出 エ ジ プ ト 記 講 演

大正十四年一月より六月まで神戸市御影、聖書学舎における
ソーントン先生の聖書講演


宝 血 の 力

──出エジプト記第十二章──



 『……おのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。……イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。……その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣の、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、わざわいが臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう』(出エジプト記十二・三、六、七、十二、十三)

 ここで私達の学びたいことは、血の力です。恐るべき神の審判さばきからイスラエルを救い出したのは血です。感情ではありません。また経験でもなく、彼らのきよきでもありません。ただ血のゆえです。もちろん、血を取って神が塗れと言われたところへ塗ったのは信仰の行為であります。もしも彼らが神のことばを信じなければ塗りませんでした。けれども今日ここで特に見たいことは、貴い血の力です。
 多くの説教者は「もしも信者が、その信仰の生涯を全うせんと願うならば、まず聖霊を求めよ」と、聖霊のバプテスマとその働きのみを強く高唱して、少しも宝血の働きと力とを説きません。今日の教会が恵まれず、霊魂の救われる者が少ないのはこの故であります。説教者がいくらキリストの福音を説き、聖霊の働きを説いても、悪魔は平気です。何故かならば、聖霊はキリストの御血を土台として働かれるからです。キリストの血のないところにはいかなるところにも働きたまいません。
 ある時のこと、一人の伝道者がムーディのところに来て、「あなたはなぜキリストの血のことばかりを説くのですか」と尋ねた時、彼は「キリストの福音の力の源泉はこの宝血にあるからです」と言いましたが、若い伝道者は「私はその血を好かないのです」と。そこで彼はさらに答えて「そうでしょう。ですからあなたの働きに祝福がなく、また力がないのです。この宝血のほかには救いの道はありません」。実に、この宝血を除いて救いはどこにもありません。
 しかし今日こんにちの多くの神学者たちは新しい意味でこの血を解釈しています。私も若い時には同様で、「血の中には生命がある。ゆえに救いは血でない、生命である」と言っていました。ヘンリー・ピーチャーという説教者は「私は牛殺し、すなわち屠殺場の宗教は信ぜぬ」と言いました。これは彼のキリストの宝血に対する信仰の告白であります。彼はキリスト者としてうるわしい生涯を送った人でありますが、霊魂を救う力を持っていませんでした。彼が立って説教をした時には、ロンドンの数千人の人々は頭を低くして聞きました。しかし、その数千人の会衆のうち、ただ一人、頭を下げなかった人があります。それは有名なスポルジョンで、なぜ彼のみ頭を下げなかったかと訊くと、「キリストの宝血に対して敬意を表さぬ者には頭を下げられない」と言ったということです。救いの土台である宝血、このキリストの宝血こそ私達の救いの土台であり、また聖書の土台であります。ごらんなさい。聖霊は血をもって始まっているではありませんか。まず神ご自身が動物を殺していたまいます。そしてその動物の皮を取って、罪を犯せる人間に着せたまいます。血、血によって初めて、罪を犯せる人間におおいが与えられました。血が流されて後、裸が覆われたのであります。アベルは信仰によってこの血をささげました。小羊の血、神はこの血を喜んで受け入れ、その義に対する証しを与えたもうたのでありますけれども、同時にささげられたカインの献げ物には血がありません。ですから神はこれに見向きもしたまいませんでした。私達はこの宝血を通してのみ神に近づくことができます。エジプトにおけるイスラエルびとはこの血のゆえに救い出されました。

 『しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう』(出エジプト記十一・七)

 この時より、かかる驚くべき誓いがイスラエルびとに対してなされました。そして十二章において血を示して、かかる驚くべき誓いの秘密が洩されてあります。民らは洩されたこの秘密、すなわち小羊の血を、信仰によって塗ったゆえに、その夜、審判の天使が遣わされても、彼らのうちには一人も滅ぼされた者はありませんでした。
 私はこの宝血の力を話す前に、まず新約における血のことについて学びたいのであります。

 『律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである』(ロマ書三・二十

 ここには宝血の必要が明らかに示されています。ロマ書三章には罪によって破壊された人類の姿が絵のように現わされています。

 『義人はいない、ひとりもいない。
  悟りのある人はいない、
  神を求める人はいない。
  すべての人は迷い出て、
  ことごとく無益なものになっている。
  善を行う者はいない、
  ひとりもいない。
  ……
 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである』(ロマ書三・十〜十二、十九

 ここには全人類がことごとく罪ありと決定せられています。しかし二十一節を見ますと、そこには福音の言葉が現されています。

 『しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない』(ロマ書三・二十一、二十二

 福音とは、すなわち律法をもって証しされたものであって、出エジプト記十二章にはすでにこの福音が伝えられています。この時代にはまだ律法は与えられていませんでした。この十二章では神は福音の秘密を示されています。それは他の者の贖いによる救い、すなわち律法にある犠牲はこの福音の秘密を語るものであります。律法には二つのものがあります。その一つは、何々をなすべからず、また何々を行うべし、という、神が人間に命じたもうた多くの誡めであります。人間はこの律法を守り行わんとしても、少しも実行できません。そして自ら責められてその罪を示されてしまいます。これがすなわち律法の目的であります。この律法によって見る影もないまでに失敗した人類のありさまを見ます。それゆえに正直な人は神様の前に来て「あなたの命じたもうた律法は行うことができません」と申し上げました。そこで神様が示されたのは犠牲の道で、これを行わば生くべし、と仰せになったのであります。ロマ書三章二十一節はこの犠牲による救い、すなわち福音であります。『預言者によって』とは何の預言者のことですか。詩篇五十一篇を開きますと、ダビデによってその証しがなされています。ダビデは旧約における聖徒でありながら、新約時代に住める聖徒であります。詩篇五十一篇を見ますと、まず自己の罪を告白し、自己のけがれを言い表してのち、

 『あなたはいけにえを好まれません。
  たといわたしが燔祭はんさいをささげても
  あなたは喜ばれないでしょう。
  神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
  神よ、あなたは砕けた悔いた心を
  かろしめられません』(詩五十一・十六、十七

 これは新約の経験です。彼はひざまずいて祈った時、旧約より新約の時代に飛んでいます。
 律法も預言者も新約について証するこの『神の義』とは何ですか。

 『しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。……彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである』(ロマ書三・二十一、二十二、二十四

 これはキリストの贖いによって義とせられるのであります。キリストの贖いとは何ですか。

 『神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた』(ロマ書三・二十五

 この血のゆえです。キリストの宝血です。このゆえにロマ書三章は出エジプト記十二章に私達を導くのです。

 『キリストの血によって今は義とされているのだから』(ロマ書五・九
 『わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである』(エペソ書一・七

 この血によって罪の赦しを得、義とされるのです。いったい称義とは何のことですか。今日こんにちこれを知る人が少ないのです。使徒パウロはこのことについて申しました。

 『だから、兄弟たちよ、この事を承知しておくがよい。すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音が、今やあなたがたに宣べ伝えられている』(使徒行伝十三・三十八

 これは単なるキリストの歴史的事実を述べただけです。

 『そして、モーセの律法では義とされることができなかったすべての事についても、信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである』(使徒行伝十三・三十八、三十九

 これは実に驚くべきことで、罪を赦されることよりも大いなることです。事実『義』とせられるのであります。その国の主宰者は罪人つみびとを赦すことはできます。しかしその人を義とすることはできません。罪人は赦されて牢屋から出されれば「やれ、安心した」と言いますが、人殺しをしたという不安と罪とは決して心の中から除くことはできません。
 私は、かつて自分の妻を殺した人を知っています。私の父は、牢屋にいる彼を導いて言うのに、「あなたは地獄を知っていますか」。彼は答えて、「私は現在、地獄におります」と涙を流して言いました。彼の記憶の中から犯した大罪が忘れられず、夜も昼も彼の良心は地獄の呵責を受けているのです。彼を牢屋から出すことはできても、罪に悩む良心の呵責から解放することができません。これはイエス・キリストの宝血によるほか、何ものをもってもできません。キリストの血を信ぜぬ信仰にはできません。ただキリストの宝血を信ずる時、それこそみごとに赦され、良心からも記憶からもかき消されてしまうのであります。今日こんにちの教会では称義についての説教はあまり聞きません。神様が私達の霊魂を取り扱われる偉大な事実はこの称義です。私共は義とされる必要があります。先日の集会で、一人の若い青年が涙を流して一生懸命に祈っていました。「神様、一昨々年犯しましたあの罪を今一度赦して下さい」と。神様が人を義として下さるのは一度です。何度もされる必要はありません。多くの人は間違って幾度も求めています。
 ペテロを見てごらんなさい。彼は三度まで主を知らずと言ってキリストを裏切っていますが(マタイ二十六・六十九、七十、七十二、七十四)、使徒行伝三章を見ますとその説教によって多くの聴衆にむかって何と言っていますか。

 『あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった』(使徒三・十四、十五

 『あなたがたは』と言っています。『われらは』と言っていません。彼はすべての者にまさってキリストを否定したにかかわらず、『あなたがたは』と言っているではありませんか。私も同じようにキリストを拒んだと言わねばなりませんが、彼がかく言うを得たのは、すなわち『義とされ』ていたからです。キリストの血が彼の罪を赦したまいましたからです。私共はこの宝血の能力を信ぜず、しばしば過去の罪を思い出しては赦しを求めます。
 ある時、悪魔がルターのところへ大きな本をもってやって来ました。その本の表紙には「ルターの罪悪の記録」と記されてあります。悪魔はその書を開いて「どうだ、ルター、おまえの罪はこんなにたくさんある」と一々読み上げます。ルターは「なるほど、だいぶあるな。みな私の犯した罪だ」。悪魔はさらに今一つの本を開いて、「ここにもある。おまえの罪の第二巻だ」。彼曰く、「そうだ、それも私の犯した罪だ」。さらに悪魔は、「ルター、まだまだある。これはおまえの罪の第三巻だぞ」。彼曰く、「悪魔よ、いったいそれがどうしたと言うのだ」。「おまえはこの罪によって亡びるのだ」と悪魔が言った時、彼は立ち上がって赤インクを取って、『神の子イエス・キリストの血、マルティン・ルターのすべての罪をきよむ』と大書した時、悪魔はすごすごと逃げ去ったということですが、これは称義の説明です。罪をほんとうに捨てること、キリストの血を信ずることのゆえに、彼の血はすべての罪よりきよめて私共を義とします。これはキリストの血のほか、何をもってしてもできません。神様は、旧約においては犠牲をもってわが前に来れと言いましたが、私共はただ神様が命ぜられたことをそのままなせばよいのです。新約の私共に命じたもうことは、「あなたがたの罪のために流されたキリストの血を信じよ」ということです。
 さらに新約聖書には宝血の力について何と言われていますか。

 『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである』(エペソ二・十三
 『神は、御旨みむねによって、御子みこのうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものをことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。
 あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである』(コロサイ一・十九〜二十二

 神様より遠く離れている罪人つみびとが神様に近づき得るのはこの宝血のゆえです。このキリストの宝血は罪人に『平和』を与えます。悪魔はその罪を責め、神様より遠く離れしめ滅亡に至らせようとします。それゆえに私共もかつてはしばしばおのが罪に責められ、幾度も悶え苦しみました。しかし、幸いにも今はこの聖言みことばのごとく、この宝血のゆえに恐れなくして神様に近づき、神様にまみえることができるのです。神様とのやわらぎ、親しき交わり、これは宝血のゆえです。サタンはあなたを圧迫し、いかにしても神様より離れしめようとします。しかし血はあなたを神様に来らせ、十字架を見上げしめ、赦しと平和とを与えるのです。
 さらにキリストの宝血は私共の死んだ行為よりきよめます。

 『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、けがれた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか』(ヘブル九・十三、十四

 キリスト者の生涯には多くの死んだ働きがあります。すなわち「このことをせねばならぬ、あれもせねばならぬ。これをせぬと祝福が得られぬ。わたしは信者だから、教役者だからこれをせねばならぬ」といういろいろな行為があります。神様は「……だから……をせねばならぬ」という恐怖を抱いて仕えることを好みたまいません。また義務的な、律法的な、生命のない奉仕を望みたまいません。たとえば什一じゅういち献金にしても、どうしてもこうしても十分の一を献げよと強要をしたまいません。ヤコブのように恵みに感じ自ら進んで献げることを望みたまいます。かつての私の過去の生涯においてもしかりでした。断食をせねば祝されない、恵まれない、これもせねばならぬ、あれもせねばならぬと思いました。皆さん、神様の求めたもうものはそれではありません。神様の求めたもうものはキリストの血です。信者にしても罪人にしても神様を喜ばせご満足を得せしむるものは、この宝血よりほかにありません。キリストの宝血のゆえに神様の祝福はくだり、恵みはそそがれ、赦しは来るのです。

 『兄弟たちよ、こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ』(ヘブル十・十九

 はばからずして。これは大胆に、臆せずしてという意味ですが、信者の中でも感情によって大胆をもつ人がありますが、真の大胆はキリストの血です。
 ある時、一人の兵士が戦場から陣地へ逃げて帰りました。これを見つけた隊長は厳しく彼を誡め叱った時、彼は答えて「隊長殿、私は何も知らなかったのです。この足が思わず知らずに走ったのです。私は決して臆病人ではありません。心は逃げるつもりではなかったのですが、この足が勝手に逃げたのです」と。これは肉的信者がいつも言うことです。ペテロをご覧なさい。彼は肉的大胆で、真の大胆を持ちませんでした。ですからキリストを拒絶しました。しかしキリストの血を用いる時、真の大胆、きよき勇気を与えて下さるのです。あなたに恐れが起こった時この宝血を用いるべきです。
 さらにこの宝血は虚しき行為よりあがなう力です。

 『あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストのたっとい血によったのである』(ペテロ前書一・十八、十九

 これは宝血の力です。『空疎な生活から』、これは日本にたくさんあります。まず第一に神様の聖旨みむねに背く悪い習慣を変えなくてはなりません。信者でありながらなお多くの人々が旧い習慣に従っています。
 ××に若い姉妹がいました。彼女は二か年前に悔改め、洗礼を受けて喜んでいましたが、或る日のこと私のところへ来て一日中泣き通しています。「いったいどうしたわけですか」と尋ねますと、「私は結婚をせねばなりません。しかも夫となる人は酒屋の主人です」と言って泣いているのです。「なぜ断りませんか」と言えば、「それができないのです」。「なぜです?」「親の命令ですからしかたがありません」と。彼女は親の命令であれば、善くても悪くてもどんなことにでも必ず従わなければならぬと思っています。それから二年の後、彼女は再び私のところへ来て、泣いて泣いて泣き通しています。「いったいどうしたのですか」、「先生、私はあのような結婚はしなければよかった!」と。どこに彼女の失敗がありましたか。すなわち彼女はキリスト者が守ることのできない習慣に捕えられていたからです。かようなむなしい行状から救い出せるのはキリストの宝血です。宝血はみごとにそこより救い出して、むなしき習慣を変えて栄光ある法に従わしめます。
 さらにまた宝血は、全き救いを与えます。

 『しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子みこイエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである』(ヨハネ第一書一・七

 『すべての罪からきよめる』、これは全き救いです。これはまた聖潔の問題です。或る人はふるき人がまだ内に生きていますと言いますが、それはすでに殺されたものです。釘づけられたものです。これは、宝血を信じ握って祈り求める時にこの確信が与えられるのです。

 『その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群集が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座みざと小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、
  「すくいは、御座にいますわれらの神と
   小羊からきたる」。
 御使みつかいたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、
  「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、
   ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、
   われらの神にあるように、アァメン」。
 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」』(黙示録七・九〜十四

 ここに集められた大いなる群集はことごとく白き衣を着、新しき歌をうたっていますが、彼らはどこから来たのですか。『大きな患難』の中から出て来たのです。『旧き人』の中からです。聖潔はまず心から全うされて、後に全生涯に及ぶのです。

 『さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使つかいたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、
  「今や、われらの神の救と力と国と、
   神のキリストの権威とは、現れた。
   われらの兄弟を訴える者、
   夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、
   投げ落された。
   兄弟たちは、
   小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、
   彼にうち勝ち、
   死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった」』(黙示録十二・七〜十一

 サタンは二つのことをします。一、欺く。二、訴える。この二つのものはサタンの武器です。『全世界を惑わす年を経たへび』。彼は今もなお全世界の人々を惑わせ、欺いています。さらに訴えるのです。多くの信者はサタンは偽る者と十分知っていますが、訴える者であることを知りません。彼は人類を神の前に訴え、また「おまえのようなつまらない無知無力な者が」とあなた自身に訴え責めるのです。しかし、かかる恐ろしいサタンの武器に勝ち得るのは『小羊の血によって』です。恐ろしい勢いをもってサタンが攻めてきた時、私共には何ものもありませんが、ただ一つ、キリストの宝血の下に隠れることです。これこそ唯一の勝利の道であり、戦いの方法であり、また武器です。
 今まで話しましたことは宝血の用い方でしたが、それのみではまだ十分ではありません。さらに羊を食べることです。この宝血には驚くべき能力があり、ただ宝血を通してのみ審判から救い出されるのですが、この血について出エジプト記には二つのことが教えられてあります。第一は、血を門口に塗ることです。

 『その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない』(出エジプト記十二・七)

 第二は、これを食べることです。

 『そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、たね入れぬパンと苦菜にがなを添えて食べなければならない』(出エジプト記十二・八)

 これは、キリストは私共の贖いであるばかりでなく、生命であることを教えているのです。第一は屠られたまいしキリスト、すなわち贖いのキリストで、第二は内住のキリストです。イスラエルの民に告げられたことは、『塗らなければならない』、そして『食べなければならない』です。新約において神様が私共に語りたもうことは、私共の罪のために死にたまえるキリストと、内住のキリストであります。この羊はどうして食べるのですか。

 『その肉を焼いて食べ、……なまでも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭と足と内臓と共に食べなければならない』(出エジプト記十二・八、九)

 火に焼いて食べるのです。生のままでも水に煮てもいけません。ただ火に焼いて食べるのです。これには深い意味があります。或る人々はキリストを生のままで食べています。すなわちキリストはきよき模範であり道徳的な大人物であると教えます。これは生のままです。火に焼かれていません。私共の信ずるキリストは人格者としてでなく、また模範的大人物としてでもありません。彼はカルバリの人です。私共のために命を捨てたまえる御方、罪の贖いのために血を流したまえる御方です。これが火に焼かれたるキリストです。
 その次になすべきことは、

 『種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない』(出エジプト記十二・八)

 『種入れぬ』とは聖別されることを教えます。すなわち種は腐敗を起させるもので、この種をことごとく取り除くのです。キリストを食べようとする者はこの世より聖別されねばなりません。

 『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越すぎこしの小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ』(コリント前書五・六、七

 コリントの信者にはこの種がありました。けれども彼らは少しもこのことを心配せず、賜物のことや教理経験などの問題に没頭していました。今でもこのような信者があります。否、その当時よりもさらに悪化しています。この出エジプト記十二章とコリント前書五章には深い関係があります。もしも私共のうちにパン種があればキリストをもって養われません。コリントの教会のパン種は悪と邪悪、高慢などのパン種ですが、もしもあなたの心に偽善、高慢、邪悪があればキリストから懇切に養われることができません。ですからこれを取り除かなければだめです。
 次は『苦菜を添えて』食べることです。過越の祭といえば喜ぶべき時でありますが、奇妙なことに苦菜を添えて食べるのです。キリストの燔祭はんさいは喜び感謝しなければならぬのですが、苦菜を添えて食べよというのです。これはどういう意味かと言えば、旧き罪を憶えよということです。今一度告白せよというのではありません。すべての罪は宝血のゆえにことごとく赦されていますが、旧き罪、すなわち自己の真相を見届け、憶えて、これを十字架にまで持ち来ることです。キリストが私共のために苦しみかつ死にたまえるのはこのためであると承知せねばなりません。



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