において『今生れし嬰兒の乳を慕ふ如く爾曹心を養ふ眞乳を慕ふ』べきことが書いてあります。
五節『ヱルサレムの女子等よ われは黑けれどもなほ美はし ケダルの天幕のごとく またソロモンの帷帳に似たり』
自分は黒いものであります。また今まで主の恩恵を経験しましたから、なおさら自分の性来の黒さを知りそれを懺悔します。しかし『われは黑けれどもなほ美はし』。すなわち潔められて神の恩恵を得、キリストの属となりましたから、キリストの美わしさを得、そのために美わしいものとなりました。鉄の棒を炉の中に入れて置きますと、その黒い鉄の棒がだんだん火のようになって参ります。けれども、その鉄の棒は自分としてはいつまでも黒い物であります。火より出しますと、また以前のように黒くなります。ただそれが火の中にあり、まただんだんその中に火が宿りますからそのために輝くのです。その輝きは真正です。けれどもそれは鉄の輝きでなく、火の輝きであります。ちょうどそのように、私共は性来黒いものでありますが主イエスを得、主イエスの属となりましたから、そのために主イエスの美わしさを得、美わしき者となるのであります(詩篇九十・十七、ロマ書十三・十四)。これは実に幸福であります。今それを明らかに見る事を得ませんが、キリストの再臨の時にそれが顕われます。私共各自キリストの美わしさ、キリストの聖潔をもって輝く事を得ます。
ケダルの天幕とは粗い布の天幕であります。今日でもその地方の人々は、黒い粗い布をもって天幕を作ります。『ケダルの天幕のごとく』。表面は黒いものであります。けれども心の中は『ソロモンの帷帳に似たり』。ソロモンの神殿の聖所と至聖所の間に美わしい帷帳が懸けてありました。金の絲や絹の絲や、いろいろの美わしい絲をもって作った、真に美わしい物でありました。私共は表面を見ますれば粗いものであるかも知れませんが、心の中は潔められましたから、ソロモンの帷帳のごとく美わしい有様であります。けれどもそのために迫害を得ました。それは、
六節『われ色くろきが故に 日のわれを燒たるが故に 我を視るなかれ わが母の子等われを怒りて我に葡萄園をまもらしめたり』
すなわちひどい賤しい働きをさせました。苦労をさせました。これは迫害であります。肉に属ける信者は必ず霊に属ける信者を迫害します。またこの人は霊的の意味をもって、
『我はおのが葡萄園をまもらざりき』
と申しています。はじめの葡萄園という語には、別に深い意味がありませんが、今それに深い意味をつけて、自分の心の葡萄園を守らざりきと申しました。そのために今主に新しき養いと安息を求めます。今まで毎日祈禱と聖書を読む事によりて、自分の葡萄園を守る事をせなかった事を知って、自分の不足を感じ、今信仰をもって毎日の養いを求めます。七節を見ますと、主に近づいて叫んでいます。
七節『わが心の愛する者よ なんぢは何處にてなんぢの群を牧なひ 午時いづこにて之を息まするや』
すなわち養いと安息について尋ねます。この二つの事を主より受けとうございます。主に交わりて、直接に主よりこの二つの事を受けるように願います。
『請ふわれに告よ なんぞ面を覆へる者の如くして なんぢが伴侶の群のかたはらにをるべけんや』
そうですから今までは目宛なき者のごとく彷徨いました。そのために毎日時間を費やしましたが、真の養いと真の安息を得ません。養いを得たことがありますれば、それは他の人の手から、すなわち『伴侶の群のかたはら』で得たので、直接神より得たのではありません。そうですから『面を覆へる者の如き』有様でありました。コリント後書三章を見ますと、聖書を読む者に帕子のある者と帕子なくして読む者とあります。その十五節に『今日に至るまでモーセを讀とき其帕子なほ其心を蒙へり』。今でもこういう信者がたくさんあります。旧約を見る時にその光を見ることができません。けれども『其心主に歸するに及ばゞ其かほおほひ除』かれて『帕子なくして鏡に照すが如く主の榮を見』ることができます(十六、十八節)。この人は今まで『面を覆へる者の如くして』霊的の養いを求めました。けれども今その帕子を除かれて、面と面とを合わせて主に遇い、直接に主の御手より養いを得とうございます。八節にエルサレムの女がこれに答えます。
八節『婦人の最も美はしき者よ なんぢ若しらずば群の足跡にしたがひて出ゆき 牧羊者の天幕のかたはらにて汝の羔山羊を牧へ』
この答の中に二つの点があります。第一に『群の足跡にしたがへ』。これは大切なることであります。ヘブル書六章十二節に『怠らずしてかの信仰と忍耐を以て約束を嗣る者に傚んことを』とあります。私共もそのように群の足跡に随わなければなりません。もはや神の約束を嗣いだ者に従わなければなりません。またヘブル書十一章には始めより終わりまで、群の足跡が書いてあります。信仰の足跡、苦を受けし者の足跡、十字架を負うた者の足跡であります。私共が主より養いを得とうございますならば、ヘブル書十一章の群の足跡に従わなければなりません。多くの人々はそれを嫌います。苦しみを受けたる者の足跡に随うことを好みません。そうですから、直接に主より養いを受けることができません。
また第二に『牧羊者の天幕のかたはらにて汝の羔山羊を牧へ』。すなわち真の牧羊者に近づけよという意味であります。聖霊に満たされし牧者(エペソ四・十一)に近づき、そのところで自分の羔を牧いますれば、そこで主に面会して主より直接に養いを受けることを得ます。この人はその勧めに従ってそう致しました。そうですから暫く後に九節において新郎の声をきくことを得ました。その勧めに従いつつある間に、新郎の声を聴くことを得ました。
九節『わが佳耦よ』
と主は懇ろに言いたまいます。新郎はついにここでその聖声を出したまいます。新婦は今までその声を待っていましたが、ついにそれを聞くことを得ました。モーセが山の上で、六日間神の聖声を待ち望んで、七日目にそれを聞くことを得た通りでありました(出エジプト記二十四・十六)。
『我なんぢをパロの車の馬に譬ふ』
なぜならば熱心に、力をもって主を求めるからであります。マタイ伝十一章十二節に馬のごとき信者の有様が書いてあります。『バプテスマのヨハネの時より今に至るまで人々勵て天國を取んとす 勵たる者は之を取り』。こういう人々はここで馬に譬えられた人であります。熱心に力をもって妨げられずして主の恩恵を求めます。ヤコブが創世記三十二章二十六節において祈ったようであります。『汝われを祝せずばさらしめず』。ヤコブはこのとき馬のような信者でありました。熱心に力を尽くして神の恩恵を願いました。ヨブ記三十九章にもこのパロの馬のことが書いてあります。十九節から『なんぢ馬に力を與へしや その頸に勇ましき鬣を粧ほひしや なんぢ之を蝗蟲のごとく飛しむるや その嘶なく聲の響は畏るべし 谷を踋爬て力に誇り 身ら進みて兵士に向ふ 懼るゝことを笑ひて驚ろくところ無く 劍にむかふとも退ぞかず 矢筒その上に鳴り 鎗に矛あひきらめく 猛りつ狂ひつ地を一呑にし 喇叭の聲鳴わたるも立どまる事なし 喇叭の鳴ごとにハーハーと言ひ遠方より戰鬪を嗅つけ 將帥の大聲および吶喊聲を聞しる』(二十五節まで)。 おお、あなたの心の中にこういう心があるはずです。主はこういう心を見て喜びたまいます。真正に恩恵を慕いますれば、この馬のごとく戦を喜び、喜んで十字架を負うために走って参ります。いかに耻を受けましても、いかに傷を得ましても、主のために喜んで戦います。主は懇ろに『我なんぢをパロの車の馬に譬ふ』と言いたまいます。この新婦はこういう者であります。けれども十節にあるように断えず主に服従しています。
十節『なんぢの臉には鏈索を垂れ なんぢの頭には珠玉を陳ねて至も美はし』
鏈索は服従の雛型であります。またその頸には聖霊の恩惠の色々の珠玉が懸けてありますから、断えず主に服従して主イエスの色々の恩恵を表すことを得ます。
十一節を見ますれば、エルサレムの女子等はこれを聞いて、自分も恵みを加えとうございます。けれども十二節を見ればこの人の唯一の願いはキリストを心中に宿すことで、そこでそれを実験します。キリストの賜物を願わずして、キリストご自身を求めます。黙示録三章を見ますれば、第一に主イエスはその賜物を与えたまいます。すなわち十八節に純金(価値ある恩恵)をも白衣(聖潔)をも、また目薬(光)をも与えたまいます。けれども第二にご自分を与えたまいとうございます。すなわち二十節にご自分が戸を叩いて、中に入ることを願いたまいます。ただ賜物のみならず、ご自身を与えとうございます。ちょうどそのようにこの人はただ主の賜物、主の恩恵では真正に満足しません。十二節において主ご自身を宿すことを願います。
十二節『王其席につきたまふ時 わがナルダ其香味をいだせり』
王がその席に着きたもうたその時に香味を出しました。主が在すために芳しき香が出ました。その香味は何ですかならば、ナルドの香です。ナルドは死の時に用いる物でありますから、これはいつでも死の意味を含みます。キリストを心中に宿しますとそのためにその心の中に真の死があります。己に死ぬる事、罪に死ぬる事、十字架を負う事、そのような香があります。けれどもそれだけではありません。
十四節『わが愛する者はわれにとりてはエンゲデの園にあるコペルの英華のごとし』
これは生命を与える事であります。このコペルは医者がよく用いる物でありました。或いは絶息した者のために、或いは力を失った者のために、それを用いましたから、すなわちコペルの意味は新しき力を得る事を指すと思います。甦りの力を得る事です。キリストを心の中に宿しますれば、第一に死の香がありますが、第二には甦りの香もあります。コリント後書二章十五節『我儕神の爲にはキリストの馨香なり』。主が心の中に宿りたまいますれば必ずこの馨香が出て参ります。またコリント後書四章十一節『夫われら生者の常にイエスの爲に死に付さるゝはイエスの生ることを我儕が死べき肉體に顯れしむる也』。キリストが宿りたまいますれば、このように心の中にキリストの死の香も出で、また甦りの香も出ます。私共が主の導きに従って主より養いと安息を求めますれば、ただそれを受けられるのみでなく、新郎ご自身に出会うことをも得、またその新郎を宿すことをも得て心に満足を得ます。またそのために心の中に死の経験もあり、また甦りの経験をもいたします。
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