贖 罪 の 動 力

          パゼット・ウィルクス著
          大  江  邦  治訳


第一章 キリストの流血



 本書において、私共は神たる私共の贖い主がその生命の血を注ぎ出したまえる目的を共に考察したいと思う。私はこの考察によって、贖罪の理由──キリストの驚くべき犠牲により生ずる幸いなる結果が私共の思念に明瞭になり、従ってそれが私共の心情を動かすに至るべきを信ずる。
 まずこの始めの章において、御霊みたまの助けを得て、主の逝去の有様、すなわち救い主はいかなる死を遂げたもうたかを描写したいと思う。
 願う、私共が神の恩恵を徒に受けることのないように、聖霊が私共に迫って、悟りを明らかにするとともに、心を溶かしたまわんことを。
 さて聖書のうちで、キリストの死を最も美わしく説明しているところの一つは、ペテロがその書翰の中に『しもべたる者』に勧めた言葉の中に見出される。ペテロの時代の僕は多くは奴隷であったから、キリストの奴隷たる私共もその仲間と心得てよいであろう。さればこれを私共に当て嵌まる言葉として大いに注意して学びたい。ペテロ前書二・二十一、二十二を開けばそこで第一に見出すことは主イエスが苦痛の死を遂げたもうたということである。

一、主イエスの死は苦痛の死であった

 『キリストも汝らの爲に苦難くるしみをうけ』(ペテロ前書二・二十一

 主は死というものに伴う恐るべくまた残酷な一切の毒悪に満ちた死を味わいたもうた。それは単なる死ではなく、長く苦悩の時を経る十字架上の死であった。主はその苦痛の緩和されることを一切否み、悩む神経を麻痺させて苦痛を和らげるために差し出した没薬を混ぜた葡萄酒を退けて受けたまわなかった。
 死はすべての生ける者に来るが、しばしば苦痛懊悩を伴わぬ場合がある。また苦痛を伴わないと共に卒然と来ることもあるけれども、神の御子の死はかかる死でなく、彼は苦しみたもうた。ペテロは大いにこの点に注意を惹いているのである。
 詩篇第二十二篇に、聖霊は預言のうちに、贖い主の三重の苦痛を描写したもうた。すなわちその責めさいなまれたまえる肉体の苦痛(十四〜二十節)。主が癒し、助け、恵みたもうた数千の人々のうち誰一人も、この最後の苦痛患難の中に、お慰め申し上げんとてみそばに立つ者もなく、みな棄て去り、ただ独り残されたもうた淋しき救い主の心の苦痛(六〜十三節)。そしてその上に霊の苦痛(一〜五節)があった。実にご自身の目から聖父みちち御顔みかおの隠されたるお苦しみは、ああ誰がそれを述べ得るであろう。
 『彼はわれらのとがのために傷けられ』(イザヤ五十三・五)。私共は限られたる貧弱な想像力しか持たぬ。よしやすべての人間の想像力を一つに集めても、神の小羊の上に置かれたる世の罪の苦痛を描き得ようか。
 言うことも考えることもできぬ地獄の汚穢にて漲る世界の不義の大洋が、きよくして汚斑もなき主の霊に押し迫るという、その恐ろしき奥義、『不法の秘密』(テサロニケ後書二・七)、世の贖い主の苦痛を誰が理解し得るであろうか。

二、主イエスの死は無罪の死であった

 『彼は罪を犯さず、その口に虛僞いつはりなく』(ペテロ前書二・二十二

 キリストは死にたもうた。罪なき御方が罪ある者のために死にたもうた。この一事ほど人の心を衝動せしめることはない。それはただに無罪の御方の受難であるばかりでなく、無罪の方が有罪人の代わりに、有罪人のために、有罪人の手によって苦難を受けたもうたのである。
 殺人者のやいばによって流された血が、その殺人者の罪の救治そのものであり、犯罪者の罪がその犯罪者の救いを生ずるとは、ああ何たる驚異、何たる奥義のここにあることぞ!
 『彼は罪を犯さず』とあるごとく、彼の手は何の罪もなく、『その口には虛僞なく』とあるごとくその唇に何らの詐りもなく、『罵られて罵らず』とあるごとく、その心に何の悪意も持ちたまわなかった。かかる無罪の御方が罪ある者のために苦しみたもうたのである。
 私共がかくのごとく私共の罪を見るまでは、私共はまだ自己の罪というものを見たと言われぬであろう。
 無罪の御方が有罪者の代わりに! 無罪の御方が有罪者のために!! 無罪の御方が有罪者の手にかかりたもうとは!!! しかもかく無罪の御方! 私が後に指示するごとく完全なる道徳美の化身にてありたもうた、かくも無罪の御方が、かくも甚だしき罪のために死にたもうとは! そしてその甚だしき罪は我がもの、無罪は主のものであるのに、我がために苦しみたもうたと信じ悟るまでは、罪というものが深い意義を持たず、わが眼の前に些細のこととしか見えぬであろう。

三、主イエスの死は無抵抗の死であった

 『苦しめられておびやかさず』(ペテロ前書二・二十三

 抵抗せず防御せずして死に渡される者を見るほどに義侠心を刺戟することはない。もし武装した悪漢が、何の武器も持たず自ら防ぐべき何のすべもない人をむざむざ打ち殺すさまを見るならば、いかに情に動ぜぬ人でも心を動かさずにはおられぬであろう。
 『我わが父にひて十二軍に餘る御使みつかひを今あたへらるることあたはずと思ふか』(マタイ二十六・五十三)とは、救い主が十二の随従者らに仰せられたところである。けれども主はかくのごとくにして自ら守りたもうべきではなかった。罪悪はその最悪、最暗黒の状態で顕れねばならなかったのである。もし主が抵抗すなわち自己防御をなしたもうならば、敵をして、これに仮託して復讐的行為に出ずる口実を作らしめたであろう。実に主にはかの防御力のない貧弱な十二人の従者の代わりに、十二軍にあまる天使が御頤使ごいしに従わんと待ちかまえていたのであるから、かくも無抵抗の死を遂げたもうは、仰せられたごとくに、やむを得ないからではなかったのである。
 生命が無防御無抵抗のまま取られる多くの場合は、防御も抵抗も不可能であるからである。しかるに救い主の場合は全然事情を異にする。主はもし自らなさんと思し召せば、啻にこれを憤り、これを拒み、これを脅かし、これに返報し得たもうばかりでなく、その生命を求める者を圧倒し亡ぼすこともその権能のうちにあったのである。されども主の目的のためには、それはかくあり得ず、またあるべからざることであった。かくて主は無防備無抵抗の死を遂げたもうたのである。

四、主イエスの死は任意の死であった

 『みづから私共の罪を己が身に負ひ給へり』(ペテロ前書二・二十四

 『それは我……生命いのちを捨つるゆゑなり。人これを我より取るにあらず』(ヨハネ十・十七、十八)。生命の君にて在す主は死ぬためにこの世にきたりたもうた。本来私共の目的、願望また企図は生きることで、死は私共の望みも迎えもせぬ、恐ろしい侵入者として襲い来る。されば私共は何とかして死を避け、その残酷なる攻撃を逃れようと奮闘努力するのである。しかるにキリストは死ぬために来りたもうた。
 キリストがこの恐るべきことのために聖父みちちより遣わされたもうたということはもちろん真であるが、ご自身もまたその聖父の御旨みむねをことごとく成し遂げんとて任意的に死にたもうたのである。私共は御しがたいわがままな羊のごとく、己がみちに迷って行ったのに、主は小羊のごとく導かれ、屠る者にご自身を渡したもうた。主はご自身の運命を知り、ご自身を待っている苦難を自覚して、心より望んで、堅くその顔を向けてエルサレムに上り、自ら木に懸かり私共の罪をその身に負いたもうた。
 繰り返して言う。主イエスのこの死の途への旅を執りたもうたのは、強制する者があってやむなくではなかった。ゲツセマネにも、審判さばきの庭にも、カルバリにも、強いて行かしめまつる何者もなかった。主は公義のため、聖父のため、叛ける世の救いのため、十字架の死を喜び迎えたもうたのである。『なんぢは義をいつくしみ惡をにくむ』(詩篇四十五・七)。すなわち義を愛し悪を憎みたもうた。主をして全世界の罪のために心よりの犠牲とならしめたものはこの愛と憎しみとであった。
 『万軍のヱホバの熱心これを成したまふべし』(イザヤ九・七)とあるが、この熱心は義を愛し悪を憎む、愛と憎悪の合して燃ゆるほのおにほかならぬ。

五、主イエスの死は恥辱の死であった

 『木の上にかゝりて』(ペテロ前書二・二十四

 『木』とは死刑具を表す語である。されば『木にかけらるゝ者はヱホバにのろはるゝ者なればなり』(申命記二十一・二十三)と録してある。
 主のご逝去には一言の讃辞をもって送りまつる者もなかった。主はその敵の厭悪、その友の沈黙、その民の呪詛の中に、極悪人犯罪人として死にたもうた。
 人は或いは名のため、誉れのため、友のため、国のため、自己弁護のため、自己に属する者のために死に、勇士は世に称讃されて戦場に倒れもする。けれども神の御子の死は悪口罵詈のもとの恥辱の死であった。彼は公然の侮辱の中に死にたもうたのである。『その墓はあしき者とともに設けられ』(イザヤ五十三・九)とは彼の碑文とすべき語である。彼はその敵のためにその敵の手にかかりて、しかもその敵に罪人つみびととせられて死にたもうた。
 少しばかりの枯れ草は彼の揺籃であり、いばらの冠は彼の死の床の枕であった。
 彼の造りたもうたこの世界はその造り主に何の用もなさず、ご自身の民は彼を受けず、そのなし得るあらゆる侮辱をもって追い出したのである。されども、

六、主イエスの死は勝利の死であった

 『正しくさばきたまふ者に己を委ね……給へり』(ペテロ前書二・二十三

 主は確かな信仰に安んじて死にたもうた。『わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし』(マタイ二十七・四十六)の叫びは、『父よ、わが靈を御手みてにゆだぬ』(ルカ二十三・四十六)に変わった。そこには敗北も失敗もなく、敗訴のごとき何の感もない。数時間にわたる苦闘のあとにおける大声の勝利の叫びは、彼を十字架につけた、その執行者らの口から、心ならずも彼の神性を告白せしめたのである。
 主は聖父のその義を擁護したもうことという確認に安んじて勝利を得たもうた。それは信仰の勝利、正しき審判主さばきぬしを信ずる信仰の勝利であった。苦難、羞恥、侮辱、虐待の中にも信仰の確信によって平静を保ちたもうた。彼はまたその受けたまえる肉体の苦痛にもまさる、罪人の言い逆らいをも、無害無抵抗をもって忍びたもうた。
 主は自ら進んで荏弱よわきの極みに下り、全世界の救いなるその業の完遂せることを信ずる、権能の確信をもって死にたもうた。これにまさる崇高荘厳なる光景がまたとあり得ようか。

七、主イエスの死は効果ある死であった

 『みづから我らの罪を己が身に負ひ給へり。……汝らは彼の傷によりて癒されたり。……今は汝らの靈魂たましひの牧者たる監督に歸りたり。』(ペテロ前書二・二十四、二十五

 主イエスの流血すなわち苦難と死の効果は私がこれより後の章に詳述せんとするところであるが、ペテロはここにその三つのことを語っている。すなわち
(一)彼はわれわれの罪を負いたもうた。
(二)彼は私共の霊魂を癒したもうた。
(三)彼は私共を主に導きかえしたもうた。
と言っている。
(一)彼は私共の罪を負いたもうた。
 すなわちギリシャ語の示すごとく、彼はご自身の身において、私共の罪を木にまで負い行きたもうた。すなわち私共の罪を容赦することではなくその責任を負うてくださった。私共の罪の寛恕されるためでなく、自ら罪のために罰を受け、私共が罰せられぬようになしたもうたのである。されば私共が第一に望みを置くは、主が私共に対して施したもうその御愛の上にでなく、贖罪の犠牲の公義、不動の巌の上にである。
(二)主は私共の霊魂を癒したもうた。
 主が私共の罪をその身に負いたもうたことを知ることによって、私共の良心が安んぜられるばかりでなく、その砕かれ裂かれたもうたお身体からだは、かくも迷える頑固な私共の意志を癒し、かくも無秩序に乱れて制しがたき私共の愛情を癒し、病的なけがれた私共の願望を癒し、不信仰をもって毒せられおる、無益な空虚な愚かしい私共の想像を癒し、憂慮煩悶し、暗く乱れた私共の思想を癒し、善は忘れ悪は憶えやすく、神とその慈愛に対して無思慮無頓着な私共の記憶をも癒したもう。
 おおこれは何たる驚くべき医癒、何たる驚くべき治療なる! しかるにかかる医癒を等閑にし、かかる治療を拒否し、私共の霊魂の牧者、監督たる主に対し無情にも無頓着ならしめる不信仰こそ、なおさら驚くべく恐るべきものである。
(三)主はご自身にまで私共を連れ帰りたもうた。
 ここに救い全体の目的がある。私共の罪の赦し、霊魂の医癒は共に私共を神との交際に立ち帰らしめるためである。
 私共は私共の霊魂の牧者監督に帰った。私共の放浪生活は終わった。私共はついに父の家に帰った。そして主の霊魂の産みの苦しみは満足させられるのである。
 これらの事どもの光によって、私共主の僕たる者は、天に在る贖われたる聖徒らと共に、『屠ほふられ給ひし羔羊こひつじこそ、能力ちからと富と智慧と勢威いきほひ尊貴たふときと榮光と讃美とを受くるに相應ふさはしけれ』(黙示録五・十二)と叫ぶべきではなかろうか。



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