第十六章 結   論



 されば、私共にとってこの驚くべき主題の結論は何であるべきであろうか。私共が聖書を探る時に、私共はほとんどその各ページに、それに関する聖霊のご命令を見出すのである。そこに聖霊はもの言う血に耳を傾けるべく、まされる犠牲をささげるべく、その血を尋常よのつねのものとすることを畏れるよう、血の力を通して自らを死ねるものと勘定すべく、十字架においてのみ誇るべく、その血をもって私共の衣を洗うべく、その象徴を通して彼をおぼえるべく、その肉を食しその血を飲むべく、その血による罪の赦しをすべての人に宣べ伝うべく、命じたもう。
 これらは私共の霊魂に対する、聖霊なる神の厳かな命令のうちの数件である。こいねがわくは、私共が聖書に熱心な注意を払い、再三再四これを探り、聖書が型と影において、教訓と比喩において、教理と実例において、カルバリのキリストをいかに取り扱うべきか、彼の流血が乏しき助けなき有様の私共のために獲得せんと企てたまえるすべてを私共のものとなし、またこれを用いる道を顕すに至らんことを。
 私共をして私共がイエスの血を評価するその程度をもって私共の霊的状態を測る標準となすよう努めしめよ。
 ここに誤りのない試験がある。もし私共が黙示録に顕されているように、天の奥義や栄光を見るように時を取るならば、私共はすべての幕の除かれたその所で、インマヌエルの血の栄光は殺されたもうた神の小羊であることを見るであろう。ただに諸種のやから、国語、民、国の中より贖われた者どもが小羊に向かって讃美の歌を歌うばかりでなく、贖いの恩寵の何も経験しなかった天使の軍勢さえ、
  『屠ほふられ給ひし羔羊こひつじこそ、
   ‥‥‥受くるに相應ふさはしけれ』(黙示録五・十二
との歌に和するのである。そむける世のためにその血を流したまえる神の小羊は天の栄光である。そのごとく彼の王位も、彼の歌も、彼の新婦も、彼の婚筵も、彼の生命いのちの書も、彼の血も、また天の栄光である。しかり、殺されたまえる小羊は常に礼拝、崇敬、讃美の対象であり、生命、光明、喜悦の源泉である。殺されたまいし主は審判主さばきぬしであり、きたるべき王であり、全地の主にて在す。その御衣みころもは血に浸され、その新婦の衣は血に洗われ、彼らの歌はすべての罪より彼らを贖いて、彼ご自身に帰せしめたる血を永遠に語るのである。
 もし天においてかくあるならば、私共も地において、それが私共にとって何であるかを見んと急ぐは善いことではなかろうか。私共はペテロのごとく、それを私共の心の貴きものと呼びうるであろうか。
 それは私共の記憶に何であるか。私共の思念と思想に何であるか。それは私共の不死の霊魂に何をなしたであろうか。
 これによって私共の霊的生活を試みよ。パウロは世とその慾より彼を清めたこの血のほか、何をも誇ることを拒否した。彼の心は、キリストとその十字架のほか何をも人々のうちに知るまじと決心した。私共にとってもかくあるであろうか。探り見るべきである。
 マデレーのフレッチャーは、救い主が実に鋭い、心を探る言葉をもって私共に語りたもうがごとくに述べている。それは既に一世紀半を経た今であるけれども、なお私共の霊魂に聞くべき言葉である。すなわち救い主がかく言いたもう、と彼は言う。
 「あなたは火の蛇に戯れた。しかして蛇はあなたの心を咬んだ。けれどもわたしはその死の毒の最悪のものを既に吸い取った。
 「この危険な企てに、わが霊魂は死に至るほどの悲しみに襲われた。わが身に血の汗のにじみ出るほど、かつて聞きしこともない苦悩を感じた。
 「呵責の十字架は、その上にわが身を引き伸ばされた寝台であり、鋭いとげは疲れ切った頭を置く枕であり、最も辛辣な諷刺はわが慰めであり、酢と胆汁はわが清涼剤であり、殺伐な兵士や残酷な悪徒はわが血管を突き破らんと指さしおり、鞭、釘、鎚、槍はこの恐ろしきことをなすために彼らに許された道具であった。
 「数時間、わたしは彼らの無慈悲な手のもとに血を流した。おお、罪人つみびとよ、あなたの恐るべきのろいはわが血と共に流れた。その時、真昼の光が夜の暗さに変わった。それはわが苦悩の霊魂を蔽う暗黒の象徴であった。しかして最後に地震がわたしを死の眠りに揺さぶる間に、わたしは叫んでわが霊を渡した。この叫びはわが最も残酷な敵を驚かし、その胸を打たしめたところであった。
 「その時、あなたをしてわが救いを施す健康に与らしめんために、あなたの致命的病患の恥ずべき痛ましき結果をわが上に取った。今、罪人よ、かかる驚くべき愛を軽視することをやめ、信仰の目をもってこれに報いよ。あなたの良心がわが傷の驚くべき結果を感ずるまでこれを思い見よ。それがあなたの疾患を癒すとあなたがあかししうるまでに、わが贖いの血を熟視せよ」と。
 確かに、ここに真の認罪あり、ここに悔い改めと痛苦のところあり、ここに医癒と生命と能力の秘訣がある。
 神はその御子みこの血に対する私共の心の態度につき責任を問いたもう。これは神の試みであり、私共の心と性格と生涯とを試みたもう神の試金石である。私共をして常にこの試験によって自ら試み、私共の心を謙らせ、私共の語るこれらのことを自ら感じ、また知るに至るまで、御顔みかおを求めしめよ。
 今の時代において、「我らの新生せざる聴衆が、救いの道につきて正統派の思想をその頭脳に得、イエスの愛に関する福音的言い顕わし方をその口に得、彼らの教派と得意な形式に対する熱心をその心に得、それ以外、何の面倒もなく、自ら神の子等の中に列せんとするを、助けぬよう注意するはよい。悲しいかな、キリストの義を自ら自己に帰することが、人を天に入らしめないように、自ら自己を神の家族なりとすることが、人をして天国の民ならしめるものではない。そのとき立ち得るは御霊みたま御業みわざ、ただその御業のみである」。アーメン。
 されば、キリストの血に対する『信仰のはかり』(ロマ書十二・三)を、それによって自ら思うべきがごとく自己につきて思うところを量る標準となさしめよ。私共をして決して私共の賜物、能力、成功、或いは克己の標準によって自らを量ることを求めしめざれ。かかる標準の測度はただ私共を悲惨な失敗に導くのみである。
 さて、私共が私共の霊の測度のこの標準を有益に当て嵌め得るために、私共は何をなすべきであろうか。

一、私共をして憚らずして恵みの座に来らしめよ

 『心はすゝがれて……神に近づくべし』(ヘブル十・二十二
 『汝らの近づきたるは……そゝぎの血なり』(ヘブル十二・二十二、二十四

 しかり、私共は灑ぎの血に来ている。それは私共の恐れる心、悩める良心に平和を語るところの、鴨居に塗られた血であった(ヘブル十一・二十八)。それは遺言者の死を私共の心に永久に確証し、かくして嗣業に対する私共の権利を確実に保証する、契約の書に灑がれたる血であった(ヘブル九・十九)。
 それはける神に仕えるために、私共の良心に灑がれている(ヘブル九・十四)。
 私共がただ従順ならんために信じさえするならば、それは私共の心に灑がれる。しかして私共はその罪を破壊する力を感ずるのである。私共は、それがすべて罪への傾向を排除し、私共の心をして神の聖意みこころに従順ならしめ得ることを知るのである(ヘブル九・十九、出エジプト二十四・七〜八、ペテロ前書一・二)。
 それは天に在るものに灑がれている(ヘブル九・二十三)。それはまた、私共が罪深き者なれども、なお近づき得るために銅の壇に灑がれている。
 私共が憚らずして聖所に入り得るために、祈禱の金の壇に灑がれている。
 私共が私共の偉大なる大祭司と共にそこに入ることさえなし得るために、至聖所の贖罪所にもそれが灑がれている。
 或る人々は、主イエスの宮の庭の生活、すなわち主の地上の生涯、十字架とその教え、愛の職務だけを知り、或る人々は進んで入り、復活の主の生活、すなわち死より復活したまえる後の聖所における生活を知る。されど哀しいかな、昇天の主として彼を知りまつり、メルキゼデクの範のごとき偉大なる大祭司と共に執り成す者たるべく、共に至聖所に入る者のいかに少なきことぞ。けれどもなおすべては私共に開かれている。灑ぎの血は、そこに入るべきみちの権利を私共に確保している。されば私共をして近づかしめよ。
 血は、大祭司たる彼に灑がれているごとく、彼の子らにして共に祭司たる私共の上にもまた灑がれる。彼の御衣みころもはまた来るべき日にボズラより血染めにされたもうのである(イザヤ六十三・一)。
 しかり、私共は灑ぎの血に来ている。そしてその血はもの言う。されば私共をして近づいてその声に耳を傾けしめよ。至聖所に入るみちは活ける路である。それ自ら私共を運び行く路、さながら天への自動階段である。そしてその路は神の御子の磔殺されたもうた御体みからだである。彼の肉を自己のものとして受け、これを食することによって、悪であるすべてのものが彼と共に十字架に釘づけられていることを見出す。彼は、私共が取り除きあたわぬところのものを取り除きたもうたのである。これが、私共のそれによって近づき得る活ける路である。十字架に釘づけられたまえる栄光の主の血による大胆と、その肉による能力とが、私共をして近づかしめるのである。されば私共をして憚らずして恵みの御座みざとそこに坐したもう彼にきたらしめよ。何となれば、私共は灑ぎの血に来ていると言っても、まず私共のちょうどそのありのままの悔悟の霊にて近づくことなくして信じまた領有せんと求めることを、恐れて警戒すべき要があるからである。
 現代にはただに聖書に来り、教理に来り、正統説に来り、霊的想念にだけ来るという、大いなるおそれがある。私共をして聖書を通して、神、すなわち彼をち望む者のために働かんと待っていたもう活ける神ご自身に来ることを努めしめよ。血を灑がれたる路はその道である。けれども目指すところは活ける神ご自身であるのである。さてまたその上さらに進んで私共は何をなすべきであろうか。

二、私共をして贖い主ご自身に対する活ける信仰を働かしめよ

 『約束し給ひし者は忠實なれば、我らの言ひあらはす所ののぞみ(信仰=欽定訳)を動さずして堅く守るべし』(ヘブル十・二十三

 私共は近づきつつあるか。さらば私共の恩恵に進む第二歩は、主ご自身に対する私共の信仰の告白を堅く守ることである。ヘブル書の記者は『なんぢらの近づきたるは……新約の仲保なかだちなるイエス、及びアベルの血にまさりて物言ふそゝぎの血なり』(十二・二十二、二十四)と言い、この二つの声につきて語り進み、それをもってその書を終わっている。契約の血は地にて語る。されど契約の仲保者は天より語りたもう。その声は啻にふるき不十分な不安定なものをふるばかりでなく、その震ったものを取り除くためである。もし私共が前述の言葉を通して彼の血の声を聞いたならば、私共をして今一つの声、すなわち彼ご自身の血をもって印したまえる契約の仲保なる主イエスご自身の声に注意せしめよ。
 彼は仲保する御方である。彼は契約を私共の心に書きしるす御方、天にいます活ける主にてありたもう。約束したまえる彼は忠実にて在せば、私共は彼を信ずる信仰の告白を堅く保つべきである。私共は来りまた近づく以上のこと、すなわち彼を信ずることを要する。『そは神にきたる者は、神の在すこと……を、必ず信ずべければなり』(ヘブル十一・六)。すなわち彼は受け入れつつ、赦しつつ、きよめつつ、占領しつつ在すこと、しかして今それをなしつつ在すことを必ず信ずべきである。しかし信仰と正統的信条を持つこととが同じでないように、不信仰は無関心と同じでない。不信仰は霊魂の麻痺である。すなわち彼にあって、また彼によって私共に提供されているすべてのものを領有するに失敗することである。
 この最も肝要なことに関して、私は再び、久しき以前にマデレーの牧師が人をして覚罪せしめる能力をもって言った言葉をここに引用するより以上のことをなし得ぬのである。彼は言う、
 「不信仰についての覚罪を恐れるな。あたかも地中における穀粒の発芽が天に向かって茎を突き出すことに先立つごとく、一般に神的信仰に先立って覚罪が起こるものである。不信仰は特に罪の名に値する犯罪、福音に従って罰せられるべき犯罪である(マルコ十六・十六)。それはすべての他の不正のとがを我らにくくりつけ、我らのすべての腐敗の力を保持するところの罪である。不信仰の直接の結果は心をかたくなにすること(マルコ十六・十四)、そして活ける神より離れしめること(ヘブル三・十二)である。そしてこの頑なになることと離れることは、我らのすべての現実の諸罪を産み出す真の親で、その罪の数と暗黒さは、不信仰の力の増長あるいは減退するたびに従って増減するものである。
 「この不信仰の罪についての覚罪は極めて肝要である。何故なれば、これが極悪とその力強さをしみじみと感ずることのほか何ものも、我らをして全き治癒を得ずして安んじざるに至らしめるものはないからである。
 「けれども、かく不信仰を覚る時に、君は真の信仰が非常に遠く隔たっているように想像して、信ずることの困難さを増してはならぬ。かえってそれは君の心にはなはだ近いと考えよ。聖パウロのごとく、キリストと十字架に釘づけられたまえる彼のほか、何をも知るまじと決心し、キリストが君のために何にて在し、何をなし、またいかに苦しみたまえるかを、信じ、実感し、当て嵌める見解に至ることを目指して進め。君の罪と不信仰のすべての雲を通して、世の罪と君の罪を除く神の小羊として彼を見まつれ。一切を贖う貴い彼の血の言い表しがたき価値と、考えも及ばぬ効力を考察せよ。それはご自身の義の律法の刑罰をば我らに代わって受けるために、犠牲また祭司として、罪ある肉のさまをとって顕れたもうた時に、永遠のロゴスによって取られたる肉体の血、多くの国民にそそがんとて殺されたまえる神の小羊の血、聖父みちちの懐と永遠の宝座を充たしたもう御方、その足下にすべての天の諸権がその冠を投げ棄てるところの奥義的なる御方の血である。……かくして信仰の戸が開かれ、君が神の救いを見始めるまで、かの求めてやまなかった寡婦の熱心をもって叩け。必ずここキリスト教の入口に留まることをなすな。
 「イエスの血によって、至聖所に入るべく大胆をもて。ペンテコステの火の十分に来るまで信仰より信仰に進め。すなわち君が上よりの能力を着せられ、聖霊と火にてバプテスマを受け、キリストが聖父より示されたもうた、その高められたもうた時にそのしもべしもめに豊かに注ぎたまえるところの約束の聖霊をもって印せられるまで、信仰より信仰に進み行け。イエスご自身、なお君のために弁護者にてありたもう。彼がその恩恵の永遠の福音を君に宣べたもう間、おお、君のやかましい良心をして沈黙を守らしめよ。しかして君がもし今日、彼の御声みこえを聞くならば、その心を頑なにせず、不信仰の洞よりでて、神の憐憫の上衣に身を包み、赦したもう神、決して変わらざる真理と永遠の愛の神を拝みまつれ」と言っている。
 さてイエスの血の驚くべきこの主題を開示するヘブル書は、その結論において第三の勧告を与えている。

三、私共をしてその能力をあかししまたべ伝えしめよ

 『たがひ相顧あひかへりみ愛とわざとをはげますべし』(ヘブル十・二十四

 贖い、きよめ、能力を与えるイエスの血の効力を体験した者の、純真な、無邪気な、心より感じたあかしよりも、いっそう大きな、いっそう人を励ます能力があろうか。私共をして遠く広くそれを語らしめよ。私共をしてそれを宣べ伝えしめよ。けれどもまた私共をして私共の経験したところを証せしめよ。詩篇の作者は『われ信ずるによりて語れり』(詩篇百十六・十=欽定訳)と言った。神がその約したまえることを私共のうちになしたもうたとの純正な信仰は、私共の唇をもって、告白せざるを得ざらしめる。もし私共が理解し、或いは告白するところのものを、神が私共の中に、また私共のためになしたもうたということを信ぜぬならば、私共は沈黙を守るべきである。されど私共の証をして、主を崇め、主の民をば求めまた見出すよう励ますものにてあらしめよ。それをして愛と信仰の良きわざを励ますものにてあらしめよ。私共をして、使徒パウロのごとく、イエス・キリストとその十字架に釘づけられたまえる彼とのほか、何をも知るまじと決心せしめよ。
 私共をして、彼のごとく、十字架のほか誇るところなからしめよ。
 私共をして、ただ十字架にかかりたまえる救い主のみを宣べ伝えしめよ。
 かかる説教、かかる証言、かかる知識、かかる誇りは、確かに人々を励まして、主のなしたまえるすべてのことのため、感恩の心をもって善き業をなすに至らしめるのである。
 その上に私共の記憶すべきことは、私共が至聖所に近づき、これに入る目的が、第一に私共の楽しみまた利益のためでなく、私共が他人のために執り成しそこに立ち得るため、主イエスがその民のために祈りたもう時に彼とともにその祭司的職掌において一つにせられるためであるということである。
 されば、私共をして互いに顧み、彼らのために取りなすことによって、愛と善き業を励まさしめよ。私共をして他人のために信じ、彼らのために祈願をなすべく近づかしめよ。これこそキリストの流血がご自身の民たる私共に要求するところである。
 かくて、ただ今一つのことが言うべく残っている。ヘブル書の記者は、彼の結論に一つの言葉を加えて、『ゆゑに我らイエスによりて常に讃美の供物そなへものを神にさゝぐべし、すなはちその御名みなむる口唇くちびるなり』と言っている(ヘブル十三・十五)。
 されば私共が、私共の信仰の告白において、私共の使言の宣伝において、人のための執り成しにおいて、近づきまつる時に、讃美をして常に満ち溢れしめよ。
 もし、決して贖罪の血の功績を必要とせぬ天使らが、常にこれらの天的讃美を歌うならば、まして私共、罪深い叛逆せる死ぬべき人間が、喜びの歌、感謝の讃歌をもって溢れないであろうか。
 讃美はさらに進んで、一層の勝利を得る秘訣である。讃美は実地の信仰の証拠である。讃美は神の耳には音楽であり、神の民の唇における讃美、感謝、喜びは、神の敵どもの心にはそこに射込む矢のごとくである。そして喜びほどに人の心に覚罪を起すものはない。
 讃美は神の救いを私共に示すようその道を備える。
 私共をして信仰によって讃美し始めしめよ。されば私共は間もなく感情によってそれを続けるであろう。
 いかに多くの人々は、もし彼らが祈禱懇求の代わりに讃美感謝に破れ出たならば、直ちに自由を得たことであろう。
 『我らはイエスの血により、憚らずして至聖所に入るべし』(ヘブル十・十九
 『約束し給ひし者は忠實なれば、我ら言ひあらはす所ののぞみを動かさずして堅く守るべし』(同十・二十三
 『たがひ相顧あひかへりみ愛とわざとをはげますべし』(同十・二十四
 『ゆゑに我らイエスによりて常に讃美の供物そなへものを神にさゝぐべし』(同十三・十五
 『おのきよめられし契約の血を潔からずとなす者の受くべき罰の重きこと如何許いかばかりとおもふか』(同十・二十九



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