パゼット・ウィルクス著
大 江 邦 治訳
本書において、私共は神たる私共の贖い主がその生命の血を注ぎ出したまえる目的を共に考察したいと思う。私はこの考察によって、贖罪の理由──キリストの驚くべき犠牲により生ずる幸いなる結果が私共の思念に明瞭になり、従ってそれが私共の心情を動かすに至るべきを信ずる。
まずこの始めの章において、
願う、私共が神の恩恵を徒に受けることのないように、聖霊が私共に迫って、悟りを明らかにするとともに、心を溶かしたまわんことを。
さて聖書のうちで、キリストの死を最も美わしく説明しているところの一つは、ペテロがその書翰の中に『
『キリストも汝らの爲に
主は死というものに伴う恐るべくまた残酷な一切の毒悪に満ちた死を味わいたもうた。それは単なる死ではなく、長く苦悩の時を経る十字架上の死であった。主はその苦痛の緩和されることを一切否み、悩む神経を麻痺させて苦痛を和らげるために差し出した没薬を混ぜた葡萄酒を退けて受けたまわなかった。
死はすべての生ける者に来るが、しばしば苦痛懊悩を伴わぬ場合がある。また苦痛を伴わないと共に卒然と来ることもあるけれども、神の御子の死はかかる死でなく、彼は苦しみたもうた。ペテロは大いにこの点に注意を惹いているのである。
詩篇第二十二篇に、聖霊は預言のうちに、贖い主の三重の苦痛を描写したもうた。すなわちその責め
『彼はわれらの
言うことも考えることもできぬ地獄の汚穢にて漲る世界の不義の大洋が、
『彼は罪を犯さず、その口に
キリストは死にたもうた。罪なき御方が罪ある者のために死にたもうた。この一事ほど人の心を衝動せしめることはない。それは
殺人者の
『彼は罪を犯さず』とあるごとく、彼の手は何の罪もなく、『その口には虛僞なく』とあるごとくその唇に何らの詐りもなく、『罵られて罵らず』とあるごとく、その心に何の悪意も持ちたまわなかった。かかる無罪の御方が罪ある者のために苦しみたもうたのである。
私共がかくのごとく私共の罪を見るまでは、私共はまだ自己の罪というものを見たと言われぬであろう。
無罪の御方が有罪者の代わりに! 無罪の御方が有罪者のために!! 無罪の御方が有罪者の手にかかりたもうとは!!! しかもかく無罪の御方! 私が後に指示するごとく完全なる道徳美の化身にてありたもうた、かくも無罪の御方が、かくも甚だしき罪のために死にたもうとは! そしてその甚だしき罪は我がもの、無罪は主のものであるのに、我がために苦しみたもうたと信じ悟るまでは、罪というものが深い意義を持たず、わが眼の前に些細のこととしか見えぬであろう。
『苦しめられて
抵抗せず防御せずして死に渡される者を見るほどに義侠心を刺戟することはない。もし武装した悪漢が、何の武器も持たず自ら防ぐべき何のすべもない人をむざむざ打ち殺すさまを見るならば、いかに情に動ぜぬ人でも心を動かさずにはおられぬであろう。
『我わが父に
生命が無防御無抵抗のまま取られる多くの場合は、防御も抵抗も不可能であるからである。しかるに救い主の場合は全然事情を異にする。主はもし自らなさんと思し召せば、啻にこれを憤り、これを拒み、これを脅かし、これに返報し得たもうばかりでなく、その生命を求める者を圧倒し亡ぼすこともその権能のうちにあったのである。されども主の目的のためには、それはかくあり得ず、またあるべからざることであった。かくて主は無防備無抵抗の死を遂げたもうたのである。
『みづから私共の罪を己が身に負ひ給へり』(ペテロ前書二・二十四)
『それは我……
キリストがこの恐るべきことのために
繰り返して言う。主イエスのこの死の途への旅を執りたもうたのは、強制する者があってやむなくではなかった。ゲツセマネにも、
『万軍のヱホバの熱心これを成したまふべし』(イザヤ九・七)とあるが、この熱心は義を愛し悪を憎む、愛と憎悪の合して燃ゆる
『木の上に
『木』とは死刑具を表す語である。されば『木に
主のご逝去には一言の讃辞をもって送りまつる者もなかった。主はその敵の厭悪、その友の沈黙、その民の呪詛の中に、極悪人犯罪人として死にたもうた。
人は或いは名のため、誉れのため、友のため、国のため、自己弁護のため、自己に属する者のために死に、勇士は世に称讃されて戦場に倒れもする。けれども神の御子の死は悪口罵詈のもとの恥辱の死であった。彼は公然の侮辱の中に死にたもうたのである。『その墓はあしき者とともに設けられ』(イザヤ五十三・九)とは彼の碑文とすべき語である。彼はその敵のためにその敵の手にかかりて、しかもその敵に
少しばかりの枯れ草は彼の揺籃であり、
彼の造りたもうたこの世界はその造り主に何の用もなさず、ご自身の民は彼を受けず、そのなし得るあらゆる侮辱をもって追い出したのである。されども、
『正しく
主は確かな信仰に安んじて死にたもうた。『わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし』(マタイ二十七・四十六)の叫びは、『父よ、わが靈を
主は聖父のその義を擁護したもうことという確認に安んじて勝利を得たもうた。それは信仰の勝利、正しき
主は自ら進んで
『みづから我らの罪を己が身に負ひ給へり。……汝らは彼の傷によりて癒されたり。……今は汝らの
主イエスの流血すなわち苦難と死の効果は私がこれより後の章に詳述せんとするところであるが、ペテロはここにその三つのことを語っている。すなわち
(一)彼はわれわれの罪を負いたもうた。
(二)彼は私共の霊魂を癒したもうた。
(三)彼は私共を主に導きかえしたもうた。
と言っている。
(一)彼は私共の罪を負いたもうた。
すなわちギリシャ語の示すごとく、彼はご自身の身において、私共の罪を木にまで負い行きたもうた。すなわち私共の罪を容赦することではなくその責任を負うてくださった。私共の罪の寛恕されるためでなく、自ら罪のために罰を受け、私共が罰せられぬようになしたもうたのである。されば私共が第一に望みを置くは、主が私共に対して施したもうその御愛の上にでなく、贖罪の犠牲の公義、不動の巌の上にである。
(二)主は私共の霊魂を癒したもうた。
主が私共の罪をその身に負いたもうたことを知ることによって、私共の良心が安んぜられるばかりでなく、その砕かれ裂かれたもうたお
おおこれは何たる驚くべき医癒、何たる驚くべき治療なる! しかるにかかる医癒を等閑にし、かかる治療を拒否し、私共の霊魂の牧者、監督たる主に対し無情にも無頓着ならしめる不信仰こそ、なおさら驚くべく恐るべきものである。
(三)主はご自身にまで私共を連れ帰りたもうた。
ここに救い全体の目的がある。私共の罪の赦し、霊魂の医癒は共に私共を神との交際に立ち帰らしめるためである。
私共は私共の霊魂の牧者監督に帰った。私共の放浪生活は終わった。私共はついに父の家に帰った。そして主の霊魂の産みの苦しみは満足させられるのである。
これらの事どもの光によって、私共主の僕たる者は、天に在る贖われたる聖徒らと共に、『
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