第一 庫に伴い入れられる
第 一 章
二節『ねがはしきは彼その口の接吻をもて我にくちつけせんことなり』
これは私共の第一の願いであります。すなわち主イエスの愛のしるしを願います。自分の心の中に主の愛を経験しとうございます。私共は最早家に帰った放蕩息子でありますから、父なる神の接吻を経験し、そのために父なる神と和ぐことを得ました。今までの罪が全く赦されたことを知って、平安と喜楽とを得ました。ここで願う接吻はそのような接吻ではありません。すなわち和らぎの接吻ではなくして、真正に親しい交わりの接吻を願います。主イエスと親しき交わりを願います。主がそれを自分に表したもうことを願います。主は如何にしてそのような愛のしるしを与えたまいますかならば、いつでも聖言によりてそれを表したまいます。サムエル前書三章二十一節『ヱホバふたゝびシロにてあらはれたまふ ヱホバ、シロにおいてヱホバの言によりてサムエルにおのれをしめしたまふなり』。雅歌の言を用いますれば、その時サムエルに愛の接吻を与えたもうたのであります。すなわちその口の御言によりて、サムエルに愛を示したまいました。エレミヤ書三十一章三節をご覧なさい。神はエレミヤにもそのような接吻を与えたまいました。またこの聖言によりて私共各自にもその接吻を与えたまいとうございます。『我窮なき愛をもて汝を愛せり 故にわれたえず汝をめぐむなり』。主はたびたび私共の心の中にこういう聖言を耳語きて、私共にその愛のしるしを与えたまいます。またそのように主より愛のしるしを受け、その御愛を確かめられることは、実にこの世におる間最も美わしいこと、また何よりも幸いなることであります。私共はそれによりて最も美わしい経験を受けます。詩篇六十三篇を見ますれば、そのために神を追い慕います。『あゝ神よ なんぢはわが神なり われ切になんぢをたづねもとむ 水なき燥きおとろへたる地にあるごとくわが靈魂はかわきて汝をのぞみ わが肉体はなんぢを戀したふ …… なんぢの仁慈はいのちにも勝れるゆゑにわが口唇はなんぢを讃まつらん』(一、三節)。この主のご慈愛を知り、そのしるしを受けることは、何よりも幸いなる経験でありますから、どうぞこのたび確実に信仰をもってまた祈禱をもってこの二節を受け納れとうございます。
『汝の愛は酒よりもまさりぬ』
今申しましたように、主の愛は他の喜楽、他の経験よりも愈りて最も美わしいものです。またそれは何のためですかならば、三節をご覧なさい。
三節『なんぢの香膏は其香味たへに馨しく なんぢの名はそゝがれたる香膏のごとし』
主イエスは香膏すなわち聖霊の膏を注がれたまいました。それは何のためでありましたかならば、イザヤ書六十一章一節をご覧なさい。『主ヱホバの靈われに臨めり こはヱホバわれに膏をそゝぎて』これは何のためですか。その香膏の香は何の香ですかというに、『貧きものに福音をのべ傳ふることをゆだね我をつかはして心の傷める者をいやし俘囚にゆるしをつげ縛められたるものに解放をつげ ヱホバのめぐみの年とわれらの神の刑罰の日とを告しめ又すべて哀しむものをなぐさめ』。そうですから主の膏の香はすなわち慰藉の香であります。癒しの香、救いの香、満足を与える香、或いは囚われ人に解放を与える香であります。そうですから『なんぢの香膏は其香味たへに馨し』、私共はこういう御力のために、主イエスを追い慕います。主イエスはこういう力をもって、そのような働きをなしたまいますから、私共は主イエスを慕って参ります。
けれどもそれのみならず、『なんぢの名は』、香膏は主の力と御業を指しますが、主の名は主ご自身を指す言であります。私共は第一に主の救いのため、主の恵みのために主を追い慕いますが、後だんだん恵みに進んで参りますれば主ご自身のために主を慕います。『なんぢの名はそゝがれたる香膏のごとし』。そのために楽しみを得、そのために喜悦を得ます。
『是をもて女子等なんぢを愛す』
この女子等は誰を指しますかならば、新婦ではありません。エルサレムにおる最早救われた者であります。最早イエスを愛することを始めました。けれども遠方から主を愛します。真正に主との親しき交わりをいたしません。しかし次の節を見ますと、新婦が『われを引たまへ』、されば『われら汝にしたがひて走らん』と申しています。すなわち新婦が恩恵を得ることによりて、このエルサレムの女子等も一緒に恩恵を得ます。
四節『われを引たまへ われら汝にしたがひて走らん』
主は聖霊をもって私共の心を引きたまいます。私共は自分では聖潔を願いません。主イエスのご慈愛を経験することを願いません。そのようなことを願うのは、私共自分の心の感情から起こったことではなくして、聖霊が引きたもう証拠であります。主が私共を引きたまいますれば、『われら汝にしたがひて走らん』、すなわち力を尽くして主の足跡に随って走って参ります。身も魂も献げ、すべてのものを捨てて主イエスに従って走って参ります。
神は喜んでそのような祈禱に答え、早速その恩恵を与えたまいます。また早速その人と親しき交わりを結びたまいます。すなわち
『王われをたづさへてその後宮にいれたまへり』
この「後宮」という字は、原語ではむしろ庫といった方が適当であります。この時に新婦はまだ妃ではありません。未だその経験がありません。けれども王は今その庫に入れて、宝を与え、養いを与える糧を与えたまいます。主に従い、その御声に従って走りましたから、主はその庫に入れたまいました。マタイ伝六章六節にも原語では同じ言葉が用いてあります。『なんぢ祈る時は嚴密なる室にいり』。この原語はやはり庫であります。あなたが祈る所はあなたの庫です。そこで神の宝を頂戴し、また豊かなる糧をも頂戴することができます。またマタイ伝十三章五十二節にもこの言があります。『イエス彼等に曰けるは 然ば天國について敎られたる學者は新しき物と舊き物とを其庫より出す家の主の如し』。神の庫に入りますれば、そのために他の人々にも霊の糧を与えることができます。恩恵を与えることができます。けれどもそれだけではありません。
『王われをたづさへてその後宮にいれたまへり 我らは汝によりて歡こび樂しみ』
すなわちその庫に入りますれば、その結果は必ず喜び楽しむことであります。また次にそのために主を愛する愛も生じます。
『酒よりも勝りてなんぢの愛をほめたゝふ』
そうですから喜びと愛を心の中に受けます。ペテロ前書一章八節にこの二つのことが記してあります。『爾曹イエスを見ざれども之を愛し 今見ずといへども信じて喜ぶ』。この信者はもはや聖霊に引かれることを経験し、それに従って走り、庫に入れられましたから、そこで喜びと愛を経験することを得ました。この順序をご注意なさい。第一、引かれること。第二、走ること。第三、入れられること。第四、喜びと愛。これはいつでも霊的の恩恵を受けるための順序です。
私共はそのように入れられましたならば、そのために心が潔められます。すなわちこの四節の終わりに、
『彼等は直きこゝろをもて汝を愛す』
とあります。ヨハネ第一書を見ますれば、全き愛は心の中より苦い悪を取り除くとございます(四・十八)。いつでもそうであります。ここで喜びと愛を経験しましたから、直き心をもって愛することを得ます。詩篇五十一篇十節『あゝ神よわがために淸心をつくり わが衷になほき靈をあらたにおこしたまへ』。この清き心と直き霊とは同じものであります。またテサロニケ後書三章五節『願くは主なんぢらの心を神の愛とキリストの忍耐に導き給ん事を』。原語ではこの導くという字の意味は深うございまして、やはり直きことの意味です。あなたの心を直くしたまわんことをという意味であります。神のご慈愛をもって、またキリストの忍耐──これはキリストの再臨を待ち望む忍耐──をもって汝の心を潔めたもうようにと祈りました。またテモテ前書一章五節をご覧なさい。『誡命の主意は愛なり』。すなわち愛は神の第一の目的、また聖書の大意でありますが、その愛は『卽ち潔き心と善良心と僞なき信仰より出』。そうですからそのような愛はただ潔き心から出ます。心が直くありませんならば、必ずこういう愛は出て参りません。けれども神の愛を頂戴しますれば、そのために心が潔められて、『直きこゝろ』をもって主を愛するようになります。
そうですからこの四節によりて如何にして主の愛を味わうことができるか、その順序が記してあります。あとからエレミヤ記三十一章と比べてご覧なさい。その章の深い意味はこの四節と同じことです。その章の一節を見ますれば、『彼らは我民とならん』。二節の終わりに『安息をあたへ』。三節に『窮なき愛』。四節に童女が身を飾ること、また十二節には他の言い表し方で言えば神の庫より宝を得ることを読みます。私共は祈禱をもって、この四節の順序に従って喜びと愛を得とうございます。どうぞ私共はこの順序に従って、神のご慈愛を味わうことを熱心に求めとうございます。聖霊が引きたまいますならば、いろいろの罪より、また世に属けるものや、様々の肉欲より引かれて、ただ神に近づいて神の属となることを願うようになります。またそれを祈りますれば、確実なる答えを与えたもうて、ご自分と共に至聖所に入ることを得させ、私共はそこで神の恩恵に満たされ、喜びと愛に満たされます。どうかただいま跪いて、信仰をもって主の庫にお入りなさい。
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