第十章 血による献身



 『されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりてなんぢらに勸む、おのが身を神のよろこびたまふきよける供物そなへものとして獻げよ、これ靈の祭なり。』(ローマ十二・一

 私は献身の問題がここに挿し入れられることが不適当に見えると共に、再び、贖いによる献身というこの表題が不思議に思われることを恐れる。多くの人々には、献身は聖化の前に来るべきものであると思われる。しかし本章を終わる前に、本章の位置もその表題も、間違いでも不思議でもないことがわかると私は信ずる。
 記者はこの肝要なる題目に関して、自ら少しも誤解していないと思うが、神の子供等の大多数は、私共がその持つところ、またその在るところの一切を献げるのが心の聖化の一条件であると考える。彼らは全き聖化、すなわち聖霊の盈満えいまんは、献身或いはしばしば絶対降服と呼ばれることを通して得られると考えていると言っても良いようである。されど聖言みことばは、私共はその信仰によって心を潔められ(使徒十五・九)、そして私共は約束された御霊みたまを信仰によって受ける(ガラテヤ三・十四)ということを、強くまた紛れもなく言明している。決してそれが献身と信仰によって受けられるとも、ましてや献身のみによって受けられるとは言っておらぬ。
 献身は「祝福」の喜ばしい幸いな結果、また成り行きとして来るものである。ローマ書十二章の主題は六〜八章の主題の後に来る。その前に来るものではない。私共は聖化を受けて内心がきよくせられるまでは献身を為し得るものではない。私共が聖化を要するのは、それなしには喜びと幸いなる確信をもって絶対降服をなしあたわぬからである。「我はあたわぬ」「我は欲せぬ」というこの無能と偶像は、私共が主に降服し献身し得る前に、主イエスによって、その潔める能力をもって放逐されるべきものである。
 現代の教師が、心のきよめと聖霊の盈満の条件に献身を置くところに、もっとよく聖書に教えられていた私共の師傅しふたちは、「信仰の悔い改め」ということを置いているが、それは潔める信仰の基礎として深い実地の罪の自覚痛悔を指すのである。彼らは私共に一切を神に献げることに注意を向けしめる代わりに、私共の罪深いこと、残れる反逆心、および心の無能に目を着けさせるのである。
 真の信仰は痛悔改悛の雰囲気と、主の御前みまえに謙れる態度の中に働くものである。私共がすべてこの能力を絶対に神にささぐべきは議論の余地なき当然のことであるけれども、私共は喜んでこれに応じるあたわず、そこにこの降服委譲に対する恐怖と不信と嫌悪する心のあることを自覚する。そして私共をして聖化の恩恵を受けるために主イエスに行かざるを得ざらしめるものは、この自覚である。そして主がその約束(エゼキエル書三十六・二十五〜二十七)に従い、すべての汚れ、すべての偶像、およびすべての石の心を清め除きたもう時、ただその時にのみ、真の献身ができ得るのである。
 ダビデは真実の心、清い心、また砕けた悔いた心(詩篇五十一・六十七)を受けたのちに、『その時(しかり、ただその時にのみ)なんぢ義のそなへもの……を悅びたまはん かくて人々……さゝぐべし』(十九)と言っている。
 私共はこれらの序言を述べて、さて本章の血による献身という主題に来る。血による献身という題は「キリストの死の効果を通しての献身」と言った方がもっとよいであろう。パウロはロマ書の十二章において、献身の大題目、すなわち当然の潔き活ける悦び、受け入れられる供え物として己が身を献げるという題目を、詳しくまた厳密に取り扱っているが、彼はこの『獻げよ』という命令に先立ち、まず『すべての物は神より神によりて成り、神に歸すればなり』(十一・三十六)と言い、そして『されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勸む、己が身を……獻げよ』(十二・一)と言うのである。
 されば以下、論ずるところは献身のこの主題に関係して用いられているものとしてのこれら三つの前置詞の開示である。

一、献身の力

 『すべての物は神より出づ……されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりてなんぢらに勸む、おのが身を……さゝげよ。』(ローマ十一・三十六十二・一

 ここに幸いな成功の秘訣がある。ここにこの命令に従うことのできる希望がある。すなわち『神より』というのが彼の私共に命じたもうところを行う能力である。献身について語る時に、私共は自然にレビ記に記されている型、すなわち燔祭はんさいに立ち帰って考える。そこに私共は、その聖父みちちに対して汚点なき犠牲、まったき従順と完き献身のかぐわしき香としてささげられたもうた主イエスを見る次第である。
 燔祭の犠牲をほふる、その奉献者はまずその犠牲の首に手をく。しかしそれは罪祭ざいさいに対してするように、自己の犯罪を犠牲に移すためではなく、この転移によって犠牲の徳を彼自身に受けるためである。
 罪祭としての小羊の犠牲はその奉献者のとがを取り去り、心にある内住の罪を滅ぼす。そのごとく燔祭としての小羊の犠牲は、私共のうちに志を立て、ことを行わしめたもう神に、一切を献げる力を私共に与えるのである。能力は彼より出ずる。それゆえに私共は、献げよというこの幸いなる命令に躊躇なく従うほか、何の言いのがるべきみちもないのである。
 私共がローマ書十二章にて命ぜられおる供え物はける供え物であるべきである。世間には、その死後何らかの善きことのために用いられるよう、金銭或いは財産を手放すに、その臨終の時または死を待つ者のいかに多きことぞ。それは、彼らが死ぬる時に彼ら自身欲するも欲せざるもむなし手で去るべきであるからである。けれども主は活ける供え物を要求したもう。私共が健康で、強力で、生活の精力の旺盛な時に献げることを求めたもう。私共が殺され甦りたまえるキリストと信仰にて自らを一つにする時、すなわち私共が信仰によってそのみかしらに私共の手を按き、聖父の御顔みかおの前にその最も貴き血を献げる時、聖霊が神に一切を献げる能力を私共に移し与えたもうを知るはいかに幸いなることぞ! さればパウロがここにかくなさねばならぬ理由として『神のもろもろの慈悲』を挙げて勧告しているは当然である。
 この献げるという肝要なことにつき、私の知る最も著しい例証の一つは、かの有名なパルマー夫人の経験である。その著書の一つ(もし二つでなかったならば)にその話を語っている。彼女はメソジストの教えとその雰囲気の中に育ったが、彼らの用いる全き聖化という言い表しに対して一種の嫌厭を持っていた。それゆえにそれをしりぞけて自ら聖書キリスト者というものになろうと決心した。そこで彼女はまず第一に、彼女が真に神の子であるかどうかを見るために聖書を探り、聖書のうちに見出される真理を自分に当て嵌めてみた。その点では彼女は自分のそのある状態で自ら満足したが、そののち彼女は神が彼女の全く献身することを期待したもうという事実を見出した。そこで彼女は厳密な徹底さと骨折りをもって、一切を祭壇の上に置こうとした。いわば彼女はその生活の詳細な財産調べをした。彼女は一点一点神に委譲し、また喜んで委譲してついにその夫にまで至った。彼女はしばしばその唇をもって夫も子らも共に神のものであると言った。けれどもこのたび彼女がその夫を主に献げた時に、ちょうど神が「もしあなたが彼をわたしに献げるならば、わたしはあなたの言葉をそのままに受けて、夫をあなたより取り去るであろう。しかし献げなかったならば、彼はその自然の寿命を生き続けるであろう」と言って、彼女の献身に挑戦したもうように見えた。彼女がかく重大な結果に直面した時に、彼女の献身は、ほかの点はとにかく、夫に関してはただ言葉だけのことであり、唇の礼拝であったことを見出した。彼女は今、彼女の胸中にあって、神の御声みこえに対して「我はあたわず」「我は欲せず」と言う、致命的なものを見出したのである。されども、彼女がすべてその無能と偶像崇拝を主に告げまつり、謙遜な告白と熱心な願望をもって主の御前に待ち望んでおった時に、彼女はその最親愛なるものでも愛する主に献げまつる、不思議な静かな快諾がそのうちに湧き出ずることを発見した。彼女がその起こったことを驚き、どうしてこんなことができたかと自ら怪しんでいる時に、聖霊はその心にささやき「あなたの心に起こったこの奇蹟は何の力によるのだろうか」と問いたもうに、彼女が「おお主よ、あなたの御力みちからによって」と答えまつれば、主はまた「これは完き聖化ではないか。これが心の聖きではないか」と仰せられた。かくして、彼女がかくも嫌っていた語も言い表しも、直ちにいま聖霊がそのめぐみ深き能力によって彼女にもたらしたもうた思念と感情の状態を適確に描写する唯一の語また言い表しとして、その心に現れたのである。その後、彼女は、私共が神の恩恵とその目的のために全然自己を献げる能力さえも『凡ての物は神より』であるというこの幸いなる秘訣を宣べ伝えることに、その残りの時を費やし、その奉仕のために何たる喜びと能力を持ったことぞ!

二、献身の受け入れられること

 『すべての物は……神によりて成り、……されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりてなんぢらに勸む、おのが身を……さゝげよ。』(ローマ十一・三十六十二・一

 私共の神は、私共の献身に関して、単なる快諾、すなわち心より喜んで降参し明け渡すことのほかに、今一つのことを求めたもう。彼はその供え物がきよ供え物であることを要したもうと共に、それがご自身に受け入れられるよう、すなわちよろこびたもう仕方で献げられることを要したもうのである。
 それはいかにしてであろうか。私共の献げ得るものが、神の目の前に聖きもの、すなわち受け入れられるものと認められるはいかにしてであろうか。その答はすぐここに掲げてある。『神によりて』がそれである。マタイ伝二十三・十九には比喩を変え、キリストを犠牲よりむしろ祭壇として『供物そなへものを聖ならしむる祭壇』とある。私共自身の奉献は、その上に献げる祭壇の神聖なるために受け入れられるのである。再びレビ記に帰ってその型を見れば、第一章の三節に『ヱホバの前に彼の受納うけいれれらるるやうに供ふべし』(英改正訳)とあり、そして四節には『彼その燔祭はんさいとする者のかしらに手をくべし されそれは彼のために受納うけいれられん』(同)とある。ここに「彼の受け入れられる」ことと「それは受け入れられ」ること、すなわち献げる者の受納と供え物の受納と、二重の受納のあることに注意せよ(かく英改正訳は欽定訳にて不明なところを明瞭にしている)。私共はまたレビ記二十二・二十七〜二十九に同じ真理を見出す。すなわち感謝の犠牲を献げる時には、それと共に血の犠牲を献ぐべきで、かくすれば神の目の前に両方共に受け入れられるというのである。すなわち『これヱホバに火祭かさいとすれば受納うけいれらるべし……なんぢら感謝の犠牲いけにへをヱホバに獻ぐる時は汝らの受納らるゝやうに献ぐべし』としるされている。かくのごとくにして献げる供え物と献げるその人とは共に主に受け入れられるのである。
 ここに私共の献げるものの受け入れられる秘訣がある。それはいつでも彼を通してである。それゆえにここにのみ神の御前みまえにおける私共の確信がある。こいねがうは、すべて私共の希望も期待もただ主にのみ、その流血にのみ置くという、この学課をよく学ぶことである。
 これによりてのみ、私共の体の供え物が主に聖きものであり得るのである。
 そしてなおここにそれ以上のことがある! すなわちその供え物を神に悦ばれるものとなすために、信仰にて献ぐべきである。そのわけは『信仰なくしては神に悅ばるることあたはず』(ヘブル十一・六)であるからである。そこには献身の祈禱も、克己も、奉仕も、種々の熱心努力あるかも知れぬ。けれどもその愛したもう御子みこの犠牲の効果に対する心よりの幸いなる確乎たる信仰なくしては、神の御前みまえに悦ばれ得る何物もあり得ぬのである。
 私共が信じ、またそのうちに喜ぶところの、神の御子の完き絶対服従とその死は、ほかのすべてにまさって実に私共の供え物を馨しき香となし、私共の神に聖く受け入れられるものとなすのである。私共は信ぜねばならぬ。疑うことはすべての不安の源であるばかりでなく、それは罪である。祭壇は供え物を聖くする。神は祭壇の神聖のゆえに受け入れたもう。そしてこの祭壇に信頼する信仰は、霊魂に平和と能力とを持ちきたるのである。
 悲しいかな、多くの人々は何の安息もなく、主に受け入れられたという何の確信も得ることなく、いたずらに彼らが献身と想像する踏み車を踏みつつある。彼らの目はいつも、ただ供え物、すなわち彼らの献げた供え物に付いている。もし彼らが『供物と供物を聖ならしむる祭壇とはいづれたふとき』(マタイ二十三・十九)との主の御言に耳を傾け、信仰をもって祭壇の神聖と聖化する能力に依り頼むならば、いかに速やかに彼らの疲れたる心に平和と確信が来るであろう。

三、献身の目的

 『すべての物は……神にすればなり、……されば兄弟よ、かれ神のもろもろの慈悲によりてなんぢらに勸む、己が身を……獻げよ。』(ローマ十一・三十六十二・一

 そして今私共は哲学者のいわゆる終極目的、すなわち献身の生活の目的動機を考察するように進むのである。
 すべてはに、のために、御名みなの栄光ということに帰するのである。こいねがうは、献身生活を送る私共の能力の秘訣をほかの人々に述べ得んことである。願わくは、人々がそこに彼の血に力あり、私共自身の意志力にてなしあたわぬところを成し遂げるを知り得んことを! すべてのことは彼に帰し、彼のためにであるから、私共のあかしも常に『彼に』でありたいものである。私共は、彼の御旨みむねとその御力みちからに降服しきった生活は『善にしてよろこぶべく、かつ全き』(ローマ十二・二)ものであることを、私共自身の経験にて証明すべきである。彼のために、彼を目的に生活するは善きことであり、幸いなことであり、またそれは実を結ぶことにおいて、奉仕においてまったきことである。
 多くの人は献身の生活をなさんことを求める。けれどもその動機は『神に歸する』、すなわち彼を目的にするのではない。彼らを行動に動かす力は、称讃を愛し、能力を愛し、名誉を愛し、成功を愛することである。されば悲しいかな、彼らの生活は、最も深い最も真実なる意味において、善い幸福な実を結ぶものではないのである。
 私共のなすすべては、十字架に釘づけられたまえる救い主の栄光にまではじきかえって来るべきである。私共の献身生活は主の犠牲、すなわち彼の流血の効力であることを他人に語るべきである。すべての人の凝視はカルバリに向かわねばならぬ。天使の讃美も、人間の讃美も、みな彼の受難に対してであるべきである。そして悪魔の驚きも、罪人つみびとの驚きも、共に二千年以前に流されたるキリストの血が、ただ罪を赦すばかりでなく、心を浄め、動機を変じ、人をして自己犠牲にして、キリストのため、亡び行く人類のために献身の生活を送らしめ得ることである。
 『凡ての物は……神に歸すればなり』。されば私共をしておのが身をける供え物として主に献げしめよ。既に学んだように、『神より』また『神によりて』すべて献身の能力とその受け入れられることは来る。さればいま私共は急いで、すべての栄光と称讃を主に帰しまつるべきである。実に栄光と讃美を主の流血、主の死、主の受難に帰せしめよ。ただこれによりてのみ、叛ける、罪深く、利己的な、亡びつつある人類が、神との平和、心の聖潔、生活の自己犠牲、そして祝福されたる国における永遠の救いに回復せられるのである。
 かくてなお、血による献身というこの章の表題が奇異に響くであろうか。私共はなお、献身がキリストの十字架、その流血なしになされ得ると想い、それが私共の生活にあらわされ得ると想像するであろうか。また彼の死は、単に私共が自己の意志の力を通して模倣すべき命ぜられるところの、殉教の貴い模範であるのみであろうか。
 さても『信仰の奥義』のいかに大いなることぞ! それはただ『敬虔の奥義』に及ばないのみである。されば私共をして、近づいて聖なる犠牲の上に手をき、主の贖罪の犠牲を通して、すべての恐怖、すべての不信任、不信仰、主の足跡に従うことに対するすべての嫌厭が永久に破壊され得ることを、断乎だんこと信ぜしめよ。さらば私共は己が身を日々、また時々刻々、私共の神に受け入れられるきよき活ける供え物として献げるに至り、また私共の心の霊を新たにして、神の御旨みむねを行うことは地上にて最も楽しく、最も完全な、最も善く、また最も有益なことを知るに至るであろう。



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