第十四章 血による生命



 『それわが肉はまこと食物くひもの、わが血は眞の飲物のみものなり』(ヨハネ六・五十五

 私共は今、すべての奥義の中の最も深い奥義である、信仰によって神の御子みこの犠牲を食するという奥義を学ばんとしている。すなわち内なる人を養い、新鮮ならしめ、強め、また清める、贖い主の生命の血を、私共の霊魂の中に消化し、同化することである。
 ここに掲げた聖句の取られた聖書の場所より見れば、これが聖餐式に関する御言みことばであるという思想は永久に排斥すべきである。たとえ私共がここに語るところの恩恵が、聖餐式を通していくぶんか信ずる霊魂に与えられるとも、最も一般にそれが持ちきたらせられるは、主の御言を信ずる信仰をもって黙想し、祈り深く適用することを通してである。主の語りたもう御言は霊であり生命であるのである。
 ついでに注意しおく必要のあるのは、旧約と新約の著しい相違、すなわち旧約の下では血を飲むことは厳重に禁じられているけれども、新約の下では、主が『なんぢら皆この酒杯さかづきより飲め。これは契約のわが血なり』(マタイ二十六・二十七、二十八)と命じたもうたことである。
 さて、飢えることと渇くことは異なったことである。そのごとく、食物を取ることと飲み物を取ることは別である。『我にきたる者は飢ゑず、我を信ずる者はいつまでも渴くことなからん』(ヨハネ六・三十五)。彼の肉を食することとその血を飲むことには、二つの相異なる結果が伴うのである。食物は肉体を強くし、筋肉精力を作り立てるが、飲み物は体の組織を清め爽快にする。
 そこに彼の肉にあずかること、彼の血を飲むことがあり、それによって飢えも渇きもなくなるのである。
 しかして食することと飲むことのいずれか一つを語っても、両方ともに語っても、私共はそれを消化吸収すること、すなわち十字架上における主の御業みわざを信仰によって意識的にわがものと受け取ることを意味するのである。私共が恵みに成長し、霊的生命に強くなり、天的確信と喜悦の葡萄酒に満たされるは、御言を通し、信仰によってこの御業を食することによってである。
 主イエスがその復活ののち、エマオの途上にて、驚き怪しむその弟子等にカルバリにおけるご自身のお苦しみの意味と能力を開示せんと欲したもう時、主が何らの媒介なしに直接にすべてその経過のことども、苦難と目的、聖父みちち御顔みかおを隠されたこと、罪を負いたもう霊的の痛苦とその秘密などを語り聞かせたもうことを期待すべきであろうか。否! 彼はただ御言を通して彼らに語ることを欲したもうのである。
 彼らは今、旧約の型の実体、活ける原型なる御方と顔を合わせて立っているけれども、主はその贖いの御業とその必要を描写し開示するために、書きしるされたる聖言みことばを用いたもうた。すなわち影を通して本体を顕し、型を通してその原型の現実を示したもうたのである。
 私共は彼らと別の仕方で教えられるべきであろうか。たしかにそうでない。もはや私共も肉によりてキリストを知るべきでない。私共をして型に立ち帰らしめ、そこで信仰によって彼の肉と血を飲食することは何を意味するかを、聖霊を通して学ばしめよ。
 モーセの五書には、主イエスの贖いの御業を示す七重の絵画がある。すなわちそれは、出エジプト記に一つ、過越の物語、レビ記に五つ、神の民の礼拝のための五種の犠牲、民数記に一つ、けがれを受けたる信者のための赤き牝牛めうしの灰のことである。
 これらの血の献げ物のうち、ただ三つだけが、献げた者にそれを食し、与るよう命ぜられている。私共はこれを祈り深く研究することによって、救い主がご自身の肉を食し、その血を飲むことを命じたもうたご命令の意味をいくぶん学び得るのである。
 ヨハネ伝第六章に与えられている主の著しき御教説のうちにもまた、その御肉と御血に与ることより来る三つの幸いなる結果が示されており、しかしてこれらがまた旧約の型と完全なる一致をなしおることを見出すのである。

一、永遠の生命

 『わが肉をくらひ、が血をのむ者は永遠とこしへ生命いのちをもつ』(ヨハネ六・五十四

 犠牲を献げる者がその犠牲を食するように命ぜられている三つの場合の第一は、エジプトからの出発の時においてであった。小羊はほふられ、その血は門口の柱にそそがれ、圧政の下に奴隷にされている民は直ちに旅立ち得るよう、腰ひきからげ、十分用意して、その小羊を食らうように命ぜられたのである。しかもこれを食するには、小羊を火にて焼いて食し、たね入れぬパンと苦菜にがなを添えて、急いで食すべきであった。これは、彼らが奴隷と苦難と死より遁れる時に、その旅路に堪え得るためであったのである。
 食するのは、の灑がれたその同じ犠牲ので、犠牲は同一であった。
 鴨居に塗られた血は安全と平安を齎し、肉を食することは旅のために力と慰めを与えた。信仰によって私共もまた、彼によって養われることができる。『我らの生命いのちなるキリスト』(コロサイ三・四)。なまで食べてはならない(出エジプト十二・九)とは暗示を含んだ命令である。生にて食するとは、神の小羊の肉体のお苦しみを痛々しく詳述することによって、彼の愛のありがたき記憶を私共のうちに惹起させようとすることを意味するもので、しばしば行われる無益な企てである。『水にてもくらふなかれ』(同)という命令は、私共が単なる知的理解によって私共の霊魂を養わんと求めることを戒めるのである。私共は、私共の無感覚になった心を衝動してキリストの十字架の苦難のありがたき記憶をき起さんと、しばしばこれら二つの方法のいずれかを試みた。されど悲しいかな、それは無益であった。食すべきは火にあぶりたる肉であった。これは私共にとって聖霊の火を意味する。何となれば、御霊みたまによってのみ私共は益を得るので、『肉は益する所なし』(ヨハネ六・六十三)であるからである。ただ聖霊が主の苦難と死のことどもを取って私共の心に当て嵌めたもう時にのみ、私共は信仰にて彼の肉と血に与り得るのである。
 鴨居に塗られた血は安全と平和の感を齎し、肉を食するこの大奥義の深い理解を私共に語る。感じると共に知り、信ずると共に理解し、主の贖いの愛を考察と黙想によって認識尊重することは、みなこの旧約の型を通して私共の霊魂に齎されるところである。
 さればこの血に与ることは、すべての悪と邪曲よこしまのパンだねよりきよめられたる心をもってであるべきである(コリント前書五・八)。またこの理解も黙想も(たとえ喜ばしき心にてであるとも)悔い改めと神をおそれる畏れの苦菜を添えてなすべきである。そして、おお、それを急いでなさしめよ。信仰は常に今である。
 『わが肉をくらひ、我が血をのむ者は永遠とこしへの生命をもつ』。永遠の生命とは、ただ墓の彼方の生命のみではなく、今ここで持つところの生命である。そしてこの世をばその愚と悪と共に後ろに遠く棄て去り、シオンの大路に向かい躍進する時に、楽しみと能力をもって霊魂を満たす、精力旺盛な、強力な豊かな生命である。願わくは、私共をして、謙遜な悔い改め、感謝、讃美のうちに、御言を通し、信仰をもって、過越すぎこしの小羊なる主イエスに与らしめよ!

二、内住のキリスト

 『わが肉をくらひ、が血をのむ者は、我にり、我もまた彼に居る。』(ヨハネ六・五十六

 さて、旧約の制度にて犠牲の肉に与る第二の場合は、犠牲を献げる祭司にその犠牲の肉を食すべく命ぜられる、レビ記第三章及び第七章による酬恩祭しゅうおんさいのそれである。燔祭はんさいの場合には全部が焼き尽くされるべきで、これを食することは許されなかった。けれどもこの酬恩祭の場合には、祭司はこれに与ることが許され、特別の分が祭司のために分かち置かれるのであった。キリストは私共の酬恩祭で、聖父みちちとの交際の場所である。
 その犠牲の一部は神へのこうばしき香の献げものとして壇の上にて焼き尽くされ、一部は献げる祭司に与えられた。『我その内に入りて彼とともに食し、彼もまた我とともに食せん』(默示錄三・二十)との恵み深い約束がここに型で予告されているのである。
 ヨハネ第一書一・三に使徒ヨハネは、まず聖父との交わり、次に聖子みことの交わりの二重の交際について語っている。聖子とは失われた世界、贖われた教会についての交わり、聖父とはその生みたまえるひとり子についての交わりである。聖父との交際はいつでも聖子を中心とせねばならぬ。私共は聖子の肉と血をば信仰にて食し飲むことによって、かく交際を持つのである。
 『わが肉をくらひ、我が血をのむ者は、我に居り、我もまた彼に居る』。この内住のご臨在によって、私共は永遠の命をもつことより更に驚くべき経験に入るのである。パウロはここにその秘訣を見出したので、『キリストが内にりて生くるなり。今われ肉體に在りて生くるは、我を愛して我がためにおのが身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり』と言っている(ガラテヤ書二・二十)。
 要するに、彼は十字架につけられたまえるキリストに対するわが信仰のゆえに、復活し昇天したもうキリストがわが内に生きたもうと言うので、ほふられたもうた小羊の肉と血を食することにより、けるキリストのそのうちに住みたまい、また彼のキリストの衷に住むことを、彼は見出したのである。
 そして酬恩祭の犠牲の祭司に与えられた分は、肩と胸、すなわち能力と愛情の座であった。これが私共の受ける分で、私共もまたこの交際の中に、平和の神が、実に私共を祝すべく、私共とともいますことを覚えつつ、まったき平和のうちに彼の力と愛に養われることができるのである。
 おお、願わくはこの学課をよく学びたらんことを! 私共が意識的に信仰によって彼の肉と血を消化し吸収する時にのみ、キリストは意識的に私共の衷に生き得たもうのである。彼の血における瞬間瞬間の信仰は、彼の内住の瞬間瞬間の確信を保証する。『わが伴侶等ともだちくらへ わが愛する人々よ 請ふのみあけよ』(雅歌五・一)。感謝をもって、信仰によりて心の中に彼を食しつつ、信じ続けることに固執せよ。

三、奉仕と救霊

 『我をくらふ者も我によりてくべし。』(ヨハネ六・五十七

 私は旧約の律法の下で、血の献げ物のうち食することを許されているものがただ三つであると言ったが、それは愆祭けんさい罪祭ざいさいを一つに数えたのである。もし愆祭と罪祭を別々に数えるならば、それは厳密に言って正確でない。しかしここで私共は愆祭と罪祭を一つにして考えることとする。
 燔祭は銅の壇の上で全然焼く尽くされ、酬恩祭は一部分はそこで焼かれ、一部分は食せられた。しかして罪祭と愆祭は一部分は壇上にて焼かれ、一部分は食せられ、一部分は営の外で焼き尽くされることであった。
 燔祭はそれを食することはできない。酬恩祭については既に語った。しかしていま罪祭について考えたい。或る制限の下に、それを献げた祭司はそれに与ることが命ぜられている。この犠牲の血が至聖所に携え入れられる時にはその犠牲に与ることはできない。進んでこれを尋ねるならば、これは罪祭が祭司自身の罪のためであるか、或いは会衆全体の罪のためである場合に、その肉を食することは禁ぜられたのである。されどこの犠牲が会衆の中のある個人、または牧伯つかさたる者の罪のためであれば、祭司はその食物に与ることが命ぜられている。祭司は罪を犯した礼拝者のために犠牲を献げるばかりでなく、また彼自らそれを食すべきであった。確かにここに、私共の大多数が何も知らない一層深い経験の型があるのである。或る有名な著者の次の言葉は大いに助けになる。
 「そこに兄弟の罪を自己の罪とし、あたかもそれを自ら犯したかのごとく、霊において、神の御前みまえにこれを負うということがある。このことがいときよき所にて罪祭を食するアロンの子らによって示されている。それは『祭司等のうちの男たる者は皆これをくらふことを得べし』(レビ記六・二十九)とあって、ただ男子のみがそれを食したのである。これは祭司の最高の奉仕であった。
 「私共はこれが霊的意義、またその適用に入るために、キリストに最も近くあることを要する。それは実に驚くべく幸いなる聖き勤めで、神の直接のご臨在の中においてのみ知られ得るのである。私共がそれについて知るところのいかに少なきかは、心が証し得る次第である。
 「或る兄弟が罪を犯した時、彼に対して審判の座に坐し、厳しい監督者の立場を取り、その罪を私共に何の関係なきことのごとく見るのが私共の傾向であるが、これは私共の祭司たる職能において悲しむべき失敗である。それはいと聖き所にて罪祭を食することを拒否するのである。誤れる兄弟の罪を自己の罪となし、霊において神の御前にそれを負うほどに、彼と自己を一つにし得るは、恩寵の最も貴きである。これはまことに祭司的奉仕のいと高き職分で、キリストの霊と御思みおもいの大量を要するのである」と。
 その罪が祭司自身の罪、或いは会衆全体の罪である場合には、罪祭を食することができないということを注意するは肝要であり、また教えられることである。罪祭を食することは、罪人つみびとが自己よりほかの人、また単に個人である場合にのみ、行われ得るのである。
 このところで私共の心に与えられる教訓は明らかで、それを敷衍して説くを要せぬ。私共自身の霊魂のために主の肉と血に与ること、すなわち私共の生命のために主に養われ、内住の救い主として彼を知りまつることは幸いであるが、なお私共は他人のために彼を食し、人々の罪のために信仰によってキリストの犠牲に入り、彼らの罪と赦罪のために時を費やし、信仰をもって嘆願することがここにあるを学ぶ次第である。『我をくらふ者も我によりて活くべし』(ヨハネ六・五十七)と救い主は仰せたもう。それは他人のために生きる力をキリストのうちに見出し、人々の霊魂のための私共の愛をば、みな彼の傷つけられた彼の脇より受けることを意味するのである。
 この聖き食物に与るは、幕屋のうちなる聖所にてなすべきことであった。何人なんぴとも、神の臨在の下においてのほかは、かかる饗筵にあずかることはできぬ。何人も、救い主の犠牲とその救治の力を共に感じて、他人の罪のためにそれを訴えつつその罪を自ら負うことは、神の臨在の聖所においてのほか、なし得ぬことである。これはただ祭司的霊魂の義務であるばかりでなく、彼自身の霊的生命に滋養と食物を与える、実にそれは他人の知らない、食すべき食物、しかり、また楽しみである。私共が自らキリストに導かんとする愛する人のために、キリストの犠牲の効力を訴え、それが救いときよめに役立つことの確信を得る喜びは、私共の霊魂に何たる喜び、また力なるか、私共のうちの或る人々の充分よく知っているところである。
 『我にきたる者は飢ゑず、我を信ずる者はいつまでもかわくことなからん。』(ヨハネ六・三十五
 『それわが肉はまこと食物くひもの、わが血は眞の飲物のみものなり。』(ヨハネ六・五十五
  我は飢えまた渇く
   イエスよ、わがマナにてありたまえ。
  わがために
   いわおよりほとばしる、活ける水にてありたまえ。



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