第十三章 血による勝利



 『兄弟たちは羔羊こひつじの血……によりて勝ち』(默示錄十二・十一

 罪と汚穢けがれを清めるために開かれたる泉の深さは測度することができようか。人の子らに臨むすべての祝福はみなイエスの血によって確保されている。
 さて、この章の題目は勝利である。近頃、勝利の生涯について多くの書物が書かれているが、かかる生涯の秘訣は、珍しい言葉ではないが、やはりカルバリの十字架である。そして今この章の論ぜんとする範囲はキリストの三大敵、すなわち世とサタンと死に対する勝利である。
 ここに記憶しておくべき極めて大切なことがある。それは、神の御言みことばの何処にも、罪に対する勝利ということが約されておらぬということである。神はそれよりも更にまされることを約束したもうた。すなわち神は、罪に対する死と罪の滅びを私共に備えたもうた(ロマ書六・六)。神は私共の心と性質のうちに罪を留めおき、それに対して勝利を得せしめる思し召しではない。実に神はイスラエル人に月に一度ずつエリコと戦い勝利を得ることを期待するようなことをせず、かえって、彼らが外部からの敵を攻撃し得るように、エリコも、そのほかカナンの地にあるすべての敵を、全く滅ぼし尽くすことを命じ、またこれを保証したもうた。
 内住の罪に対してもその通りである。私共は前章において、神がその御子みこの十字架と流血によって私共のためにいかに備えをなしたもうたかを既に学んだ。『かくのごとくなんぢらもおのれを罪につきては実に(indeed =欽定訳)死にたるものと勘定せよ(reckon =欽定訳)』(ロマ書六・十一)。神に感謝せよ。神は事実その通りでないことをその通りと勘定せよとは仰せたまわない。ある日曜学校の小さい子供が、かつて、信仰とは『ほんとうでないことを信じようとすることである』と言ったということであるが、そんなことではない。されどこれについては既に語ったから、ここにそれを詳述することを要せぬ。
 私共が悪魔と世と死に向かって敢然と立ち向かい得るは、罪が既に取り扱われ、心から追い出されているからである。

一、悪魔に対する勝利

 『兄弟たちは羔羊の血……によりて勝ち』(默示錄十二・十一

 多くの霊魂は悪魔の誘惑について何も知らぬ。かかる人らはあまりにたやすく世と肉の誘惑に負けるので、悪魔はそれに多くの注意を払わぬのである。けれども彼らが、キリストの犠牲によって備えられた全き救いに入り、罪に対して実に死せる者、世に対しても実に死せる者となるや否や、悪魔は激怒と詭計と能力をもって攻撃するのである。
 霊魂のこの大敵は種々の比喩をもって描写され、私共に示されている。それを研究すれば彼の攻撃の方法が明らかになる。
 第一に、悪魔は、播かれた種子をついばみ去るために下りてくる空の鳥に比べられる。私共は、私共のために描かれおる第一の絵画において、『神まことに……言ひたまひしや』(創世記三・一)が私共の始祖に対する彼の最初の誘惑であったところに、彼の神の御言を啄み去る働きが見える。そもそも、神の御言なしには永続する信仰はあり得ぬ。これが取り去られるならば、そこに何もなくなる。
 彼はまた、霊魂を欺き惑わすとして描かれている。彼は全世界を欺かんと努めるのではない。人類は既に欺かれている。これは事実であるのに私共がそれを意識せぬのは、すなわち欺かれているのである。もし私共がそれを意識しておったならば、欺かれるべきでもなく、欺かれることはできもせぬのである。
 彼はまたその咆哮によって恐れしめるところの獅子たとえられている。私共が恐れて力を失っている時に、私共はあわれ彼の餌食となり、その貪り喰らうところとなるのである。
 彼はまた光の御使みつかいと言われている。原始の天使のごとく美わしく魅力ある者で、贋者にせものとして人の身体に仕えて破滅に至らしめ、虚偽の使言を齎して霊魂を誘い滅ぼすのである。
 彼はまた私共を神に訴える告訴者と呼ばれている。
 はまた彼の名の一つである。彼は御霊みたまによる私共の聖化を拒み、また反対すべく、神の御前みまえに立つ。
 大いなる龍はまた彼の一つの名である。すなわち『盗み、殺し、亡さんと』(ヨハネ十・十きたる残酷無情なる、霊魂の殺戮者である。
 虚偽いつわりの父もまた彼の称号の一つである。彼はすべての欺瞞、虚偽、不真実の出る水源である。その能力に抵抗し、その詭計を覚り、その罠を逃れ、その虚偽を看破し、その告訴の潮流を止め、その幻惑から救われ、悪のこの傑作なる彼の欺きから自己を救い出すことは、この弱小なる人の子らにいかにしてできようか。されど感謝せよ、そこに小羊の血による勝利と救いがある。
 私共は、聖書のうちに私共に与えられおる種々の称号によって暗示されおるサタンのすべての性格を語るには、ここに十分の場所を持たぬ。
 けれどもキリストの血によって私共に保証されおる勝利の二つの筋道を記さんと願う次第である。
 悪魔の私共を攻撃する時と、私共が悪魔を攻撃する時とがある。私共がこの二つの区別を覚えることは死活的要件である。
(一)悪魔が私共を攻撃する時。
 主が荒野あらので受けたもうた試錬は、サタンの誘惑の最も痛烈な仕方を最もよく私共に示している。主イエスは、今し聖霊の降臨と天よりの声を通して聖父みちちよりその聖子みこたるあかしを受けたもうた。悪魔は必ずやその箭筒やづつを充分調査したことであろう。彼は神の聖子と致命的戦争を戦うのであるから、最も強烈な、最も高速度の、最も正確なを撰ぶ必要があった。しかしてここにそれがある。『試むる者きたりて言ふ「なんぢ」』(マタイ四・三)と。彼の攻撃の要点は、彼の神の子たる確信を彼よりじ取り、神に対する彼の全き信頼を彼より奪うこと、すなわち最も致命的な点において彼を傷つけることであった。これはすべてサタン来の誘惑の極印である。これは彼の傑作である。悪魔すなわち誹謗者は彼の名であり性質である。彼はヨブの時になせるごとく私共を神にそしり、エデンの園でなせしごとくに私共に神を誹る。彼は迫害する仇であるとともに、常に訴える告訴者である。されど神に感謝せよ、主イエスは常に彼に反対して私共のために弁護したもう。しかして悪魔は私共に神をいるけれども、キリストは私共の鈍い暗い心に対して幸いなる神の説明者にして在すのである。私共は私共の分として、小羊の血と私共の証の言葉によって彼に勝つべきである。
 『神言ひ給ひしや』『神し得給ふや』『今彼等の神は何処いづこに在すや』、これらは彼の暗示する諷刺の見本である。おお、烈しい思い、つぶやく精神、神に対する奴隷的恐怖! これらはどこから人の心に入り来ったであろうか。誹謗者なる悪魔がそれを入れるのである。彼こそすべて私共の恐怖疑惑の原因である。
 しかして勝利の秘訣は何処にあるかと言えば、私はこれに答えて再び繰り返し言う、『羔羊の血』と。
 私共は私共の仇を認めまた知ることを要する。すなわち『仇のなしたるなり』(マタイ十三・二十八)ということを知り、しかして彼の恐れる唯一の武器をもって彼に対することを要する。彼は十字架上に打ち破られ、掠奪され、なお十字架において畏縮し、口ごもり、げ去るのである。
(二)私共が悪魔を攻撃する時。
 ここには、私共が前に言ったところとは全然違った場合がある。
 もし私共が攻勢を取り、敵の陣地において彼に出会し、彼の意のままにとりこにせられおる霊魂をその権力から取り出そうとするならば、私共が実に神の武具を要するは想像しがたいことではない。
 この攻勢の態度はもちろん祈禱と執り成しの戦いである。私共は、ただ悪魔が私共を攻撃する時に彼をふせぐためばかりでなく、彼の国の中心地に討ち入り、執り成しとイエスの御名みなに対する信仰によって捕虜を解き放つことをなすよう召されているのである。
 聖書を通じて、私共は祈禱の場所におけるこの戦の絵画を見る。
 霊魂のこの敵が最も執拗に、最も時間通りに出て来るのは、祈禱の場所である。私共はそのほかの何処でも彼に会わぬにしても、祈禱の場で彼に会うことは確かである。『がために仇をさばきたまへ』(ルカ十八・三)とは祈禱における人の叫びである。預言者ゼカリヤは、大祭司が執り成す者たるその職掌的資格をもって万軍の主の御前みまえに立つ時、彼の仇がこれに反対する様を劇的に詳しく描いている(ゼカリヤ書三章)。彼は宝座の前に座を占めて、私共の近づくことに反対する仇である。
 使徒パウロはエペソ人に書き送ったその大書翰をば『惡魔のてだてに向ひて立ち得んために、神の武具をもてよろふべし』(六・十一)という勧めをもって結んでいる。彼はこの終わりの章に至るまで、戦のことには何の言及するところもなかったが、彼らと別れる前に当たって、戦について彼らを警戒するのである。そのために彼は三重の武装につき彼らに語っている。第一は『主にありて……强かれ』(六・十)で、それは第一章に記されおるところの、私共を引き上げキリストの内におらしめるところの力に関しており、第二は『の大能の勢威いきほひりて强かれ』()で、第三章に記されおるところの、御霊みたまを降し、キリストを私共の内におらしめたもう力に関している。しかして第三は『神の全ての武具をもて鎧ふべし』(六・十一=欽定訳)である。何故なれば、たとえ私共がキリストの内におり、またキリストが私共の内に在しても、私共の敵に対して連続的に勝ちを得んと思うならば、暗黒の諸権との闘いにおいて、神の全武具をもって鎧うことは私共に必要のことであるからである。パウロは武具の種々の部分について語ったのち、『この他(或いは「その間に」)なほ信仰のたてを執れ、これをもてしき者のすべてての火矢ひやを消すことを得ん』(六・十六)と言っている。前の諸節において、彼は私共の戦が悪の様々の政治権威との闘いであることを暗示しているが、ここでは格別に悪魔そのものと彼の火箭ひやに関して言うのである。
 さて『消す』という語は、彼は盾について語っているけれども、水、或いは何か流動物を暗示している。『信仰の盾』ということにつき、或る人は信仰がすなわち盾であると想像するけれども、そうではあり得ない。盾はサタンの火箭を禦ぐために信仰の手が握って差し出すところのもので、それはイエスの血のほかの何ものでもない。それによってその火はことごとく消され、その毒は効力を失い、その能力はその的を外れるのである。
 ここにパウロが言うところの戦闘は祈禱における闘いである。彼は武具の一つ一つを数え上げ、それを取りまた『鎧ふ』ことを勧めた後、その戦場を明示して『常にさまざまのいのりをなし』(六・十八)と言っている。私共が仇に会って、イエスの血を用いるのは、主との交わりと祈りの隠れた場所においてである。これによって、ただこれによってのみ、私共は燃やし、刺し、かくして希望と信仰と確信のすべての隠れた泉を毒する火箭を消し得るのである。
 私共が祈る時に、しばしば感ずる敵の執拗な反抗の障壁、感情の遅鈍、私共の神の沈黙、接近の困難、祈禱の無益を思わしめること、また、密室を求める時にいつも介入し来る妨害など、みな敵の反対である。けれども救い主の流血の確保する一切を断乎として提出し、信仰をもって懇願すれば、私共はこれによってすべてを打ち破って進み、敵を逐い返し、戦闘において勝ち得て余りある者たることができるのである。
 おお、ねがわくは、いにしえのアベルのごとく『まされる犧牲いけにへを神に獻げ』(ヘブル十一・四)ることをこそ。しかり、私共の願うは、それにつき語るでなく、それにつき歌うでなく、それを信ずるでなく、それについて読むでなく、それにつき説教を聞くでなく、それを理解するでなく、それをば神の御前に提出し、それを言い張ること、すなわちそれを主に献げ、悪意に満てる私共の敵の告訴に対してそれを主張し貫き得んことである。
 ただその犠牲の能力と私共の敵の能力を信ずる活ける信仰は、私共をしてアベルの跡を踏むことを得せしめ、かつ彼のごとくその犠牲の効力に対する信仰を通して、敵が打ち破られ、私共の受納が全うせられ、確かにせられたとの証を得せしめるであろう。

二、世に対する勝利

 『我には我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。これによりて世は我に對して十字架につけられたり、が世に對するもまたしかり』(ガラテヤ書六・十四
 『世に勝つ勝利は我らの信仰なり』(ヨハネ第一書五・四

 キリストは『我らを今のしき世より救ひ出さんとて』(ガラテヤ一・四)死にたもうたと、使徒パウロは語っている。私共は世をいかに描写すべきであろうか。肉の慾──眼の慾──所有の誇り──妖術──魅惑──偶像、すなわち私共と神との間に入りきたるものの何物でもそれは世である。それは無罪の服装を着、私共の最善の者の音調で語るかも知れぬ。けれども、それが見えざるものを更に非現実にならしめ、キリストの十字架をしていよいよ心を惹かざらしめ、天をしてますます遠いものとならしめるならば、それは私共にとって世というものである。誰がそのものの力、すなわち『世にる慾(すなわち願望)の腐敗(corruption=英訳)』(ペテロ後書一・四)を知りまた感ぜぬであろうか。
 使徒ヨハネは、勝利は信仰を通して私共に保証されているという。しかし何を信ずる信仰かと言えば、パウロはそれに答えを補い、十字架に釘づけられたまえる御方を信ずる信仰であるという。すなわち彼は『我には我らの主イエス・キリストの十字架のほかに誇る所あらざれ。これによりて世は我に對して十字架につけられたり』(ガラテヤ書六・十四)と叫び出すほど、勝利の経験は極めて現実にまた完全であり、かかる勝利に達し得たるその手段もまた明瞭に理解されていた。パウロは言う、世とすべてその魅力、そのほまれも名も富も楽しみも、またその安楽と魅惑も、死刑に処せられさらし者にされたしかばね! 永久に顧みるべくもないもののほか何でもない。しかして、かくなったのは何ら自己の奮闘努力の結果でなく、十字架上の流血苦難が信仰によって理解され、領有された時、それを通して得られたのであると。これが『世に勝つ勝利』である。ハレルヤ!
 しかして世に勝つとはこれよりもなお多くのことを意味する。すなわち、世が驚くべき魅力を持つことは真であるが、一方、世はまた恐れしめる。すなわち世はその崇拝者には天鵞絨ビロードの手を差し出すけれども、その崇拝者が一朝その支配から叛き出て、面と向かってそれを刑死の屍と呼ぶならば、その崇拝者はかくなすことが何を値するかを直ちに知るであろう。すなわちその天鵞絨の手袋の下には鉄拳があるのである。
 しかり、世を恐れる恐怖は、世を愛する愛よりもさらに大いなる危険であるが、これにもまた勝つのである。パウロは主イエスの十字架を通してそのいずれの方面にも等しく救いと勝利を見出した。彼は、彼が小羊の血に依り頼んだ時に、すなわち今のこの悪しき世より彼を救い出さんとて死にたもうた十字架の救い主を信仰によって見まつった時に、世に対する嘆美も恐怖も共に消え去ることを見出したのである。しかり、ただ信ぜよ、しかしてなんじの信ずるごとく汝になるべし、である。

三、死に対する勝利

 『これは死の權力ちからつもの、すなはち惡魔を死によりてほろぼし……給はんためなり』(ヘブル二・十四
 『「死よ、なんぢのかち何處いづこにかある。死よ、なんぢのはりは何處にかある」……感謝すべきかな、神は我らの主イエス・キリストによりて勝を與へたまふ』(コリント前書十五・五十五、五十七

 サタンとの闘いにはなお多くの局面があるけれども、私共はそれらを通り越して、いま彼の最強の要塞を共に考察したい。このところにて彼に勝ち得る者こそ実に勝利者である。ここ死のかげの谷は最暗黒のところ、サタンの能力の座である。しかもなおここにおける彼に対立する勝利ほどに完全で栄光あるものはない。
 神の最も偉大なる聖徒であり、悪魔の最も強い敵手であった人々の臨終の光景は、神の光明をもって輝き、讃美と喜悦をもって響き渡っているのである。
 かかる場合を見舞い、その勝利の秘密を尋ねれば、いずれの場合にも、それはイエスの血における信仰であった。主のための奉仕に最も有力であった人々は、しばしばその最期の時に最も激烈な闘いを経験するけれども、イエスの血を繰り返し訴えて、霊魂の平和静穏という大いなる豊かなるところにまで通り抜け得ることを見る。初代メソジスト信者の一人で、有名なキリストのしもべ、ジョン・スミスについて次のごときことが書かれている。彼の最期の時におけるサタンとの闘いは実に怖るべきものであった。彼の非常な能力と権威をもってサタンに呼びかけ、「我は主の宝血のわがために有効なることを信じ、わが霊魂を主に投げかけ、贖いに依り頼む。しかしてサタンよ、我はなんじを拒否する! 我はわが霊魂をイエスに委ねまつり、汝を拒否する。汝は我を害しあたわぬ。サタンよ、イエスの御名みなによりて汝を拒否する!」という語をもって結んだ。このはなはだしい闘いは十時から朝の三時まで大声の苦しい叫び、呻き、祈りをもって続いた。彼が見、彼がいと感傷的な声をもって「イエス、イエス、イエス、助けたまえ」とたびたび引き続いて叫ぶを聞くは実に辛いことであった。されどついに救いが来た。敵は打ち破られ、平和は帰って来た。そのとき彼の心は神の御顔みかおの光のうちに、その喜びを妨げられるところがなかった。
 死に対する勝利の証拠は戦場における軍人らのあかしにまさる驚くべきものである。ウェスレーの下に起こった大リバイバルはフランダースの戦場における暴飲暴誓の英国軍にまでも及んだ。その物語はすでにほとんど二世紀も前のことながら、今日のことのごとく新しく聞かれるのである。
 されば、フォントノワやゲッティンゲンの血戦場から語るその証を聞こう。ここに千七百四十四年に書かれた、戦場の淋しい歩哨についての証がある。「夜の十二時から或る危険な場所に歩哨に立つことが私の当番であった。私が一人になるや否や、そこにひざまずいて、神が私を憐れみたもうまで立ち上がるまじと決心した。どのくらいの間、わたしが苦闘を続けたかわからぬが、私が天を見上げていた時に、雲開けて天の非常に輝きおるを見、しかして十字架にかかりおりたもう主イエスを見まつった。その瞬間に『汝の罪ゆるされたり』(ルカ五・二十)という語がわが心に当て嵌められた。そしてわが鎖は落ち、わが心は自由になり、わが霊魂は言うことのできない平安をもって満たされた。私は神を愛し、すべての人を愛した。しかして死と陰府よみの恐怖は消え去った」と。
 またほかの一人の書いているのは、「最近の戦の数日前に、天幕の前に立っていた一人が、自分の世を去ることの近いことを知って、狂喜に溢れ、戦友の前に跳ね出すほどに神の愛に満たされていた。戦闘中、彼は『わたしはわが労役をやめて、イエスのふところに休もうとしている』と公然と語った。私は、私共の軍隊のごとくかくも悪い軍隊の内、未だかつてかかることのあったを信じないが、普通の兵士も士官らも驚かしたほどに、この小さい軽蔑された群れのうちに戦における大胆があった。しかして彼らは今日に至るまでそれを認めている」というのであった。
 ほかの者も、「(戦争中の)終日私は元気旺盛であり、ちょうど、説教でも傾聴しているごとく、心も落ち着いていた。私は生も死も願わず、神にあって全く幸福であった」と書いている。
 いま一人は「かくのごときものが、当時軍人の宗教であった。……その時代は考えた、この生活状態が、神を愛し神に仕える唯一の状態で、どう考えてもこれを変えたいほかの状態はなかった」と書き、ほかの一人は「W・クレメンツが小銃弾でその腕を折られた時、人々は彼を戦から外へ連れ行こうとしたが、彼は『否、私には左の腕が残っていて剣を取ることができるから退かぬ』と言った。第二の弾丸が今一つの腕を折った時、『いまわたしはパラダイス以外に感じ得る最も大きな幸福を感ずる』と言った。ジョン・エバンズは大砲の破裂弾で両脚とも撃たれ、砲の向こう側に倒れていたが、彼がものを言い得る間、喜ばしき唇をもって神をめていた。私自身としても、ほとんど七時間、敵の最も烈しい砲火を浴びた。……戦闘が烈しくなればなるほどますます力が与えられた。私はわが堪え得る限りに喜びに満たされている」と書き、なおほかの人は「私が戦場を去ろうとする時、手に小皿を持って水を求めている一人の兄弟を見た。初めに私は彼が血みどろになっておるを知らなかった。彼は笑顔をもって『ハイム兄弟、ぼくは大きな傷を受けた』と言うから、私は『君の心にキリストを受けているか』と問えば『受けている。この終日キリストを持っていた。ぼくは神に恵まれた多くの善き栄光ある日を見たが、今日にまされる日を見たことはない。神の憐憫のゆえに、栄光神に在れ』と言った」と書いている。
 これらは幸いなる勝利の巻頭文字に過ぎない。かかるものがその企図とそのために払われた価とのいずれにも実に相応しいことどもである。たしかにキリストの勝利の偉大さに何の際涯もない。
 さて、これら偉大なる人々の霊の父たるジョン・ウェスレー彼自らは、いかにその最後の大敵に出会したであろうか。彼は二度この大敵に直面したが、いずれの場合にも彼の訴えたところは同じことで、
  我は罪人つみびとのかしらなり、
  されど、イエスわがために死にたまえり。
であった。
 もし誰でも、神の僕として、その他の武器を用いる理由を持つならば、すなわちそれが主への奉仕においての犠牲と苦難の生涯、比類なき成功の生涯、限りなき労苦の生涯、克己聖潔の生涯、平静にして神の恩恵に輝く生涯などを訴えることであったならば、確かにジョン・ウェスレーはそれを持っていた。されど彼はこれらの何一つも考えることさえしなかった。彼の唯一の訴えは、贖い主の万事具足した贖いの血であった。しかして彼はこの武器をもって打ち勝ち、「一切にまさる、いときことは、神われらとともに在すなり」の一語をもって敵のすべての能力に勝利を得、かくも忠実に仕えたる彼の神の御許みもとに凱旋したのである。救い主なる「イエス」もまた最後の大戦闘において「インマヌエル」(神われらと偕に在す)にてありたもうことを証拠立てたもうた。
 されば、私共の信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、小羊の血をたのんで悪魔をくだく信者には、かく生涯における勝利、死における勝利が保証されているのである。



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