第三章 血による覚罪
『汝らの近づきたるは……物言ふ灑の血なり。』(ヘブル書十二・二十二、二十四)
前章においては、救い主の流血を通じて神の義が啓示されおることを語ったが、本章においてはその血によって私共が自ら罪ありと悟ることについて語ろうと思う。ここに罪というのは、不道徳或いは犯罪としての罪を言うのではない。私共の創造者なる神に対する叛逆の状態を言うところの罪である。すなわち神の支配したもう宇宙における道徳上の無政府主義、真神無視というのが最も適当であろう。されば血による覚罪とは、救い主の流血によって、この状態を罪なりと悟るを言うのである。世には、自分は別に不道徳でもなく、犯罪もせぬから罪人でないと思っている者が多くある。かく欺かれおる人々に、その真相を悟らせる者は誰であろうか。いかにしてかかる人を覚醒して罪ありと悟らせ得ようか。私は答えて言う、それはただキリストの血を理解することによるのみであると。
一、キリストの血は罪の事実を語る
『汝の弟の血の聲 地より我に叫べり』(創世記四・十)
アダムがその創造主なる神に対して罪を犯した時に、彼の耕していたその地が詛いをもって撃たれた。すなわち『土は汝のために詛はる』(創世記三・十七)と録されているが、カインがアベルの義しき血を流した時には、人それ自体が詛われた。すなわち『汝は詛れて此地を離るべし』(創世記四・十一)と録されている。そしてアベルの血はもの言い、天に向かって復讐を叫び、神は詛いをもって人に臨みたもうた。キリストの血はアベルの血よりもさらに勝れることを語るが、それとともに同じく罪の事実を人に告げる。人はなお罪を意識しないほどに、不信仰の毒によって無感覚にせられている。周囲の世界は不義、残虐、淫欲、私心、傲慢をもって浸潤され、貪欲、憎悪、嫉妬、悪意はいずこにも一般に行われているのに、なお人はこれを悟らず、これを見ず、かえって断然神から独立し、その当然のご要求を拒否することを勇敢なりと考えるほどに至っている。かくて預言者の預言も効なく、説教者の説教も空しく、人は自らその罪を見る能わず、また見ることを欲せぬのである。
さて今は、かつてなきほどに血が罪の事実を雄弁に物語っている。血の川々はフランダースに流れ、そして世界至るところに氾濫している。ドイツのある有力な新聞に、最近の戦争(第一次世界戦争)の原因は政治上よりもむしろ商業上のことであると述べているが、実にその通りである。金銭の愛、権力と所有の慾、これらが最近の世界的大悲劇の実際の原因である。もっと簡単に言えば『罪門戸に伏す』(創世記四・七)である。文明開化がそのいわゆる進歩なるもののために払った代価は、血の洪水であった。最近或る人は「世界は狂乱した」と私に語った。しかしそれは今始まったことでなく、むしろ遠い昔から狂乱しており、戦争中その狂乱が一層甚だしくなったのである。そしてそれは戦争中、残忍な殺戮の意向が一層烈しくなったからでなく、全体この惨事を引き起こした第一原因がドイツ文化でなくむしろ人間の心中の罪であることを悟らぬからである。
願う、私共が敵国人を殺して自ら義とするに熱心なるごとく、むしろ各自その心から罪を追い出し、自己の家をよく治めることに熱心ならんことを。しかり、私共は知るべくまた悟るべきである。血は語る。されど悲しいかな、私共は盲で、聾で、しかも狂気している。いかにして学び、聞き、また注意することができようか。もし聖言が用をなさず、自然の無言の書も読まれず、死も苦難も悲哀も人類をして罪の事実を悟らしめ得ぬとするならば、私共は何にその覚醒を期待すべきであろうか。もしその他の啓示が大文字をもって大空に書かれたならば、人はこれを見て恐れ戦き悔い改めるであろうか。否々、人はかかることによって見せしめ悟らしめられるものではない。されど、ここに天下にただ一つの道がある。すなわち人は無罪の犠牲の血を見ることによってのみ、罪悪の事実の真の観念に達しうるのである。古昔の時代においてそうであった。すなわち、かく神は型と影とをもってユダヤ人に語りたもうた。当時、血を灑がれた祭壇は言語よりも雄弁に語っていた。呻き鳴く牛、これを屠る閃刀、牲の剥皮、滴る血、日ごと、週ごと、月ごと、年ごとに壇上に焼かれる犠牲の肉、ああ、これらよりさらにまさって嫌忌すべき何物があり得ようか。思慮あるイスラエル人に対して罪の恐ろしさ、忌まわしさを、もっと雄弁に語り示すものがこのほかにあり得ようか。否、私はあり得ないと思う。そして犠牲はいつでも無罪のものでありその苦しみと死とは代償的であったということをここに憶えねばならぬ。それのみがよく人の心に罪の事実を承認納得せしめ得ると思われたのである。
さらに新約の諸書に振り向けば、そこにこれらの型の大いなる実体を見、覚罪について一層恐るべく語り、罪の憎むべきことを宣言する、カルバリからの声を聞く次第であるが、それは神の御子の血の声である。聖霊は預言者ゼカリヤを通して、来るべき日にユダヤ人は彼らの贖い主の御傷を仰ぎ見るべきこと、そしてその時、ただその時においてのみ、彼らが罪を悟り、涙と悲嘆と痛哭をもって悔い改めるということを示したもう(ゼカリヤ十二・十)。
ペテロが五旬節の時、その説教の中に示したのは、律法の破られたことでなく、神の御心の破られたこと、すなわち十字架につけられたまえる主イエスであった。人々はその眼の前に、十字架につけられたまいしそのままなるイエス・キリストを示され、その心を刺され、一斉に『我ら何をなすべきか』(使徒二・三十七)と叫び出したのである。実にかかる犠牲の結果は人の心を捉えて「こは何故ぞ」「無罪の御方のこの苦しみには何の目的ありしや」と覚罪の質問を発せしめる。この疑問が人の心情と理解の上に強烈に迫ると、ついに罪の意識が霊魂の上にその曙光を顕すのである。無罪の御方が有罪の者のために、義しき御方が不義なる者のために、聖き御方が悪人のために、苦難を受け血を流して死にたもうた。このことが私共の心にとどまり、また燃え、憤慨をもって叫び出ずるに至らんことを! 私共が無罪の主の私共の罪のために苦しみたもうたことを実感する時に、驚駭は変わって慚愧の念を起すに至る。感謝すべきかな、十字架は今なお有効である。神たる犠牲の無罪の血は今なおもの言う。そして或る者はこれを聞き、心を用いまた悟るのである。
二、キリストの血は私共に罪の事実を悟らしめる
『われ來りて語らざりしならば、彼ら罪なかりしならん。されど今はその罪いひのがるべき樣なし。』(ヨハネ十五・二十二)
私は既に無罪の犠牲のみがよく罪の事実を顕すということを述べたが、それは常にそうである。私共は無罪の人の苦難を聞く時に、一種厳かな感じを持つ。それは私共の性質の中の最善のものを衝動する。ダビデは、無罪の者が富める無法者の手に苦しめられたという譬えを聞いた時に、深刻に動かされ、その心は憤りに燃えた。そして『汝は其人なり』(サムエル後書十二・七)の言葉にその目の覆いが取り去られた時に、彼は圧倒的に自己の罪を自覚したのである。弱い寄る辺ない無罪者を苦しめるほど、世にも卑劣な賤しむべきことはない。そしてその憎悪すべきことの最もはなはだしい実例を見たいならば、目をカルバリに向けるべきである。それは罪の事実を明示するばかりでなく、また罪の性質を悟らしめる。十字架を眺めるならば、そこに完全なる無罪者の死を見る。それだけでも、石のごとき心を動かして涙に咽ばしめるに充分であるけれども、私共のそこに見るところはまたすべての道徳界の化身たる御方の死である。そこに磔殺されたもうたのは、すべての完全、温柔、純潔、聖き、愛の諸徳の一切の具現者であった。私は思う、当時のユダヤ人がかくも非人道的狂暴を敢えてするまでに怒らせられたということは、私共には限りなき驚異である。もしそれが地に属し、肉に属するただのペリシテ人であったならば、彼の教えに従う用意はなくとも、必ずある程度までそのなしたもうままに放任したであろう。彼らは罵詈嘲笑したであろうが、必ずそれがはなはだしい堕落者の往く極度であったであろう。しかるに最も宗教的なる人の心は、神をご自身のものなるこの世界から追い出そうとするほどに絶望的である。『これは世嗣なり、いざ殺して、その嗣業を取らん』(マタイ二十一・三十八)とは自然に彼らの唇に上る言葉であった。無罪? しかり。彼は最善美にして神的なる一切の徳の化身、ことごとく善美神聖にて在したもう。されども彼は敢えて私共をご自身のものと要求すると仰せたまい、また敢えて私共の偽善、傲慢、罪悪を指摘したもうた。誠に彼は私共を赦し、癒し、益せんために、かくなしたもうた。彼は私共の態度にかかわらず敢えてかくなしたもうたが、かくすることは彼にとりては自らに死刑執行を命令すると同様であった。私共はそれをことごとく実感しうるであろうか。血を流し、苦しみたもう神の御子を見上げて、しかもなお私共は『心は萬物よりも僞る者にして甚だ惡』(エレミヤ十七・九)きものでないと言い得ようか。キリストの血は、人の心の罪の永久的な恐怖すべき記念碑である。もしキリストがロンドンに現れて、仁慈の業をなし、権能の奇蹟を行い、同時にまた教会内外の罪悪、傲慢、偽善を叱責したもうたならば、彼の受けたもう待遇は、ユダヤ人より受けたもうたそれと異なると考え得られようか。否々、決してそうではない。
三、キリストの血は私共に罪の現存を悟らしめる
『汝ら不法の人の手をもて釘磔にして殺せり』(使徒二・二十三)
『汝は其人なり』(サムエル後書十二・七)
反対する者は言うであろう。キリストの十字架は我々と何の関係がある、それは遠い昔のことである、しかも自分はユダヤ人でない、何の意味で自分が関心を持つべきであろうか、と。私共は躊躇なく答えて言う。キリストはただユダヤ人のみであったか。彼はヘブル民族のほか、誰のためにも死にたまわなかったであろうか。彼の受肉、彼の使命、彼の死はただヘブル人のみに関することであったか。彼の使信は単に彼らのためのみであったか。彼は確かに肉体をとりたる神であるではないか。彼は世の贖い主、すなわちあなたの贖い主、またわが贖い主ではありたまわぬか。彼はわが上に要求権を持ちたまわぬか。私はわが贖い主のお苦しみを思いやることをしないであろうか。これらの問いは、私をしてわが眼をカルバリに向けしめずしてはやまぬ。そのカルバリにおいてのみ、私はわが罪を見、また悟り得るのである。不道徳と犯罪の性質を学ぶは十字架ならずとも何処でもできるが、わが心に罪そのものの現存することは、十字架においてのみ悟ることができる。今一つの例話をもってこれを説明しよう。
一人の貧しい人が或る賑やかな町を通り、十歳ばかりの女の子を乗せた馬車の前を過ぎ行こうとした。その折しも、その馬車の馭者は買い物のため馬車を降りていったのに、馬が何かに驚いて急に飛び出した。ちょうど通りかかったこの貧しい人は、馬車の上の子供の危険を気遣い、身を挺して馬をとどめ、その子供を助けたが、そのために大怪我をし、正気を失ったまま付近の病院に担ぎ込まれた。彼は数日の間、生死の間をさまよって、ようやく助かった。けれどもそのために生涯、跛者になってしまったのである。さて、この人が正気づいた時に、第一に問うのはその女の子のことであった。「あの子は助かりましたか」「助かりました」「何か傷を受けましたか」「いいえ」「私はあの子に会うことができましょうか」「たぶん、できませんでしょう。あなたは病院におり、あの子はここにおりませぬから」「けれどもあの子は訪ねて来て礼を言いましたでしょう、そうではありませんか」とこの貧しい人は問うたが、看護婦は「いいえ」と答えるほかなかった。彼にはそれがなぜか説明が付かず、ただそのうちにいつか訪ねて来て、礼を言ってくれるであろうと考えて自らを慰めるほかなかった。しかし時を経ても、その子供はついに来なかった。実はその子供の父が、その子の救助のために怪我をした人の治療費を負わせられることを恐れて、その子の見舞いに行くことを拒んだのだということであった。この貧しい跛者が、いつも「私が助けたあの子供が一度でも私のところに来て、ただ一言、ありがとうと言ってくれたならば、それで満足するのに」と言うのを聞くは誠に傷心の至りであった。しかるに彼は、そのためにその生涯の最も楽しい時をすべて失ったその子供を、ひと目も見ることができなかったのである。この話を聞いて、あなたは「そんな忘恩があり得ようか」と言うか。その通りである。けれどもそれより幾千倍増して悪いことがある。これらの言葉を読み、自らその部屋に退き、後ろの戸を閉じ、燃ゆる心より、感謝を主イエスに献げない人があるとするならば、この例話はその人に当て嵌まるのではなかろうか。あなたは、キリストがあなたの感謝するか否かに関心を持ちたもうを信じ難しと思うか。また神が、その受造物の最も微賤なる者の讃美感謝に耳を傾けないほどに、その創造したまえる世界、その経営したまえる宇宙に無関心にありたもうと想像し得られるか。もし神的啓示がなかったならば、そう考える理由がないと言えぬかも知れぬが、神がかかる啓示をあなたに与えおりたもう以上、それを信ぜぬあなたの恐るべき不信仰は言語に絶して決して赦し得られざることではないか。さても、あなたは信ぜぬであろうか。神はあなたの讃美感謝に関心を持ち、それを求め、それを慕い、それを待ち望みたもう。しかしあなたはその感恩の心の欠けていることのために、キリストに来ることを妨げられてはならぬ。むしろそれによって、あなたの心がキリストなしにはいかに堕落し、いかに寄る辺なき有様になりはてているかを悟るべきである。
主イエスの犠牲を軽んじ、その苦難を無視し、その血を足下に蹂躙すること、すなわちあたかもかかる血が流されなかったごとくに行動し、考え、また語り、その犠牲をば尋常普通のことのごとく思う、それが罪である。ほかのすべての罪は赦され、拭い去られることができる。けれどももし私共が赦罪を生ぜしめるこの唯一事を無視するならば、私共はどうして赦されるであろうか。もし私共が、私共の救い出しのために置かれた唯一の梯子を、眼を挙げて見ながら、故意に蹴飛ばすならば、永遠の燃ゆる火よりどうして逃れることができようか。今日多くの人が地獄に陥るのは、自分の罪のためというよりは、むしろその罪よりの救いの道、すなわち主イエスの血を信ずる信仰を拒否したためである。このことは私共に実感し難いかも知れぬけれども、事実はやはりその通りである。
もしあなたが自ら罪人でないと思うならば、カルバリを熟視せよ。あなたが自ら自分は謹厳で身持ち正しく、大酒呑みや娼婦のごとくに罪人でないと思うならば、あなたは不幸な、しかり、はなはだ不幸な霊魂であるというべきである。何故なれば、あなたが自ら酒癖や不潔に陥らないのは、あなたの境遇がしからしめたので、あなたの性質からではないということを弁えないからである。カーライルは「それはただ着物だけである」と言ったが、その通りである。もし私共が罪人でないならば、私共に何の望みもない。何故なれば、キリストの血を流したもうたのは、ただ罪人のためのみであるからである。私共がもし罪深くないならば、悲しいかな、私共は既に永遠に失われた者である。カルバリを熟視せよ。もの言う血に耳を傾けよ。あなた自らの欺かれた心の想像の告げるところでなく、もの言う血の告げるところを信ぜよ。たといあなた自らかく感ぜずとも、聖にして遍く見通したもう神の御眼の前に、自ら罪人なることを信ぜよ。そしてあなたが血を流させまつったその御方に立ち帰り、その流血によって、あなたの良心には平和、あなたの霊魂には医癒の与えられることを発見せよ。神の御子に対するこの忘恩を些細のことと思うか。あなたがその周囲に常に見るところの不道徳や犯罪の恐ろしさに比較して、それをただ感情上のことと思うか。決してそうではない。それは地上におけるすべての禍の根であり原因である。人の心がご自身に向かって公然と叛逆と忘恩の態度をとりつつある間は、神は外部に現れる禍よりの救いを施し得たまわず、また施すことを欲したまわない。放蕩息子の復帰を慕い求めるその父は、その子に金銭を送って助けるはただ彼の災厄を甚だしくし、帰り来る時を遅くするだけであることを、よく知っているのである。
もし全人類がみなソクラテスのごとく道徳的であっても、彼等がその高ぶれる心の中に忘恩と不信仰を宿し、彼らの創造主、救い主、また神たる御方に向かって従順ならぬ間は、私共の天の父なる神にとって何の益になろうか。もし王の臣下が、王と王の法律を無視して生活するならば、彼らの叛逆が王に何の益となるであろうか。
イエスの血はもの言う! 耳傾けよ、注意せよ、信ぜよ、順えよ。それが遅からぬ間に、そしてあなたの苦しみ悶える霊魂に対して悔い改めと憐憫の門を永久に閉じぬ間に!
| 序 | 緒 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 結 | 目次 |