第十一章 血により近づくこと
『然れば兄弟よ、我らはイエスの血により……憚らずして至聖所に入ることを得』(ヘブル十・十九)
前世紀の大救霊者ジョン・スミスの言葉に「私は今かつてなきほどにイエスの血の必要を感じている。今はこれまでになくイエスの血を用いることを得ている」ということがある。これは実に意味深い言葉である。ここに彼の驚くべき生涯の秘訣がある。それは神の御子の犠牲を即時実地に用い得ることである。
ヘブル書第九章には、聖書におけるすべての霊感による言葉のうち、キリストの宝血についての最も深い数箇条の教えが含まれている。ヘブル書の記者はその教理的教訓を終わるにあたり、至聖所に入るべきことを熱心に論じて、憚らずして至聖所に入る権はイエスの血にあることを確言し、その秘訣の意味をこの第九章のうちに開示している。そしてそれがちょうど私が上に引いた前世紀の聖徒のかくも親しくまたよく知っていたその秘訣である。
もし私共が神の聖所に入り、憚らず聖なる神に近づかんと思うならば、私共もまたこの聖なる勝利の奥義を知り、疑い或いは恐れなくそれを用いるために、その理由を確かめる必要がある。
ヘブル書の記者は、神がその民と立てたもうた新しき契約について語ったのち、それに関して或る定め(ディカイオーマタ)のあることを言わんとしてその詳細を語ることを差し控えるが、ただその一つ、すなわち血の流されることを強調する時と場所だけを持つ。かく彼は新約の最も肝要なる題目、すなわちキリストの血の効力を私共に紹介するのである。
さてここに書き録されたるところより、私共はただ三つの肝要なる学課を選ぶ。そして私共がその聖なる秘密を決して忘れぬよう、聖霊がそれを深く私共の心に書き記したまわんことを祈る。
一、良心にそそがれる血
『まして……キリストの血は、我らの良心を死にたる行爲より潔めて活ける神に事へしめざらんや。』(ヘブル九・十四)
活ける神に仕えること、すなわち活ける神を待ち望み、彼を礼拝すること、しかも至聖所にてかくなすことは、私共の驚くべき目標である。
これはヘブル書の驚異の一つである。キリストが至聖所において私共の仲保者であり弁護者でありたもうを知るは幸いなことであるが、更に驚くべくまた幸いなるは、キリストがそこに彼と偕なるべく私共を召し、また彼と偕なることを期待したもうということである。
昔の祭司等は聖所より奥には進み入ることを得なかった。彼らの務めは幸いなことではあったが、これらの限界のうちにとどまっていた。されども私共の特権は至聖所に入り、私共の大祭司と共に活ける神を待ち望むことである。私共の良心に灑がれて、罪より、咎より、恥辱より私共を浄める血は、それに加えて、死にたる行為、すなわち死ねることを行うことから私共を救い出す。詳しく言えば、私共のなすを要しまたなすを願うところのことを、私共が自らなす代わりにそれをすべて私共のためになさんと待ちたもう活ける神を待ち望むように、私共を自由にするのである。
されば血が良心に灑がれるとは、自己にそれを当て嵌める積極的のことである。多くの人は、他人に対して咎めなき良心を持つということに安んじて、『良心に灑がれたる血』という語に顕されている積極的な活かす経験の何も知らないが、私共の恐れを鎮めるものはこれであり、私共に大胆を与えるものもこれであり、私共をして自覚的に神に近づかしめ得るものもこれである。願うは、私共がかかる重大な目的を遂行する、かくも偉大な、有効な方法を用いんことである。
私共はここで少しく本筋を離れて論ずる。ヘブル書の記者が、ここで潔められた良心と言っているは、罪から浄められた良心を言うのでなく、死にたる行為から清められたそれであるは注意すべきである。そしてその何を暗示するかは明白である。すなわちそれはモーセの律法による犠牲の第七番目のものに関している。犠牲の第一は、出エジプトに当たって民の贖いのために殺された過越の小羊であり、その次に来る五つの犠牲はレビ記に録されている、礼拝の方法として贖われた民のためのものである。しかしここに言及されおるはこれらのいずれでもない。第七の犠牲、すなわち終わりのものは、ただ民数記にのみ録されている牝牛のそれである。その牝牛の灰を潔き水に混ぜ、屍に触ることから受けた汚穢を清めるために用いるのである。それゆえに『死にたる行爲』という言葉がある。祭司等は多日の間、活ける神を待ち望む代わりに、殺された人の屍を葬ることに忙しかったので、彼等がその汚れよりの浄めを願ったのは当然である。しかもそれは清き水に混ぜ、またそれによって当て嵌められる、犠牲の血を通してのみなされ得たのである。
このことはよく私共にも語る。何となれば、私共が神に近づく時、御言の水によって私共の心に当て嵌められる、汚点なき犠牲の血のみが、よく私共に大胆を与え得るからである。
久しく、しかり、あまりにも久しい間、私共は既に「キリストと偕に十字架に釘けられたる舊き人」を取り扱いつつあった。さても! さても! 旧き人の葬りは、はなはだ手間取る厄介な仕事で、必要以上長くかかったのである。けれども救い主がご自身の最も貴き血を通し、その最も貴き御言を通して、私共を近づかしめたもう時に、『死にたる者にその死にたる者を葬らせよ』(マタイ八・二十二)と叫びたもう。それで充分である。ただ信ぜよ! 汝の信仰のごとく汝になるべし。かくして私共はキリストと偕に彼の禱告の大祭司的御奉仕に与るべく入り得るのである。
二、書にそそがれる血
『モーセ……血……をとりて書……にそそぎ』(ヘブル九・十九)
かくして契約は遺言になる。契約は、契約者と契約を受ける者の双方が生きている間のみ有効であるが、遺言の場合はちょうどその反対である。遺言は遺言者が死ぬまでは実行されることができぬ。新しき契約はキリストの最後の遺言であり、遺言書である。そして遺言者の死にたまいしによりて永久に有効となっている。このことのために神に感謝せよ。書の上に灑がれた血は、それが遂行され得る確かな証拠であり、また神を頌めよ、それが遂行されつつある。すなわち偉大な、驚くべき、この契約の執行者なる聖霊は、遺言の条項に含まれおるすべてのことが、それを要求するすべての者に与えられるよう、取り計らいたもうのである。
これによって私共は憚りなきことを得るのである。良心の上に灑がれたる血はすべての恐れを消散し、書の上に灑がれたる血はすべての疑いを消散する。願う、私共、私共の偉大なる驚くべき恩人の遺言書をカルバリの光にて読まんことを。その時、地の上に普く臨んだ暗黒も、その遺言より輝き出ずる光を私共より隠しあたわぬのである。おお、私共をしてそれを再読せしめよ。そしてそれは単なる契約でなく、私共が憐憫を受け、機に適う助けとなる恵みを得んために、恵みの御座に来る大胆を与えるところの遺言であることを、書に灑がれた血によって確かにすべきである。
私共は、私共の思念が神の約束によって支えられ、御言によって銘せられ、御子の血によって印せられるのでなければ、決して聖霊によって祈り、信仰にて近づくことをなし得ぬ者である。これはすべて、私共の祈禱の基礎である。神が昔、先祖ら、預言者らに語りたもうた時に、彼らの心は直ちに祈禱に激励刺戟されたが、私共もまたその御声を聞き、その上に灑がれた血の印を憶える時に、祈りを聴きたもう神に近づくよう励まされる。私共を祈禱に励ますものは多くある。他人の必要や重荷は言うも更なり、私共自身の必要、私共の罪、私共の憂慮など、みな祈禱に励ますが、その最も主要なるものは、カルバリの山から私共に語りたもう神の御声である。
キリストの血は、アベルの血に勝れることを語る。『遙にたちて拜むべし』『近よるべからず』(出エジプト記二十四・一、二)はシナイ山からの声であったが、『近づくべし』(ヘブル十・二十二)『憚らずして來るべし』(同四・十六)は地より私共に叫ぶ声にあらず、『天より示し給ふ』(同十二・二十五)キリストの血の頌むべき声である。
三、天にそそがれる血
『己が血をもて只一たび至聖所に入り……たまへり。』(ヘブル九・十二)
『また同じく幕屋と祭のすべての器とに血をそそげり。……天にある物は此等に勝りたる犠牲をもて潔めらるべきなり。』(ヘブル九・二十一、二十三)
憚らずして近づくべし、私共の良心は血によって浄められ、約束は血によって批准され、確認されている。私共はそれ以上、何を要しようか。しかもなおそれ以上のことがある! 私共をして私共の足より沓を脱がしめよ。私共の踏むところは不思議な奥義的の所である。聖霊は私共が憚らず私共の父に近づくために、一層高い理由を私共に与えたもう。私共はこれらの諸節よりして、もし私共が天そのものに入ることを得たならば、私共はそこにて、いずれの方面にもカルバリの流血のしるしを見るべきことを推測する。
黙示録もまたそれを私共に言明している。パトモスの預言者は、彼が見たすべての心を奪う異象の中に、いつも殺されたまえる小羊を見たことを述べ、天におけるキリストを語る時にいつもそれを小羊と称えている。小羊の怒り、小羊の新婦、小羊の書、小羊の御座、小羊の歌、小羊の婚姻などと言っている。これらの言い顕しは、彼にも私共にも、カルバリの犠牲、彼の貴き流血は天における讃美崇拝驚異礼拝の中心題目なることを恒に思い出さしめる。
私共の既に言ったごとく、ここヘブル書九章においてもまた、天における最も聖き神の聖前に入る大胆を私共に与えるために、そこに灑ぎの血のあることが注意されている。私共の見るいずれの所にも深紅の徴が見られる次第である。
かく私共の大胆は保証されている。すべてが確保されていれば、私共は恐れることを要せぬ。私共自身のいかなる価値も、いかなる熱心も、いかなる涙も、いかなる悔い改めも、私共のなし得るいかなるわざも、この血の与えるような、そのような大胆は与えぬのである。何となれば、その血は、地に在って自ら私共の罪の宥めの供え物でありたもうたその贖い主が、天における私共の大弁護者として、ご自身の手にとって自ら捧げたまえる、その血でないであろうか。
私共の天の住まいの汚点なき所が何故にキリストの血を灑がれねばならないか。私共は理解しないかも知れぬ。否、理解しあたわぬが、私共はそれを信ずる。信じつつ、信仰の真の確信をもって近づき得るのである。されど後には、私共が驚くべきこの事実を見、たぶんその奥義をいくぶんか理解するその日が来るであろう。
それまでは、私共も古の聖徒のごとく「イエスの血を用いること」を学び、その効力と神聖なる能力を信じ、聖霊が私共の信仰に応えて、自覚的に神の臨在に至らしめたもうを見出すまで、終日、血を訴え、血のうちに喜ぶことをなさしめよ。神はそこにてその愛子と偕なる祭司として私共を歓迎し、その御名によって捧げる私共の嘆願に答えることを悦びたもうのである。
私共は前段において、遺言者の死は私共の嗣業の質であり保証であることを語り、彼の死にたもうたことによってその遺言が有効になったということを見た。けれども私共はここに更に勝れることを見る。すなわちその遺言者が復活したもうたのである。彼は再び生きて、ご自身の遺言の執行を監督したもう。されば遺言はいま再び一つの契約となり、彼は自らその保証となりたもうのである。
主がご自身の血をもって天に在して、私共のために常に聖父の前にその傷を示し、その御手を広げたもうことは、私共のために確信と喜びの一層深い理由となるのである。
この章の標題は血によりて近づくことである。そしてその引用句は至聖所に入る大胆について語っている。私共の注意したごとく、昔日は大祭司のほか誰もそこに入ることを得なかった。祭司等は幔のこちらに立つことしかできなかった。彼らは金の祭壇で奉仕したといえども、至聖所における執り成しの奥義については何も知るところがなかった。しかしヘブル書には不思議中の不思議が顕されている。
すなわち、カルバリにおけるキリストの犠牲を通して、私共は幔の内にて私共の大祭司の執り成しの御業に与るように召されている。キリストが私共のために執り成さんとて恒に生きたもうは幸いなことであるが、私共が彼の御業に与るように近づかしめられることを学ぶはなお一層驚くべく、幸いなことである。これが私共の語るところの、血によって近づくことである。かくて祈る力、祈って勝利する能力は私共のものとなる。私共は私共の良心に灑がれた血をもって、私共の心に神のすべての約束を印するところの書に灑がれた血をもって、またその血が天に灑がれているという確信をもって、近づき得るのである。私共は訴えることができ、信ずることができ、説得することができる。かつそればかりでなく、私共の大祭司と共に立ち、彼の重荷を共に負い、その御国の来ることのためのその嘆願に与ることは、私共の権利、特権、義務である。
おお、願う、私共聖霊によって「キリストの血を用いること」をなし、かくして神が私共のために計画し、備えたまえることを成し遂げしめられんことを!
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