燃 ゆ る し ば

昭和四年一月神戸キリスト教会で開催された神戸リバイバル聖会に於ける
リダウト博士の説教



 『モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野(あれの)の奥に導いて、神の山ホレブにきた。ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脫ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである。」』(出エジプト記三・一〜三)

 モーセは旧約の歴史において最大の人物であります。神は彼によって律法を与えられました。また旧約聖書の初めの五巻を書いたのも彼であります。モーセほど神に近づいた者はかつてなく、また彼ほど神を知りまつった者はありません。彼が地にあった日の百二十年間にわたり、その生涯の三時代、すなわち最初の四十年はパロの宮殿にあって王の息子として、次の四十年間は羊の番人、すなわち羊飼いとして荒野で過し、最後の四十年はイスラエルの大指導者としてであります。
 実際において、彼の生涯は燃ゆるしばにおいて神に会いまつるまでは、無惨な失敗の生涯でありました。彼は当時のエジプトにあって最高の学府において学ばしめられたのでありますが、その生涯はなお失敗でありました。彼がかく最高の学府における教育訓練をもってしてもなお失敗であったその理由は、神の聖旨(みむね)の外にいたからであります。かかる人物は米国にも日本にも数多くいます。なるほど大学、高等学校と最高の学府で最高の教育を受けた者ではありますが、彼らは燃ゆるしばにおいて神に会いまつらないが故に、その生涯は失敗に帰するのであります。この集会にお集まりの皆さん方よ、今宵の集会において何はさておいても、燃ゆるしばの経験に浴さねばなりません。神は今宵、ここで、この経験をあなたにお与えになることができます。皆さんのうちで「なぜ私の生涯は力が無く、失敗ばかりであろうか」と嘆じている方があるかも知れません。しかしその方々も今宵、ここで、この燃ゆるしばによって神に清められ、強められることができます。
 聖書を見ますと、モーセは羊の群れを導いて荒野の奥、神の山ホレブに来ました。彼はそこで、「私の生涯はどうしてかようなのだろうか、失敗ばかりで、そしてこれからどうなるのだろうか。私はエジプトで最高の教育を受け、また訓練を経てきたのだが、今はこのような荒野で羊飼いをしている。これはいったいどうしたものだろう」と思い返しながら歩いてきたのかも知れません。或いはまた、「神様、もう一度私に会って下さい。この荒野で、このような生活には飽き果てました。どうかもう一度あなたの恵みの中に置いて下さい」と彼はかく考え、かく祈りながら山を登ってきますと、向こうに火が燃えています。何だろう? と不審に思って急いで行って見ました。
 神はかように私達一人一人にしばしば燃ゆるしばを与えていて下さるのですが、私達はあまりに忙しくあるために、この驚くべき恵みを心にしません。私達は絶えず、心して神に語るために、また神に聞くために時を費やさねばなりません。モーセは行って、この燃ゆるしばの不思議を見ようとした時に、『モーセよ、モーセよ』と自分の名を呼びたもう貴き神の御声(みこえ)を聞きました。燃ゆるしばの中から突然、自分の名を呼びかけられるとは、実に驚くべきことであります。そこで彼は、私はここにいますと答えた時、『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである』と、神御自身の聖(きよ)きをもってモーセに現れたまいました。その土地は神の聖き臨在のために聖別されていました。そこでモーセはこの聖き神に会いまつることに気付きました。私達はこの聖きのために感謝しなければなりません。神はこの聖きところにて御自身を現して下さるのであります。
 『燃ゆる火』この火は神が自らつけたもうた火であります。ダビデはその詩の中で言っています、『あなたはわたしのともしびをともし』と(詩十八・二十八)。今日私達に要するものは神のつけて下さる火です。多くの人はこの火を求め、この火を要していますが、その火は神によらぬ火であります。私達の生涯の中に、また御奉仕の中に、要するものは、神より来た火であります。兄弟たちよ、この神より来た火をつけしめなさい。姉妹たちよ、あなたにもこの火をつけしめなさい。神がこの火を燃やして下さる時、あなたが初めて役に立つ者、実を結ぶ者として下さいます。私は教員の一人として皆さんに訴えますが、日本に今、必要なるものは、ただ神が手づからつけたもうた火の教職者です。大学、神学校もよろしい。しかしそれにもまさって必要なるものは、神御自身が投げ入れたもうた火に燃やされることです。教育といい、訓練といい、モーセにまさる者は全地になかったでしょう。けれどもそのモーセさえも荒野にて生ける神にまみえまつるまでは無益の僕(しもべ)でありました。昨年、米国で信者が一人も増さない教会が六百箇所もありました。日本においても教会はないことはありません。しかしあっても実を結びません。教会に新しい魂が加えられません。その教会で御用に当たっている者はみな相当の教育のある人達ばかりです。けれどもなお魂が救われません。その理由は何でありましょうか、それは神によって火をつけられていない、この一事のためです。
 モーセが荒野で見せしめられた不思議な火、奇妙な火、この神より出できたる火が必要なのです。この荒れ野において燃ゆる火は、何か立派な木に燃えている火でなく、また素晴らしく立派な場所で堂々と燃えている火ではありません。荒野のただ中で、平々凡々として燃える火であります。或る人は言うかもわかりません。私の働く場所は淋しい、何の興味もない荒野のようなところで、とてもこのようなところでは働けません。この沙漠、この荒野。しかし皆さん、そこにこそ神の火が燃やされなければならないところなのです。また或る人は、私の遣わされている所は困難でみじめなところである、と言って嘆きます。しかし神には困難ということはありません。またここに燃えている火は普通の平凡な木で、決して立派な木が燃えているわけではありません。或る人は言っているかも知れません。私には何の技量もなく、学問もなく、まことにみすぼらしい者でありますと。しかし神はかかる者にこそ御自分の火をつけて燃やしなさいます。神は貧しい者、賤しい者を召し出して、これに火をつけて御自身の栄光のために用いたまいます。
 米国で一人の青年が救われました。何か神のために働きたいと願っていましたが、何の教育もありません。しかし彼は霊魂の救いのために召されている靴屋の小僧でした。ある日、彼がニューヨークに行ったとき、神の霊が驚くべく注がれたことを経験しました。この一人の青年はいわば平凡なしばに過ぎないのですが、驚くべきことに彼は、何千、何万の人をキリストに導く大伝道者となりました。彼はしばに過ぎないのですが、彼のうちに驚くべき神の聖(きよ)き火が燃やされていたのです。神が私達一人一人に要求したもうことは、この聖き火に燃やされていることです。平凡なしばでよいのです。何の特技も要りません。ただ神の聖き火が入り用です。神は大いなる者、尊き者、力ある者、慧(さと)き者を選ばずと言われましたが、今日もなおかかる者を選び、これによって神の栄光を顕したもうのであります。
 この火は神秘的な火、超自然的な不思議な火でありました。モーセがこれに目を注めて見ますと、火は炎々として燃えていますが、しばは焼きつくされません。何かこの火には不思議があります。神はいつもかく不思議を行いたまいます。キリストの宗教には超自然的な奇跡的なことが行われています。総じて近代の科学は奇跡、超自然的なことを全く信ずるに足らぬこととしてこれを除外せんとします。そうして聖書の中のいろいろな奇跡を切り除いてしまおうとします。しかし、この聖書そのものが既に超自然な神秘的なもので、これらのものを除けば神の尊いものを破ってしまうことになります。私は四十余年の今日までこの聖書を学んで来ましたが、この聖書こそはいよいよ愛すべく慕わしき書となって来ました。そして創世記の始めより黙示録の終わりまでそのまま信じております。かくも聖書を愛し尊ぶ理由は、どこを開いても超自然な御業に充ち満ちて、それが神の栄光を私に語るからであります。実に今日、教会内に必要なものはこの神の超自然的な御業であります。神の奇跡です。人の霊魂の中にその罪を指摘し、その魂を砕いて神に立ち帰らせる不思議な業がなされなければなりません。
 また、この火は人を引く引力をもっています。モーセはこの火を見た時、心を引かれずにおられませんでした。神の燃やしたもう火は驚くべき引力をもち、多くの人を引かずにはおりません。私達が人々をキリストに導くためには、この火が魂の衷(うち)に燃えておらねば失敗いたします。今日、裕福な教会は多くあります。けれどもその中に荒野のような淋しさのあるのは何故ですか。その理由は他ではありません、教会が徒らに音楽会やバザーやその他の催し事に力を入れて、神御自身が燃やしたもう火に燃やされないからです。
 また、この火の中に、神御自身の聖(きよ)きにおいての御顕現がモーセに現わされました。『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである』と語りたまいました。私達が要するものはきよきにあって在す神の黙示、幻であります。これはまた預言者イザヤが見せられた幻であります。彼はエルサレムの神殿で『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ』という幻を見ました(イザヤ書六・三)。神はきよきにおいてご自身を顕したまいます。この聖なる神の幻を見せられたとき、私達はいかに汚れ果てた者であるかが示され、「神よ、私をあわれみ、潔(きよ)めたまえ」と祈らずにおられません。神はかくして潔むるわざを現実に私達の衷になしたもうのであります。かくしてこそ私達は初めて神の御用に立つ者とされるのであります。
 またモーセはこの火の中より神の聖声(みこえ)を聞きました。しかもこれは『モーセよ』と個人的に名指して呼ばれた声でした。私達お互いにとっても同様であります。私達がキリストに来る時、そこで神は私達を名指して、個人的にお取扱いを下さるのであります。
 またモーセはここで新しい生涯の使命をいただきました。その使命はこの燃ゆるしばの傍でありました。彼は今まで羊を飼っていましたが、その仕事から離れてイスラエルを導く生涯に入れられました。彼はこの尊い使命を蒙らされたとき、『わたしは、いったい何者でしょう。……わたしは口も重く、舌も重いのです』(出エジプト記三・十一、四・十)とへりくだって、神の聖前(みまえ)にこの私こそ実に価値のないものでありますと申し上げましたが、神はかくへりくだった、私はいったい何者でしょうと言う者を用いられます。ここに私達の奉仕の秘密が洩らされています。私は何者ですかというこの謙遜を宿した心、自己というものが全く死に失せている者をこそ神は喜んでお用いになります。また私達が御奉仕のために携え行くべきものはただ主の言葉であります。
 モーセはこの燃ゆるしばの傍らで、彼の生涯、また彼自身に驚くべき変化が与えられました。このとき彼はまさに八十歲であります。彼が荒野の奥で羊の番をしながら、自分の生涯は失敗であったと思ったのはもっともなことであります。しかし八十歲の彼が、この焔により、燃ゆるしばで、神に会いまつったその時より、本当のモーセの生涯が始まったのであります。実にモーセが召された仕事はこの世が終世、永遠に、忘れることのできない大いなる栄えある仕事でありました。私達も今夜、この燃ゆるしばにおいて神にまみえまつりとうございます。
 或る人は金を作るために羊を飼っています。米国で一人の伝道者が非常に失望をして、「神の御用をやめて田舎に行き、野菜を作って金を蓄えましょう」と決心して出掛けました。しかし彼がまだ田舎に着かぬ前に、その途中で天幕伝道に出会ったので立ち寄って聞くともなしに聞いていましたが、ちょうどその時、説教者は聖霊のバプテスマについて語っていました。失望の伝道者はこの集会で、神に近づき自分の失敗をそのまま申し上げて、「主よ、どうぞこの失敗だらけの私をきよめてください」と申し上げました。神はその夜、彼に臨み、聖霊のバプテスマを与えたまいました。彼がかく聖霊のバプテスマを受けたとき、もう畑も野菜もさようならです。彼が再び教会に帰っていった時、神は見事に彼の教会を火に燃やしたまいました。これは彼がかしこで、燃ゆるしばで神に会いまつったからです。今日の教役者の多くは野菜を作り、羊の世話をして金を蓄えようとするのですが、それはすべて失敗です。兄弟姉妹よ、あなたの今日までの生涯は何故失敗ばかりで、心に満足がなかったのですか。それはこの神に逢いまつらなかったからです。今日、この燃ゆるしばの中から語られる神の聖声(みこえ)を聞きなさい。神の聖旨(みむね)の中に引き戻されなさい。私は今日、日本の全教会のためにこの燃ゆるしばの経験を訴えます。今もなお、牧師、伝道者のためにこの燃ゆるしばの恵みは備えてあります。信者一人一人のため、求道者のためにもこの恵みは備えられています。神はこのしばの中にあって、あなたがた一人一人の名を呼んで下さいます。あなたは躊躇逡巡することなくすべてのものを投げ捨て、この燃ゆるしばに近づきまつり、従いまつるとき、神はこの火をもってあなたに近寄って下さいます。兄弟姉妹方、あなたはこの燃ゆるしばの経験をなさいましたか。あなたはこの荒野で神に会いまつることを願いなさいますか。かかる切なる祈りをもつ人は必ず神に逢うことができます。



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