第九章 血による贖い



 『なんぢらが……あがなはれしは……キリストのたふとき血にる』(ペテロ前書一・十八、十九

 贖いとははなはだ厳粛な、しかもなおはなはだ幸いな題目である。それは本書の諸章にて既に考察してきた他の題目とは別個の方面である。聖書における称義、なだめ、和らぎ、新生、聖化などのごとき大いなる言辞は、各その特殊の肝要なる重要性を持っているが、贖いも最大なるもの、最も意義あるものの一つである。
 本章において、私共は贖いの三つの単純なる基礎的特質を考察したい。すなわち、一、その目的、二、その価、三、その範囲、である。

一、私共の贖いの目的

 『なんぢらはおのれの者にあらざるを知らぬか。汝らはあたひをもて買はれたる者なり』(コリント前書六・十九、二十
 『なんぢらが先祖等せんぞたちよりつたはりたるむなしき行狀より贖はれしは……キリストの貴き血に由る』(ペテロ前書一・十八、十九

 「贖い」という言葉そのものが、私共の生まれながらにはなはだ悪しき状態にあることを暗示しているが、実際その通りである。贖うということは、奴隷市場、束縛、残酷などを連想せしめる。原文には「贖い」ということを表すために三つの語が用いられている。すなわち(一)価を払うことによって救い出す、(二)市場より買い出す、(三)釈放する、である。
 それゆえに贖いという語ははなはだ恐るべきものからの実地の救い出しを意味する。すなわちキリストは『律法おきてのろひより』(ガラテヤ三・十三)、『諸般もろもろの不法より』(テトス二・十四)、犯罪より(エペソ一・七)、そしてきたるべき日には、朽ち果てるべき身体より(ローマ八・二十三)贖いたもうのである。
 これらは私共の牢獄であり、私共の鎖であり、私共の駆使者であるが、私共はこれらすべてのものから釈放されたのである。されど多くの人の心には、贖いと言えばただ釈放だけを意味するけれども、この贖いという大いなる語にははるかにこれより多くの意味がある。ペテロが『なんぢらが虛しき行狀より贖はれし』と言った時にはなはだ明瞭にこれを言い表し、パウロは『汝らは己の者にあらざるを知らぬか。汝らは價をもて買はれたる者なり』(コリント前書六・十九、二十)と言って、その贖いの力を言明している。ここに全体の中心がある。すなわち贖いは単に救い出しばかりでなく、他の所有となるために買われたということを私共に語る。すべてこれらの悪しきことどもから救出されることは真実であるけれども、第一の点は私共が買収されたということである。私共は買われた。私共はもはや私共自身にも、この世にも、悪魔にも属せず、私共は私共の救い出しのために価を払った御方の所有となった。これが贖いの中心思想である。ここに贖いの実際の目的がある。もちろん私共は神が創造し保存したもうたのであるから、神のものであるが、神はそのことをすべての議論を超えて当然とならしめるよう、また彼の私共を愛したもうこと、私共が彼の目に非常に価貴きものとなったことを私共に確信させ、またすべての似て非なる異論に答え、すべての要求を満足せしめるよう、永久に徹底的に私共を買収したもうたのである。ズールー人の一改宗者は「キリストの十字架は聖徒となるべく我を処分した」と言ったが、同じように私共も処分を受けた者であるべきであり、贖いという語によって『汝らは己の者にあらず』と私共に語らしむべきである。すべて私共の持てるもの、すなわち私共の霊魂、私共の身体、私共の時間も才能も所有物も、もはや私共自身のものでない。それらをわがもののごとく取り扱うのは盗みであり叛逆である。これは新生しない心には厳しすぎること、また随分無理なことのように響く。けれども『心の靈をあらたにし』(エペソ四・二十三)、キリストの『くびきやすく』その『荷はかろければなり』(マタイ十一・三十)ということを知ったキリスト者は、それを道理に適うとともに甘美なことと知り、アダム・ギヨンとともに以下のごとく歌い得るのである。
  神の御旨みむね
   実に楽しき愛すべき御旨よ、
  なれは我が
   錨のかかる底つ岩根、とりでの山、
  わが霊の
   しずけき住まい、うるわしの家、
  汝がうちに
   われは隠れて、静けかり。
 かくも神聖なる意図のために神をめよ。神は、私共が神のために、ご自身特有の民となり得るよう、ご自身にまで私共を贖いたもうたのである。

二、私共の贖いの価

 『なんぢらが……贖はれしは、銀や金のごとき朽つる物に由るにあらず、きずなく汚點しみなき羔羊こひつじの如きキリストの貴き血に由ることを知ればなり。』(ペテロ前書一・十八、十九
 『神の己の血をもて買ひ給ひし敎會』(使徒行伝二十・二十八

 「神の血」、この語はほとんど私共を驚倒せしめる。もしそれが聖書にある言葉でなかったならば、私共はそれを書くことを敢えてせぬであろう。けれども、私共の贖われた価の貴いことの認識を確かにするためにそれを書く。私共が私共の贖いのもたらす自由を悦び、そして新たに課せられる制縛を憶える時、私共がいかなる時にも私共の忍ぶべき抑制に苛立つよう試みられぬよう、私共はよくかつて私共を束縛した絆と、それから解き放つために払われた価とを考えるべきである。
 第一に、払われた価の大きいことは、買われたものの価値を示す。私共はその買い取りに払われた価の高さによって、その取得物の価値を量り得るのである。私共の贖いに当たって、牡牛や山羊の血も、人や天使の血も、銀も金も、否、天に在り地に在るいかなる貴きものも、贖う力を持たなかった。私共が私共の生まれつき悪しき者、価値なきものであり、神にも人にも益なき者であることを憶えるはよい。けれども私共の贖いのために払われた価は非常に大きいので、私共は神の御目の前に非常に貴重なものとなったのである。ける神の教会は御子みこの血によって買われたものである。されば贖われた最も小さい者を侮る者は、その贖い主を侮るのであり、彼自身の霊魂を侮る者もその贖いしろとして流したもうた血を踏みつけるのであるから、私共のうちに決してかかる不義があってはならぬ。否、キリストの貴き血のゆえに、私共自身の贖われた霊魂また神の全教会の価値を、私共の目にいよいよ貴く見たいものである。私共は彼によって贖われたことを悟れば、いかに温和に歩み、いかに神の聖徒を優しく取り扱い、私共の主のために、私共自身すなわち私共の霊も身体もいかに慎みて守るべきことぞ!
 第二に、払われた価の大いなることは、神のご要求の幸いなること、また一切を神に渡しきることの安全を、私共に語る。
 私共が買いとられて、私共自身のものでなく他の方の絶対所有になるということ、換言すれば一の奴隷から他の奴隷に移るという考えは、もし私共の新しい主人が誰であり、いかにして買いとられたかを知るのでないならば、私共の心が憂慮に満たされるも当然である。されども私共が、それは主ご自身の死、ご自身の流血によって成し遂げられたということを知り、また実感するならば、必ずや私共の霊が恐怖に悩まされることもなく、安心するに至るであろう。そして奉仕は愛の奉仕となり、束縛の縄は絹のように柔らかいものとなるであろう。私共の贖いの贖い代として苦しみを受け、血を流して死にたもうた主は、完全な主人のほかでありたまい得ようか。彼につかえる奉仕は完全なる自由よりほかであり得ようか。
 第三に、価の大きいことは、この贖いの業の計りがたき困難事であったことを語る。神はその御言みことばによって世界を創造し、その御力みちからによってこれを破壊し得たもう。されどこれを贖い得たもうは、ただその血によるのみである。神の御子の犠牲のほか、神の宇宙の何物も、それより贖うに役立ち得ないほどに、律法破壊のために来る詛いは峻厳であり、人心における悪の存在は深く根ざして癒しがたきものなのである。
 されば贖いの血がこれらのことどもを間断なくしかと私共の心に語り、それによって買われた所有の価値あること、贖い主のそれをご自身のものと要求したもうことの幸い、そしてまた主が失われたる世の救いのためにカルバリへの道を進み行きたまえる時、彼の企てたまえるわざはいかに困難なことであったかを確と語り聞かせんことを。

三、私共の贖いの範囲

 『キリストは……律法おきてのろひより我らを贖ひいだし給へり。……われらが信仰に由りて約束の御靈みたまを受けん爲なり。』(ガラテヤ三・十三、十四
 『これわれらを諸般もろもろの不法より贖ひ出して、わざに熱心なる特選の民をおのがためにきよめんとてなり。』(テトス二・十四
 『子とせられんこと、すなはちおのがからだの贖はれんことを待つなり。』(ローマ八・二十三

 私共の贖いの目的は私共が全く主のものとなるためであり、私共の贖いの価は神の御子の血であった。それゆえにその範囲もまたその目的や価に相応な程度のことであると期待すべきである。ここに掲げた三つの聖句ははなはだよくこれを明らかにしている。
 第一の聖句(ガラテヤ書三・十三、十四)において、私共はキリストが律法の詛いから私共を贖いたもうたということを学ぶ。すべての律法はその違反者に蒙らせるべき詛いを伴う。すなわちこれを犯す者には刑罰が科せられる。自然界さえもそれに何の赦罪も執行猶予も与えぬ。すなわち自然界の法則を破るものは憐れみを受けることなくして苦しめられる。しかし私共はそのために自然界をとがめもせず、それを無理とも思わぬ。まして神の国の律法のかくあるは当然である。刑罰は受けねばならぬ! 呪詛は落ちきたらねばならぬ! されど、永久に感謝すべきかな! キリストは律法の詛いから私共を贖いたもうた。彼はみなそれを負いたもうた。それはみな彼の上に臨んだ。かくして私共は赦されたのである。されども贖いの範囲はなおこれよりも広い。救出しは単に消極的のことでなく、圧倒的に積極的である。パウロは急いで、ここに積極的方面を加えて、私共の自由のために払われた価は再び私共が罪の下に陥らぬよう永久に保つ力、すなわち『父の約束のもの』(使徒行伝一・四)を買い取ったということを付け加えるのである。詛いから私共を自由にする血は、いま祝福を買うところの価となった。彼のその血を流したまえるゆえに、私共は聖霊を受ける権利を持つ。すなわちかつては詛いを受けてはなはだ暗かった私共の心が聖霊の聖所また住まいとなるのである。「血は神的恩賜を私共に保証する」。誰か神の贖いの恩恵の範囲を記述し得ようぞ! 私共は「内住の神」というこの語をもってこれを約言し得るのみ。
 第二の聖句(テトス書二・十四)にてパウロは同じ秘訣を語り、それについて一層多く語っている。キリストは(このたびは律法の詛いからと言わず)『諸般の不法』すなわち私共の性質にあるすべての悪しき傾向、すなわち詛いの原因なる罪そのものから贖いたもうたと言っているのである。これについては、前に或る程度詳しく学んだことであるが、パウロは急いで再び私共の贖いの充分なることを開示せんとするのである。内住の罪より私共を自由にするところの貴き血はキリストの内住を可能ならしめるが、その内住のキリストは私共のうちにすべてのきよき生活と善き業に向かう熱心を燃やし得たもう次第である。
 私共はこれらの奥義のゆえに心一杯の喜びをもって声高く叫びたい。すなわち詛いが取り去られるということは幸いであり、詛いの原因が除かれることはなお一層幸いである。けれどもその結果が内住の神に至るというに至っては、実に満ち溢れる祝福である。
 ここに贖いの結果がある。すなわち心の清きことと、善き業に熱心なるように神によって占領されることである。そしてこれらはすべて私共が贖われたゆえにでき得るのである。
 各国民はそれぞれその特殊の性格を持っている。英国人、仏国人、独国人、日本国人ら、みなその国民性に特有なる性格を持っている。
 ここに主はこの新しい種族、すべての民の中の最も世界共通的な種族、すなわちける神の教会について語りたもう。それは天下のすべての種族より成り、ただ『善き業に熱心』という特殊の性格を持つものである。そしてかく善き業に熱心になり得るは、それがすべての民と異なり、血によって贖われているがゆえである。
 この贖いの事実が深く自覚せられるほど、我々はいよいよますます『善き業に熱心』になるのである。こいねがうはこの自覚が海の深みほど深からんことである。
 この特性はただ善き業を行うだけでなく、熱心にこれを行うというところにある。さて神の民のうちにかくも熱心の欠けている理由は、確かに大部分、彼らがその血の贖いと心の純潔、内住のキリストの結果たる可能性を感得認識せざるより起こることである。
 そして贖いの範囲はこれよりも更に広い。私共の引用した第三の聖句はさらに宏大な方面を開示する。
 私共が神的啓示の書を研究する時に、私共は贖いなる語がもっと広い、もっと充分な意味をもって用いられおることを見る。それはすなわち「私共のからだの贖い」である。
 主は物質的受造物なる全地をご自身に贖いたもうた。それは主の所有である。そして主はやがて、ご自身の買いたもうたものを、ご自身のものと要求するために帰り来りたもうのである。罪、死、苦しみ、腐朽がこの地から除かれるその日の幸福を誰が語り得るだろうか。『すべて造られたるものの……共に嘆き、ともに苦しみ』その時を待っている(八・二十二)。そのとき贖いは遠く広く及ぶであろう。かくして幸いなる贖いの結果はいずこにも顕れるであろう。自然物はすべてみな花嫁の着飾るごとくに装い、木々はその手を打ち、山々は主の前に共に喜ぶであろう。
 しかもなお、そのとき贖いの範囲の最も驚くべく広く及ぶところは人間の体であるであろう。私は想像する、私共のこの死ぬべき体のうちに潜在していて、その時に至って充分に発達する諸能力は、私共の決して考え及ばないところであろう。私共の感覚は驚くべく発達し、今は顕微鏡や望遠鏡や、分光器や無線電話やそのほか科学の不思議な装置によってのみ現されるものが、その時は私共の感覚で直接に感知されるに至るであろう。
 しかり、なお更に進んだこと、すなわち心理学的のことと物理学的のこととの間の幕が撤去されるであろう。たとえば、今までは或る条件の下にて或る個人に限ってできる、霊気オーラを見ることなども、その時にはすべての人に普通になるであろうと私は想う。かく今は奥義的で、説明しがたき多くの他の現象も、その時は日のごとく明らかになるであろう。私は繰り返して言う、私共の贖いが、いかに広い範囲に及ぶかは、私共の理解の及ばぬところである。
 これに向かって私共は待望しつつある。それが神の御言葉みことばのうちに約束され、前言されており、神の御子の血によって確保されている。そしてそのきたるべき日に私共は、これを私共のものとなすために払われた価を常に憶えつつ、この回復されたる私共の嗣業のために、永遠を通して神をめるであろう。
  おお、無限の贖い主よ
   われはた、何を求め何を訴えん、
  汝われを招きたまえば
   我はただ、自らを委ねまつる、
  汝われを受け入れたまえば
   我は愛し、また拝みまつる、
  汝の愛の強迫のゆえに
   我は限りなく汝を頌めまつる。



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