第五章 血による平和



 『神はすべての滿足みちたれる德を彼に宿して、その十字架の血によりて平和をなし、あるひは地にあるもの、あるひは天にあるもの、よろづの物をしておのれやはらがしむるを善しと給ひたればなり。』(コロサイ一・十九、二十

 平和と言えば、その以前に戦い、衝突、混乱のあったことを意味する。さて神との関係における人の実際の事情がかかる有様であることを、人々に覚らしめるのは容易のことでない。けれども私共自身の思念の混乱した想像でなく、神の御言みことばに振り向く時に、すべては明白になる。神はその憐憫をもって、戦いの事実も平和のみちも共に示したもう。敵対の事実が示され、取り扱われるまでは、そこに平和はあり得ぬのである。『その主をしいせしジムリよ 平安なるや』(列王紀下九・三十一)。

一、平和の事実

 『彼は我等の平和にしておのが肉により、樣々の誡命いましめのりより成る律法おきてを廢し……給へり。これは……平和をなさしめん爲なり。』(エペソ二・十四、十五

 聖パウロはそのエペソ書において、私共の神に対する関係に二重の怨恨すなわち敵対のあることを語っている。すなわち(一)私共の破った神の律法が私共に対して持つところの敵対、(二)私共の生来の心が神に対して持つところの敵対である。覚醒した良心と覚罪した心はこの恐ろしき二つの命題のいずれも真理であることをあまりによく認めるが、ここに私共の語るはその第一の部分である。
 神の律法は私共に敵している。それは歩哨のごとく厳然とその位置に立ち、私共が神の聖潔の庭に入ることを禁ずる。覚罪した良心はその事実を私共に知らしめ、そして私共を『神よ、罪人つみびとなる我をあはれみたまへ』(ルカ十八・十三)、『主よ、我を去りたまへ。我は罪ある者なり』(ルカ五・八)、『わざはひなるかな 我ほろびなん』(イザヤ六・五)と叫ぶに至らしめる。されど神はむべきかな、キリストは私共に敵する律法の敵対を永久に取り去りたもうた。彼は私共の無政府主義、無関心、罪悪に対して、律法が正しき宣告を下した時、その私共に負わせた要求を一切破棄したもうた。キリストは『その十字架の血によりて平和をなし』(コロサイ一・二十=元訳では十九)たもうた。『彼は我らの平和にして』(エペソ二・十四)感謝すべきことには『かつきたりて……平和をべ』たもうた(エペソ二・十七)。私共は主イエスを仰いで、その峻厳なる義務をもって私共の入るのを禁ずる律法の代わりに、『手とわきとを見せ』て『平安なんぢらに在れ』と言いつつ(ヨハネ二十・十九、二十)近づくべく招きたもう彼を見ることができるのである。されば覚罪したる心の、おお如何に喜びをもって、信ずるよう躍進することぞ。『今……キリストの血によりて近づくことを得たり』(エペソ二・十三)、これこそ実に覚罪した霊魂の幸いなる鎮痛剤である。
 昔、エジプトにおいて、かの滅ぼす天使の戸外を行きめぐる時にも、鴨居に塗られた血が心に平和をもたらしたごとく、神に感謝せよ、主イエスの十字架とその流血、すなわちかの歴史的大事実は私共の霊魂に平和をもたらすのである。
 主が私共を恐るべき失望のあな、罪の泥土から引き出だしたもう時に、私共の足を立たしめたもう堅き岩は、その贖いの血である。私共は平和の事実の上に立ち、安らい、また讃美するのである。
 この文を読む人にして、もし未だ神と和らいでおらぬ人があるならば、私はその人に、ほとんど霊感を受けた者のごとく語っている或る記者の次のごとき言葉を告げる。
 「あなたの心が熱心な期待と強い願望の翼を広げてキリストの血に遁れんことを願う。永遠の死より遁れよ。永遠の生命のために遁れよ。無数の犯罪にて破られた律法は無数の呪詛をもってあなたを追い来る。神の復讐の剣はあなたの滅ぼさるべき頭上に閃いている。死の棘なるは千度もあなたの惨めなる胸に射込まれており、その微妙な恐ろしい毒は、あなたの頑固な悩める心の中に働いており、罪の棘である有罪感の決して止まないその働きは、絶えずあなたの鈍い霊魂を麻痺せしめるか、或いはあなたの不安な良心を蝕む。
 「十字架の血のほか何ものも消すことをなし得ざる地獄の火の火花なるすさめる肉欲、すなわちその速やかに襲来せんとする暴風雨を予告する地獄の電光を閃かす烈しい情欲があなたの悩める霊魂の中に勃発する。これは苦しめ悩ますほのおの必ず臨むことのまことの保証である。
 「サタンはその無思慮な帰依者に罠をかけ、或いはその冒険的な崇拝者を喰い亡ぼさんと求めて、吼ゆる獅子のごとく行きめぐり、はあなたの軽率な動悸打つ胸に、その鋭い槍を差し向け、地獄はそれ自らあなたの来るを迎えんとて下から動き、はそののろわれた餌食の上にその口を閉じんと用意して、あなたの足許に口を開きおる」と。
 かかる苦しみのいかほどかを味わえるすべての人のために、もしただ彼らがキリストの血に遁れさえするならば、そこに神の平和は待ちつつあるのである。

二、平和の経験

 『彼は我らの平和にして……十字架によりてうらみを滅ぼさん爲なり』(エペソ二・十四、十六

 私は既に二重の怨恨すなわち敵対の、第一のものについて語ったが、今その一層恐るべき第二の敵対に移る。もし私共に逆らうところが、破られた神の律法の敵対だけであったならば、キリストの死にたまえるために、どんなに容易に人が救われたであろう。人はまたどんなに容易に救われることを願ったであろう。されど悲しいかな、私共はなお更に恐るべき障壁の人の心の中にあることを見出す。聖パウロはそのコロサイ書の中に、私共は『もとはしきわざを行ひて神に遠ざかり、心にてそのの敵となりし』者であるということを語っている(一・二十一)。平和はなされ、宣言されているけれども、「神は平和の側にありたまい、私共は戦いの側にいる」のである。今日こんにち私共の説教者の多くは罪を道徳的疾患として説き、人を罪深き者と認めるけれども、私共が生まれながらきよき神に対して叛逆しているということを否定する傾きをもっている。『我らのなほ弱かりし時』(ロマ書五・六)、『なほ罪人たりし時』(同八)、『我等敵たりしとき』(同十)、すなわち私共は道徳的無力の者、罪を愛好する者、神に敵対する者であったとは霊感による聖書の憂鬱な記事である。されど悲しいかな、私共が常に発火線上におらず、また私共の心に創造主とその律法に対して現実の憎悪と叛逆を自覚せぬために、とにかく私共は生まれながら創造主と戦っている者でないと信ずるよう、自ら欺くのである。しかし恩恵によって更新されぬ限り、私共は神に敵しており、私共の傲慢な心は『我らはの人の我らの王となることを欲せず』(ルカ十九・十四)と言うのである。私共は神を信じ、神を礼拝し、神の摂理を認めもするかも知れぬ。けれども神をして私共の生活を統御し支配せしめまつることを拒む。しかもなお私共がその叛逆の事実を認めないというところに事情が一層悪くなっている。そして私共がその叛逆の事実を自ら認めるまでは、これが救治のみちはあり得ないのである。私共が『われらはみな……迷ひて』(イザヤ五十三・六)という私共についての神の御言みことば、『おのおのおのが道にむかひゆけり』(同)という私共に対する神の裁決を受諾するまでは、決して『ヱホバはわれらすべてのものの不義をかれのうへに置きたまへり』(同)という私共のための神の声明を、深い謙遜と喜びをもって信ずることをなし得ぬであろう。
 これらの言葉があなたの目に触れる時に、あなたはあなたの心の生来の叛逆の啓示を受けているか、自ら反問せよ。聖霊はあなた自らの生来の有様をあなたに示し得たもうたであろうか。私共は、すべての更生せざる霊魂の状態はかかるものであるということ、したがって私共自身の霊魂もかかる状態であるということ、更生するまでは人のうちに実際の利他主義のないこと、神の御霊みたまによって覚醒された時でさえも、神ご自身のために神を愛し神に仕えることより、むしろ地獄からの救い、心の平安を願うのみであるということを、充分に覚り得ているであろうか。
 私共は、神とその御愛に疑念を懐くよりして、私共のうちに恵み深き神に降服することを欲しない心のあることを発見しているであろうか。もしそれを発見したならば、私共は幸いなるかな。『一人の不從順によりて多くの人の罪人つみびととせられし如く、一人の從順(すなわち主イエスの流血)によりて多くの人、義人とせらるるなり』(ロマ書五・十九)という福音の使言と音楽に耳を傾けるべき準備ができたのである。聖名みなを頌めよ!
 しかり、主イエスはすべてをなしたもうた! 彼はあなたのためのダビデにてありたまい、あなたの衷なるゴリアテを殺したもうのである。さればあなたはヨナタンにてあれ! ただ信じまつれ! そしてあなたの全心を彼に献げまつれ!
 救い出しは、罪人となったのとその仕方が平行する。あなたの側にて何ら努力せずして、あなたは反逆者とせられ罪人とせられた。それはただかの大敵の虚言を信ずる信仰を通してであった。そのごとくあなたはまた偉大なる救い主の御言みことばに対する単純なる信仰によって義人とせられるのである。
 既に私共に敵する神の律法の敵対がキリストの十字架の血によって除かれたこと、そしてそこにあなたのために平和のあることを悟ったあなたは、なお一層深い覚罪、すなわちあなたの心が福音の晩餐に来ることを欲しないこと(ルカ十四・十八)、あなたが『生命いのちを得んために我にきたるを欲せぬ』(ヨハネ五・四十)こと、彼の『督斥いましめにしたがひて心を改め』ること(箴言一・二十三)を欲せぬこと、たとえキリストが『牝鷄めんどりのその雛を翼の下に集むるごとく』したもうともあなたはそれを好まぬこと(マタイ二十三・三十七)を悟るに至る。もしあなたがこの深い覚罪に達し、「おおいずれの時かわが霊魂安きを得べき、この努力この奮闘の終わるはいずれの時ぞ」と叫びつつあるならば、私は、あなたのために即刻の救いのあることをあなたが直ちに信ずるよう迫り勧めたい。あなたは徒にもがき、もはや打ち棄てんばかりに失望している。けれども神を讃美せよ。主イエスは、神に対するすべての叛逆を、あなたのために破壊し得んために、そしてもしあなたが欲するならば、それが破壊されおるをあなたの衷に見出すために、その生命いのちの血を注ぎだしたもうた。すなわち『肉によりて弱くなれる律法おきての成しあたはぬ所を神は成し給へり、すなはおのれの子を罪ある肉の形にてつかはし、罪の爲の犠牲によりて、肉における罪を罪し給へり』(ロマ書八・三=英改訳)。
 あなたは全癒を欲せぬか。あなたは神をして、あなたをその御子みこなる贖い主に対して忠信なるものとなさしめることを欲せぬか。もしあなたがそれを欲するならば、あなたは聖霊の示したもう、神に対する不信、すなわち憎むべく、不忠にして、狐疑するすべての不信を、謙遜なる霊をもって告白するほか、何も要しない。何らの恐れもなくそれを主の聖前みまえに認めまた告白せよ。主の目の前に自らをひくくせよ。かくして、その十字架の血を通して外部に成就しているごとく、主は内部にもなしたもうたことを敢えて信ぜよ。

三、平和の宣言

 『かつきたりて、遠かりし汝等なんぢらにも平和をべ給へり』(エペソ二・十七

 破られたる律法の敵対を私共に告げる良心の訴えをもち、また私共の心のうちなる戦い、叛逆、疑念の意識を持っている私共は、平和の可能を信じる前に極めて現実なる奨励を要するのである。ビカステス監督の
  「罪のこの暗き世界に
    平和、全き平和とか?」
と問うたのも、実にしかるべきことである。それは可能であろうか。神を頌めよ。彼はその次の節にて、
  「イエスの血は
    衷に平和をささやく」
と答えている。復活のキリストの最初になしたもうたのはこれであった。彼は恐れているその弟子らの中に現れて『言ひたまふ「平安なんぢらに在れ」。く言ひてその手とわきとを見せたまふ』(ヨハネ二十・十九、二十)。彼の死と流血の痕跡は、栄光の主が私共の恐怖に満ちた心に平和を述べ、またこれを堅うしたもうところの記号である。私共はここに立って、仇に立ち向かい、すべての事を成就して立ち得るのである。
 キリストの血は、私共の覚醒した良心の燃ゆる訴えを永久に沈黙せしめ、私共の霊魂のうちの戦いが終息し得ることを私共に宣言する。キリストの贖罪の犠牲の歴史的大事実なるその流したまえる血は、私共の平和の証拠また保証である。これは迷信でなく、学説でなく、哲学でなく、観念或いは理想でなく、論理でなく、はたまた感情的の経験でなく、歓喜の熱狂詩でなく、神秘的な夢想でもない。実に他のいわゆる宗教なるもののその信仰と希望を建てる基礎のごとき何ものでもない。それは大いなる歴史的事実である。キリストの贖罪の犠牲のこの不動の磐石は、不安混乱の人の心を満足せしめ得るのである。しかり、キリストの十字架による平和がある。そしてそれが天より宣言されたれば、そこにはまたその保証がある。
  主イエスの貴き貴き血
   つねにゆたかに流るるなり
  その血をわれは信じ、われは受く
   こはまことにわが身のためなり。
 私は繰り返して言う、かくも脆い、かくも疑い深い、かくも不信仰な、そしてかくもはなはだ悪しき私共の心を説得するに充分なものは、歴史的事実のほかにない。私共に逆らう律法の敵対が永久に取り去られたということ、また神のご意志に逆らう私共の衷なる敵対心が根絶され得るということを、私共に信ぜしめるには、これ以外の何ものも役立つあたわぬ。私共は世の罪を除くためにその御血を流したもうた神の小羊を、長く熱心に信仰をもって熟視すべきである。何となれば、『彼は我らの平和』(エペソ二・十四)にて在して、『平和をなし』(同十五)たまい、かつ神に感謝せよ、彼はその手、足、脇腹の傷を通して、人の子らのうちのすべて労する者、重荷を負う者にそれを宣べたもうからである。
 主イエスの血が『アベルの血に勝りて物言ふ』(ヘブル十二・二十四)は極めて真実である。それはもの言う、それは平和を宣べるのである。
 私は、私共の心中における平和の確信が、生けるキリストによりて宣べられたる歴史的事実に基づく事を考える間に、日本仏教の歴史における、一つの傷心的な類似を思い起す。
 およそ第十二世紀の頃、日本仏教(北方仏教)すなわちいわゆる大乗仏教が不思議な発達をなした。たぶんシナにおけるネストリウス派のキリスト教の感化を受けて、一個の救い主を案出した。すなわち阿弥陀というものが称え出された。そしてこの想像による、仏の化身の功徳によってのみ救われると宣言し出したのである。わざによって義とせられる教え、すなわち自力教に反対して、他の功徳を信ずることによる救い、すなわち他力教なるこの新教理は速やかに広まり、今日、阿弥陀を宣べるこの特殊の宗派は日本における最も強いまた最も成功した宗派である。
 もちろん、阿弥陀は純然たる捏造で、何ら歴史的存在のものではない。最近或る著者は「哀れなことには、明らかに現今の仏教における最善なる一切のものの原動力である阿弥陀の教説は、事実に基づかずただ空想によるのみである。阿弥陀は世界の創造者、限りなき光明と生命の主、慈悲に満ち憐憫に満てる父として拝せられている。阿弥陀は過去の時代に一修道僧としてこの地上に現れ、完全なる人生を送り、世界の罪悪苦難を憐憫をもって見、多くの労苦と受難によって人類を救う充分なる功徳を獲得するまではこの世を去らずと誓ったと言われている」と言っている。この阿弥陀のほかに二つの化身仏が配せられて、三位一体をなしている。平和に対する願望、救い主に対する渇望は充分顕著であるけれども、この教説は全く虚偽と欺瞞に基づいている。
 阿弥陀に対する信仰の結果、多くの日本人の心に、良心の平和のあることは否まれぬが、それはその拠るところの基礎と同じく、真実の平和でない。何となれば、捏造の救い主を信ずる信仰は、想像の平和を生ずるけれども、道徳的変化を結果せず、また罪よりの救いを来らせぬからである。
 それは寓話、すなわち単に賢く作られた説に対する信仰で、人の心を浄め、生活を変化させる力は全然ない。幾千の人はこれに縋り付き、幾百万はその上に希望をおく。されども、悲しいかな、それはみな無益である。
 されど私共は、私共の贖い主の流血の歴史的大事実に立ち帰り、その平和の宣言は、その血に依り頼み、贖い主に信頼するすべての人に偉大なる更生力を生ずるところの事実に基づくがゆえに、真実なることを知る。この事による安息と平和はいかばかりであろうか!



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