されば、私共にとってこの驚くべき主題の結論は何であるべきであろうか。私共が聖書を探る時に、私共はほとんどその各ページに、それに関する聖霊のご命令を見出すのである。そこに聖霊はもの言う血に耳を傾けるべく、
これらは私共の霊魂に対する、聖霊なる神の厳かな命令のうちの数件である。
私共をして私共がイエスの血を評価するその程度をもって私共の霊的状態を測る標準となすよう努めしめよ。
ここに誤りのない試験がある。もし私共が黙示録に顕されているように、天の奥義や栄光を見るように時を取るならば、私共はすべての幕の除かれたその所で、インマヌエルの血の栄光は殺されたもうた神の小羊であることを見るであろう。
『
‥‥‥受くるに
との歌に和するのである。
もし天においてかくあるならば、私共も地において、それが私共にとって何であるかを見んと急ぐは善いことではなかろうか。私共はペテロのごとく、それを私共の心の貴きものと呼びうるであろうか。
それは私共の記憶に何であるか。私共の思念と思想に何であるか。それは私共の不死の霊魂に何をなしたであろうか。
これによって私共の霊的生活を試みよ。パウロは世とその慾より彼を清めたこの血のほか、何をも誇ることを拒否した。彼の心は、キリストとその十字架のほか何をも人々のうちに知るまじと決心した。私共にとってもかくあるであろうか。探り見るべきである。
マデレーのフレッチャーは、救い主が実に鋭い、心を探る言葉をもって私共に語りたもうがごとくに述べている。それは既に一世紀半を経た今であるけれども、なお私共の霊魂に聞くべき言葉である。すなわち救い主がかく言いたもう、と彼は言う。
「あなたは火の蛇に戯れた。しかして蛇はあなたの心を咬んだ。けれどもわたしはその死の毒の最悪のものを既に吸い取った。
「この危険な企てに、わが霊魂は死に至るほどの悲しみに襲われた。わが身に血の汗のにじみ出るほど、かつて聞きしこともない苦悩を感じた。
「呵責の十字架は、その上にわが身を引き伸ばされた寝台であり、鋭いとげは疲れ切った頭を置く枕であり、最も辛辣な諷刺はわが慰めであり、酢と胆汁はわが清涼剤であり、殺伐な兵士や残酷な悪徒はわが血管を突き破らんと指さしおり、鞭、釘、鎚、槍はこの恐ろしきことをなすために彼らに許された道具であった。
「数時間、わたしは彼らの無慈悲な手のもとに血を流した。おお、
「その時、あなたをしてわが救いを施す健康に与らしめんために、あなたの致命的病患の恥ずべき痛ましき結果をわが上に取った。今、罪人よ、かかる驚くべき愛を軽視することをやめ、信仰の目をもってこれに報いよ。あなたの良心がわが傷の驚くべき結果を感ずるまでこれを思い見よ。それがあなたの疾患を癒すとあなたが
確かに、ここに真の認罪あり、ここに悔い改めと痛苦のところあり、ここに医癒と生命と能力の秘訣がある。
神はその
今の時代において、「我らの新生せざる聴衆が、救いの道につきて正統派の思想をその頭脳に得、イエスの愛に関する福音的言い顕わし方をその口に得、彼らの教派と得意な形式に対する熱心をその心に得、それ以外、何の面倒もなく、自ら神の子等の中に列せんとするを、助けぬよう注意するはよい。悲しいかな、キリストの義を自ら自己に帰することが、人を天に入らしめないように、自ら自己を神の家族なりとすることが、人をして天国の民ならしめるものではない。そのとき立ち得るは
されば、キリストの血に対する『信仰の
さて、私共が私共の霊の測度のこの標準を有益に当て嵌め得るために、私共は何をなすべきであろうか。
『心は
『汝らの近づきたるは……
しかり、私共は灑ぎの血に来ている。それは私共の恐れる心、悩める良心に平和を語るところの、鴨居に塗られた血であった(ヘブル十一・二十八)。それは遺言者の死を私共の心に永久に確証し、かくして嗣業に対する私共の権利を確実に保証する、契約の書に灑がれたる血であった(ヘブル九・十九)。
それは
私共がただ従順ならんために信じさえするならば、それは私共の心に灑がれる。しかして私共はその罪を破壊する力を感ずるのである。私共は、それがすべて罪への傾向を排除し、私共の心をして神の
それは天に在るものに灑がれている(ヘブル九・二十三)。それはまた、私共が罪深き者なれども、なお近づき得るために銅の壇に灑がれている。
私共が憚らずして聖所に入り得るために、祈禱の金の壇に灑がれている。
私共が私共の偉大なる大祭司と共にそこに入ることさえなし得るために、至聖所の贖罪所にもそれが灑がれている。
或る人々は、主イエスの宮の庭の生活、すなわち主の地上の生涯、十字架とその教え、愛の職務だけを知り、或る人々は進んで入り、復活の主の生活、すなわち死より復活したまえる後の聖所における生活を知る。されど哀しいかな、昇天の主として彼を知りまつり、メルキゼデクの範のごとき偉大なる大祭司と共に執り成す者たるべく、共に至聖所に入る者のいかに少なきことぞ。けれどもなおすべては私共に開かれている。灑ぎの血は、そこに入るべき
血は、大祭司たる彼に灑がれているごとく、彼の子らにして共に祭司たる私共の上にもまた灑がれる。彼の
しかり、私共は灑ぎの血に来ている。そしてその血はもの言う。されば私共をして近づいてその声に耳を傾けしめよ。至聖所に入る
現代には
『約束し給ひし者は忠實なれば、我らの言ひあらはす所の
私共は近づきつつあるか。さらば私共の恩恵に進む第二歩は、主ご自身に対する私共の信仰の告白を堅く守ることである。ヘブル書の記者は『
彼は仲保する御方である。彼は契約を私共の心に書きしるす御方、天にいます活ける主にてありたもう。約束したまえる彼は忠実にて在せば、私共は彼を信ずる信仰の告白を堅く保つべきである。私共は来りまた近づく以上のこと、すなわち彼を信ずることを要する。『そは神に
この最も肝要なことに関して、私は再び、久しき以前にマデレーの牧師が人をして覚罪せしめる能力をもって言った言葉をここに引用するより以上のことをなし得ぬのである。彼は言う、
「不信仰についての覚罪を恐れるな。あたかも地中における穀粒の発芽が天に向かって茎を突き出すことに先立つごとく、一般に神的信仰に先立って覚罪が起こるものである。不信仰は特に罪の名に値する犯罪、福音に従って罰せられるべき犯罪である(マルコ十六・十六)。それはすべての他の不正の
「この不信仰の罪についての覚罪は極めて肝要である。何故なれば、これが極悪とその力強さをしみじみと感ずることのほか何ものも、我らをして全き治癒を得ずして安んじざるに至らしめるものはないからである。
「けれども、かく不信仰を覚る時に、君は真の信仰が非常に遠く隔たっているように想像して、信ずることの困難さを増してはならぬ。かえってそれは君の心にはなはだ近いと考えよ。聖パウロのごとく、キリストと十字架に釘づけられたまえる彼のほか、何をも知るまじと決心し、キリストが君のために何にて在し、何をなし、またいかに苦しみたまえるかを、信じ、実感し、当て嵌める見解に至ることを目指して進め。君の罪と不信仰のすべての雲を通して、世の罪と君の罪を除く神の小羊として彼を見まつれ。一切を贖う貴い彼の血の言い表しがたき価値と、考えも及ばぬ効力を考察せよ。それはご自身の義の律法の刑罰をば我らに代わって受けるために、犠牲また祭司として、罪ある肉のさまをとって顕れたもうた時に、永遠のロゴスによって取られたる肉体の血、多くの国民にそそがんとて殺されたまえる神の小羊の血、
「イエスの血によって、至聖所に入るべく大胆をもて。ペンテコステの火の十分に来るまで信仰より信仰に進め。すなわち君が上よりの能力を着せられ、聖霊と火にてバプテスマを受け、キリストが聖父より示されたもうた、その高められたもうた時にその
さてイエスの血の驚くべきこの主題を開示するヘブル書は、その結論において第三の勧告を与えている。
『
贖い、
私共をして、彼のごとく、十字架のほか誇るところなからしめよ。
私共をして、ただ十字架にかかりたまえる救い主のみを宣べ伝えしめよ。
かかる説教、かかる証言、かかる知識、かかる誇りは、確かに人々を励まして、主のなしたまえるすべてのことのため、感恩の心をもって善き業をなすに至らしめるのである。
その上に私共の記憶すべきことは、私共が至聖所に近づき、これに入る目的が、第一に私共の楽しみまた利益のためでなく、私共が他人のために執り成しそこに立ち得るため、主イエスがその民のために祈りたもう時に彼とともにその祭司的職掌において一つにせられるためであるということである。
されば、私共をして互いに顧み、彼らのために取りなすことによって、愛と善き業を励まさしめよ。私共をして他人のために信じ、彼らのために祈願をなすべく近づかしめよ。これこそキリストの流血がご自身の民たる私共に要求するところである。
かくて、ただ今一つのことが言うべく残っている。ヘブル書の記者は、彼の結論に一つの言葉を加えて、『
されば私共が、私共の信仰の告白において、私共の使言の宣伝において、人のための執り成しにおいて、近づきまつる時に、讃美をして常に満ち溢れしめよ。
もし、決して贖罪の血の功績を必要とせぬ天使らが、常にこれらの天的讃美を歌うならば、まして私共、罪深い叛逆せる死ぬべき人間が、喜びの歌、感謝の讃歌をもって溢れないであろうか。
讃美はさらに進んで、一層の勝利を得る秘訣である。讃美は実地の信仰の証拠である。讃美は神の耳には音楽であり、神の民の唇における讃美、感謝、喜びは、神の敵どもの心にはそこに射込む矢のごとくである。そして喜びほどに人の心に覚罪を起すものはない。
讃美は神の救いを私共に示すようその道を備える。
私共をして信仰によって讃美し始めしめよ。されば私共は間もなく感情によってそれを続けるであろう。
いかに多くの人々は、もし彼らが祈禱懇求の代わりに讃美感謝に破れ出たならば、直ちに自由を得たことであろう。
『我らはイエスの血により、憚らずして至聖所に入るべし』(ヘブル十・十九)
『約束し給ひし者は忠實なれば、我ら言ひあらはす所の
『
『
『
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