わ れ に 従 え

大正十五年ソーントン先生が日本を去られる前、
神戸における送別会のときの説教



 『そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた』(ヨハネ福音書二十一・一

 主は絶えず私共にご自身を現わして下さいます。この『また』という字は福音書には至るところに記されています。
 このとき弟子たちは主がかようにご自身を現わして下さることを全く期待していませんでした。主はしばしば私共が予期も期待もしていない時に、ご自身を現わして下さいます。あなたが救われたのも、かつてあなたが主を求めることをしなかった時に、まず主があなたを求めて下さった故です。あなたの方から『主よ、助けて下さい』と願う前に、既に主はあなたを助ける備えをしていて下さいました。
 私は数年前、三週間ほど病気で休んだことがあります。ところがふと気がつくと、その月の家賃を支払わねばなりません。財布の中を見ましたがただの一円しかありません。そのうえ金が入ってくる見込は少しもありません。私は病気だし、どうしようか。と、苦しんでいると悪魔は抜け目なくやって来て「おまえどうする、金がないではないか」としきりに責め立てます。たまらなくなって「主よ、助けて下さい。お金がありません。五十円の金を与えて下さい」と祈り祈ってついに泣き伏してしまいました。
 しばらくして誰かが部屋に入って来たようですから振り返って見ると、妻が手紙をもって立っています。何かしらとさっそく封を開いてみました。どうですか。その中に五十円の金が入っているではありませんか。しかもそれは一ヶ月も前にアメリカを出ているのです。ごらんなさい。この神の恵みを。私が未だ主に求めなかった先に主は既にこの必要を知り、備えていて下さいました。主は実に私共の髪の毛の数を知り、またその眼は一羽の雀の上にさえ注がれております。私共はいかにこの主が善き御方であり、また恵み深い方であるかを知らないために、しばしば主に従いません。
 或る人は懸命に祈り求めさえすれば必ずその祈りは答えて下さると言います。もちろん主は正しい者を祝し恵んで下さいます。しかし私共が正しくなかった時に、いくたび主は私共の叫びを聞き憐れみ顧みて下さったことでしょうか。このヨハネ福音書二十一章にある弟子たちの心は既に主を離れ、堕落の途にありました。彼らはいま主を待ち望むに飽き疲れて、『わたしは漁に行くのだ』(三節)と、誰一人静かに主を待ち望むことができませんでした。ちょうどそのように今でも同様に漁に行く信者が多くあります。いかがですか。金を、名誉を、地位を、快楽を、この世の賞讃を得んとして、いくたび主を捨てて漁に出て行きましたか。決して静かに主を待ち望むことはしませんでした。或る人は実際の行為に顕れておりませんが、心の中ではかく堕落している人はいくらもあります。さらにそれのみでなく、

 『「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った』(ヨハネ二十一・三

 弟子たちの中の一人だけが堕落したのではなく、その一人が他の者までも堕落の途に引っ張っていきました。

 『シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒に』(同二

 これがその堕落者の名前です。彼らは一度投げ捨てた網を持ち出して、列を作って海に行きました。かように主を捨てて出て行きました彼らは、そこで何を得たでしょうか。
 哀れにも何ものをも得ませんでした。今こそ疲れ切って、飢え、渇き、不安と不満足で全く落胆しきっています。
 信者が主から離れた時にはかように全く哀れな有様になってしまいます。いくら求めても求めても、主から離れたこの世には二度と私共を満足させる快楽は得られません。こんなはずではなかったと、いくら求めても考えてもさらに何ものも得ることはできません。のみならずますます不安と不満足が増すばかりです。

 『夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた』(

 何と驚くべきことではありませんか。かかる時に主はご自身を現わして下さいました。主は初めと少しも変わらぬ愛をもって私共を愛していて下さいます。私共の心はこの恵み深い主に対して、あまり冷淡で無頓着で、祈りもせず、聖書も読まず、ついに主を忘れ不安に満たされてきますが、主はまたご自身を現わして下さいます。しかもその現れ方は私共の予期に全く反した新しい方法をもって現れて下さいます。私共は、この前にはかようにしていた時にと、古い昔のことを思い出して主を期待しますが、主はいつでも新しいことをして下さいます。

 『夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった』(

 主は静かにこの岸辺に立って、力もなく漂うてくる堕落者たちを満載した舟を見つめていたまいます。舟の中の堕落者たちはそれが主であることが分りません。いったいあれは誰であろうかと語り合っております。

 『イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」』(

 これはまた何という優しい御声でしょうか。子たちよ──children──、これくらい穩やかな温かい言葉はありません。この場合、主は弟子たちに対して「おまえたち反逆者どもよ」と言わるべきが当然です。しかし『子たちよ』──これは愛の御声です。主は実にご自身の子どもたちをかようなる愛をもって取り扱い、ご自身の愛と恵みとを示す時をお待ち下さいます。
 この声はまた慈父の声です。主は私達を産んで下さった魂の父です。しかもどのようなことがあっても決して捨てぬ慈愛の父であります。主は私共を捨てることができず、愛せずにはおられない方です。私共は欠点だらけで、不信仰で、金のために、人の賞讃のために主より離れて行こうとする、この私共を愛していて下さるのです。さらにそれのみではありません。

 『イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった』(

 ここで主は彼らのかしらとしてご自身を現わして下さいました。弟子たちは経験に富んだ生来の漁夫ですが、どのへんに魚がいるかがわかりませんでした。しかし主はそれを知っていられます。「網を舟の反対側におろして見なさい」と。彼らは今まで舟の左側に網を下ろしていました。舟の幅は五尺ぐらいですが、これだけの違いで魚を見逃しています。教会はこれだけの幅で恵みを捕え得ません。信者はこの幅で恵みを逃してしまいます。これはどういうわけですか。すなわち自分の経験と自分の頭だけで判断をしているからです。どのような時にもまず肉の力を退け、信仰の眼をもって主に聞かなければなりません。今夜もこの集会に集っている人たちの中で、当然金持ちになっていなければならないのに、金持ちでない人があります。それはあなたの頭が邪魔したからです。すべてのことにおいて主が私共の頭です。主があなたの知恵です。また或る人は金持ちでありながら何ものも持たない方があります。知恵と知識とすべての宝とはことごとくキリストの内にあります。このキリストさえあればすべてのものを持っているのであります。

 『彼らが陸にのぼって見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった』(

 主は備えたもう御方です。ここには炭火があり、魚があり、パンもあります。これほどの堕落者、反逆者のためにかように主は備えておりたまいます。皆さん、この恵み深い主を見ていただきたいのです。この主あってこそあなたの心配も苦労も全く跡形もなく取り除かれるのです。この主あってこそ私共は生きられるのです。あなたは今日まで夜もすがら網を打ってはいませんでしたか。今夜この主においでなさい。ここにすべてのものが豊かに備えられてあります。

 『彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた』(十五、十六

 これは主が彼らの主人です。今夜、主はあなたの主人でおいでなさいますか。「主よ、あなたは私に何をなさしめたまいますか」と多くの人は主に問いません。また主として崇めませんためにその恵みを失います。

 『イエスは彼に言われた、「……あなたは、わたしに従ってきなさい」』(二十二

 主はまたあなたの将です。あなたがどこまでも主に従い行くことを求めていたまいます。その従い行くところはどこですか。

 『……イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった』(ヘブル書二・九

 主は愛する弟子たちをご自身の栄光にまで導いていられます。『わたしに従ってきなさい』。どこへですか。「わたしの栄光にまで」と主は言いたまいます。しかし主の栄光にまで行くには何がありますか。十字架です。主の栄光にまで行くには死を通らねばなりません。これは十字架の道です。主と共に苦しむ者が主と共に栄えるのです。戦場に出た兵士が凱旋した時は、群集は熱狂して彼らを歓迎し賞讃するのでありますが、この大歓迎、大賞讃は、戦にも出ず毎日寝そべって新聞や雑誌を読んでいる人々には与えられません。戦場で生命を懸けて戦った勇士たちのみに与えられる凱旋の栄冠です。苦しみのない信者には凱旋の栄冠はありません。
 主がここでかれらにご自身を現したまいましたのは何のためですか。彼らを祝福するためではありません。これは、失われた羊があるためです。その失われた羊のために「あなたはわたしに従いなさい、わたしはこれから失われた羊を求めて行くのである」と。これが今夜、主が私共に語りたもう御声みこえです。主は今夜、主に従う人を待ちていたまいます。あなたは今、そこで何をしていますか。



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