『
私共は今、すべての奥義の中の最も深い奥義である、信仰によって神の
ここに掲げた聖句の取られた聖書の場所より見れば、これが聖餐式に関する
ついでに注意しおく必要のあるのは、旧約と新約の著しい相違、すなわち旧約の下では血を飲むことは厳重に禁じられているけれども、新約の下では、主が『なんぢら皆この
さて、飢えることと渇くことは異なったことである。そのごとく、食物を取ることと飲み物を取ることは別である。『我にきたる者は飢ゑず、我を信ずる者はいつまでも渴くことなからん』(ヨハネ六・三十五)。彼の肉を食することとその血を飲むことには、二つの相異なる結果が伴うのである。食物は肉体を強くし、筋肉精力を作り立てるが、飲み物は体の組織を清め爽快にする。
そこに彼の肉に
しかして食することと飲むことのいずれか一つを語っても、両方ともに語っても、私共はそれを消化吸収すること、すなわち十字架上における主の
主イエスがその復活ののち、エマオの途上にて、驚き怪しむその弟子等にカルバリにおけるご自身のお苦しみの意味と能力を開示せんと欲したもう時、主が何らの媒介なしに直接にすべてその経過のことども、苦難と目的、
彼らは今、旧約の型の実体、活ける原型なる御方と顔を合わせて立っているけれども、主はその贖いの御業とその必要を描写し開示するために、書き
私共は彼らと別の仕方で教えられるべきであろうか。たしかにそうでない。もはや私共も肉によりてキリストを知るべきでない。私共をして型に立ち帰らしめ、そこで信仰によって彼の肉と血を飲食することは何を意味するかを、聖霊を通して学ばしめよ。
モーセの五書には、主イエスの贖いの御業を示す七重の絵画がある。すなわちそれは、出エジプト記に一つ、過越の物語、レビ記に五つ、神の民の礼拝のための五種の犠牲、民数記に一つ、
これらの血の献げ物のうち、ただ三つだけが、献げた者にそれを食し、与るよう命ぜられている。私共はこれを祈り深く研究することによって、救い主がご自身の肉を食し、その血を飲むことを命じたもうたご命令の意味をいくぶん学び得るのである。
ヨハネ伝第六章に与えられている主の著しき御教説のうちにもまた、その御肉と御血に与ることより来る三つの幸いなる結果が示されており、しかしてこれらがまた旧約の型と完全なる一致をなしおることを見出すのである。
『わが肉をくらひ、
犠牲を献げる者がその犠牲を食するように命ぜられている三つの場合の第一は、エジプトからの出発の時においてであった。小羊は
食するのは、血の灑がれたその同じ犠牲の肉で、犠牲は同一であった。
鴨居に塗られた血は安全と平安を齎し、肉を食することは旅のために力と慰めを与えた。信仰によって私共もまた、彼によって養われることができる。『我らの
鴨居に塗られた血は安全と平和の感を齎し、肉を食するこの大奥義の深い理解を私共に語る。感じると共に知り、信ずると共に理解し、主の贖いの愛を考察と黙想によって認識尊重することは、みなこの旧約の型を通して私共の霊魂に齎されるところである。
さればこの血に与ることは、すべての悪と
『わが肉をくらひ、我が血をのむ者は
『わが肉をくらひ、
さて、旧約の制度にて犠牲の肉に与る第二の場合は、犠牲を献げる祭司にその犠牲の肉を食すべく命ぜられる、レビ記第三章及び第七章による
その犠牲の一部は神への
ヨハネ第一書一・三に使徒ヨハネは、まず聖父との交わり、次に
『わが肉をくらひ、我が血をのむ者は、我に居り、我もまた彼に居る』。この内住のご臨在によって、私共は永遠の命をもつことより更に驚くべき経験に入るのである。パウロはここにその秘訣を見出したので、『キリスト
要するに、彼は十字架につけられたまえるキリストに対するわが信仰のゆえに、復活し昇天したもうキリストがわが内に生きたもうと言うので、
そして酬恩祭の犠牲の祭司に与えられた分は、肩と胸、すなわち能力と愛情の座であった。これが私共の受ける分で、私共もまたこの交際の中に、平和の神が、実に私共を祝すべく、私共と
おお、願わくはこの学課をよく学びたらんことを! 私共が意識的に信仰によって彼の肉と血を消化し吸収する時にのみ、キリストは意識的に私共の衷に生き得たもうのである。彼の血における瞬間瞬間の信仰は、彼の内住の瞬間瞬間の確信を保証する。『わが
『我をくらふ者も我によりて
私は旧約の律法の下で、血の献げ物のうち食することを許されているものがただ三つであると言ったが、それは
燔祭は銅の壇の上で全然焼く尽くされ、酬恩祭は一部分はそこで焼かれ、一部分は食せられた。しかして罪祭と愆祭は一部分は壇上にて焼かれ、一部分は食せられ、一部分は営の外で焼き尽くされることであった。
燔祭はそれを食することはできない。酬恩祭については既に語った。しかしていま罪祭について考えたい。或る制限の下に、それを献げた祭司はそれに与ることが命ぜられている。この犠牲の血が至聖所に携え入れられる時にはその犠牲に与ることはできない。進んでこれを尋ねるならば、これは罪祭が祭司自身の罪のためであるか、或いは会衆全体の罪のためである場合に、その肉を食することは禁ぜられたのである。されどこの犠牲が会衆の中のある個人、または
「そこに兄弟の罪を自己の罪とし、あたかもそれを自ら犯したかのごとく、霊において、神の
「私共はこれが霊的意義、またその適用に入るために、キリストに最も近くあることを要する。それは実に驚くべく幸いなる聖き勤めで、神の直接のご臨在の中においてのみ知られ得るのである。私共がそれについて知るところのいかに少なきかは、心が証し得る次第である。
「或る兄弟が罪を犯した時、彼に対して審判の座に坐し、厳しい監督者の立場を取り、その罪を私共に何の関係なきことのごとく見るのが私共の傾向であるが、これは私共の祭司たる職能において悲しむべき失敗である。それはいと聖き所にて罪祭を食することを拒否するのである。誤れる兄弟の罪を自己の罪となし、霊において神の御前にそれを負うほどに、彼と自己を一つにし得るは、恩寵の最も貴き
その罪が祭司自身の罪、或いは会衆全体の罪である場合には、罪祭を食することができないということを注意するは肝要であり、また教えられることである。罪祭を食することは、
このところで私共の心に与えられる教訓は明らかで、それを敷衍して説くを要せぬ。私共自身の霊魂のために主の肉と血に与ること、すなわち私共の生命のために主に養われ、内住の救い主として彼を知りまつることは幸いであるが、なお私共は他人のために彼を食し、人々の罪のために信仰によってキリストの犠牲に入り、彼らの罪と赦罪のために時を費やし、信仰をもって嘆願することがここにあるを学ぶ次第である。『我をくらふ者も我によりて活くべし』(ヨハネ六・五十七)と救い主は仰せたもう。それは他人のために生きる力をキリストのうちに見出し、人々の霊魂のための私共の愛をば、みな彼の傷つけられた彼の脇より受けることを意味するのである。
この聖き食物に与るは、幕屋のうちなる聖所にてなすべきことであった。
『我にきたる者は飢ゑず、我を信ずる者はいつまでも
『
我は飢えまた渇く
イエスよ、わがマナにてありたまえ。
わがために
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