第八章 血による聖化
『イエスも己が血をもて民を潔めんが爲に、門の外にて苦難を受け給へり』(ヘブル十三・十二)
私共は主イエスの犠牲を考察して、まだその主題の中心に達しておらぬ。「救い主は何故に死にたもうたか、彼の受難の目的は何であったか」という世界の最も大切な疑問に対し、私共は既に、それは神の義を顕すためであり、罪を確認せしめるためであり、全世界の罪の宥めの供え物となるためであり、平和となすためであり、罪人に赦罪を齎すためであり、そして霊魂を新生せしめるためであると言った。しかり、これらは彼の流血の目的の中に数えられる事どもである。
私共はこれらのことを見、学び、驚き、信じ、謙った喜びをもって喜んだ。そしてその結果、神の姿変わらせたもう恩恵の効果を感じた。私共はキリスト・イエスにあって新たに造られた者である。しかし私共はこれよりもさらに大いなることを要する。
霊魂の義とせられること、私共の神また父と和らがせられることは共に幸福であり、心の新生することも同じく幸いである。けれどもこれらは、私共を取り扱いたもう神のなされ方の幾分である。聖書は主イエスがなお一層深いわざをなすべく苦しみを受けたもうたことを、型と教えをもって示している。彼は私共を全く聖化することを得んとて、十字架の上に苦しみを受けたもうたのである。そのことは、私共があたかも彼の血を流したまえることによって義とせられ、生まれ変わらせられるごとく、きよめられ聖き者となさるべきことを私共に示す。
キリスト者はエジプト脱出、すなわち『來らんとする怒』(テサロニケ前書一・十)より、また『今の惡しき世』(ガラテヤ一・四)より救い出されてから久しからずして、内住の悪を意識するようになる。すなわち彼の心を疑惑と不信仰、恐怖と憂慮、しかりその他なお多くの煩いをもって満たし、彼をしてそのキリスト者の歩みに不斉ならしめるもの、すなわち聖書に『罪の體』(ロマ書六・六)、『肢体の中にある罪』(ロマ書七・二十三)、『溢るる惡』(ヤコブ一・二十一)、『肉の念』(ロマ書八・六)、『肉と靈との汚穢』(コリント後書七・一)、『不信仰の惡しき心』(ヘブル三・十二)、『婢女とその子』(ガラテヤ四・三十)などと呼ばれているものの現存することをいたくも気付くに至るのである。
されども私共の犯罪と亡び行く状態について私共を覚罪せしめたもうた聖霊は、また罪そのものについて私共を覚罪せしめ、それよりの充分なる救い出しを慕い嘆かしめ、また、私共が荒野彷徨の状態では知らなかった、愛と安息の生活を示すことにおいても忠実にてありたもうのである。私共が出会する或る美わしき生活、キリスト者の完全を勧める或る霊感による証詞、私共の心をして私共の知るより一層美わしい、一層恵まれたる状態を渇き求めしめる或る豊富なる教えなどが、私共をして愛の生活、すなわち恐怖を除き、批評や怨み言や不満足の念を殺し、怨み、憎しみ、悪意またすべての無慈悲、誹謗、不親切なる疑念などをば愛の幸いなる奔流に溺れ失せしめ、私共をして鳩のごとく無害に、私共の主に似て柔和温順なる者とならしめるところの、愛の生活を慕うに至らしめる。
されば、私共をして、聖書はこの肝要なる題目につき何と言うかを見せしめよ。まず第一に聖パウロの言うところは何かを見たい。
一、キリストの十字架上の死は罪の体を滅ぼす
『噫われ惱める人なるから、此の死の體より我を救はん者は誰ぞ。我らの主イエス・キリストに賴りて神に感謝す』(ロマ書七・二十四、二十五)
『われらの舊き人、キリストと共に十字架につけられたるは、罪の體ほろびて、此ののち罪に事へざらん爲なるを。』(ロマ書六・六)
私共は前章において、心の新生は聖化の始めであるということを見たが、本章においては聖化の完成を取り扱う。ロマ書六章にて教えられたように、新生においては、キリストの犠牲を通して私共の意志と良心とが新たにせられた。すなわち私共が新しき生命に歩み得るために、私共はキリストと偕に十字架に釘づけられ、葬られ、甦らせられたのである。けれども『罪のうちに止るべきか』(一節)という疑問の答はそこで尽くされておらぬ。なぜなれば、私共の性質のうちには意志と良心よりさらに深い所のあることが見出される。それは私共の心の思いと願い、すなわち愛情、想像、記憶である。そしてこれらのものの潔められるまでは、私共はまだ充分に聖化されておらず、なお安息に入っておらぬからである。私共の霊魂の言葉は、かの偉大なる讃美歌作者チャールズ・ウェスレーの次のごとき言葉に表されている。
負わしめたもう御くびき
その心地よさを試せよと
ひそかにさとす声ぞする。
こは実にわが欲するところにて
意志はかくこそ定まれど
さだかならぬは情にこそ。
それゆえにパウロはその題目を続け、『罪のうちに止るべきか』という問いに対するその答を完結するのである。彼は一層深いことを語る。すなわち、死と復活における霊魂のキリストとの合一(ロマ書第六章)は、神のために実を結ぶための結婚においてのキリストとの合一(同第七、八章)に変わるのである。
『我等罪のうちに止るべきか』という問いに対するなお進んだ答えにおいて、彼は再び『なんぢら知らぬか』(ロマ書七・一)の語を用いる。そして続いてキリストと共に死にたる者という譬え(同六・十)をも、キリストの僕たることの譬え(同六・十六)をも用いず、キリストとの結婚の譬えを用いている。他の言葉で言えば、彼はいま意志や良心ではなく、願望を取り扱うのである。いま私共は罪を犯しあたわぬ、或いは犯してはならぬということでなく、罪を犯したくないということである。彼は語る、新生した霊魂の目的はキリストとの結婚である、けれどもこの幸いなる目的のためにそれ自身と肢体とを献げんとする時に、一つの妨げを発見する。その困難はすなわち律法と旧き夫である。反対論者は言う、もし律法がその妨げであるならば、必ず律法は悪いものでなければならぬと。パウロはそれに答えて、『決して然らず……それ律法は聖なり、誡命もまた聖にして正しく、かつ善なり』(同七・七、十二)と言う。すなわち律法はこの結婚を命ずるからそれは聖であり、旧い夫の生存する間この結婚を禁ずるからそれは正しく、そしてまたこの困難を遁れる道を示すから、それは善であるのである。律法は何らキリストとの結婚を妨害するものではない。この結婚の唯一の妨げは内住の罪、すなわち『肢體のうちに働く』罪(七・五)、イエスの血によって全く聖化されるまでは新生した霊魂でさえもなお一つになっているところの旧き夫である。ロマ書第七章は、新生した者の中にもなお残る『フロネーマ・サルコス』(肉の念)という恐ろしいものの写真を私共に示している。それは『各樣の慳貪を我がうちに起し』(八)、『我を欺き』(十一)、『我が内に死を來らせ』(十三)、『我にあり』(二十一)『我を虜とし』(二十三)『我が中に宿る』(十七)。私共はこれを自覚しおるであろうか。パウロのごとくそれよりの救い出しのために呻いたであろうか。『噫われ惱める人なるかな』(二十四)が私共の心の言葉であったろうか。私共は彼のごとく私共の悩みの実際の原因を見ているであろうか。パウロは言明する。それは『我にあらず』(二十)、なぜなれば、我はキリストと偕に十字架に釘づけられ、今は新生した者、すなわちキリスト・イエスに在りて新たに造られた者であるから。それは『我にあらず、我が中に宿る罪なり』(二十)という。それはわが意志よりも低いところにある『罪』というもので、私はそれを私より逐い出すこと全く不可能なものである。ちょうどわが手の届くところよりも二インチ半下にあるもののごとく、私は決心しまた努力するけれども全く無効である。しかしこのものが逐い出されるまで、この旧い夫が亡ぼされるまで、わが肢体の全部にその毒を広げるこの悪い者が除かれるまでは、わが主との実地の結合はできず、彼に事える奉仕に実を結ぶこともなし得ぬのである。パウロの言葉に注意せよ。彼は『噫われ惱める人なるかな、我を救はん者は誰ぞ』と言わず、この悪しき者が取り去られる時にその代わりに活けるキリストをわが衷に見出すため、『(既に救われている)我を此の惡しき死の體より救ひ出さん者は誰ぞ』と言うのである。
さてこのさらに進んだ救い出し、一層充分な救いは、十字架を通してであるとパウロは語っている。すなわち『イエスも己が血をもて民を潔めんが爲に、門の外にて苦難を受け給へり』(ヘブル十三・十二)、『イエス・キリストの體の一たび獻げられしに由りて我らは潔められたり』(ヘブル十・十)、『斯のごとく汝等もキリストの體により律法に就きて死にたり。これ他のもの、卽ち死人の中より甦へらせられ給ひし者に適き、神のために實を結ばん爲なり』(ローマ七・四)と言えるごとくである。
そして今、私共は進んで聖ヨハネの言うところを考えよう。
二、キリストの血は心を罪より浄む
『もし神の光のうちに在すごとく光のうちを步まば、我ら互に交際を得、また其の子イエスの血、すべての罪より我らを潔む』(ヨハネ一書一・七)
私共はパウロの書翰を去ってヨハネの著書に移れば、そのうちにはいずこにも「キリストと共に十字架に釘けられ、彼と共によみがえらされた」というような言い表しのないことに気付く。ヨハネには、十字架上に、また墓の中に、キリストと一つにせられるという思想は全然見られぬ。かかる観念は全くパウロ的である。さればヨハネは決して聖化の主題を取り扱っておらぬと推論すべきかと言えば、たしかにそうでない。私共は彼が他の言辞、また他の比喩を用いることを見る。パウロが十字架によって罪の体の亡ぼされることを語るところを、ヨハネはキリストの血がすべての罪より浄めると語り、パウロが私共の甦ってキリストに嫁ぐことを語るところで、ヨハネは愛が全うされることを言うのである。
ヨハネは言う、『もし罪なしと言はば、是みづから欺けるにて眞理われらの中になし。もし(罪なしと言わず、かえって)己の罪を言ひあらはさば、神は眞實にして正しければ、我らの罪を赦し、凡ての不義より我らを潔め給はん』と。
旧約の儀型学において、身代わりの死による聖潔の教訓ははなはだ明瞭である。罪祭、癩病人の潔め、活ける鳥に血を灑いで空に飛び去らしめること、民の上に灑がれる血、汚れた者に灑ぐ牝牛の灰水などはみな、エジプトの鴨居に灑がれた血よりは別の、また一層深い、キリストの受難の効果を語るのである。エジプトの門口の柱に灑がれた血(出エジプト記十二・七)、契約の書に灑がれた血(ヘブル九・十九)、祭壇に灑がれた血(出エジプト記二十九・十二)、贖罪所に灑がれた血(レビ記十六・十四)などがみな驚くべき恩恵を語っていることは事実であるが、民の上に灑がれる血は、心の上に働く主イエスの血を語るので、その血が『すべての罪より我らを潔む』ること、そして彼のご自身の民を潔めて、御自ら潔くありたもうごとく、潔からしめんために死にたまえることを、私共に悟らしめるものである。これは福音の心髄で、新しき契約の中心的祝福である。
私は知る、多くの神の子供等は、いかなる意味で私共がキリストの血によって聖くなされるかを了解しがたしとする。私共の称義のための贖いの御業、私共の聖化のためのその御霊の内住は容易に理解されるが、彼の血を流したまえることによって私共が心中にて聖なる者とせられるとは、いかなる意味においてであるかと問う。この困難は幾分罪の性質に関する無知から起こる。多くの人の心には、罪とは単に間違ったことをなし、間違ったことを考え、間違ったことを語った行為と看做される。この見解に従えば、聖霊は無論私共を誘惑に陥らぬように守り、かかる意味での罪よりの自由を守り得たまい、そして私共が罪を犯すならば、有罪感と定罪のすべての汚れを去るためにキリストの血は有効である。けれどもこれは罪についても聖化に関してもはなはだ不完全な見解である。真理はこれである。すなわち神の御言葉にては、罪そのもの(複数の罪、また罪を犯しつつあることと区別して)は『罪の體』『肉の念』などのごとく一つの霊的本質として言われている。それゆえに聖化はその主要なる意味において、この本質の破壊、その汚す存在と能力から私共の性質が道徳的に浄められること、霊魂の現実の医癒、内部の腐敗性の除去である。いかなる意味において私共がキリストの血によって聖くせられるかを理解する、それ以上の困難は、象徴的言辞を認めそこなうところから起こるのである。トマス・クックは次のごとく書いている。
「或る人はこの浄めがイエスの血を通してであるのはいかにしてであるか了解しあたわぬゆえに、私共が象徴的言辞を用いるよう余儀なくされていることを説明する必要がある。私共は『血をもって満たされたる泉』について歌うけれども、私共みな、文字通りにかかる泉のないことを知っている。私共がイエスの血が罪より浄めると語る時にも、文字通りにイエスの血が心に塗りつけられていることを意味するのでない。その意味は、ちょうど主イエスが私共のために赦罪を可能ならしめたまえるごとく、その贖いの大いなる御業により私共のために罪よりの救い出しを完全に獲得し、買い取りたもうたということである。しかしキリストがかくその死を通して聖化の獲得因とも称うべきものでありたもうとはいえ、聖化の業そのことは聖霊のお働きを通して私共の内に行われるのである。(私共が血がすべての罪より私共を浄めると信ずる時に)聖霊は悪を排除し、愛をもって心を満たしつつ、聖化する能力をもって心に来りたもうのである。それはちょうど私共が赦罪を信じ、神の家族に受け入れられる時に、聖霊が生まれ変わらせる力をもって来りたもうごとくである」と。
神の御言葉のうち、恐らくはこのヨハネ第一書一章七節ほど多くの霊魂に完全な救い出しを与えたものはないであろう。この証は多い。事実、この大いなる嗣業に入ったほとんどすべての人は、この聖句を彼らの救い出しの大憲章のごとくに語っている。かの偉大なる善き夫人フランシス・リドレー・ハヴァガルもこの『貴き大なる約束』(ペテロ後書一・四)によって安息に入った。彼女は「もしこの『すべて』がすべてを意味しないならば、それは何を意味するであろうか」と叫んでいる。私共は『斯のごとき大なる救』(ヘブル二・三)について語る証人をどんなに多く呼ぶことができることであろうぞ。けれども紙面が許さぬからここにただ一つの例を挙げる。この人は数千の人に自由と喜びを与えるために神の大いに用いたもう人である。彼はいかに神が彼に大いなる必要のあるかを覚らしめ、いかにすべてその心の悪を示したもうかを語り、なお続けて言う。
「その時、神は直接にわが霊魂に語りたもうた。それはわが目を通し、印刷された言葉によってではなく、その聖霊によって『もし己の罪を言ひあらはさば、神は眞實にして正しければ、我らの罪を赦し、凡ての不義より我らを潔め給はん』と語りたもうた。はじめの方の赦罪は私が既に知っていたところであるが、浄めに関する終わりの句は、私に一つの啓示であった。……この語に力があった。私はわが手の中に頭を垂れて『父よ、わたしはこれを信じます』と申し上げた。その時、一つの大いなる安息がわが霊魂に来た。そして私は浄められたことを知った。その瞬間に『永遠の御靈により瑕なくして己を神に獻げ給ひしキリストの血は……活ける神に事へしめざらん爲に……我らの良心を死にたる行爲より潔め』た(ヘブル九・十四)。されど神は私のためにさらに大いなることをなさんと思いたもうた。次の火曜日の朝、熱心に神を求める心に満ちて起き出でると、ラザロの墓にてイエスの仰せられた『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも活きん。凡そ生きて我を信ずる者は、永遠に死なざるべし。汝これを信ずるか』(ヨハネ十一・二十五、二十六)という語を読んだ。『別の助主』(同十四・十六)なる聖霊がこれらの言葉のうちに在した。直ちにわが霊魂は主の御前に、火の前の蝋のごとく熔かされ、そしてイエスを知りまつった。彼はその約したまえるごとく、わが衷に顕れたもうた。そして私は言い表し得ぬ愛をもって主を愛しまつった。私は泣いて拝んだ。そして愛し、愛し、愛しまつった。私は朝食前、ボストン郊外地にて歩んだが、なおも泣き、拝み、愛しまつり、天の住まいについて語った!‥‥‥わが霊魂は満足し、満足し、満足した」と。
神に感謝しまつる。私共はかくのごとき多くの証人をなおも呼ぶことができる。けれどもいま私共は聖書を探りつつある。そして次に聖ペテロの言えるところを問うことにする。
三、キリストの受難は霊魂を癒す
『汝らは彼の傷によりて癒されたり』(ペテロ前書二・二十四)
パウロがキリストの十字架について多く語り、ヨハネがキリストの血について語るところに、ペテロは繰り返してキリストの苦難を高調している。そしてここに彼はキリストの傷によって霊魂に完全な医癒のあることを私共に告げている。心のこの完全な医癒は、罪の体の亡びること、或いは性質の全く浄められることの別名である。霊魂の医癒の思想は聖書に極めて普通であり、格別に旧約聖書に一層多くある。預言者イザヤは『その頭はやまざる所なく その心はつかれはてたり』(イザヤ一・五)と言い、エレミヤは『心は萬物よりも僞る者にして甚だ惡し(病めり=英改正訳)』(エレミヤ十七・九)、また『かれら淺く我民の女の傷を醫し』(同六・十四)などと言っている。なお多くの他の箇所を引証することができる。
主イエスの奇蹟はまた、それを霊魂の比喩として学ぶ時にこのことをはなはだ明瞭にならしめ、主が大いなる救い主にてありたもうと共に、大いなる癒し主にて在すことを私共に思わしめる。
この見解にははなはだ私共を慰めるものがある。一方面からは罪は一つの病気として考えることができる。すなわちそれは第一に私共がそれに罹ることに責任を持たぬ病気のごときものである。『一人の不從順によりて多くの人の罪人とせられし』(ローマ五・十九)である。されば主は『我もその不義を憐れむ』と仰せたもう(ヘブル八・十二、エレミヤ三十一・三十四)。医者はその患者の横面を打ったり、その不注意を叱りつけてその取り扱いを始めるようなことをせぬ。『イエス憫みて、手をのべ彼につけて「わが意なり、潔くなれ」と言ひ給ふ』(マルコ一・四十一)とある。遺伝の腐敗性である罪は霊魂を病ましめるが、主は癒すために臨在したもうのである。そしてペテロはこの医癒の成し遂げられるは、主の打たれたまえる傷によることを思い起さしめる。すなわち私共の良心は主の傷に医癒を見出し、私共の意志は主の苦難によって癒され、私共の錯乱した愛情は主の受難によって癒され、私共の願望は主の打たれたまえる傷によって癒され、私共の思想の泉は主の血管より流れる血によって癒されるのである。
私共の愚かな罪深い思いが永久に潔められ得るために、ただ憐憫と愛と真のみを思うた聖きみかしらが棘の冠をかぶせられたまい、ただ善のみを人々に施したもうた頌むべき御手は、わがこの手が貪欲から自由にされるために刺され、ただ憐憫の使命のみに歩みたもうた御足は、わがこの足がその勝手気ままなさまよいから救われるために、残酷な十字架に釘づけられたまい、ただ慰めと恩寵と真理のほか何をも語りたまわなかったその潔き唇は、わがこの唇がその愚や誇りや罪から浄められ得るために、はなはだしい渇きに干上がらせられたまい、その美わしい御顔は、しばしば怒りや不平や傲慢に曇るわが顔の、ご自身のそれのごとく静穏になり得るために唾せられ、血をもって汚されたまい、その潔くして汚れなく天の愛に満たされた主の神々しき心臓は、わが心がその最も貴き血にて浄められ得るために、兵卒の槍に突き刺されたもうたのである。
ここにその苦しい病の自覚に深く悩んだ一人の人の証がある。その人はレジナルド・ラドクリフ氏である。彼はかつてその妻に書き送って次のごとく言っている。いわく、
「私はちょうどわが霊魂はサタンによって咬まれ刺され、そしてその有害な舌がわが霊魂の隅々まで、その苦い毒素をもって浸潤するごとく感ずる。奇蹟的の浄め、すなわちイエスの活ける、生命を与える血のほか、何ものも私を浄くすることはできぬ。私はサタン来の注射を受けている。主イエスがその血のうちに我を浸したもうことのほか、何ものも私を浄くしあたわぬ。されども感謝せよ! しかり! 悪魔が力を失って逃げ去る時に陰府の諸洞窟をしてわが叫びを聞かしめよ。主イエスの血は彼らより百万倍も強い。なんたる安全! なんたる要塞。波もこれを打つことの無益なるを知ってやめるのであろう」と。
しかり、神に感謝せよ。彼の打たれたまえる傷によりて、ラドクリフ氏のごとく私共もまた完全に癒され得るのである。
私共はこの章を終わらねばならぬ。そして私はここに私共の最も偉大なる聖徒の一人の文書より引用することは最も善いと思う。私はこの国(英国)においてヘスター・アンロジャース夫人にまさって神の聖化の恩恵の深い経験を持った者はないと思う。彼女はジョン・ウェスレーの最も忠実な保護者の一人であった。彼女は一友人に書き送って、次のごとく言っている。
「すべての罪より浄めるものはイエスの血である。浄めるものは、刑罰の苦痛でも、いかなる種類の苦行でも、私共の持てる何ものでも、既に受けた恩寵でも、私共が在りまた在り得る何ものでも、死でも煉獄でもない。否! 否! 私共の救いの全部を獲得する有効なる基因はキリストである。彼のみ罪を赦したもう。そして彼のみすべての不義より浄めたもう。そして唯一の条件は信仰で、それが敢えて信頼するその全能力に与るのである。
キリストの傷は開けおる
君と我とに、いま開けおる
キリストの傷は開けおる
そこを避け場と遁れ行け。
『神の恩惠を汝らが徒らに受けざらんことを更に勸む』(コリント後書六・一)。そして恐れつつ罪と汚穢を清めるために開かれたる泉に飛び込むことを急がしめよ。そして私共も彼の撃たれし傷によりて全く癒され、パウロと偕に『我には我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。之によりて世は我に對して十字架につけられたり、我が世に對するも亦然り』(ガラテヤ六・十四)と言い得るまで休まざらしめよ」と。
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