サ ム ソ ン

昭和四年五月兵庫県有馬で開催された日本伝道隊年会に於ける
カスバルトソン先生の説教



 『ここにダンびとの氏族の者で、名をマノアというゾラの人があった。その妻はうまずめで、子を産んだことがなかった。主の使がその女に現れて言った、「あなたはうまずめで、子を産んだことがありません。しかし、あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。それであなたは気をつけて、ぶどう酒または濃い酒を飲んではなりません。またすべて汚れたものを食べてはなりません。あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その頭にかみそりをあててはなりません。その子は生れた時から神にささげられたナジルびとです。彼はペリシテびとの手からイスラエルを救い始めるでしょう」』(士師記十三・二〜五)

 私は数年前、サムソンの歴史を研究することによって非常に恵まれたことがあります。近頃また新しく読むと、また新しい光が与えられて恵まれました。このサムソンの話は有名な物語で、殊に基督者としての私達はこの歴史を研究することによって探られ、輝かされて、大いなる恵みを受けることができます。
 サムソンの生れ方は実に驚くべきことで、かようなる神の直接の約束の子は聖書の中でもわずかです。イサク、サムエルなども神の約束の子で、主キリストもまたしかりでありますが、この士師記第十三章全部はサムソンの生れることについて書かれ、殊に天使がその神に遣わされて大切なことを教えております。神の約束によって子の生まれることは恵みの働きです。かく考えますれば私自身の生まれたことも恵みのわざで、神の使が来て聖言(みことば)を与え、神の能力によって生まれかわることができました。このサムソンについて最も大切なことは、彼はナジル人(びと)であったことです。ナジル人とはいかなる人かと言えば、民数記六章にそのことが詳しく書かれてあります。これは『身を聖別した者』です。すなわち神から恵みを受けた時、神に自分の感謝を表すために身を献げたのであります。これは人により、また場合によって違いますが、ある人は一個年間、三個年間、或いは一生のあいだ献げるのです。そのナジル人であるしるしは、髪の毛を切ることがありません。伸ばしたままですから誰が見てもすぐわかります。次に『濃い酒を飲むな』『汚れたものを食べるな』ということで、これは不味いからとか腐敗した食物だから食べないということでなく、レビ記、出エジプト記に記されてある食物のことであります。さらに『屍(しかばね)に近づくこと』も禁じられています。それがどれほど親しい人であっても、その屍に近づくと汚れた者となります。これは、きよめの或る方面の四つの要点であります。
 第一に、この身を献げたしるしとして、頭髪をそらぬこと。これによって誰でも神の人、神のものなることを証(あかし)しました。これはこの世と妥協せぬ、関係せぬ、ということで、私は頭から足の先まで全部神のものであるということです。あなたはいかがですか。救われてから日が浅くても、どうしてもこの身を献げねばならぬと感じていますか。その身を神に献げていますか。この世と少しも妥協しない、完全に神のものですか。
 第二に、ぶどう酒、または濃い酒を飲んではなりません。神に身を献げた者はこの世の快楽の泉を飲んではなりません。この世の宝も求めません。この世の快楽を求めもせねば見向きもせぬということです。これは簡単なことですが、実際の問題になるとなかなか困難なことです。
 第三に、屍に近づくな、すなわちこの世と交わるなということです。屍とは誰のことかと言えば、生命のない人、神に無頓着な救われぬ人は屍です。私達は自ら進んでこの屍に近づけばいかほど神の聖旨(みむね)をいためることでありましょうか。
 第四に、汚れたるものを食べてはいけない。ナザレ人の誓願を立てた者はこれを食べてはならぬという律法があります。これはこの世のものを愛してはいけないということであります。すなわちあなたの信仰の助けにならぬこの世の小説、教育、知識を食うなということであります。
 サムソンにはこれだけのことはよくわかっておりました。すなわちある程度まではきよい信者であります。しかし半分だけのきよめでは失敗します。あなたはこのことを考えていただきたいのです。サムソンは新約の言葉を用いて言えば、きよめの消極的方面だけを知った人で、芝居、映画、小説等この世と交わるなという外部的きよめのことはよくわかっていました。さらにサムソンは聖霊のこともよくわきまえていた人であります。

 『主の霊はゾラとエシタオルの間のマハネダンにおいて初めて彼を感動させた』(十三・二十五)
 『かくてサムソンは父母と共にテムナに下って行った。彼がテムナのぶどう畑に着くと、一頭の若いししがほえたけって彼に向かってきた。時に主の霊が激しく彼に臨んだので、彼はあたかも子やぎを裂くようにそのししを裂いたが、手にはなんの武器も持っていなかった。しかしサムソンはそのしたことを父にも母にも告げなかった。サムソンは下って行って女と話し合ったが、女はサムソンの心にかなった。日がたって後、サムソンは彼女をめとろうとして帰ったが、道を転じて、かのししのしかばねを見ると、ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。彼はそれをかきあつめ、手にとって歩きながら食べ、父母のもとに帰って、彼らに与えたので、彼らもそれを食べた。しかし、ししのからだからその蜜をかきあつめたことは彼らに告げなかった』(十四・五〜九)

 この経験がサムソンにありました。彼は若き獅子に会い、これを殺すことができました。聖霊の力によって若き獅子の子、すなわち悪魔より出ずる誘惑に勝つことができました。これは驚くべきことです。手に武器も何も持たずに勝ったのは信仰の働きです。神を信じ、自己の手には何ものもない。すなわちこの世の武器は何もなくして勝利を得た、大いなる信仰の勝利であります。またこのことを父母に話さなかった。誇らない。黙している。これは実に驚くべきことです。私達はすぐ悪魔に勝ったと話したがります。雑誌にも載せてもらいたいのです。このようにサムソンはただの信者でなく非常に恵まれた人でありました。次に彼は、この世に勝った人であります。

 『この時、主の霊が激しくサムソンに臨んだので、サムソンはアシケロンに下って行って、その町の者三十人を殺し、彼らからはぎ取って、かのなぞを解いた人々に、その晴れ着を与え、激しく怒って父の家に帰った』(十四・十九)

 これは第二の勝利です。聖霊が彼の上にくだってペリシテ人(びと)に勝ちました。ペリシテ人とはカナンの国にある、この世を意味します。これは信仰の働きです。『すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である』と聖書には記されてあります(第一ヨハネ四・四)。さらに今一つのことは、肉体の習慣と悪癖に勝つことであります。

 『サムソンがレヒにきたとき、ペリシテびとは声をあげて、彼に近づいた。その時、主の霊が激しく彼に臨んだので、彼の腕にかかっていた綱は火に焼けた亜麻のようになって、そのなわめが手から解けて落ちた』(十五・十四)

 サムソンがペリシテ人を殺したためにユダヤ人は恐れてサムソンのところに来て、どうぞペリシテ人に負けて下さい、と願ったので、彼は負けてペリシテ人に身を渡しました。ペリシテ人が彼を殺そうとした時、彼は激しく臨んだ聖霊の力によって、縛られていた綱を火に焼かれた亜麻のように切ることができ、自由の身となりました。世の中には肉体の習慣、悪癖などにつながれて自由のない人がたくさんあります。しかし聖霊が上から臨んで来ると、どのような習慣悪癖も、火に焼かれた亜麻のように断ち切られてしまいます。
 サムソンに聖霊が臨んだということが聖書に三度記されております。彼はかくのごとく悪魔に勝ち、この世の誘惑に勝ち、肉体の悪習に勝つほどの驚くべき経験を持った大人物でありました。実は彼はその出生において偉大であり、その経験においても偉大でありましたが、しかしそれから後の彼について学んでいただきたいのであります。

 『サムソンはペリシテ人の時代に二十年の間イスラエルをさばいた』(十五・二十)

 サムソンは士師の時代における神に選ばれた大いなる人で、二十年間イスラエルを治めました。しかしそれにもかかわらず非常に悲しいことに遭い、大失敗をしてその終わりは恐ろしいことになりました。

 『そこでペリシテびとは彼を捕えて、両眼をえぐり、ガザに引いて行って、青銅の足かせをかけて彼をつないだ。こうしてサムソンは獄屋の中で、うすをひいていたが、その髮の毛はそり落された後、ふたたび伸び始めた』(十六、二十一、二十二)

 これはどうしたことなのですか。大いなる失敗をしたのです。きよめをもっていた人がペリシテ人に捕えられているのです。しかも神は剃り落され、両眼はえぐり取られています。これは彼が誘われて悪しき女のもとに遊びに行ったためです。サムエル書を見てごらんなさい。

 『春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち、並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。さて、ある日の夕暮、ダビデは床(とこ)から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか」。そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た』(サムエル後書十一・一〜五)

 臣下の王たちは戦に出ていますが、ダビデは出て行きませんでした。出て行かなければならないのに行かず、その代理としてヨアブを遣わしています。そしてその間にいかなることができましたか。彼はそこで奸淫を行い、偽りを言い、人を殺したのです。もしも彼が王の習慣に従って戦に出ていたならば、このような恐ろしいことは起らなかったでしょう。ダビデ王は誘惑のために倒れたのです。サムソンはどういうわけでデリラという女の所にいるのですか。ここは彼のおるべき所ではありません。おるべき所におらなかったために彼は大失敗をして、ついに死ななければならなかったのです。その経験の第一は、彼を縛って両眼をえぐり取ったのです。ペリシテ人はまず彼を盲目にしました。彼は見ることができなくなりました。幻を失ったのです。以前は驚くべく用いられましたが、今は何の力もなく、何の幻もありません。かつては聖霊に満たされたと力強く証ししましたが、今は何もありませんと、告白する人はありませんか。おそらくここに集っている教役者の方々の中にもかかる告白をしなければならぬ人がありはしまいかと心配しています。また私達もよく注意していませんとこのようになるかも知れません。幻がないため、聖書を読んでも今までよく見えたキリストは見えません、味がありません、光がありません、力もありません。教役者の中でも、かつては聖書の言葉を生きた神の言葉として用いましたが、今は何のビジョンもなくただ活字ばかりが見えてキリストの栄光の姿はありません。霊の眼を失った盲人です。また働きの面においても、以前は一生懸命に滅びる魂のために働いたのですが、今はいかがですか、祈禱会だけでも大儀です。小さい村を見ても滅びる魂のために犠牲の心も起りません。自分の内を見ても何の黙示もありません。そればかりではありません。サムソンを青銅の足かせにつないだとありますように、あなたも敵のためにつながれていませんか。サムソンは失敗する以前には聖霊に満たされて、悪魔に向かっても勝利、世に向かっても、身体の習慣に向かっても勝利でしたが、今は何の自由もなく、敵の手につながれております。
 次に『うすをひいていた』、これはイスラエルでは獣畜のする仕事です。彼はこの面白くない仕事を朝から晩まで、毎日毎日しなければなりません。あなたの働きはいかがですか。未信者の前に立って神の聖言(みことば)を取り次ぐことは楽しいことですか。ああ面倒くさい、あかしをするのも大儀だ、何の感激も、興味も、喜びもありません。

 『彼らはまた心に喜んで言った、「サムソンを呼んで、われわれのために戯れ事をさせよう」。彼らは獄屋からサムソンを呼び出して、彼らの前に戯れ事をさせた』(十六・二十五)

 サムソンはどんなに変わったかを見てごらんなさい。以前にはペリシテ人は彼を恐れていたのです。けれども今はそのサムソンは彼らのために戯れ事をさせられるのです。すなわち未信者の玩具になるのです。どうですか、あなたの住んでいるところの周囲の未信者はあなたをどう言いますか。あなたを軽んじ軽蔑していませんか。もしも皆さんが上部だけのきよめで、心の内まできよめられていなければ、このように未信者の笑いものとなります。それから最後に、

 『女は自分のひざの上にサムソンを眠らせ、人を呼んで髮の毛、七ふさをそり落させ、彼を苦しめ始めたが、その力は彼を去っていた。そして女が「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」と言ったので、彼は目をさまして言った、「わたしはいつものように出て行って、からだをゆすろう」。彼は主が自分を去られたことを知らなかった。そこでペリシテびとは彼を捕えて……』(十六・十九、二十)

 これが一番恐ろしいことです。いつもの通りに力を出さんとしましたが、キリストは自分の側にいたまいません。いつもの通りに説教を、伝道を、あかしをしようとしますが、いつもの通りにキリストはいたまいません。皆さん、私達はへりくだって、へりくだって、心の底まで探っていただかねばなりません。黙示を失っていませんか。自由を失っていませんか。喜びを失い、交わりを失っていませんか。ひとたび神の恵みによって世にも悪魔にも習慣にも勝った人でありますが、今はこんなに無惨な姿になっています。いつもの通りに力をふるおうとしましたが、その力を失っていることは周囲の人々はよく知っていますが、自分自身は知りません。
 どうしてこんなになったのですか。その失敗の原因は何ですか。まず彼はこの世と同盟して、友となってペリシテ人のもとに遊びに行きました。このような信者や教役者は今でもあります。伝道が困難だから、商売が思わしく行かないからというので、未信者と提携します。世の友となるのです。これがサムソンの失敗の第一原因でありました。
 第二の失敗の原因は、誓いを破ったことです。初めに神に捧げた身体を自分の快楽のために用いました。あなたはいかがですか。数年前のこの集会でいっさいを捧げたことがあります。それから今もなお神のものですか。捧げたままですか。何もかも神のものと言っていますか。今はどうですか。サムソンはその誓いを破ったのです。このように一度捧げた誓いを破る信者はどれほどたくさんありますか。一度はすべてを捧げたのですが、それがいつの間にか自分の快楽のために用いたことはたびたびあります。ナジル人になろうと献げたものが、葡萄酒を飲んで神のものを自己の快楽のために用いたことがあります。或いはこの世の慾、穢れたものを食ったことがあります。信仰を害なう書籍を読んで知識を求めたことがありませんか。それがあなたの失敗の原因であります。しかしもっと根本的な原因は、初めから本当にはきよめられていなかったのです。心の奥深いところに一つの汚(けが)れが残っていました。それは何ですか。女でした。これがサムソンの一番の欠点です。世界中の失敗者の大部分の原因は、これをきよめられたくないのです。皆さん、これを徹底的にきよめていただかぬと失敗します。この聖言(みことば)を読んでごらんなさい。三人の女が入り込みました。この穢れたる愛のために神に用いられたサムソンが敵の手に捕えられて無惨な死を遂げました。もしもあなたにこれがあるならば、ついに敵に捕えられてサムソンのごとく殺されますよ。穢れた愛、これがサムソンの内になければ彼は失敗しませんでした。このところだけはきよめずにおいて下さいという、穢れた思いを抱いてはいけません。徹底的に神のお取扱いをいただくことです。表面だけでなく、心の底の底までです。最後に、

 『彼らがサムソンを柱のあいだに立たせると、サムソンは自分の手をひいている若者に言った、「わたしの手を放して、この家をささえている柱をさぐらせ、それに寄りかからせてください」。その家には男女が満ち、ペリシテびとの君たちも皆そこにいた。また屋根の上には三千人ばかりの男女がいて、サムソンの戯れ事をするのを見ていた。サムソンは主に呼ばわって言った、「ああ、主なる神よ、どうぞ、わたしを覚えてください。ああ、神よ、どうぞもう一度、わたしを強くして、わたしの二つの目の一つのためにでもペリシテびとにあだを報いさせてください」』(十六・二十五〜二十八)

 これは理想的な祈禱ではありませんが、とにかくどのようになった時にも神に祈ったのです。神さま、私を助けて下さい、私は殺されねばなりません、だめになっています、と祈らねばなりません。

 『そしてサムソンは、その家をささえている二つの中柱の一つを右の手に、一つを左の手にかかえて、身をそれに寄せ、「わたしはペリシテびとと共に死のう」と言って、力をこめて身をかがめると、家はその中にいた君たちと、すべての民の上に倒れた。こうしてサムソンが死ぬ時に殺したものは、生きているときに殺したものよりも多かった』(十六・二十九、三十)

 これは私に面白く感じました。「献身」というものをもって両手にものを満たし、右の手で中柱をつかまえ、左の手でかかえて両手をいっぱいにして神に求めました。信仰をもって片手に自分の罪をつかまえ、「神よ、この罪の故に私は失敗しました」と、恥ずかしくてもそれを手にとって見せるのです。また片手で十字架をつかまえるのです。この穢れ、この罪を、十字架の血をもってきよめたまえと祈るのです。サムソンは死にましたが大勝利です。「死ぬる」、これがきよめの秘密です。

 『わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである』(ガラテヤ書二・十九、二十)

 この死の道を歩まねばきよめられません。死なねばこの己が出ます。勝利の道はただ一つ、それは死ぬる道です。



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