第十二章 血による確信
『まして……瑕なくして己を神に獻げ給ひしキリストの血』(ヘブル九・十四)
本章の標題は、既に以前の章に開示したことの繰り返しであるような感を与える。そしてたぶんその言い表し方にも少しく不適当なものがあろう。けれども通読すれば、以前の章とは思想と議論のはなはだ異なった方面が現れる。本章の問題は、はじめに掲げた聖句に暗示されるごとく、キリストの血がかくも効力と能力を持つは何故かということである。
私共はかくも重大な、また奥義に満ちた題目を取り扱うにあたり、私共の理解には多く蔽われているこの地を踏むことを躊躇するはずとも思われるが、私共はただ聖霊の導きたもうところに従うことを求めるのみで、いずれの意味においても、書き録されたるところを超えて思慮なき思索を企てるものではない。かかる思索は、学究的神学者や、その目の前に何の畏れももたない現代主義の破壊者の、そこに賢からんことを好むところなれども、悲しいかな、かかる者に真の智慧はあり得ない。
キリストの血がどこからその効力、能力を引き出すかを問うのは、ほとんど神聖冒瀆と思われるであろう。もし聖霊が私共のそれを知ることを最善と思し召して、私共の理解のためにそれを言明したもうのでないならば、私共はそれを問いまた答えるよう人に勧め得なかったであろう。しかし聖霊の示したもうところまでは、私共は敬虔な、神を畏れる態度にて問い得るのである。
ヘブル書の記者は、その第九章に続いて、第十章の初めの諸節にこの題目を続け、キリストの血の効力に関する三重の理由を私共に開示し、しかして贖い主の犠牲が何故に救い、また聖め、そして臆せずして神の御前に入る確信を与えるに役立つかについて、すべての考え深い人の熱心なる問いに答えるのである。
一、それは聖霊なる神によって備えられたる肉体の血である
『なんぢ……唯わが爲に體を備へたまへり』(ヘブル十・五)
『汝が生むところの聖なる者は、神の子と稱へらるべし』(ルカ一・三十五)
ここに聖霊はこの血は神の御子の血であることを私共に語りたもう。ヘブル書には後に『契約の血』(十・二十九)と呼び、さらにまた『永遠の契約の血』(十三・二十)と呼んでいる。清教徒師傅たちは、この契約の血なる語よりして、頌むべき三位の二つの位、すなわち聖父と聖子との間に、世界の贖いと救いのために契約が立てられ、聖子はこの偉大なる事業を引き受けることを約して、聖父よりその賛助の確保、および受難の御業の受け入れられるべき能力を受けたもうたと見ている。それはとにかく、永遠の契約の血は、聖霊によって生まれたまえる故にその人性において完全にてありたもう神の聖子の血である。
私共は犠牲の価値を、それがなされる理由から判断すると等しく、犠牲者の価値から判断するのである。たとえば私共が道を行く時、途中に血の溜まっているのを見ても、それは何か一つの動物の殺されたためと想像する時には格別な利害も感動も引き起こさぬが、それが人間の血であると聞けば、私共はそれに関心を惹き、憐憫また同情を起す。しかしなお進んで事情を尋ね、それは或る貴い御方が他人のために流した血で、特に恐るべき悲劇的事情の下に殺されたということになると、おそらく全世界の人がそれに対して憤怒と尊敬と愛を感ずるであろう。この犠牲者が偉大であり高貴であればあるほど、その犠牲の影響もまた一層深く、人の感動も大きいのである。
この比喩ははなはだ貧弱であるけれども、御霊の宣べたもうところに含蓄される意義をよく私共に教えると思う。
聖霊の示したもうところの要点と力は神の御子の肉を指す。のちに私共は、キリストの血の効力を、彼がその身をば神の御旨に対する全き従順の生涯に用いたもうたことに帰し、更に進んでは、その体を死にまで献げたもうたことに帰するけれども、ここではその体が頌むべき三位の第三位なる聖霊によって備えられたという事実に帰するのである。
私は知る、私共の理解力はここでそれを十分に悟るに足らぬ。私共はただ信じ、頭を垂れて拝みまつるのみである。そしてこれは真のキリスト者の、なすを悦ぶところである。キリスト者は、神的奥義の無限は永久に有限なる知力の限界の外なることを知りまた感ずるけれども、その心を満足せしめ、その艱める良心に平和を来らせるに道理あることを見て、頭を垂れ、その真なるを知り、その効力あることを立証する。
「おお、信仰の奥義の深きことよ! おお、キリストの愛の広さ、長さ、高さよ! その聖父の懐より、処女の胎を通して、詛いの木にまで、すべて言語に絶するその謙卑、墓の塵より、陰府の悲しみより、天の喜びに、しかして栄光の御座にまで、挙げられたまえるそのすべての驚くべき高昇、実に受肉の愛のすべてのその洪大なる道筋、これらすべてのすべてが我らのものであろうとは! 彼の奥義的受肉は我らを神に愛せられる者とならしめ、彼の自然の誕生は我らの霊的新生を獲得し、彼の汚点なき生涯は我らを極めて幸いなる不死に回復し、彼の烈しき苦痛は我らに静穏なる安息を与え、彼の血の汗は我らの様々の汚れを洗い去り、彼の深き傷は我らの悪化せる傷口を癒す薬を滴らせ、彼の完き従順はたちまちに来る我らの幸福の第一の権利であり、彼の全き贖いは我らに無代償の新生を買い、彼の残酷なる死は不死の生命の源泉であり、彼の墓は天の門であり、彼の復活は栄光の保証であり、彼の昇天は我らの霊魂の勝利であり、彼が高き処にて威光の中に坐したもうことは我らの将来の戴冠式と高貴なる幸福の手付けであり、しかして彼の聴かれる執り成しはすべての祝福の尽きざる源泉である」と私共は叫び得るのである。
二、それは完全に神の聖旨を行いたまえる聖子の血である
『先には「汝いけにへと供物と燔祭と罪祭と……を欲せず、また悅ばず」と言ひ、後に「視よ、我なんぢの御意を行はんとて來る」と言ひ給へり』(ヘブル十・八、九)
前段において私共は、キリストの血の価値効力はその受肉にかかわることを示さんと努めた。キリストは聖霊によって、神の御子と生まれたもうた。その聖なる御方には悪の汚れは何処にもない。けれどもキリストは、単に人間のために贖罪の犠牲としてご自身を献げて死ぬるためにのみ、この世界に生まれたもうたのでない。彼は神の御旨を成し遂げるために生活し、また働きたもうた。彼の汚れなき誕生と完全なる生涯は、瑕なきものなるべき犠牲の型を成就する所以である。
おお、願うは、彼の種々の完全を見得んことである。私はそれについて、聖書のほかでは、マデレーの牧師ジョン・フレッチャーによって書かれた『熱心に救いを求める人々への勧め』と題する文章ほど驚くべき陳述を知らない。私は既にこの聖なる文章から引用したことではあるが、ここでもまた、一世紀半を隔てて彼をして私共に語らしめよ。
「彼は王の王、主の主にていませしといえども、我々がサタンの奴隷から救出されるため、天使らが救いの世嗣たる我々に仕えるために遣わされ得るようになるために、自ら僕の貌と務めを執ることを厭いたまわなかった。彼はすべての物をすべてに満たす者の盈満にてありたまえども、我々の乏しからぬためにとて働き、我々の休み得るためにとて労し、我々が隠れたるマナを味わい、生命のパンを食し、聖父の国の奥義的なる葡萄酒を彼と共に飲み得るためにとて、飢え渇きを忍びたもうた。
「彼の全能の御言は百千の山野に緑を着せ、幾百万の生物に豊かな毛、光る鱗、輝く羽毛を着せたもう。けれども何たる無限の謙卑であろうか、我々の恥の顕されざるためにとて、ご自身その質素な御衣さえ人の剥ぎ取るに任せたまい、我々が義の衣、救いの上着をもって飾られ得るためにとて裸になりたもうた。彼の富は彼ご自身のごとく広大にして測りがたく、天はその座位、地はその足台なれども、我々がここにて信仰に富み、来世にては御国の世嗣となり得るためにとて、自ら貧しく枕する所もなき生涯を送りたもうた。
「彼は過去においても現在においても永久にも、天の諸権を執る者たちの喜びであり、彼らの深い崇拝の目的にてありたまえども、我々が神のお誉めを受け得るために、自ら望んで人に侮られる者となりたもうた。彼は我々が『言ひがたく、かつ光榮ある喜悅をもて喜ぶ』(ペテロ前書一・八)ことを得るために、『悲哀の人にして病患を知れる』者(イザヤ五十三・三)となりたもうた。彼は至上の立法者、すべての人の審判主にていませども、我々が彼の畏るべき法廷にて名誉ある赦罪を受け、栄光をもって報償を受け得るためにとて、その比類なき愛は彼をしてピラトの法廷にて審かれ、不正の断罪に服せしめまつった。
「彼は天使らもその足下に冠を投げ、セラピムもご栄光の眩き光輝に堪えずして御前にその顔を掩う御方なれど、我々が認められ、褒められ、抱擁され、義と栄光の凋まざる冠を与えられ得るためにとて、自ら苦を受け、罵詈せられ、嘲弄せられ、唾され、鞭打たれ、棘を被らされたもうた。万軍の主はその名であり、『奇妙また議士 また大能の神 とこしへのちゝ 平和の君』(イザヤ九・六)とは彼の受けたもうに値する名である。ひとたびの御点頭にてケルビムの幾軍団を飛び立たせたもうべき御方なるに、何たる驚くべき謙卑であろうか! 我々が律法の詛いより救われ、天の権威ある使い等によりて穏やかにアブラハムの懐に送られ得るためにとて、世界の政治を担いたもうべき肩に悪人の十字架の恥ずべき重荷を担い、屠り場に引かれる小羊のごとく引かれ、凶暴な兵士、怒れる乱民どもに連れ行かれたもうた。
「『神の凡ての使は之を拜すべし』(ヘブル一・六)とは天の諸階級の権威ある者が最も熱心なる絶えざる歓喜に心奪われて順うところの大神敕である。しかるに憎むべき反逆者であり、嫌悪すべき悪人なる我々が、主が我々の最も深い恥辱に与りたもうごとく、主の最高の栄光に与り、『神に対する王となし祭司となされ』(黙示録五・十=欽定訳)得るために、叛逆瀆神の罪を犯した呪わるべき卑劣漢として十字架につけられたもうた。かくして彼の慈愛の冠としては、我々が永遠の生命の喜びを刈り取るべく、死の蔭の恐ろしき谷を過ぎる時に、主の優しき憐憫を感じ、天の光明に十分浴し得るために、彼は、地震い岩裂け超自然の暗黒の蔽えるうちに、息絶えたもうたのである。
「しかるになお、かかる御方の血が何故かくも偉大なる能力を持つかを我々は疑い得るであろうか。
おお、我らをして驚くべき十字架を測らしめよ、
歩一歩進むままにいよよ驚異は高まる、限りなき咎の赦免、さてもまた
無限の価値を語るかかる仕方にての赦免、
血をもって、神たる血をもって買わるる赦免、
我らが仇となしまつれるその御方の神的宝血をもって買わるる赦免。
我らは愛をもって名付けられ、威をもって畏れしめられ、
屈せしめられ、懲らしめられ、しかもなお御怒りを惹ける、
かかる大胆極まる、極悪非道の反逆者!
彼の王座の雷鳴の中に、大胆に叛ける反逆者!
ただ我らのみならず、全人類みな背きて叛逆となれり。
しかるに汚れし者の最も汚れし者のために彼は死にたまえり。」
三、それはその体を罪の犠牲として献げたまえる御方の血である
『この御意に適ひてイエス・キリストの體の一たび獻げられしに由りて我らは潔められたり』(ヘブル十・十)
私共が救われ、その御栄光のために聖きものとなされることは、聖父の御心であった。キリストはその聖父のこの驚くべき御心を成し遂げるために裂かれ、砕かれ、殺されるよう、その身体を献げたもうた。私共はここに、ただそれは単に流血であるばかりでなく、成し遂げられたる彼の生涯の血の注ぎ出しであったことを慎重に注意する必要がある。彼は苦難痛苦を伴わない即死によってもそれをなしたもうことはできたのであるが、彼の死はそうではなかった。『キリストも汝らの爲に苦難をうけ』(ペテロ前書二・二十一)。それは無罪の死であった。『彼は罪を犯さず』(同二・二十二)。それは無抵抗の死であった。『脅かさず』(同二・二十三)それは任意の死であった。『みづから我らの罪を己が身に負ひ給へり』(同二・二十四)。それは恥辱の死であった。『木の上に懸りて』(同二・二十四)。しかして讃美は神にあれ! それはまた効果ある死であった。『汝らは彼の傷によりて癒されたり』(同二・二十四)。
これは使徒ペテロがいかにもよく描写しおるところである。されども私共がいま考察しつつある点におけるこの大いなる恐るべき事件の重要性は、それが苦痛の死であったという点にあるのである。私共の旧き人が彼にあって磔殺され亡ぼされ得るために、彼の体は切り裂かれ、引き裂かれ、打ち挫かれ、砕かれたもうた。これが使徒パウロの言える『新しき活ける路』(ヘブル十・二十=元訳では十九節)である。かく苦しい、永く時を取る死を堪えるためにとて任意に献げたもうた体の生命の血は、実に私共に大胆を与えるのである。私共はいかで疑い得ようか。おお、私共の不信仰の槍を投げ棄てんことを! おお、「我らの恐怖の霧を通してでなく、御言の鏡を通して、彼を見まつらんことを」。
「赦罪」しかり、接近の大胆もまた、尖りたる鋼鉄と、刺し通されたもうた手足に流れる血をもって記されている。彼の傷つけられたまえる脇より流れる二重の流れは、高値に買われたる祝福を印する以上のことをなす。彼の拡げたまえる腕は、帰り来る放蕩息子を招き、引き付け、歓迎し、罪人の最悪の者もそこに取り囲まれて、完全な楽しい避難所を見出す。それは事実現在の天であり、イエスの血による至聖所への接近なのである。
主はその最期の聖餐を立てたもうに当たりて、葡萄酒を注ぎ出すと共にパンを裂きたもうた。彼はその血を私共に飲ましめると共に、その肉を食わしめたもうた。彼の血が注ぎ出されると共に、体も裂かれたもうた。ヘブル書においては、血が大胆を獲得せしめることを私共に語るとともに、裂かれた幕、すなわち裂かれたまえる体、ずたずたにされたまえる肉は、活ける道、すなわち私共をして入ることを得せしめる力を示している。願わくは、「キリストの唯一の証者 (Witness of His dying)」「主の受難の記録者 (True Recorder of His passion)」「神たる、憶い出でしむる御方 (Remembrancer divine)」なる聖霊(チャールズ・ウェスレーの讃美歌 "Come, Thou Everlasting Spirit" より)が、すべてこれらの深い奥義を私共の心に明瞭ならしめたまわんことを!
されば受肉したまえる神の御子なるキリスト、完全に律法を成就し、神の聖旨をなしたまえるキリスト、長く続く残酷なる死をもって心よりの犠牲にその御体を献げたまえるキリストの、汚れなき誕生、その完全なる生涯、その任意的の死、これらは、彼の血に力あることを私共に保証するところの証者である。すなわちその血は、かつては陋劣なる罪人、大胆なる反逆者、天の国籍を失い、活ける神の都より棄てられたる外国人であった者が、憚らず悦んで神の至聖所に入るために、あらゆる要件を満足し、あらゆる妨げを防ぎ、そのすべての要求に応え、すべての権利を保障する力のあることを確証するのである。
| 序 | 緒 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 結 | 目次 |