めぐみ を 受 く べ き 集 會あつまり

バンコム敎師講演



 わたくしは今晩皆様と共に一つの誠に大切なることについて考えたいと思います。それはなにであるかとなれば、すなわちこの集会あつまりの目的でございます。そしてこれは皆様のご承知のごとく、我らみなしゅイエス・キリストを信じて聖霊に満たされることであります。これは誠に大切なることでありて、もし我らが残らず聖霊に満たされなければ、決してこの集会あつまりの目的を達したということは出来ません。しかし私共わたくしどもは長き間祈禱いのりをなし、またほかの兄弟姉妹も我らのために長き間祈りくれまして、その結果今度ここにこの幸いなる集会あつまりを開くようになったのであるから、神は確かに我らの祈禱いのり応答こたえたもうて、我らに大いなるめぐみを与え、この集会あつまりの目的を達せしめたもうことを信じます。使徒行伝十章を見れば、コルネリオという人が祈禱いのり応答こたえを受けたる有様が記されてございますが、この人はもとよりユダヤびとでなく、異邦人でございます。けれども彼は熱心に神を信じまた祈禱いのりを勉めておりましたから、神より大いなるめぐみを受け聖霊に充実みたされるに至りました。ゆえに私は今晩皆様と共に少しくその事実について考えてみたいと思うのであります。

 そこでこのコルネリオという人はどういう人物であったかということにつき、ここに五つの大切なることが記されてございます。その第一は、彼は信心の深き者でありました。第二は、すべての家族とともに神を敬うておりました。第三には、彼はたみに多くの施済ほどこしをする人でした。第四は、つねに神に祈禱いのりする人でございました。そしてこれらのことは使徒行伝十章二節に記されたるところでございます。それから今一つのことは何であるかと申しますれば即ち三十七節にあることにして、ヨハネのべしバプテスマののちガリラヤより始まりユダヤ中にりしこと、ことを換えて申しますればイエス・キリストのことについてはよく知っておる人でございました。そこで今これらの点につきよくよく考えてみますると、このコルネリオという人は誠にき人でございます。もし今日こういう人が我らの教会にありますれば誰でもたいそう喜びましょう。我らもしその人のことを考え、そうして自分の有様を顧みれば、その遠く及ばざることを恥じます。皆様は如何いかがですか。あなたはコルネリオのごとく信心が深うございますか。また毎日彼のごとくすべての家族とともに神を敬うておりますか。また彼のごとくに多くの施済ほどこしをいたしますか。またこの人のように常に祈禱いのりを勉めますか。ああ我らはこの四つのことにつき考えてみると、実に欠点の多き者です。私は多くの信者を知っております。しかしてその信者たちがこのコルネリオに及ばぬことを知っております。しかのみならず、コルネリオは先刻も申し上ぐるごとく、主イエス・キリストのことについては、ヨハネのべしバプテスマののちガリラヤより始まりユダヤ中にりしことをよく知っておりました。けれども彼はいまだキリスト信者ということは出来なかった。何となれば彼はただイエス・キリストのことを知ったばかりにていまだ全く信用しなかったからであります。しかして私は今日こんにちの多くの信者がどうもこの通りであると思います。皆様は如何いかがですか。あなたは主イエス・キリストのことはよく知っておりましょう。四福音書を研究してキリストのことを知ったでしょう。けれどもあなたは真実ほんとうにキリストを信用しますか。あなたはコルネリオのごとく信心の深き御方かも知れん、またあなたはコルネリオのごとくすべての家族とともに神を敬うていなさるかも知れん、またあなたはコルネリオのごとくたみに多くの施済ほどこしをなし、またつね祈禱いのりを勉めていなさるかも知れません。けれどもまたコルネリオのごとくただキリストのことを知ったばかりにていまだ全くキリストを信じないことも事実でしょう。何となればあなたは聖霊に満たされておりますまい。これその確かなる証拠です。もしあなたが真実ほんとうの意味にてキリストを信じますなれば必ず聖霊に満たされます。これは明らかに聖書に記されたるキリストの御約束です。どうかヨハネ伝七章三十七、八、九節をご覧なされ。

 節筵いはひをはり大日おほいなるひにイエスたちよばゝいひけるは 人もしかわかわれきたりてのめ われを信ずる者は聖書にしるしゝ如くその腹よりいける水 川の如くに流出ながれいづべし 此如かくいへるは彼を信ずる者のうけんとするみたまさせるなり

 これによって見れば誰にても真実ほんとうに主イエス・キリストを信ずれば確かに聖霊の賜物を受けて主の栄光をあらわす者となります。けれども悲しいかな、今日の多くの信者はいまだ一度もキリストを全く信じたことがありません。私は実にこのことを憂います。コルネリオは誠に信心の深き者にて、つね祈禱いのりておりましたから、必ずいろいろの儀式を知りてこれを行うておったでしょう。そうしてまた自らは神の聖旨みむねかなう者であると思うていたかも知れません。けれども神がコルネリオをご覧なされた時には誠に憐れむべき者でありましたゆえ、神はこれを憐れみ、彼に一つのことを教えたまいました。すなわち五節に記されたるところにして

 いま人をヨツパへつかはしペテロといふシモンをよべ

とのことであります。そこでコルネリオは喜びて神の命令に従い、直ちに二人のしもべと一人の信心深き兵卒とを遣わしペテロを招待いたしました。また神は当時ペテロにも大切なる教えを垂れたまいましたが、今晩私はその話はいたしません。そうしてまたコルネリオはペテロを迎えたるために多くの人々を集めました。そのことは二十四節に記されてあります。

 次日つぎのひかれらカイザリヤに入る コルネリヲは既にその親族およびしたし友等ともだち召集よびあつめこれ待居まちゐたり

 コルネリオは実に熱心家です。今や神より大いなるめぐみを受けんことを信じて、一人にてこれを受くることをこのまず、方々ほうぼうまわりて親族および親しき友達を集めました。それでこの集まりたる者のうちにはコルネリオのごとく信心の深き者もございましたろうが、またなかにはいまだ神を信ぜざる者もあったろうと思います。そうしてペテロの参りましたときは、遣わされたる三人の者、またヨッパよりきたりたる兄弟等もおりましたから、その集会あつまりは種々なる人々の集まりでありました。すなわち聖霊に満たされたる使徒なるペテロ、またペテロとともきたりたるヨッパの兄弟、これはペテロと同じく聖霊を受けておる者であります。それからコルネリオおよびその家族、これは信心の深き者です。それからまたコルネリオのしもべしもめ、兵隊、およびび集めたる親族、朋友、彼らのうちには或いはコルネリオのごとく信心深き者もありましたろうが、またいまだ信仰の道の分からざる者もあったことと思います。とにかくその集会あつまりはいろいろの種類の人々の集まりであったことは明らかです。けれども彼らはみな同じ大いなる望みをもって集まりました。またコルネリオはこういう人でございますから、ペテロのもとに使いを遣わしたるのちペテロのちゃくしますまでの間、必ず集まりたる人々とともに祈禱会を開き、熱心に祈禱いのりをなしてめぐみを受くる準備をなしたでございましょう。これ信心の深きコルネリオにあるべきことでございます。

 しかして四日ののちに至って、彼らの望みのごとくペテロはその所に着きました。かねて待ち設けたるコルネリオは直ちにペテロを迎えましていろいろのことを語りましたが、その最も大切なることは三十三節にございます。

 是故このゆゑわれたゞちに人をなんぢつかはせり なんぢきたれるはよし われら神のなんぢに命じ給へる一切すべてこときかんとて今神の前にあるなり

 ああこれは我らの有様をよくあらわしてはおりますまいか。私は実にこの通りであることを信じます。コルネリオは申しました、『なんじきたれるはよし われら神のなんじに命じ給へる一切すべてのことをきかんとて今神の前にあるなり』。今神の前にるなり……どうか皆様このことをよくよくお考えなさることを願います。我等はとかくに神のともにいたもうことを考えぬ者です。けれども神は確かにここにいたまいます。主イエス・キリストは確かにこの集会あつまり真中まんなかちたまいます。聖霊は今ここに満ちたまいます。三一の神は今確かにこのところにいたまいまして我等は実に神の前にる者です。さればこのところは最もきよきところにして、また今というこの時は最も大切なる時であります。願わくは我等心の耳目がひらかれ、今晩神の栄光を見、また神の声を聞かんことを。我等は今神の前にるなり。

 そこでペテロはどういう話をいたしましたかとなれば、実に簡単に主イエス・キリストを人々にあかししました。その第一は三十四、五節に記されたることにして、誠に大いなる慰めであります。

 われまことに神はかたよらざる者にして いづれ國民くにたみにても神を敬ひたゞしきを行ふ者はその聖旨みこゝろかなふいふことを悟る

 神はかたよらざる者であります。このゆえ何国なにこく何人なにびとを問わず、信ずる者には必ず使徒たちと同じめぐみを施したまいます。皆様は使徒行伝二章を読んで弟子たちが聖霊に満たされ大いなる働きをなしたることをご存じでしょう。また皆様はそのところを読むたびに、私も同じめぐみを頂戴したい、ああ私もかの時にエルサレムにて百二十人の弟子たちとともにおりしならば幸いなりしにと思うことがございましょう。けれどもよくよくお考えなされ。その時の神も今日こんにちの神も少しも変わりはありません。また彼らはユダヤびとゆえをもって特別に聖霊の賜物を受けたのではありません。神はかたよらざる者であるから我らもし真実ほんとうに信ずれば必ず彼らと同じめぐみを受くることが出来るとペテロは明らかに申しました。それからペテロはその道をべました。すなわち三十六節

 そのみちすなはち神のイエスキリストにより平和やはらぎのべイスラエルの子孫にあたへたまひし所なり このイエスは萬物よろづのものしゅたるなり

とございます。イエス・キリストは確かにイスラエルの子孫のうちに生まれたまいました。そうして第一にイスラエルにめぐみを与えたまいました。しかし神がイエス・キリストをこの世に遣わしたまいしは決してイスラエルみんばかりをめぐまんとのごとき狭い聖旨みこころではありません。すなわち万国万民に平和へいわべしめんためでございます。皆様は如何いかがでございますか。あなたは確かに今イエス・キリストによって神と和平やわらぎを得ておりますか。皆様のうちにはずいぶん久しく信者となっていなさる方がございましょう。あなたは何年のあいだ信者ですか。そうして今確かにイエス・キリストによって神と和平やわらぎを保っているとの信仰がございますか。これは誠に大切のことです。ゆえにペテロは特別にこのことをあかしして、神はイエス・キリストにりて万民に和平やわらぎべたもうと申しました。それからまたその末節に大切なることばがあります。すなわち『このイエスは萬物よろづのものしゅたるなり』とのことであります。ああ我等イエスを万物ばんぶつの主といたしませんなれば決して聖霊を受くることはできません。然り、実にイエスは万物ばんもつの主でございます。あなたはこのことを確かに疑わずして信じますか。今や多くの信者はこのことについて疑い、いろいろの議論をいたしますが、もしこれを疑いますなれば、決して聖霊の賜物を受くることはできません。さればペテロがここに申しましたことは我等に最も大切なることです。このイエスは……この集会あつまり真中まんなかに立ちたもうこのイエスは万物ばんもつの主たるなり。このゆえにこのイエスは確かに私の主でありまた皆様の主であります。されば我等はこのイエスのしもべしもめでございまして、一生涯のあいだおのれおのれける一切の物を献げて従うべきはずであります。どうですか、あなたはこの意味において確かにイエスをわが主ということが出来ますか。今晩このことを確定きめることが最も大切でございます。それからペテロはこのイエス・キリストを簡明にあかししました。すなわち三十七節以下に記されたることでございます。

 それヨハネののべしバプテスマののちガリラヤよりはじまりユダヤぢうありし事は爾曹なんぢらしるところ すなはこのナザレよりいでたるイエスは神より聖靈と才能ちからあぶらそゝがれ周遊あまねくめぐり善事よきことを行ひすべて惡魔につかれたる者をいやせり そは神彼とともなりしによる (卅七、八)

 神より聖靈と才能ちからあぶらそゝがれ……これは実に大切でございます。イエスが聖霊と才能ちからをもってあぶらをそそがれたまいしがゆえに、我等信ずる者に聖霊のバプテスマを授くることが出来るのです。そうしてイエスはあまねくめぐりてすべての善きことを行いたまいました。また三十九、四十、四十一節を見れば

 我儕われらは彼がユダヤびとの地およびエルサレムにおいて行ひしすべての事をあかしする者なり ユダヤびとこの人を木にかけて殺せり 神は第三日みつかめこれよみがへらせすべてたみにはあらはさざらで たゞそのあらかじえらびたまへる證人あかしびとすなはち彼がよみがへりしのちこれととも飮食のみくひせし我儕われらにのみあらはし給へり

 ユダヤびとすなわち人間は彼を木に懸けて殺しました。けれども神はそれをよみがえらせたまいました。これ最も大切のことです。ゆえにこの集会あつまりの内にこのことについて重ねてくわしくお話しすることがあると思います。我等はただに十字架に死にたまいしイエスを信ずるのみならず、死よりよみがえりたまいたるキリストを信ぜねばなりません。また四十二節を見れば

 かつ彼はその生者いけるもの死者しねるもの審判人さばきびとに神よりさだめられし事を我儕われらあかししてたみのべよと命じたり

とございます。これによりて見ればこのイエスは……どうか皆さん、このイエスをご覧なさい。このイエス、すなわち人間が木に懸けて殺したる、神のよみがえらせたまいたるこのイエスは、今や天のところにおいて父なる神の右に坐したまいますが、間もなく再び空中まできたってすべて彼を厚く信ずる者をけたもうことであるが、そののちまた地上にきたってすべて生ける者と死ねる者との審判さばきをなしたまいます。これ我等が厚く信用しなければならぬ大切なることであります。また四十三節を見れば、

 すべての預言者もおほよそ彼を信ずる者はその名によりて罪のゆるしうくべしと彼につきてあかしせり

とございます。およそ彼を信ずる者はその名によりて罪の赦しを受くべし、ああ皆さんはどうですか。どうか御各自ごめいめいに自分のことをお考えなさい。あなたの罪はどうですか。今確かに赦されておりますか。あなたはこの問いに対して明らかに答えることが出来ますか。これ実に大切のことです。どうか今確かに、疑わずして、わが罪は赦されたりとの信仰をおちなさい。もしそうでないなればこの集会あつまりにおいて決して神よりめぐみを受くることができません。これは実に基礎どだいです。ああ兄弟姉妹よ、あなたの罪は全く赦され、神とあなたの間には少しも隔てがありませんか。あなたは明らかに神を見、はばからずしてアバ父よと呼ぶことが出来ますか。どうか心を静めてこのことをお考えなさい。そうしてあなたと神との間に幾分にても罪の隔てが残っておれば、今真実ほんとうにキリストを信じて全き赦しをお受けなさい。ここに記されたるコルネリオおよび彼とともりし人々は、ペテロの語るうちにキリストを信じ、同時に聖霊の賜物を受けました。これ彼らが真実ほんとうの信者となりし証拠であります。前にも申し上げしごとく、ペテロのきたりし時はいろいろの種類の人々の集会あつまりでございましたが、ペテロが話を終わらざる先に一様に信じて一様に聖霊の賜物を受け、いずれもみな完全なるキリスト信者となりました。どうか四十四、五、六節をご覧なさい。

 ペテロこのことを語れるあひだみちきくところのすべての者に聖靈くだれり ペテロとともきたりし割禮かつれいある信者たちは聖靈のたまものの異邦人にまで注げる事をおどろきぬ そは異なる邦々くにぐに方言ことばにて彼等が語れると神をあがむるとをきゝたればなり

とあります。実に聖霊を受けたる彼等は、語らずしてまた神をめずして黙することは出来ないようになりました。そしてこのめぐみは確かに初めにエルサレムにおいて使徒たちの受けしめぐみと同じことでございました。それはこののちペテロがエルサレムの信者たちにこのことにつきあかしせしことばによりて明らかです。すなわち使徒行伝十一章十五節

 かくわがかたりはじめしとき聖靈はじめに我儕われらくだりし如く彼等にもくだれり

とございます。ああ皆様はどうですか。あなたは完全まったき信者ですか。しからば確かに聖霊を受けておるはずです。然るに今日こんにちまで聖霊に満たされていないのは何故なにゆえですか。これ実にいまだ全くキリストを信じないという証拠です。さればどうか心の眼を開きてこのイエス・キリストをご覧なさい。あなたのために十字架に死に、あなたのためによみがえり、あなたのためにいま天にって父の右に坐したもうこのキリストをお信じなさい。今まであなたはキリストのことを信じたでしょう。四福音に記されたるキリストのことを少しも疑わないでことごとく信じたでしょう。けれども今イエス・キリストをお信じなさい。ただイエス・キリストのことのみならず、イエス・キリストをご信仰なさることを只管ひたすらに願います。さればこの集会あつまりは誠に幸いなる集会あつまりとなりて我等はみな聖霊に満たさるることが出来ます。



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