キ リ ス ト の 死

昭和四年十月神戸湊川伝道館に於けるカスバルトソン先生の伝道説教



 『わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人(つみびと)であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子(みこ)の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう』(ロマ書五・六〜十)

 この言葉は恵み深い神のお言葉で、この中に三つのことが書かれてあります。一、キリストは私達がまだ弱かった時に、私達のために死んで下さった。二、キリストは私達が罪人であった時に、私達のために死んで下さった。三、キリストは私達が神の敵であった時に、私達のために死んで下さった、ということであります。
 第一、キリストは私達が弱かった時に、私達のために死んで下さった。私達は弱い者で、しかも罪深く神に反逆していた者ですが、神の深い深い御愛のために救われ、キリストの十字架の贖いのためにすべての罪が赦されるのであります。普通の世の中の宗教ではどんな人が救われるかと言いますと、難行苦行のできる人とか、意志の強い人とか、あるいは功徳を積み、あるいは学識のある人のみがその恵みにあずかり得られるのです。しかしキリストの救いは、愚かな者、罪ある者、弱い者、学問も何もない者が、ただ信ずることによって救われるのです。意志が弱くて、いくら悪いことをやめようと決心してもやめられない、悪い友達に誘われるとすぐ悪いところへ行きたくなる。このような弱い、力のない人達が、自分の決心や力でなく、ただ神の恵みによって救われるという幸いな救いであります。天にいます神、天地万有の創造者である神が、罪のために苦しみ抜いている人間のありさまをご覧になって、かかる弱い者を救いたもうという大いなる救いであります。人間が悪いことをやめるようになってから、すなわち悪人が善人になってから救って下さるのでなく、どうしても善い人間になれない、悪いことがやめられない、自分自身でさえ見捨てようとする仕方のない人間で、どうすることもできませんから神が救って下さるのです。
 数年前、一人の大酒飲みが、酒のために失敗ばかりするものですから、何とかして酒から救われたいと、お寺の坊さんのところへ酒をやめられるように祈って下さいと頼みに行きましたが、そんなことはだめだと言って断られたということです。ですが、だめな人間、仕方のない人間にもなお望みがあります。その仕方のない、だめな人間のために、キリストは死んで下さったのです。もしも人間が自分の力で救われるのなら、いったい幾人の人が救われましょうか。一人も救われる者がありません。しかし神の大いなる恵みとキリスト・イエスの贖いの故に救われるのです。
 第二に、私達が罪人(つみびと)であった時に、キリストは私達のために死んで下さった。私達はただ弱いばかりでなく、罪を犯し、罪を作っている罪人です。その罪人を救うためにキリストは死んで下さいました。義(ただ)しい人のためでなく、罪人のためです。ですからどんな罪人でも救われるのです。どんなに穢れた人でも清めていただくことができるのです。人間は誰でも罪人であることは、説明するまでもないようですが、神が人間のありさまをどのように見ておいでになるか、ちょっと聖書のお言葉を見てみましょう。

 『義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壞と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない』(ロマ書三・十〜十八)

 これは人間の実際の写真です。天の神が人間のありさまを見られると、『義人はいない、ひとりもいない』というありさまであって、世界中のどこの国を探しても一人の義人もいないというのです。
 人間の目から見ますと、立派な正しい人のように見えますが、神さまの御目には一人の義人もおりません。ことごとく罪人であります。神の国に入りたい、心の罪を潔めていただきたいと願う人は、まずこれを知らねばなりません。
 『悟りのある人はいない』。教育が普及した今日に、悟りある者なしとはおかしいことです。しかし教育のある人はありますが、活ける神さまを知っている人は幾人ありますか。私には財産がある、名誉がある、学問があると誇っている人がありますが、神さまの目には愚かな者です。悟りのある者は一人もおりません。
 『神を求める人はいない』。金を求め、この世の快楽を求める人はありますが、神を求める人はありません。神の愛、神の義、罪に勝つ力を求めている人はどこにありますか。この広い神戸の町に神を求める人は何人ありますか。福原でつまらぬ快楽を求める人や、酒に酔うことを熱心に求める人はありますが、正しきを行い、罪より離れんことを求める人は幾人ありますか。このあいだも七十歲になる一人の老人が神さまを信じて救われました時、「私は五十年間、まことを求めていましたが、今日まで得られませんでした」と言いましたが、かかるまことを求める人は何人ありますか。まことを求めても間違った方に求めますから得ることができません。
 『すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている』。誰も彼もみな迷っています。まじめになりたい、罪から救われたい、清い人になりたいと願っても、みな迷っていますから、間違った方面に恵みを求めて、知らず識らずのうちに迷ってしまいます。
 私が初めて日本に来ました時、ある友人の宅に招かれて行きましたが、初めてのことで道がよくわかりません。途中で人に尋ねましたが、言葉がよくわかりませんから聞き違えて、墓場の中に迷い込んでしまったことがあります。幸いにその間違いがわかってようやく友人の家に行きましたが、皆さん、人間の肉体がほんとうに墓場に入ってしまえば、間違いに気付いても帰ることができません。あなたの今日まで歩んで来た道は間違いがありませんか、罪のない正しい道ですか。一つ一つについてよく考えていただきたいのです。多くの人は迷ったのみならず、ついに自由を失って罪の奴隷となり、神がいましたもうことも、罪の結果の恐ろしいことも知らずにいます。日本の国はきれいな立派な国です。しかしそこに住んでいる人々はみな迷っています。生ける神を知らず、救い主を知らずに苦しんでいます。
 私は数年前、ある聖会に招かれて行ったことがあります。その日の説教の準備のため朝二時ごろから起き上がって祈っておりました。ちょうどその時です。私は一つの幻を見ました。それは、私が神戸の或る橋の上に立って下を見下ろしていますと、川に流れているのが水ではありません。不思議だなあと思ってよく見ますと、多くの人々が川のごとく流れていくのです。いったいこの多くの人々はどこへ急いでいるのですか、よく見ますと、向こうの方に真っ黒い海があります。それは地獄の海です。そこに人々は川の流れのごとく急いでいるのです。皆さん、これはただの幻ですが、事実、皆さんはこの滅びの海、地獄の海へ迷い迷って急いでいるのです。どうかそこで立ち止まって、まじめになって考えて下さい。キリストはこの迷い迷った罪人(つみびと)を救うために死んで下さったのであります。
 第三、キリストは私達が敵であったときに、私達のために死んで下さった。実に幸いなことではありませんか。罪を悔い改めず、神に立ち帰ることをしないで、正しきを行わず、神に反逆していた時にキリストは私達のために死んで下さいました。いかに驚くべき深い恵みではありませんか。この恵み深い神こそ私達が拝み、仕えるべき神であります。
 皆さん、私は迷った者だ、罪人だ、神に反逆した者だが、何とかして救われたい、私は仕方のない者だが、もしも救われる望みがあるならば何とかして救われたい、と願われる方は、まずその罪を悔い改めてキリストを信じなさい。どんなに罪深い穢れ穢れた人でも、ここでキリストを信ずるなら必ず救われます。神は今日、深い深い恵みと愛とをもって、誰にでもこの恵みを与えたいと願って、皆様を招いていたまいます。



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