湧 き あ が る 泉

大正十四年八月兵庫県有馬で開催された有馬修養会における
ソーントン先生の説教



 『イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。……そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた』(ヨハネ福音書四・五〜七)

 このサマリヤの女は、かわける女です。この女の生涯をよく知られるならば、いかに哀れな実のない砂漠のような生涯であったかを知られるでしょう。しかしキリストを信ずるならば、信ずる者に与えられるキリストの満ち足れる恵みが、いかに驚くべきものであるかも知られるでしょう。

 『イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の生命に至る水が、わきあがるであろう」』(十三、十四)

 これは驚くべき恵みではありませんか。泉となって湧きあがる生涯です。ポンプで吸い出すのではなく、心の中から湧きあがる生涯です。これはキリストがキリストを信ずる者に約束していたもうた恵みです。
 この女の仕事は、毎日毎日、町から水がめを頭に載せてこの泉に来て、水を汲み取って帰ることでした。汲んでは帰り、また汲んでは帰る。女は来る日も来る日もかめを戴いて水を汲みに来ました。来ては帰り、また来ては帰る。こんなことを三年、五年、十年と続けている女には実に物憂いことでした。
 それですからキリストがここでこの女にお逢いになった時、『もしあなたが神の賜物のことを知り、また、「水を飲ませてくれ」と言った者が、だれであるか知っていたならば……』と言われましたが、これはまた多くの信者たち、あるいは牧師たちの生涯のありさまではありませんか。水を運ぶ生涯──すなわちかめに水を汲んできては、小さい器に水を移しています。或る時はこの水がみんなの者に回りきらないで、不平を言われる時もあり、或る人は次の日曜日まで待ちきれないでかわきを訴えて待ちかまえているのです。これは事実です。若い牧師たちよ、あなたのかめの水はすべての人に回りきっていますか。姉妹たちよ、あなたのコップの水はいかがですか。私の若い時代にはやはりその通りでした。かめの水がすぐなくなって、すべての人に回りきらない。実に骨の折れる苦しいつらい仕事でした。多くのキリスト者の生涯をよく質してみますと、ほとんど大部分の人がこのかわいた生涯です。
 しかし私共が聖書を開いてみますと、驚くべき約束が示されてあります。それは、かわくことのない、泉となって湧きあがる生涯です。兄弟姉妹よ、あなたがたは私は恵まれているとは言っていますが、事実あなたの経験はいかがですか。この集会の空気に瞞されなさいますな。あなたが東京、大阪、神戸、岡山で今日まで行ってきたことをよく考えてごらんなさい。教会では恵まれていたかも知れません。けれどもあなたの家庭での生涯はいかがですか。或る人は、恵みを持たぬキリスト者の生涯は荒野(あらの)の旅のようだと言いましたが、このヨハネ福音書第四章が皆様によく分るように、イスラエルの荒野の生涯を通して学んでみましょう。
 イスラエルの民がエジプトの地で苦痛苦難の生涯にあった時に、神はその民らの叫び声を聞き、自ら降(くだ)って一人の人を召し出されました。神はいつでも一人の人を召し出したまいます。今日でもこの集会において神は一人の人を召し出したく願っていたまいます。それは神ご自身の代理者として、神の恩恵をその民らに宣べ伝える伝道者とならしめるためにです。神はモーセを召し出したまいました。そうして荒野に彼を招きたまいました。神が私共を教育したもう教室は荒野です。そこであなたを鍛え、試み、信仰について、また神ご自身を、つぶさに学ばしめたもうのであります。
 かくして神はモーセをエジプトにあるイスラエルの民の中に遣わして、彼らをエジプトより引き出だしたまいました。民らが紅海を渡ろうとした時、神は波を分ちて海の真中に道を設けて民らを渡らしめ、負って来た敵をことごとく海の中に擲ちたもうた時、イスラエルの民らは「ハレルヤ、大勝利。これからは大丈夫、神がわれわれの側にありたもうから」と気狂いのように踊り回りましたが、兄弟姉妹よ、神はこの民らをどう取り扱いたまいましたか。すぐに乳と蜜の流れる約束の地に導き入れたまいましたか。

 『モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった』(出エジプト記十五・二十二)

 一本の木もなく、草もない、目に見ゆるものは砂ばかりで炎熱の焼けつく荒野に入れられたのです。最初の一日は昨日の感激がいっぱいで、「どうだ、昨日のありさまは。実に驚くべきことだったな」と互いに語り合っていますが、その次の日も、またその次の日も、木も草も一本も見えぬ荒野で、相変わらず朝から晩まで炎熱がじりじりと照りつけてくる。「ああ、喉が渇いた。水が欲しい」と思っても一滴の水もない。どこかになかろうかとどこを求めても、見ゆるものはただ砂ばかりです。彼らはついに呟きました。「われわれは乳と蜜の流れる地に行くべきはずだのに、ここは水一滴もない荒野だ。この炎熱の中で水もなくしてどうなるものか。いったいモーセはわれわれをどこへ連れて行くつもりだろうか」と民らは心に疑いと不平と不満と呟きばかりでいっぱいになりました。
 兄弟姉妹たちよ、あなたは今日、ここでハレルヤを叫び、手を叩いて「大丈夫、神様、信じます」と言っていますが、あなたがたが明日、この荒野に導き入れられたらどうしますか。なおハレルヤを叫び神を信じて感謝讃美をもって従い得ますか。これは理屈でなく、事実の問題です。イスラエルの民らはこの荒野で終始呟きました。
 かくして三日を経ました時、一つの井戸を見出しました。「おい、水があるぞ。水だ、水があったぞ!」と歓喜の叫びを上げて我先にと水を飲んでみると、その水はにがくて飲まれない水です。「なんだ、畜生、こんなにがい水が飲まれるか」と、民らは怒って呟きました。にがくて飲まれない水、これはない方がはるかに良いのです。民らの経験は何とにがい経験ではありませんか。
 しかしモーセはここに跪いて主に叫びました(二十五節)。神はここで一本の木を示して、にがい水の中に投げ入れよと命じたまいました。この一本の木が水に投げ入れられた時、にがい水は甘くなり、その人々の生命の水と変わりましたが、これは何と驚くべき経験ではありませんか。にがきを甘きに変える木、これはキリストの十字架の力です。キリストの十字架はどこで学ぶべきですか。それは荒野でです。苦しみの時、患難の時、悲しみの日こそ、十字架の力を知る時です。あなたがこの荒野を突き抜ける時、あなたは目をこのカルバリの木に付けねばなりません。もし他のものに目をつけておれば必ず呟きが出ます。あなたの目は、ただこの十字架のほかに付けるべきところがないのです。
 イスラエルの民らはここを出発してエリムに着いた時、そこには十二の井戸があり、七十本の棕櫚の樹がありました。ここは実に楽しい安息のところです。民らは「ここは良いところだな、しばらくここに住まいたい」と、ここに座り込みました。かようにメラにあっても必ずこのエリムに着く時があります。
 私の父はメソジスト教会の牧師で、忠実に奉仕していましたが、住む家を持ったことがありません。ちょうど五十五歲になった時、私もだんだん年を取るから家でも建てて落ち着いた生活をしたいと願って、立派な家を建て、これで私の長い間の奉仕も酬いられ安息の時が来たと喜んでおりました。
 これはちょうどエリムの喜びです。それから四年の後、或る事情で金の必要に迫られ、その家を人手に渡さねばならぬことになりました。両親たちは、これから安息させていただくのだと喜んでいたのに──と悲しみの手紙を私に送って来ました。私はすぐ慰めの手紙を書きましたが、その手紙の最初に、「ハレルヤ、大感謝、あなたたちはこれからエリムを出発するのです」と書きました。この手紙を見た母は大変怒ったそうですが、私はなにゆえにかき書いたかといいますと、エリムは決して約束の地でなく、ただ私達の感情だけを喜ばせ楽しませる地に過ぎないからです。ここには真の安息はありません。神の約束の地はカナンです。安息はカナンの地よりほかにありません。兄弟姉妹たちよ、あなたがたは今どこに住まっていますか。あなたはエリムで満足して、そこに腰を下ろしてはいませんか。ここに腰を下ろしてはだめです。あなたの満足、あなたの腰を下ろすべき地は、約束の地、カナンです。あなたがそこに腰を下ろしていると、主は必ず来てあなたを追い立て、そこを出発せよと命じたまいます。私も今日まで幾度もエリムの経験をしました。立派な教会を造り、いろいろな計画をめぐらせたこともあります。そしていよいよこれからという時になって、いつもここから引き出されて荒野へ追いやられました。皆さん、確かに記憶して下さい。エリムは私達が安息すべき地ではありません。
 かくして民らは再び荒野に旅立ちましたがまた水がありません。或る者はまたにがい水が出るだろう、また木もあるにちがいないと思ったかも知れません。ここはにがい水も木もなく、ただあるものは岩と砂ばかりです。しかしモーセがこの岩を打った時、そこから水が溢れ出ましたが、これは彼らにカルバリの奥義が今一度示されたのです。聖書を見ますと、驚くべきことに、この岩はキリストなりと書かれ、その後彼らにこの岩は伴ったとありますが(第一コリント十・四)、カルバリで打たれたもうたキリストは、今日なお教会と共に伴いたまいます。これは事実です。教会があるところに見えざるキリストがともに歩みたまいます。この集会の中にもキリストは共にいたまいますが、これは不信者には見えません。不信者の目に見えるものはただ荒野ばかりです。あなたには今日、ここで、この岩なるキリストを見奉ることができますか。

 『彼らはそこからベエルへ進んで行った。これは主がモーセにむかって、「民を集めよ。わたしはかれらに水を与えるであろう」と言われた井戸である。その時イスラエルはこの歌をうたった。
  「井戸の水よ、わきあがれ、
   人々よ、この井戸のために歌え、
   笏(しゃく)とつえとをもって
   つかさたちがこの井戸を掘り、
   民のおさたちがこれを掘った」』(民数記二十一・十六〜十八)

 これはちょうど聖別会のようなものです。この井戸はヨハネ福音書四章十四節にあるわきあがる泉です。
 この井戸の経験はどうして得るのですか。或る人は祈りなさい、求めなさい、信じなさい、と教えますが、あなたは幾百回となくこれをしたでしょう。しかしなお満足がなく、喜びがなく、安息がないのはどういうわけですか。ただ求めるばかりではだめです。私達は昨年、井戸が必要になって掘ることにしましたが、まず「水の出る井戸を与えたまえ」と祈禱会を開いて祈りました。祈ってから掘りにかかりました。ただ井戸を与えたまえと祈ってばかりいて、実際に掘らなければ井戸はできません。水が出るまで掘らなければなりません。或る人は「主よ、井戸を与えたまえ」と祈るだけです。また或る人は「主よ、どこを掘るべきか教えたまえ」と祈ります。けれどもただ祈るだけで実際に掘りません。土を掘り返し、岩を除き、深く深く掘らなければなりません。笏と杖とをもって、つかさたちも、民のおさたちもみんな掘らなければなりません。多くの人たちはただ座り込んで「主よ、与えたまえ」と祈るだけで、掘りませんからだめです。
 サマリヤの女が『主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい』と言った時に、主は『あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい』と言われました(ヨハネ四・十五、十六)。サマリヤの女は自分で自分の井戸を掘らねばなりませんでした。この女と夫に、井戸と何の関係があると思いますか。この女の井戸にはこの夫が妨げとなっています。大きい岩です。この岩があるために水が湧き出てきません。あなたもこの井戸を得るために、岩を除かねばなりません。民数記を見ますと、民らは律法を与える者の指図に従って掘ったとあります。そうです。キリストの言葉の通り、指図の通りに井戸を掘りなさい。そして土と泥とを掘り出し、石と岩とを除きなさい。真剣に、真正にこれをしなければなりません。そして水の湧きあがるまでこれをすることです。キリストは私達にこの恵み、この生命の水の湧きあがる井戸を与えるために、カルバリに往きたまいました。そうですから私達は人前がどうであっても、このなすべきことをなしとげましょう。或る人は人の悪口ばかり言って暮らしてきました。或る人は自分の与えられた給料だけで満足ができません。婦人は白粉(おしろい)を塗りたい、赤い唇を作りたいのはなぜですか。これは、神があなたに与えられた顔に満足ができず、自分の持てるもの以上に美(うる)わしく見せようとするから、霊は来りたまいません。
 さて、かように井戸を掘り、石と泥と岩を除き、次になすべきことは、信ずることです。そうしてこの信仰の経験をどうして持ち続けるのですか。

 『その時イスラエルはこの歌をうたった。
   「井戸の水よ、わきあがれ、
   人々よ、この井戸のために歌え」』(民数記二十一・十七)

 井戸にむかって歌うのです。あなたが朝、床から起きようとすると、悪魔がさっそくやってきて、「おまえの洋服は見苦しいぞ、おまえの妻はどうだ……」といろいろなことを見つけて呟かそうとします。その時あなたのなすべきことは、そこに跪き、

 『井戸の水よ、わきあがれ、人々よ、この井戸のために歌え』

と讃美感謝することです。これは幸いな経験です。必ず水は湧きあがります。



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