砕 か れ た 器

大正十四年十月神戸湊川伝道館の礼拝に於ける
ハラウド先生の礼拝説教



 人間は、こわれたものは捨てます。見向きもしません。しかし神は、こわれてはいますがこれを憐れみいつくしみ下さいます。神は砕かれた者の祈禱を顧み、そのきれぎれの祈禱を見そなわして憐憫を加えてくださいます。また辻褄の合わぬ祈禱を愛し、喜んで嘉納して下さいます。

一、砕かれたまえるキリスト

 『すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」』(第一コリント書十一・二十三、二十四

 これは砕かれしからだです。何故私共にはキリストの身体を砕きかつ裂いていただく必要がありましたか。

 『わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである』(ペテロ第一の手紙二・二十四

 ここにキリストの身体が砕かれねばならぬ理由が書かれています。すなわち彼が木にかかって私達の罪をご自身に引き受けるためです。『神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである』(第二コリント書五・二十一)とあるように、キリストの砕かれたもうた身体によって私達の数々の罪を取り除かれたのみならず、内にある罪そのものまでも取り除かれたのであります。何と幸福なことではありませんか。私達の内に深く深く喰い込み、沁み込んで、神の聖旨みむねを好まぬ罪そのものを取り除き下さるとは! かつてミスター・××いわく、「キリストは私達の罪を御自身の身体に御纏い下された」と。この故に罪人つみびとの罪が赦されきよめられるのです。諸々の天使たちもこの有様を見て驚嘆し、その事実を知っていますが、主イエスは私達のすべての罪の源なる罪そのものを担って砕かれたまいました。

二、砕かれたる霊魂

 『神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません』(詩篇五十一・十七

 私達はよく亡びる魂のために祈ります。数億の亡びる魂のために心を煩わすはうべなることです。これらの多くの人々の魂の必要を思って、ある人達の心は砕かれました。神はこの集会において数百万の亡びる霊魂の有様を見せて、皆さんの心を痛めることを願われます。のみならずあなた自身の心を顧みて砕かれることを望んでおられます。

 『その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしはけがれたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」』(イザヤ書六・五)

 ここに書かれた預言者は今までは「汝らわざわいなるかな」と言えた人ですが、彼が自分自身の真相を見せしめられた時、『わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ』と言って砕かれているのを見ます。

 『ヨシュアはけがれた衣を着て、み使つかいの前に立っていたが、み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」』(ゼカリヤ書三・三、四)

 これは祭司の物語で、祭司は神のいときよきことを人々に語ってきた人です。しかしこの人も預言者イザヤと同じく、自分の汚れたきたない心を見せられています。

 『見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。……ヒソプをもって、わたしを清めてください。わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください。わたしは雪よりも白くなるでしょう』(詩篇五十一・五、七

 かく祈っている人は王です。すなわち人民を統べ治め支配する権威ある者が、自らの真相を示されて聖前みまえに砕かれています。かように預言者、祭司、王の三人の者の砕かれた有様を見ることは尊いことです。新約を見ますと、百二十人の人々がエルサレムの高殿にいますが(使徒行伝一・十五)、彼らがここに集まり「そこにとどまれ」と命ぜられたことは、おもしろおかしく興じ合うためでしたか。彼ら一人一人の心の真相が示され砕かれ抜くためでした。これらの場合によって教えられることは、罪はいつでも神と人間との間を遮っていることです。

 『そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた』(創世記三・二十三、二十四)

 アダムもこの罪のために、神の前から去らねばならぬことが書かれてあります。

 『カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ』(同四・十六)

 かくのごとくいくつかの例を見出します。しかし、

 『キリストは……ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである』(エペソ書二・十四〜十六

 ここにおいてキリストは十字架とその死によって神と人との隔ての間垣を毀ちたまいました。

三、砕かれたつぼ

 『手に携えていたつぼを打ち砕いた』(士師記七・十九)

 ここに砕かれたつぼの物語があります。このつぼの中にあったものはたいまつのようなもので、信者のあかしの型です。神は明瞭な、要領を得た証しを用いたまいます。人々は徒らに立派な説教のみを期待しますが、自分の証しにどれだけの能力をそそがれましたか。あなたの言葉と説教とが日常生活の小さいことによって証しされていますか。初代の教会において、跛者が立ち上がった時に人々は何の批評もできなかったとありますが、あなたが信者になる前と、なってから後の生涯を見較べていろいろ非難をしませんか。神は砕かれた器をもって御自分の栄光を現わし証しのために用いられるのです。

四、破れた網

 『話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった』(ルカ福音書五・四〜七

 神はどれほど破れたる網を見んことを願っておられますか。キリストはペテロに『今からあなたは人間をとる漁師になるのだ』()と言いましたが、私達は漁師です。あなたの網さえ破れるほどの霊魂を救いましたか。神はすべての教会をとおしてこのことをなし得たまいます。ペテロにはペンテコステの日の後にこのことが起りました。これはあなたに個人的にペンテコステの日が来たかどうかということにより始まります。
 私達はまず神をち望むところに帰りましょう。砕かれた心に帰りましょう。砕かれたつぼになりましょう。されば神は網さえも破れるほどの聖霊を与えてくださいます。



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