出 エ ジ プ ト 記 講 演

大正十四年一月より六月まで神戸市御影、聖書学舎における
ソーントン先生の聖書講演


ホ レ ブ の 岩

──出エジプト記第十七章──



 『イスラエルの人々の全会衆は、主の命(めい)に従って、シンの荒野(あらの)を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった』(出エジプト記十七・一)

 シンの荒野で驚くべき奇蹟をもって養われたイスラエルの人々は、再び神の御命令に従って出発し、レピデムまで来ましたが、また飲む水がありません。ちょうど十五章にあったシュルの荒野にあともどりをしたようです。人々はここで何を考えたでしょうか。また昔のところへあともどりしたようだ、これはメラの二の舞かも知れぬ、そして、この向こうにはきっとエリムがあるに違いない、と。
 おそらく彼らの中にはかような期待を抱いた者も少なくなかったに違いないでしょう。私共もしばしばこのような考えをもって過去の経験を思い出し、これによって現在を取り扱い、また解釈しようとします。以前、泣いていた時に神様は私を恵み救って下さった、今度も泣けば恵まれるだろうと思います。ちょうど人々が、またメラだ、しかしこの次にはエリムを見せて下さるにちがいない、と思ったように。しかしイザヤ書四十三・十九をご覧なさい。

 『見よ、わたしは新しい事をなす。
  やがてそれは起る、
  あなたがたはそれを知らないのか。
  わたしは荒野に道を設け、
  さばくに川を流れさせる』

 神様はいつでも新しいことをなしたもう御方です。しかし私共はこの新しい御業を期待いたしません。神様がかように新しいことをなしたもう御目的は何のためでしょうか。飲む水を与える。それは小さいことです。ただ水を与えるだけのためではありません。すなわち神ご自身の知恵の深さ、尊い黙示の奥義にまで人々を導かんがためであります。十五章のメラにおいてカルバリの秘密が黙示されました。あの時には神はモーセに命じて、一本の木を示し、それを井戸に投げ入れよと命じたまいましたが、このたびも同じようにそれが繰り返されてはいません。さらに新しいことが示されました。

 『それで、民はモーセと争って言った、「わたしたちに飲む水をください」。……民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」』(出エジプト記十七・二、三)

 何とも奇妙なことではありませんか。また人々はモーセに向って争い呟いています。人々の中には信仰というものは一つもありません。これが私共の旧(ふる)き人の型です。しかしモーセはこの時どうしたのですか。

 『モーセは彼らに言った、「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。……このときモーセは主に叫んで言った、「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」』(十七・二、四)

 モーセはここで何をなすべきですか。何も分りません。ただ途方に暮れて再び神に呼ばわっています。私はここで教会の羊の指導者たちに言いたいのです。モーセはここで過去の経験に頼らず、甘きに変える木はないかと探さず、また「主よ、今一度甘きに変える木を示して下さい」とも言いません。ただ彼は、主よ、私は何をなすべきですか、と主に呼ばわりました。彼は主こそ日ごとに絶えず新しいことをなしたもう御方と信じておりました。

 『主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル河を打った、つえを手に取って行きなさい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行(おこな)った』(十七・五、六)

 これは新しい経験です。井戸ではありません。今度は岩です。ここにはにがい水よりも偉大な黙示が与えられています。これはにがきを甘きに変えるよりもさらに大いなることです。水ではありません。岩です。実に驚くべき黙示ではありませんか。モーセは岩の傍らに立ち、主は岩の上に立ちたまいました。そして主が立ちたもうたこの岩を打てよとモーセに命じられたとおり、この岩を打ちました。ところがご覧なさい。打たれたその岩より、活ける水がほとばしり出たのです。これはメラ以上の大いなる御業です。この打たれし岩こそ十字架上に打ち砕かれたもうた主キリストの黙示であります。すなわち岩はキリスト、水は御聖霊であります。

 『また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない』(コリント第一書十・三、四)

 パウロはこの黙示をコリント第一書十章に説明しています。またこの岩(水)はイスラエルの人々が四十年間荒野におります間、彼らに従ったと書いてあります。ですからこの時以後、人々は水の不自由を少しも感じません。メラにおいて示された木は井戸のためでしたが、この岩は彼らの生命のためです。メラは一つの経験に過ぎませんでしたけれども、これは一生涯のことです。ヨハネ福音書十四章に書かれている、

 『わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊(みたま)である。……それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る』(ヨハネ福音書十四・十六〜十八)

 このヨハネ福音書のお約束はこの岩のことです。ただ単に恵みを受けたということとは違います。

 『そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである』(出エジプト記十七・七)

 人々はここで神が我らのうちにいましたもうかどうかを試みました。神を試みる、これは最大の罪です。この不信仰こそ恵み深い神に対する恐るべき冒瀆です。これは不信仰の悪しき心です。
 神が私共と共にいたもうということは、私共の感情感覚がどうあろうとも事実です。しかし多くの人々は自分の境遇によって、また感情によってこれを判断して、しばしば不信仰の悪しき心を抱きます。主は私共が感じるか感じないかにかかわらず絶えず共にいたまいます。新約の中に主の名が二つあります。すなわちイエスとインマヌエルです。イエスは救い主のことですが、インマヌエルとは何のことですか。これは神が共に在したもうということです。主イエスは私共の救い主であり、また私共と常に共にいたもう御方であります。『見よ、わたしは世の終りまで、いつまでもあなたがたと共にいるのである』とマタイ福音書の最後に約束されてあります。この絶えざる主の共にありたもう臨在は決して疑ってはなりません。

 『ときにアマレクがきて、イスラエルとレピデムで戦った』(出エジプト記十七・八)

 このところを注意してよく読みなさい。この大いなる敵はいつ来たのですか。「そのときに」です。この驚くべき主の黙示のあとにすぐ敵が来ました。そしてそこに戦があります。これがサタンの来る時です。もしも主が彼らと共におりたまわねば彼らには破滅の時でありました。



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