火 を 取 れ

昭和五年五月兵庫県有馬で開催された日本伝道隊年会に於ける
カスバルトソン先生の講演



 『時にわたしは見ていたが、見よ、ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのようなものが王座の形をして、その上に現れた。彼は亜麻布を着たその人に言われた、「ケルビムの下の回る車の間にはいり、ケルビムの間から炭火をとってあなたの手に満たし、これを町中にまき散らせ」。
 …………
 『彼が亜麻布を着ている人に、「回る車の間、ケルビムの間から火を取れ」と命じた時、その人ははいって、輪のかたわらに立った。ひとりのケルブはその手をケルビムの間から伸べて、ケルビムの間にある火を取り、亜麻布を着た人の手に置いた。すると彼はこれを取って出て行った。』(エゼキエル書十・一、二、六、七)

 ただいま読みましたエゼキエル書十章の二節と七節にある聖言みことばは非常に私を励ました言葉です。『火をとって……これを町中にまき散らせ』(二節)、『火を取れ』(七節)という短い言葉ですが、私は聖霊の火を得る道はどんなに難しい道かと思いましたが、『火を取れ」という聖言によって、火を得る道はたやすいことだ、ということを示されて、喜び、これが毎日の経験になっています。この黙示はいつ、どんな時に与えられたかと言いますと、イスラエルの民がバビロンに捕虜とせられた時代であって、神の民が敵の手にわたされている、すなわち堕落している時代であります。今日の一般の教会の有様を見ますと、やはり堕落しています。これは批評でもなく事実です。信仰は衰え、祈禱は薄らぎ、異端と俗化は教会の中に満ちて、ちょうどエゼキエルの時代と同様であります。その時に預言者エゼキエルは、八章から十一章にあるこの黙示を見せられたのです。この黙示は宮のうちにあった神の栄光がその民の堕落の故にそこを去るのでありますが、ちょうどそのように神の恵みが教会から退くのです。いくら説教をしても恵まれる者がなく、いくら伝道をしても悔い改めて救われる者がないのです。これは一面ある意味において、神の栄光が教会からしりぞいたわけであります。神の教会、神の民が堕落した時代は一面悲しむべき有様ですが、また一面さいわいな時代であって、神がリバイバルを起したもう望みのある時代であります。

 『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、目をあげて北の方をのぞめ」。そこでわたしが目をあげて北の方をのぞむと、見よ、祭壇の門が北にあって、その入口に、このねたみの偶像があった。彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼のしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」』(同書八・五、六)

 いま読みましたところによりますと、神の宮の内に像があります。これは嫉妬の像であると書かれてあります。これはどんな像であったか知りませんが、神がねたみたもう像が宮の至聖所にあったのです。私はこれを読んで非常に感じましたことは、人の手によって作られた目に見える宮でなく、聖霊の宮である人の心の内にこのねたみの像があります。兄弟姉妹よ、あなたの内にこの像がありませんか。私はよく経験したことがありますが、自分の伝道、自分の働き、自分の慾のためにのみ、己を献げていませんか。主よ、祈りたいのですが今日は忙しいですから御免下さいと言ったことはありませんか。私には祈る時間がないと言います。神はかかる時にこそあなたの祈禱を求めていたもうのです。神とあなたとの間に何かが入っておれば、それは神がねたみたもう像です。或いは、私の教会、私の団体というように、神にのみ全き愛を献げず、私の伝道、私の教会ということにのみ捕えられて、神を第二のものにいたします。これは、働きという偶像が神と私の間に入っていますから、ゆっくり聖書を読んで聖言みことばを聞く時間もなく、祈る時もないのです。この働きというものが神のねたみたもう像です。私はこの聖言によって非常に探られ、また教えられたことがあります。
 次に、

 『そして彼はわたしを庭の門に行かせた。わたしが見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼はわたしに言われた、「人の子よ、壁に穴をあけよ」。そこでわたしが壁に穴をあけると、見よ、一つの戸があった。彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。そこでわたしがはいって見ると、もろもろのうものと、憎むべきけものの形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、まわりの壁に描いてあった。またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行う事、すなわちおのおのその偶像の室で行う事を見るか。彼らは言う、『主はこの地を捨てられた』と」』(同書八・七〜十二)

 皆さん、これは実に恐ろしい有様ではありませんか。これがかつてイスラエルの神によって救い出された者の写真です。イスラエルの家の長老たち、すなわちこれは教会の責任者等が『暗い所で行う事』を預言者は見ました。宮の中に一つの秘密の部屋がありましたが、その部屋には壁があるために外からは誰にも見えず、また知られませんでした。しかし神はこれを知っていられました。そのために神は預言者エゼキエルを導いてこれを見させ、かく語りたもうたのであります。これはきよめられない人の心の有様だと感じている人はありませんか。外から見ますと実に立派なものです。ちょうど白く塗った墓のようなもので、表面は立派に見えますが、その内にはけがれに充ち満ちています。人間の表面は立派できれいなものですが、しかし人の気のつかないところに偶像の部屋があります。人の心。この人の心の隠れたる所に偶像の部屋があります。これは人間にはわかりません。神がこれを知っていられます。この聖別会に来て祈ることが出来るかも知れませんが、その隠れたる所を神は知っていられます。主よ、私はよい信者です、と言う人があるかもわかりませんが、その心の隠れたる所に偶像がありませんか。またもろもろの這うもの、獣の形はありませんか。もろもろの這うものとは何ですか。これは肉が残っているところには必ず生ずるものです。信者の心がこの世についていますと必ずその心に這うものが住まっています。地につけるものです。地から出るものを求めてこれを食っています。この世の小説、学問、智慧、知識を求めてこれを喰っています。また或る人の心には、己という這うものが宿っています。私の教会、私の教団、私の働き、私の家庭、私の何々、私の、私のと、己に関することばかりを考えて至るところを汚し、これを損ねています。もしこれが残っていれば何事もできません。熱心な兄弟の真似をしてみても、病人に手をつけて祈りましても駄目です。それは、偶像の部屋が宮の内にあるからです。

 『またわたしに言われた、「あなたはさらに彼らがなす大いなる憎むべきことを見る」。そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。その時、彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。これよりもさらに大いなる憎むべきことを見るだろう」』(同書八・十三〜十五)

 ここにタンムズのために泣いていたとありますが、タンムズとはペリシテびとの偶像で、毎年二月四日がその祭日に当たります。これは、きれいな男が獣に裂かれて死にましたが、その日が二月四日で、ペリシテ人たちは彼の死んだ日を記念するのです。特別にうるわしい女たちがこのために泣いています。またこの祭の日には穢れた淫事を行う習慣がありました。皆さん、神のきよき宮の内で贖われた神の民なる女たちが、外国の神々のために泣き、このために神の憎みたもうさまざまな罪を犯していることを預言者は見たのです。この故に神の栄光がこの宮から去るのは当然のことです。これは失った愛人のためにそそぐ汚れた愛の涙です。昔は美わしいことがあったと、昔のことを慕い求める心のけがれです。さまざまな肉慾を欲するのです。自分の罪を悔い改める涙でなく、かかる汚れたるものを慕い、これを求める涙です。この故に神の宮は汚され、神の栄光はこの宮を去るのです。皆さん、もしも私達のうちにかかるものが少しでもあれば大変です。この世のものを慕い、この世のものが欲しい、この世の人と同じことをしてみたい、という人には、今日はぜひ、上よりの聖霊の火によってきよめられねばなりません。

 『その時、彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。これよりもさらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。彼はまたわたしを連れて、主の家の内庭にはいった。見よ、主の宮の入口に、廊と祭壇との間に二十五人ばかりの人が、主の宮にその背中を向け、顔を東に向け、東に向かって太陽を拝んでいた』(同書八・十五、十六)

 ここで日を拝んでいるのです。これはちょっと考えるとそれほど大した罪のようには思われませんが、今までの多くの罪よりもなおさらに憎むべき大罪であると神御自身は言いたまいました。二十五人の老人たち、すなわちイスラエルの導き人、責任者、教役者等は神の宮を後ろにして日を拝んでいます。これはこの世の光を拝んでいるのです。この世の光、すなわち哲学、教育、知識、学問ではありませんか、かかるものを慕い、或いは求め、これを拝んでいる説教者は今日多くあるではありませんか。教育が欲しい、そして教育によって伝道しようとします。この世の知恵に頼って伝道する、これは神に対する恐ろしい罪です。私達は聖霊に頼り、聖霊を慕い、聖霊に満たされて、この能力によって伝道しなければなりません。さらに九章に書かれていることはなお深いことであります。

 『時に彼はわたしの耳に大声で呼ばわって言われた、「町を罰する者たちよ、おのおの滅ぼす武器をその手に持って近寄れ」と。見よ、北に向かううえの門の道から出て来る六人の者があった。おのおのその手に滅ぼす武器を持ち、彼らの中のひとりは亜麻布を着、その腰に物を書く墨つぼをつけていた。彼らははいって来て、青銅の祭壇のかたわらに立った。ここにイスラエルの神の栄光がその座しているケルビムから立ちあがって、宮の敷居にまで至った。そして主は、亜麻布を着て、その腰に物を書く墨つぼをつけている者を呼び、彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々のひたいにしるしをつけよ」』(同書九・一〜四)

 ここに現わされたことは実に恐ろしいことです。筆記人がその額に記号をつけない人達を、滅亡の器をもってこれをことごとく殺してしまえと言いましたが、これはきよき宮の中にけがれ果てたる者があるゆえに神に逆らう者をことごとく殺せというのです。これは実に恐ろしい審判でありますが、この審判はどこから始まるのですか。銅の壇のかたわらからです。銅の壇とは、むかし祭司がここで神にものを捧げたところですが、これは十字架です。神はそこで罪を審きたまいます。この十字架にある人は誰ですか。神の愛子です。しかし神の愛子であっても罪と関係があれば、神はこれを審判せずにはおきたまいません。十字架を見れば罪はいかに恐るべきものであるかがわかります。
 幸いにも神より一人の人が遣わされて町の中を歩み、罪に対して悲しみ嘆きおる者があれば彼にその記号をつけようと言いましたが、これは血潮の記号、十字架の記号です。神が私達の間を歩んで、罪よりきよめられたいと願っている人々を見られると、彼に印をつけてくださいます。ゆえに彼らは額に印のない者に会いますとその人たちを殺してしまったのです。これは実に深い教訓ではありませんか。リバイバルを求め聖霊の火を得たければ、神の記号を受けぬ者を殺さねばなりません。兄弟たちとの間の誤解、ねたみ、そねみ、恨み、怒り、その他いろいろなものを殺さねばなりません。これがあるといつでも神の栄光が汚されてしまいます。私は誰々を憎んでおりましたから赦して下さいと小さい部屋でこそこそ告白するようなことでは駄目です。再びこれが起らぬように殺してしまうのです。リバイバルの起されるためには、励んで兄弟姉妹の前に出て、その罪を告白し、これを殺すのです。これは自分の力、自分の決心ではできません。十字架です。「記号なき者は殺せ」、殺してくださるのは聖霊です。聖霊は血の記号なき者の上に自ら手を伸べて、両刃もろはの剣をふるってこれをみごとに殺してくださるのです。最後に話したいことは聖霊の火を得る道です。

 『時にわたしは見ていたが、見よ、ケルビムの頭の上の大空に、サファイヤのようなものが王座の形をして、その上に現れた。彼は亜麻布を着たその人に言われた、「ケルビムの下の回る車の間にはいり、ケルビムの間から炭火をとってあなたの手に満たし、これを町中にまき散らせ」。そして彼はわたしの目の前ではいった。この人がはいった時、ケルビムは宮の南側に立っていた。また雲はその内庭を満たしていた』(同書十・一〜三)

 この白い布(亜麻布)を着た人は誰ですか。これは私達の救い主イエスです。何のために彼は天国に入っていられますか。火を散らすためです。

 『イエスは神の右に上げられ、父からの約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである』(使徒行伝二・三十三)

 これはエゼキエル書十章二節によく似ていますが、彼はこの火を「受けて注いでくださる」お方です。預言者はこの火を受けて町に散らしましたが、私達もこの火を受けて町々に散らすべきであります。

 『彼が亜麻布を着ている人に、「回る車の間、ケルビムの間から火を取れ」と命じた時、その人ははいって、輪のかたわらに立った。ひとりのケルブはその手をケルビムの間から伸べて、ケルビムの間にある火を取り、亜麻布を着た人の手に置いた。すると彼はこれを取って出て行った』(エゼキエル書十・六、七)

 皆さん、『火を取れ』です。火を祈れではありません。取れです。これは信仰によって取るのです。感謝ではありませんか。実際書かれてあるように取ればよいのです。これは自分のためでなく、自分の成功のためでもなく、この火を町に散らすために取るのです。火を取るとともに、いたるところでこの火をつけるのです。あなたの働きが今日まで祝されなかった理由は、この火がなかったからです。けれども今日、ここでこの火をお取りなさい。私達に必要なものは聖霊の火です。この火はきよめる火です。焼き尽す火です。偶像があっても、獣の形があっても、何があっても、この火が下ればことごとく焼き滅ぼしてしまいます。
 またこの火は愛の火です(コリント前書十三・一〜十)。この愛という字の代わりに自分の名を入れて読んでごらんなさい。『××は寛容であり、××は情深い。また、ねたむことをしない。××は高ぶらない、誇らない。……』かく読んで行きますといかに自分の実際のことと相違があるかということに気付いて、恥ずかしく思わずにはいられません。聖霊の火は愛です。聖霊はこの火をもって私共を潔め、この愛をもって満たして下さるのです。



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