第十 聖霊のバプテスマ
今朝は五章六節より六章十二節までの一段を研究いたします。いま六章十節以下を読みます。
『この晨光のごとくに見えわたり 月のごとくに美はしく 日のごとくに輝やき 畏るべきこと旗をあげたる軍旅のごとき者は誰ぞや』
『われ胡桃の園にくだりゆき 谷の靑き草木を見 葡萄や芽しゝ 石榴の花や咲きしと見回しをりしに 意はず知ず我が心われをして わが貴とき民の車の中間にあらしむ』(六章十〜十二節)
こんな譬をもって聖霊のバプテスマを得たことが記してあります。この人がペンテコステの恩恵、ペンテコステの能力に与った事を、こういう言をもって記してあります。私共は時として軽々しく聖霊のバプテスマの事を説明します。けれどもこれは実に深い、また高い恩恵であります。私共はキリストと深く交わりませんならば、ペンテコステの恩恵を未だ得ないのです。
ジョン・ウェスレーとその弟チャールス・ウェスレーが初めて伝道に出掛けました時、純粋の福音を宣べ伝えましたから、多くの人々が救われました。けれどもその時チャールスがジョンに向かって、あなたのペンテコステは未だ参りません、あなたが真正に火のバプテスマを受けますれば、今罪人の救われるのを見るように、世に属ける信者が潔められるのを見ましょうと申しました。主は或る御方に向かってお前のペンテコステは未だ来ないと言いたもうかも知れません。けれどもいま主はこの大切なる幸いなる言をもってあなたをペンテコステに導きたまいとうございます。また今朝『意はず知ず』してペンテコステの火を得させたまいとうございます。この人は意わず知らず神の軍車に乗っていました。詩篇六十八篇十七節をご覧なさい。この六十八篇はペンテコステの詩でありまして、初めより終わりまでペンテコステの経験が記してありますが、十七節にペンテコステに与った人のことをこう記してあります。『神の戰車はよろづに萬をかさね千にちぢをくはふ 主その中にいませり 聖所にいますがごとくシナイの山にいましゝがごとし』。おお主は私共をもご自分の戦車とならしめたまいとうございます。
昔の軍隊の中に三つの階段がありました。第一の者は陣営の中において荷物を守る職務をする者。第二は戦に出る歩兵であります。第三は軍車に乗りて敵を攻める、攻撃的の能力を有する兵卒であります。主は、私共を荷を守る兵卒でなく、また歩兵のような兵卒でもなくして、ご自分の軍車のごとき者とならせたまいとうございます。エリシャはエリヤがまだ昇天しない中に、エリヤに向かってエリヤの霊の二つの分を願いましたが(列王紀略下二・九)、エリヤが火の車に乗って天に昇りました時に、エリシャも同じく火の車に乗ることを得ました。けれどもエリシャは火の車に乗って天には昇りません。火の車に乗って、この世に止まり、忍んで働いて生涯を暮らしました。すなわちエリシャはエリヤに別れましてから、聖霊と火の能力を得て、神の軍車のごとき者となりました。神はそのように私共にも聖霊のバプテスマを与えたまいとうございます。今より後いつまでも軍車のように力ある者となって戦をする兵卒とならせたまいとうございます。真正に進撃的の精神をもって、この世において罪人を救う者とならせたまいとうございます。
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使徒行伝を見ますれば、昔の信者たちはこういう心をもって神の軍車となりました。二章二節『俄に天より迅風の如き響ありて彼等が坐する所の室に充り 燄の如もの現れ岐て彼等各人の上に止る 是に於て彼等はみな聖靈に滿され其聖靈の
ミスター・ジョン・R・モットはたびたび日本にも参りました能力ある伝道者であります。この人は全世界を巡回して、どこにおいても恵まれた働きをなし、また諸方の働きの有様を見ました。はじめ全世界を巡回して、アメリカに帰った時に、或る人が全世界における外国伝道のために最も必要なるものは何であるかと尋ねましたら、それは宣教師の数を増すことであると申しました。再び全世界を巡回して帰った時には、全世界の外国伝道のために最も必要なものは、その国々の伝道師の数を増すことであると申しました。しかし三回目に巡回して帰った時には、なお深く神に教えられまして、今までの説は間違いであったと取り消し、全世界における伝道に最も必要なる事は、伝道者がみな聖霊に満たされることである。数は必ずしも増し加えずともよい、けれども聖霊に満たされた伝道者が是非必要であると申しました。日本の伝道もミスター・モットの言われるとおりであります。必ずしも伝道者の数を殖やす必要はありません。すでに伝道の召しを受けました者が、聖霊のバプテスマを受ける事が何よりも第一に必要なる事であります。神の軍車いくさぐるまとなる事が第一に慕うべき事、また願うべき事、また祈るべき事であります。
それでは私共はどうしてそのような者となることができますか。この雅歌の五章六節より六章十二節までの一段においてそれを知ることを得ます。
六節『我われわが愛する者の爲ために開きしに』
これは第一であります。悲哀の人に対してわが心を開く事、悲哀の人を受け入れてこれと一つになる事であります。このたびここで悲哀の人はあなたに確実にその聖声みこえを聞かしめたもうたと思います。昔ガリラヤの道を踏んで旅したもうた時、何処いずこにおいても罪人つみびとの重荷を負い、罪人つみびとのために悲しみたもうたその同じ主しゅは、いま日本の諸処を踏みてその罪と汚けがれ、暗さと悲しみを見て、それについてあなたの心に耳語ささやきたまいます。主はこの世に在いましたもうた時、罪人つみびとのために重荷を負うてゲツセマネの園そのにおいて憂い悲しみ、血の汗をさえ流したまいました。このゲツセマネの主しゅが、今あなたの心の中うちに耳語ささやきたもうて、わがために戸を開ひらけよと願っていたまいます。おお主はあなたを招きたまいます。あなたをご自分と一つにならしめたまいとうございます。主はこの世に在いましたもうた時、棘いばらの冠をかむりたまいましたが、その主がいま棘いばらの冠を戴いたままであなたの心の中に耳語ささやきたまいます。どうか私共、今ここで、主の聖声みこえに耳を傾けてその言ことばを聞きとうございます。
私はここで自分の話、自分の説教をしたくございません。私共ここに立って話する者は、ただ主の通弁に過ぎません。どうかして主の聖旨みむねを示し、その御言みことばを取り次ぎとうございます。主はもはや御各自ごめいめいの心の中うちに心の戸を開いてカルバリ山の主しゅを受け入れよと響かせたもうたと思います。昨年も主はここで同じことを言いたまいました。そのとき主の言葉を通弁しました者は、今はもはや天に召されて冠を戴いている愛する笹尾兄弟でありました。皆様ご記憶の事と思いますがその時笹尾兄弟はエステル書四章の十六節を引いた主の言ことばを通弁しました。たぶんあなたの聖書にその時からその言ことばに筋が引かれていると思います。『我われもし死しぬべくば死しぬべし』。他の人々を助けるために、自分の民たみを救わんがために『我われもし死しぬべくば死しぬべし』。その時主の通弁は実に聖霊の力をもってその言葉を私共に取り次ぎました。その通弁をした兄弟は、その言葉の通りに人を救うために犠牲になりました。神はこれによりて私共に新しく耳語ささやきたもうたと思います。神は今年も同じ事を耳語ささやきたまいます。おお兄弟姉妹よ、あなたはもはや戸を開きましたか、どうですか。真正ほんとうに身も魂も献げて、自分の名誉も利益も献げて、犠牲になる覚悟をもって戸を開きましたか。もし主の聖声みこえを聞いた時にさっそく開かず躊躇しますならば、後のちに戸を開いても、もはや主を受け入れることができぬかも知れません。
六節『我われわが愛する者の爲ために開ひらきしにわが愛する者は已すでに退しりぞき去さりぬ さきにその物いひし時はわが心さわぎたり 我われかれをたづねたれども遇あはず 呼よびたれども答應こたへなかりき』
もはや祈っても益がなく、主のご臨在を感じません。これは心の苦しんでいる有様、また心の寂しい有様であります。この人は初め主の聖声みこえを聞きました時に、さっそく戸を開きましたならば、主はその時入りたまいましたでしょうが、その時すぐさま聖声みこえに従わず躊躇しましたから、今は苦しんで苦しんで主を求めなければなりません。
七節『邑まちをまはりありく夜巡者等よまはりらわれを見てうちて傷つけ 石垣をまもる者らはわが上衣うはぎをはぎとれり』
そうですから牧師や伝道師に尋ねて主を求めましても、何の利益もありません。かえってその時になお心に苦しみを覚え、なお心の中うちに罪と不足を感じて、主の前また人の前に心が裸とせられます。しかしそれは何の益もないことでありますから、八節においては他の基督キリスト信者に尋ねて主を求めます。
八節『ヱルサレムの女子等をうなごらよ 我われなんぢらにかたく請こふ もしわが愛する者にあはゞ汝なんぢら何なにとこれにつぐべきや 我われ愛によりて疾やみわづらふと告つげよ』
このように他の兄弟等に尋ねて主を求めます時に、その兄弟等に主イエスの美うるわしさを説明しなければなりません。すなわちこの人は九節のエルサレムの女子等おうなごらの問いに答えて、十節よりその愛する者の美うるわしさを説明します。
十節以下『わが愛する者は白くかつ紅くれなゐにして萬人まんにんの上に超こゆ……(以下略)』
私共もこのように他の兄弟等に主を証あかしせなければなりません。私共は何故熱心に聖霊のバプテスマを求めますか、その訳わけを説明しますならば、必ず主のことを明らかに認いいあらわさなければなりません。主の美うるわしさ、主の恩恵めぐみ、主の御慈悲、主の力などを明らかに説明します。兄弟姉妹よ、私共はそのように明らかに他の人々に主イエスの事を証あかしいたしますか。雅歌においてここで初めて、新郎の美うるわしさを認いいあらわします。今までこの新婦はこのように詳しく、また明らかに新郎の美うるわしさを認いいあらわしませなんだ。ここが初めてです。心から熱心にイエスを求めますから、またもはや悲哀の人を見ましたから、また熱心にその主を慕いますから、いま明らかに主を認いいあらわします。大胆に耻はじずして、他の人々に主の恩恵めぐみを認いいあらわします。ペンテコステの恩恵めぐみを受けるためにはこういうところをも通らねばなりません。すなわち明らかに主を証あかしする事はこの恩恵めぐみを受けるために踏むべき道筋であります。私共は唖おしのごとき信者でありますならば、決して信仰をもってペンテコステを求める事はできません。けれども大胆に他の人々に主の功績を宣のべ伝えますならば、そのためにだんだんペンテコステに近づいて参ります。
新婦はこのようにその愛する新郎の美うるわしさを証あかししましたから、六章一節において他の信者らも同情を表して一緒に尋ねるように申します。私共が主の恩恵めぐみを証あかしいたしますればそのために他の人々も私共とともに主を求めるようになります。
第 六 章
一節『婦人をんなのいと美うるはしきものよ 汝なんぢの愛する者は何處いづこへゆきしや なんぢの愛する者はいづこへおもむきしや われら汝なんぢとゝもにたづねん』
かくてようやく新婦は自分の愛する者を失った事を明らかに懺悔します。すなわち、
二節『わが愛するものは己おのれの園そのにくだり 香かぐはしき花の床とこにゆき 園そのの中なかにて群むれを牧かひ また百合花ゆりを採る』
どこでその愛する者を失ったか、どこでその途みちを離れたかをここで認いいあらわして懺悔します。耻はじを忍んで認いいあらわします。主は下くだりたまいましたけれども主と共に行く事を好みません。主は十字架を負い死に至るまでその途みちを踏みたまいましたけれども自分はそんな途みちを好みませなんだ。そうですから主を離れました。おお愛する兄弟姉妹よ。あなたはどこで主を離れましたか。いま主のご臨在を感ぜず主が心の中うちに宿りたもうことを感じませんならば、どこで主を離れましたか。どうぞそれを探ってその罪を懺悔なさい。おおどこで主を離れましたか。たぶんこの二節のように主が十字架を負うて罪人つみびとを救わんがために『己おのれの園そのに下り』たまいましたところでしたろう。その時にあなたな主と共に行くことを好まなかったためではありますまいか。
私の友達に支那シナに宣教師として行っている人があります。その人がある支那人の信者の所に参りまして十字架を負うて主に従うべき事を勧めました。その信者はその勧めを受け入れましてまた御血潮によりて罪の赦されることをも受け入れました。けれども世に属つける信者でありましたから、常にその人のために重荷を負うて訪問し、聖書を開いて献身の道を示しました。けれどもその時にその支那人は何と答えましたかならば、私はそこまでは従う事ができませんと申しました。おおあなたの心の中うちにそのような考えが起りませんか。聖書を読みました時に、また聖別会に出ました時に、十字架の道を見ました。また悲哀の人があなたを伴い行く事を願いたもうことをも知りました。けれども心の中うちに、私はそこまで従うことはできないと思う事はありませんか。おお皆様、どうぞこのたびそういう申し訳を全く捨ててどこまでも悲哀の人に従う決心をなさるようにお勧めいたします。ゲツセマネの園そのに至るまでも、審判さばきの座に至るまでも、十字架に至るまでも、死に至るまでも、どうぞどこまでも主に従う決心をなさい。
『わが愛するものは己おのれの園そのにくだり 香かぐはしき花の床とこにゆき 園そのの中なかにて群むれを牧かひ また百合花ゆりを採る』。すなわち十字架の道は幸福の道であります。ペンテコステの恵みを受けますれば迫害と恥辱を受けるのはかえって幸福であると感じます。主は十字架を負うて己おのが園そのに下くだりたまいましたが、それは幸福と慰藉に下くだりたもうたのであります。そうですからどうぞ喜んで主に従いなさい。
ミスター・A・B・Rは三、四十年、米国における有名な伝道者でありました。或る時、米国の或る町に行って二、三週間、特別伝道会を開きました。初め二、三日間、熱心に福音を宣べ伝え力を尽くして働きましたが、何の結果もありませなんだ。なお二、三日働きましたが、なお結果がありません。大勢の人々は説教を聞きに参りますけれども悔い改める者が起こりません。そこでミスター・Rは宿に帰り、その晩神に近づき神に理由を尋ねました。町の人々の冷淡な有様、教会の冷淡な事、また牧師の冷淡な有様を見ましたから、神にそれを訴えまして、いかにしてそれを熔とかすことができるかと祈り求めました。ところが主はついにその心に耳語ささやき、お前こそここの牧師のように冷淡な者である、お前の心はここの信者の心と同じように未だ熔とかされていないと明らかに示したまいました。ミスター・Rは神の前に自ら深く省みて、それが真正ほんとうであることを知りました。今まで熱心に力を尽くして働きましたけれども、自分の心は未だ熔とかされておらず、未だ固い事が解わかりました。今まで純福音を宣べ伝えましたけれども、真正ほんとうに罪人つみびとの重荷を負わずに自分の道を踏んでいたこと、十字架の道を取らず、キリストと共にゲツセマネに伏した事のないことなどを心に感じました。今までキリストと一つの心を有もっておらず、己おのれを崇める心をもって働きに行き、今までの成功を高ぶり、今までの方法に頼って、伝道会に参りましたが、その晩自分の真相を知りましたから、『罪人つみびとなる我われを憐あはれみ給へ』と叫びました。今までは罪人つみびとを憐れみたまえと申しました。或いは基督キリスト信者を憐れみたまえ、ここの牧師を憐れみたまえと祈りましたが、この時そんな祈禱いのりを全く捨てて、神よ、我われを憐れみたまえと叫びました。神はその叫びに答え、その晩その兄弟の心を熔とかしたまいましたから、その兄弟はその晩から、ゲツセマネの道、十字架の道を取って、神と共に働くようになりました。
おお愛する兄弟姉妹よ、あなたはキリストご自身と離れましたならば、あなたはただ今まで聖霊の能力ちからの流れに従って働いていませなんだならば、どこで主を離れたかを調べ、悔い改めて心を砕き、己おのれを低くして主にお帰りなさい。栄光をもって来きたりたもう主でなく、恩恵めぐみをもって臨みたもう主ではなくして、ゲツセマネの主、死に至るまで人を愛する悲哀の人たる主にお帰りなさい。
この雅歌の人はどこで主を離れたかを探り、十字架の道で主に離れたことを悲しんで懺悔しましたから、すぐに三節において主を得る事ができました。もはや心が熔とかされて悔い改めましたから、主を得たという確信が起こりました。
三節『我われはわが愛する者の屬もの わが愛する者はわが屬ものなり(──このように訳する方がようございます──) 彼は百合花ゆりの中なかにてその群むれを牧かふ』
私はもはやわが愛する主の属ものとなりました。また愛する主はわが属ものとなりました。わが愛する者が十字架の道を踏みたまいましても、どんなに苦しみを嘗なめたまいましても、私は全く主と一致しているという確信をもって参ります。主はいま御各自ごめいめいにこんな確信を与えたまいとうございます。あなたが悲哀の人と一致なさいますれば、そのために言い難き喜楽よろこびを経験いたします。もはや心の戸を開いて悲哀の人を受け入れましたから、この三節のようにキリストと共に幸福を得ます。主と共に十字架を負いますれば、主と共に栄光をも受ける事ができます。
この人は三節の経験を得ましたから、すぐ元の通りになりました。今まで堕落して臥床ふしどに入っていた信者が、さっそく元の経験に還かえりました。すなわち
四節以下を見ますれば、これは四章の初めにあったと同じように、主が新婦の美うるわしさを語っていたもうところであります。そうですからこれによりて、いま主イエスを得ましたから、元の恩恵めぐみに還かえったことを知ることができます。もう一度初めの時の愛を燃やされます。いま全き聖潔きよめを経験いたします。
この四節以下に、四章の方と違うことが一つあります。すなわちそれは、四節の終わりにも十節の終わりにも、
『畏おそるべきこと旗をあげたる軍旅つはもののごとし』
という言ことばがあります。今この人は武士のごとき信者となりました。ただ己おのれを守り、また守られるばかりでなく、いま進撃的に戦いくさに出る主しゅの武士となりました。真正ほんとうに戦いくさの力を得ました。主と共に十字架の道を踏む事を決心しましたから、主の武士となりました。
十一節『われ胡桃くるみの園そのにくだりゆき谷の靑き草木くさきを見 葡萄ぶだうや芽めざしゝ 石榴ざくろの花や咲きしと見回しをりしに』
今まで二章の終わり(十一節以下)において春の花園の有様を見、四章の終わり(六節以下)に夏の花園の有様を見ましたが、今ここに秋の花園の有様を見ます。この節の意味は、この人はいま真正ほんとうに熟したる聖霊の秋の果み、聖書の一番美うるわしい果みを、聖書の中に調べてみる事を指します。或いは使徒行伝や、或いはエペソ書を読んで、主と共に甦よみがえらされたならばどういう経験があるかを調べます。またはヨハネ書翰その他の書ふみを見て、聖霊の果みは何であるかを見ます。熱心に聖書を調べ、その書の意味を求めて、聖霊を得た者はどういう者であるかを尋ねます。
モーセは出エジプト記三章三節において、燃ゆる棘しばを見ていました時に、主はご自分を彼に表したまいました。『モーセいひけるは我われゆきてこの大おほいなる觀みものを見何故なにゆゑに棘しばの燃もえたえざるかを見ん ヱホバ彼がきたり觀みんとするを見たまふ 即すなはち神棘しばの中なかよりモーセよモーセよと彼をよびたれば』。すなわちモーセはそれを見に行きましたから、神はご自分を表あらわしたまいました。私共もそのように聖書の中に聖霊の果みを尋ねますれば、その時主はご自分を私共に表あらわしたまいます。聖書にある神の約束を視凝みとめ、心の中うちにそれ深く思うて祈ります時に、十二節のような経験を得ます。
十二節『意おもはず知しらず我わが心われをしてわが貴たふとき民たみの車の中間なかにあらしむ』
意おもわず知らず聖霊のバプテスマを頂戴します。この人はもはや死に至る道を甘んじて受け入れ、もはや身も魂も献げ、また悲哀の人の美うるわしさを見ましたから、聖書の中に聖霊の恩恵めぐみを見回しております時に『意おもはず知しらず』聖霊の恵めぐみを蒙りました。
この時よりこの人は荷を守る兵卒でなく、また歩兵のような兵卒でなくして、神の軍車いくさぐるまに乗る兵卒のごとき者となりました。何時いつも安らかに、また何時いつも勝利をもって主のために戦う事を得ます。おお兄弟姉妹よ、神はただいま皆様にこういう恩恵めぐみを与えたまいとうございます。聖霊の火、聖霊の力、聖霊の慰藉なぐさめを与えたまいとうございます。そしてあなたを主の軍車いくさぐるまとなして、大いに用いたまいとうございます。そうですからどうぞただいま主の聖声みこえに聞き従い、心の戸を開いて悲哀の人なる主イエスを受け入れなさるように、懇切お勧めいたします。
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