第六章 血による赦罪
『我らは彼にありて恩惠の富に隨ひ、その血に賴りて贖罪、すなはち罪の赦を得たり』(エペソ一・七)
赦罪、この語は私共にどんなに響くであろうか。これは私共の耳にいかにも美わしい語ではないか。私共は救いの殿堂に入るに、ほかの入口より入らんよりは、むしろここよりせんことを願う。多くの人は自己の人格を建てることによって救われることを好み、或る者は哲学を通して、或る者は信心慈善の行いによって救われることを欲し、或る者はまたあの世に行くまでは決して救いを願わない。彼らの好んで想像するところは、『死の瞬間』がさながら魔法使いの棒のごとく、急に彼らの性質を小鬼から仙女に変わらしめるということ、すなわち、死に臨んでその貪欲、傲慢、肉欲、虚偽、虚栄、野心、私心の一切が消え去り、忽然と謙虚に霊的に真面目に無私に犠牲的になると想像する。彼らの勇敢な兵士らに、愛国心は天への旅行免状であるという、悪い無意味な言葉が宣伝されるところから判断すれば、最も粗野なマホメット教の教えよりもなお一層愚かなこの考えが、かなり一般に行き渡っていると言わねばならぬ。もし私共の兵士らが国のために戦ったために天に行くならば、すべての国の兵士がその国のために戦う場合も同一と思わねばならず、私共の時代の兵士がそうであるならば、すべての時代、すべての所の兵士らは聖徒であると想わねばならぬ。もしまた殺される兵士がそうであれば、殺されずともその思想意向においてまたその覚悟において同じ兵士は無論同一でなければならぬ。こうなれば兵士の制服を着ることがすなわち天に行く道となり、カルバリの犠牲は恐ろしい無駄事となる。(ああ、誰か冒瀆に至らずしてかかることを語り得ようか。)私は急いでかかる悲しむべきことを考えることをやめ、分かり切ったことながら、すべての主題の中の最も驚くべきことである罪の赦免につきての三つの基礎的思想を述べることにする。
一、反逆者に対する赦免と子に対する容赦
『人もし罪を犯さば、我等のために父の前に助主あり、即ち義なるイエス・キリストなり。彼は我らの罪のために宥の供物たり。』(ヨハネ一書二・一、二)
赦罪の性質とその範囲を学ぶ前に、神がご自身に対する反逆者また敵たる罪人に与えたもう赦免と、天父のその子に与えたもう容赦との間の区別を明らかにする必要がある。多くの人はこの根本的区別を悟らぬために、心の暗きと思念の混雑を招く。
前者、すなわち罪人としての赦免は、キリスト者生活の初めに私共に与えられる。それは私共の天の馳場の出発点で真の回心の基礎的要素である。それなしには私共は未だ生き始めたのでなく、罪と愆の中に死んでいるのである。そしてこの赦免という大いなる貴い賜物が必然的に没収されるという理由のないことは、既にその永遠の家に帰った無数の聖徒たちがその幸いなる証人である。けれどもそれが没収されることもあり得るという厳かな警告もまた、猶予なくここに加えねばならぬ。マタイ伝十八・二十三〜三十五の例話はそのことを示している。この例話にある家来はその同僚に対して故意に罪を犯して罰せられるばかりでなく、始めにかくも自由に与えられた赦免までも取り上げられたのである。もしかかることがあり得るのでなければ、『彼ら(わが羊=主に従う者)は永遠に亡ぶることなく』(ヨハネ十・二十八)という保証は不必要であり、『勝を得る者は……我その名を生命の書より消し落さず』(黙示録三・五)という恵み深き約束は無意味であり、黙示録二十二・十九に記されある『神は……彼の受くべき分を省き給はん』という厳かな御警告も真実でないことになる。さればパウロが私共の堕落することなきよう警告しているは至当である。或る人は『棄てらるる』(コリント前書九・二十七)という語を誤訳し、前後の関係文から引き離し、それが私共の救いに関係のないことのように信ぜしめようとする。けれどもパウロはそれが私共の最後の救いに関係していることを最も厳粛に言明し、(私共の先例となる)エジプトを出でたる多くのイスラエル人が神の恩恵の多くの豊かなる幸いな経験を受けた後、なお荒野で亡んだことを、それに続いて思い出さしめんとしている。
浅薄な暢気な福音主義の流行するこの時代において、私共は、既に子とせられている者でも、もし再びひるがえって放蕩の生活に還るならば、その相続権を剥奪される恐れのあることを警告する必要がある。悲しいかな、多くの人々は主イエスに信頼するよりもむしろその想像の教理に頼っている。もし私共の目を主ご自身より逸らせて、それに惹き付けるものがあるならば、たとえ教理であってもそれは実に危険である。教理は羊の檻のまわりの柵のごときもので、その目的は羊をして迷い出でしめぬためである。さればそれは羊の檻の入口ではない。信仰による称義の栄光ある教理でさえも、それをもって柔和謙遜な主イエスの代わりに羊の檻の入口として用いる者は、盗人であり強盗である。
永遠の生命は主イエスにある。彼を知ることはすなわち永遠の生命である。私共が生命を得たと言っても、彼より離れて何か奥義的な種子が私共の衷に植え付けられたのではないから、かかる考えを警戒せねばならぬ。すべてにまさって、私は、私共が久しき以前にひとたび主イエスを信じたゆえに、その後いかに後退しても、堕落しても、ちょうどかつてひとたび信じたその信仰に特別な功徳があって、神はその信仰を尊重する義務を負いたもうかのごとく想像することのなきよう、注意する必要を感ずる。ひとたび神の赦罪の御愛を味わった後に故意に堕落した者が、初めから知らなかった者より一層その御愛の目的となるということを私は信ぜぬ。ほかの事情を別として、それだけを考えると、むしろ一段と御怒りを惹くわけである。私共の信仰に何の功徳もない。私共の快諾にも決心にも功徳はない。ただ主ご自身のみ私共の生命にてありたまい、彼のみ私共の功徳にてありたもう。彼を離れては、私共は腐敗と罪悪のほか何ものでもない。戦き畏れることなくして喜ぶよう私共を励まし、神を畏れることに留意せざる聖霊の慰安に歩ましめ、神を敬い畏れることなくして主に事えしめる、かかる教えに対して警戒を要すること、今日よりはなはだしきはない。私共の神を畏れ戦き、またただ主イエスにのみ目を注ぐよう心がけることは、喜びと感謝、安息と慰安を、私共の霊魂に一層甘美ならしめるものである。
私が言うところの第二の赦罪、すなわち私共の天の父よりその子に与えたもう赦しは、私共の常に要するところであるが、かく赦されることは、反逆者の赦免とは非常に異なったことである。ヨハネが、主は宥めの供え物にてありたもうと共に、助け主(弁護者)でありたもうと言っているのは、それについて語ったのである。主イエスはその流血によって、過去のすべての犯罪、背反、不従順の罪の宥めとなりたもうた。それゆえに私共が立ち帰って悔い改め信じた時に、それらは永遠に抹消されてしまったのである。されども感謝すべきかな、彼はそれ以上にてありたもう。彼は、神の子供たる私共が罪に陥り、父の愛の御心を憂えしめまつることがあっても、父の面前に助け主(弁護者)にてありたもう。そして感謝すべきかな、『もし私共……光のうちを步まば』(ヨハネ一書一・七)その弁護は常に有効であるのである。しかしもし、故意に罪を犯し背きて私共の神を棄てる者は、ユダの『汝らは固より凡ての事を知れど、我さらに汝等をして思ひ出さしめんとする事あり、即ち主エジプトの地より民を救ひ出して、後に信ぜぬ者を亡し給へり』(ユダ五)との警戒の言葉の真実なるを知るべきである。
本章に論ずるところの赦罪は主として第一の点、すなわち私共の犯罪を根本的に抹消し、私共に逆らう証言を取り除きたもうた大いなる赦罪を言うのである。しかし宥めの供え物或いは助け主としてのキリストを考える時、いずれにしても私共が救いを蒙るはキリストの宝血の功徳によることを記憶することを要する。地上にて流したまえる血によって彼は私共の宥めの供え物にてありたまい、天にて献げられる血によって彼のご弁護は聞かれたもうのである。
二、罪人の赦免とその罪の赦し
『我をあはれみ……わがもろもろの愆をけしたまへ』(詩篇五十一・一)
この詩の作者がここに言っているこの区別を了解することは肝要である。それは一段と私共の心に慰安を与えることとなる。神は私共の罪すなわち律法を犯したこと、天の執政者をして喫驚せしめるほどの罪をさえ赦したもうが、そればかりでなく、罪人自身をも赦したもう。既に学んだように、罪は単に律法を破ることばかりでなく、また天の父の愛の御心を破ることである。そして、この罪を赦すことと罪人を赦すこととの間に大いなる相違がある。これにつき一つの単純なる例話を用いよう。或る人が私を害し、私のものを盗んだとする。私は憐れみをもってその不正を見のがし、彼の妻子の上に来るべき苦しみを思い、法律に訴えることを差し控える。換言すれば、私は彼の不埒な行為を見のがし赦す。けれども実際において、その人自身を赦さないことがあり得る。すなわち私はなおその人に向かって心の中に疑いと苦い思いをもつことがあり得るのである。けれども神においてはかくはありたまわぬ。神はかかる風に赦したもうのではない。神はゆたかに赦しを与えたもう。神はわが愆を赦したもうと共にわれをも赦したもう。神のいと聖き御名に栄光あれ。そしてこの区別は私共の心に一層喜びを増し加えるわけであるが、私共は、神が愛をもって罪人自身を赦し得たもうは、ただ彼が公義をもってその罪を赦すことを得たもうからであるということを記憶すべきである。罪人の赦免はその罪の赦しの必然の結果である。そしてこれはみな、ただキリストが私共の贖罪のために流したもうた血によってのみでき得るのである。私は決してここにこれについての哲理を書いているのではない。また何故に主の流血を必要としたかの理由を説明するのでもない。これはすでに幾分説明したところである。私も、無遠慮な批評評論の行われるこの現代において、天使も踏み入ることを恐れる地域に突き入ることを躊躇する者の一人である。私は人間知識の限界にはあまりに深い奥義を顕したまえる啓示を、全く理解せざるままに満足している。私は信じ、そして喜ぶ。そしてこれが私の心に平和と喜びを来らせる。私は赦罪がいかにして、また何故に与えられるかの理論よりも、むしろ赦罪の性質とその幸いなることについて書いているのである。
かの偉大なる学者、聖徒また伝道者なるジョン・ウェスレーの証は、たぶん私が言い得るところよりはるかに勝るであろう。ジョンソン博士はウェスレー氏につき、かつて「私はまた終日終夜、彼と語り明かすことができる。私は彼のうちに習慣的の愉快さを見出す。私は彼において私がかつて見た道徳的幸福の最完全なる標本を見る。私は聖書のほか、見もし聞きもし読みもしたすべてに勝って、地上の天はいかなるものかを、ウェスレー氏の言語気質に見る」と言っている。
ほとんど二世紀を経る今でも、私共はなおこの偉人の証に耳傾けるは良い。彼はキリスト者の勝利の秘訣である信仰について次のごとく言っている。いわく、「それ(信仰)は真の信者の各自が、それによって『私は父の前に助け主を持つ。そしてその義なるイエス・キリストは私の主であり、私の罪の宥めの供え物である。私は彼が私を愛し、私のためにおのが身を捨てたまいしことを知る。彼は私を、私さえも、神と和らがしめたもうた。そして私は彼の血によって贖罪すなわち罪の赦しを得ている』と証を立て得るところの確かなる根拠である」と。
ウェスレーが彼の敬愛する母より、以前に教えられていたのは、ちょうどその反対であった。すなわち、神に受け入れられたという自覚は生涯の終わりに来るもので、その初めでないということであった。
ウェスレーの伝記者の一人は、「もしウェスレー夫人がその神学を放蕩息子の譬えに当て嵌めたならば、譬えの中の真珠なるこの話を全然書き換えねばならなかったであろう。夫人は、譬えの中の父は、帰ってきた浮浪者がまず父の家の台所に行き、僕の仕事をして、自己の所得で相応な着物を買うまでは、接吻も指輪も、最上の衣も保留したように記述せねばならなかったであろう」と言っている。しかし感謝すべきことには、ウェスレーはそれとは違ったことを学び、私が強調せんと努めつつある特異性を発見していたのである。
されば、ここに第一の大いなる基礎的赦罪、すなわち反逆者の過去の罪、不従順、罪過、叛逆がすべて、永久に払拭された、聖なる神との和らぎがある。これが聖書のほとんどいつでも、いずこでも言及するところの赦罪である。
三、赦罪の性質とその範囲
『その愆をゆるされその罪をおほはれしもの……不義をヱホバに負せられざるもの……はさいはひなり』(詩篇三十二・一、二)
そしていま私共は赦罪の性質と範囲につき、少しく進んで語ることを要する。私共は大使徒パウロが称義の教理を説明するために用いた物語、すなわちダビデ王の物語を考察するよりも良い仕方はない。ダビデ王は敬虔で神に忠義で、霊的経験に富める人であったが、殺人姦淫という最も恐るべき大罪を犯した。されば、彼のごとき者に赦罪があるとするならば、どんな人でも失望するを要せぬわけである。かくも神の御奉仕に名高い人の罪は、彼が神を知らない人であったよりは、千倍も赦され難いはずである。しかるに彼さえも主より赦しを得たのである。
されば、彼は何たる心の喜びをもって、この記憶すべき詩の中にそれを語ることぞ。彼はいかに深く自己の罪を実感したことぞ。彼はモーセによる神の律法によれば赦罪のできないことを明らかに了解していた。すなわち殺人、姦淫、或いは安息日を破ることは、大祭司に上告しても当時の犠牲の制度によるも赦される道なく、その人は死ぬべきで、律法による犠牲の献げられるはただ知らずして犯した罪のためのみであったのである。それゆえに、ナタンの唇を通して来た『ヱホバまた汝の罪を除きたまへり』(サムエル後書十二・十三)との言葉が彼の心に達し、神の御霊が彼の霊と共にそのかくあることを証したもうた時に、彼は『その愆をゆるされ……しものはさいはひなり』と歌に迸り出たのである。しかり、かくも企んで犯した殺人罪、かくも嫌悪すべき姦淫罪さえも赦された。そして義しき神がかく赦したもうにはいかに多くの価を要するかは、私共の今、当時のダビデよりも一層よく承知するところである。人間の間の関係においても、人が他人から害を受けて、ただで赦すならば、彼はその人のために損を受ける。もし私が何か盗まれて、その盗人を赦すならば、私はその所有物を損する。もし私が私を謗った者を赦すならば、私は名誉の毀損を受ける。まして神は損失を受けることなしに赦し得たまわぬ。そして私共はその損失の何であるかを充分よく承知している。私共が私共の赦罪の価を覚える程度が深ければ深いほどに、その赦罪の宏大さと栄光を認識するのである。
されどダビデはなお進んで、また『その罪をおほはれしものはさいはひなり』と叫ぶ。何故なれば、彼は一年以上の間その悪行を蔽わんと、あらゆる方法を採ったからである。彼は虚偽、偽善、飲酒、残虐を行い、ついに殺人さえもなした。されども罪はついに隠され得なかった。疑いもなく、彼はその上に宗教的儀式を行い、善き業も務め、痛悔懺悔の涙も流した。けれどもそれらも何の益なく、罪はなお蔽われぬことを知ったのである。ダビデ王の罪のごとくかくも挑発されることなくして犯した罪、しかも醜悪極まる罪を蔽うものがあり得ようか。ヱホバ・エレ(神備えたもう)の神はなお生きたもう。彼はなお備えたもう、そして彼の備えたもう所は血の掩蔽、すなわちその生みたまえるひとり子の血の掩蔽である。おお、その罪のかく蔽われし者は幸福なるかなである。
されども赦罪の恩恵にはなお一層豊かなる恩寵がある。この詩の作者は続いて『不義をヱホバに負せられざるもの……はさいはひなり』という。御憐憫の何たる深みのここにあることぞ。人間の生活においてはこれはほとんど不可能のことである。私共は、ダビデの場合のおいても、彼の宮廷人や友人らには、彼の罪を忘れることは難しかったと信ぜざるを得ぬ。彼らは言う、『おおしかり、彼は赦され回復された。けれども……』と。私共の過去の罪や失敗は、私共の友人にさえも、いかに執拗に憶えられることぞ。忘れる、負わせぬということは世にありてはいかにも難きことである。人が私共をかつて失敗しなかったかのごとくに信頼するはいかに遅きことぞ。
されど神にありてはかくはなしたまわぬ。この詩の作者なる王は、その神に振り向き、いかに精妙な歓喜悦楽をもって、声高く『不義をヱホバに負せられざるものはさいはひなり』と叫ぶことぞ。人はなお我を罪人とする。されど神はかくはなしたまわない。神はいま何らの悪をも我に負わせたまわぬ。彼は我をかつて罪を犯さなかったかのごとく取り扱いたもう。神は赦したもう、蔽いたもう、忘れたもう、ハレルヤ! と。
ここに神の救いがある。言うことのできない、驚くべくまた栄光に満ちた神の赦罪がある。けれどもそれが神の独り子の生命の血に値することを見れば、私共がその御手より受けるよう期待する赦罪はかかる栄光ある種類のものであるはずである。私共はそれを受けているであろうか。私共は謙遜、悔改、涕泣をもってそれを求めたであろうか。もし私共がそれを受けているならば、主が私を愛し、わがために己が身を捨てたまいしことのために、私共の心は彼を頌める讃美に満たされているであろう。永遠を通してかく讃美に満ちるであろう。
赦罪! 実に幸いなる優しき語よ! 私共も急いで、頭を垂れ、信じ、驚き、礼拝しよう。そして私共の愛のないこと、聖からぬこと、キリストに似ないこと、すべてみな神に告げ、みなその耳に聞こえ上げ、いまひとたび主の最も貴き血を敢えて信ぜよ。そしてかく信ずるにあたり、私共の心中に何らの恐れも疑いもなからしめよ。断乎、極端まで信ずることを決心せよ。そして言い難き喜びをもって喜ぶまで信じ続けよ。ただ、あなたの罪の告白が充分に、自由に、正直に、赤裸々にて、何ら自ら義とする精神なきものなることを確かにせよ。
われは迷い出で道を失いぬ
負い目は積もりて払うよしなく
罪は言い解くすべもなし
ただこのままを主に告げまつる
かくて、私共は詩篇作者と共に『その愆をゆるされその罪をおほはれしものは福ひなり 不義をヱホバに負せられざるものはさいはひなり』と言うであろう。そして私はこれに付け加えて言おう。何らの赦罪も要せぬと想像する者、赦罪なる語をただ徒らな無意味な語と想像する者はわざわいなるかな。しかり、三度も重ねて言おう、わざわいなるかなと。かかる人はまだ人生の最上の喜びを決して経験せぬ。もしかかる人が平和を保つとするならば、それは赦罪の真の平和、すなわちインマヌエルの血管より流れる血を信仰をもって見上げる時に確信せしめられる、赦罪の事実より来る真の平和でなく、罪が忘れられ、無視せられたと想像する虚偽の平和のほかでない。
| 序 | 緒 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 結 | 目次 |