ベ ソ ル の 川

昭和三年十月神戸湊川伝道館に於けるカスバルトソン先生の礼拝説教



 サムエル記上 第三十章 熟読・黙想

 ダビデは、イスラエルという、神の民として選ばれた国民の第二の王であります。第一の王はサウルで、彼は最初は忠実に神に仕え従っていましたが、後になって一つの傲慢な心が起ってから神に背いたため、神は彼を捨て、ダビデという若い青年を選んで王となしたまいました。しかしサウロはダビデが神に選ばれた王であることを認めず、自分が死ぬるまで王の位につき、戦争の起るたびごとにダビデを最も危険な、また困難なところへ遣わしました。しかしそのたびごとにダビデは大いなる勝利を得て帰りましたために、サウルはますます彼をねたみ、しばしば彼を殺そうとしましたが、いつも神の恵みによって危うく助けられました。
 ダビデは神の御目にはすでに王でありますが、サウルが王座に座していますので、王位につくことができません。それのみならず彼は殺されようとしたために、そこここへと追われて逃げ、今は国外にまで追われています。皆さん、ここに今一人のダビデがあります。それは私達のダビデである主イエスです。彼はこの世の王となるべきお方であり、また王となるべく来りたまいましたが、サウルでなくして、サタンがこの世の王座に座しておりますから、彼は王としてこの国に君臨することができません。実に主イエスはこの世のまことの王でありますが、未だにこの世で王権を握っていたまいません。このサムエル記上三十章を読みますと、ここにダビデにまさるお方を見出します。これは昔の物語ですが、ここに主イエスのお姿が現わされています。この章をダビデと読む代わりにキリストと読んでもよいのであります。

一、ダビデの嘆き

 『さてダビデとその従者たちが三日目にチクラグにきた時、アマレクびとはすでにネゲブとチクラグを襲っていた。彼らはチクラグを撃ち、火をはなってこれを焼き、その中にいた女たちおよびすべての者を捕虜にし、小さい者をも大きい者をも、ひとりも殺さずに、引いて、その道に行った。ダビデと従者たちはその町にきて、町が火で焼かれ、その妻とむすこ娘らは捕虜となったのを見た。ダビデおよび彼と共にいた民は声をあげて泣き、ついに泣く力もなくなった。ダビデのふたりの妻すなわちエズレルの女アヒノアムと、カルメルびとナバルの妻であったアビガイルも捕虜になった』(サムエル記上三十・一〜五)

 ダビデは今エルサレムより追われて、チクラグという小さい町に住み戦に出ています。その敵は周囲の人々でなく、アマレク人です。彼らがチクラグに妻子と家財を残して戦に出た留守中に、アマレク人がひそかに来て、彼らが残した妻子や財産をみな盗んで行ってしまいました。ダビデたちはこのようなことが起っているとは夢にも知らず、戦に勝利を得て喜び勇んで帰ってみれば──町は荒れ果て、家には妻も子の家財も何もありません。ああ、彼らは泣く力もないまでに失望落胆しました。

 『ダビデのふたりの妻すなわちエズレルの女アヒノアムと、カルメルびとナバルの妻であったアビガイルも捕虜になった。その時、ダビデは非常に悩んだ。それは民がみなおのおのそのむすこ娘のために心を痛めたため、ダビデを石で撃とうと言ったからである。しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた』(同五、六)

 これはダビデの歴史であり、また主イエスのことでもあります。キリストはどういうわけで苦しんでおられますかならば、人を愛する愛のゆえに悩んでいたまいます。キリストはキリストが愛していたもう者たちが敵のために捕虜となっているために悩み、またかく捕虜とした敵を憎んでいたまいます。

 『イエスは涙を流された。するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」』(ヨハネ福音書十一・三十五、三十六)

 この涙を見て主イエスがいかに彼らを愛していたもうかがわかります。これはどういう時かといえば、主の親しい友なるラザロの死んだ時です。このラザロはいわば全人類の代表者と同様で、今や全人類は死人と同様であります。この墓の中にいる人を見られると主は涙を流さずにはおられません。全世界は墓場同様です。本当に生命のある生きている者は何人ありますか。この神の創造したもうた人類がことごとく死んでいるのを見て、主は涙なくしてはいられません。

 『いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている」』(ルカ福音書十九・四十一、四十二)

 キリストが涙をお流しになったことが聖書に書かれてあるのはこの二箇所だけです。皆さん、実に悲しいことではありませんか。『もし……知ってさえいたら』、ああ盲目のエルサレムよ、三箇年間の御生涯を通して驚くべき奇跡とわざを行い伝道されたが、今や御自分の生涯の終わりを覚えて、この都を見やりながら『ああ、エルサレムよ、エルサレムよ』と泣きたまいましたが(マタイ二十三・三十七)、主の御眼は四十六年もかかって建てたという立派な建物を見てはいたまいません。エルサレムに住む人々の実情を見られたとき、かかる嘆きをされずにはおられませんでした。
 このエルサレムにいる人達はいかなる人達かと言えば、特別に神に選ばれ、律法を与えられた神の民であります。すなわち今日の信者です。しかし彼らはキリストを知らず、彼を拒み、これを十字架につけて殺そうとしています。これを神の民がしました。このゆえに主は彼らの目の見えないことを嘆いて涙を流されたのであります。皆さん、今日の信者もまたユダヤ人と同様に盲目です。ユダヤ人は割礼を行いましたが、皆さんも洗礼を受けて教会に属していますが、真に主キリストを知ることができず、ただバプテスマだけで満足しています。このような信者たちを主は見たもうて嘆かれているのです。
 『ダビデを石で撃とうと言ったからである』。民等を今日の勝利に導いたダビデを殺そうとしています。このようなことは今日の教会内ではないように思いますが、実際はあります。石をもって撃たなくても口や言葉をもって牧師を撃ち、伝道者を撃ちます。聖書は真実でない、神が何か、キリストは何だと、不信の石を投げます。しかし記憶されよ、あなたがかように悪しき業をしている今日も、キリストはあなたのために泣き、涙を流して祈り、あなたのために嘆いていられることを。

二、ダビデの祈禱

 『しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。ダビデはアヒメレクの子、祭司アビヤタルに、「エポデをわたしのところに持ってきなさい」と言ったので、アビヤタルは、エポデをダビデのところに持ってきた。ダビデは主に伺いをたてて言った、「わたしはこの軍隊のあとを追うべきですか。わたしはそれに追いつくことができましょうか」。主は彼に言われた、「追いなさい。あなたは必ず追いついて、確かに救い出すことができるであろう」』(サムエル記上三十・六〜八)

 賢いダビデをごらんなさい。エポデ、これは祭司の長の着る衣です。彼は祭司の長を代表する衣を取って祈りました。何の祈りですか。私はこの敵を追うべきですか──と。こんなことを祈らずに、すぐに急いで敵のあとを追えばよいではないか、祈りを止めて早く伝道せよ、と言う人があります。しかしまず第一になすべきことは、祈りによって神の聖旨を求めねばなりません。祈禱は決して時間の空費ではありません。必ずそこに的確なる勝利があります。私達が祈ることは必ずよき結果を与えられます。
 ダビデは祈りによって神の聖旨を知ると、直ちに剣を取って敵のあとを追いました。まず第一に祈り、必ず取り戻すことができるという確信を握って立ち上がりました。『確かに』、これは神の大好きな言葉です。いかなることがあっても大丈夫、確かに、勝利。これは私達も信仰をもって祈禱の時に握りたいものです。「かも知れぬ」「だろう」、これは不信仰の言葉です。こんなことでは決して勝利は伴いません。ダビデはこの確信を得るや否や、直ちに立ち上がって疾風迅雷のごとく敵のあとを追いました。彼は今、己の力によらず、神の力をもっておのが力としています。私達もダビデと同じくいかなるときにも、まずエポデ、すなわち聖書を開き、神の聖旨(みむね)を聞き、確信と信仰の勝利を握って立ち上がりたいのであります。

三、ダビデの試練

 『そこでダビデは、一緒にいた六百人の者と共に出立してベソル川へ行ったが、あとに残る者はそこにとどまった。すなわちダビデは四百人と共に追撃をつづけたが、疲れてベソル川を渡れない者二百人はとどまった』(三十・九、十)

 祈りによって勝利を得たダビデは、敵を追ってこのところまで来ました。ここはベソルの川の畔(ほとり)です。ちょうど基督者も祈りの結果、信仰に満たされて、亡ぶる者を救い福音を伝えるために、キリストのあとに従ってベソル川の畔にまで来ます。ここまでは来ましたが、すっかり疲れてしまいました。この川は何ですか。これはイスラエルの民が経験したヨルダン川です。キリストの行きたもうカルバリです。いかなる信者の生涯にもこの川があります。川の畔に立ってよくよく見れば、この川幅の広いこと、また深いこと、ひと目見ると怖じ気づいて、私はとても渡れません、私は疲れているのです、ここで御免蒙らせていただきます、と、二百人が座り込んでしまいました。二百人といえば三分の一です。皆さん、あなたにもこの川がありますよ。敵はこちらではありません。岸の向こうです。この川を渡らなければ愛する者を敵の手より救い出すことはできません。ですから誰もみな、この川をキリストと偕(とも)に渡って行かねばなりません。たいていの信者は向こうの岸まで渡らないために家族の者、愛する者が救われません。この責任は神にあるのでなくてあなた自身にあるのです。川の畔まで来たが道がなくなってしまいました。この川は私達を二つに分ちます。こちらには勝利がありません。敵は向こうの岸ですから渡らなければ分捕りものは一つもありません。「私の家族はまだ救われない」とつぶやく人がありますか。そうです、それはあなたがこの川を渡らないからです。渡って行きさえすれば、そこで愛する者を救い出すことができます。すなわち自己がこの世に死ぬのです。これは命がけの仕事で、自分を全く犠牲にすることです。ベソル川という名は「冷たい水」という意味があります。この冷たい水をくぐって向こう岸に行けば勝利です。私はキリストと共に十字架に釘(つ)けられた、とあかしのできぬ人は川を渡らぬ人です。向こうまで行く人は己に死んだ決死隊です。これさえできれば大いなる分捕りものを獲ます。民等はこの冷たい水のために怖ぢけました。この川を渡ることは、大事に大事にしている罪を捨てることです。これだけはしたくない、嫌なことです。しかし天国を取る者は烈しく攻める者です。これを得るために死を覚悟した人です。「私にはこの川を渡ることはあまりに荷が重すぎます。どうぞ主よ、ベソル川のここで休ませて下さい」と言う人がありますが、あなたの愛する者はベソル川の向こうで捕虜となっているのです。どんなことがあってもこの川を渡らなければなりません。この道には困難があり、疲れがあり、涙があります。悲しみの人なるキリストの御足(みあし)の跡をたどる生涯ですから──。あなたはそれでも行かれますか。これは涙の道です。人に捨てられる道です。冷たい道です。けれども私達は渡らなければならないのです。『われ誰をか遣わさん、誰がわがために行くべきや』と主は行くべき人を求めていられます(イザヤ書六・八)。私達は『主よ、わたしをおつかわしください』(同)と申し上げようではありませんか。たとえ困難があっても、迫害があっても、人から賤しめられましても、渡り行こうではありませんか。これはあなた自身のため、また教会のため、主のためであります。そのため三十年、四十年、五十年の地上の苦しみが続きましても、永遠に輝く栄光の望みを抱けばそんなことは何でもありません。

四、まったき勝利

 『ダビデは夕ぐれから翌日の夕方まで、彼らを撃ったので、らくだに乗って逃げた四百人の若者たちのほかには、ひとりものがれた者はなかった。こうしてダビデはアマレクびとが奪い取ったものをみな取りもどした。亦ダビデはそのふたりの妻を救い出した。そして彼らに属するものは、小さいものも大きいものも、むすこも娘もぶんどり物も、アマレクびとが奪い去った物は何をも失わないで、ダビデがみな取りもどした。ダビデはまたすべての羊と牛とを取った。人々はこれらの家畜を彼の前に追って行きながら、「これはダビデのぶんどり物だ」と言った』(三十・十七〜二十)

 ダビデの勝利は完全な勝利でした。子どもとお祖母さんは救われたが、主人はまだです、というのではありません。ことごとくの者が救われたのです。犠牲を払った戦の最後は完全な勝利です。今日、主が私達に語りたもうのはこの川です。ベソルの川です。あなたはこの川を渡りますか。渡ればかかる大いなる完全な勝利があります。分捕り物もあります。この勝利の喜びは、川のこなたにとどまっている人々には味わい得ぬ喜びです。あなたは今日、この川を渡りますか。完全なる勝利を得るまでキリストの御跡(みあと)に従い行く決心ができましたか。



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