出 エ ジ プ ト 記 講 演

大正十四年一月より六月まで神戸市御影、聖書学舎における
ソーントン先生の聖書講演


勝 利 の 秘 訣

──出エジプト記第十四章──



 出エジプト記十四章の価値を知るには、前の章をよく味わって、神はいかなることをイスラエルの民になしたもうたかを知らねばなりません。
 一、彼らは選ばれた神の民でありました。
 二、黙示を与えられて召し出されています。
 三、義とされています。
 四、神の導きを得ています。
 これらの経験はまた私共の経験であります。きよめられ、選ばれ、召されし者には指導者が必要です。それで火と雲の柱をもって導かれましたが、その次に来るべきものは「戦闘」です。これはキリスト者生活には重大なるもので、この出エジプト記十四章にはキリスト者の戦闘における「勝利の秘訣」が教えられてあります。

 『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野あらのは彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破ってほまれを得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう」。彼らはそのようにした』(出エジプト記十四・一〜四)

 このような驚くべき聖業みわざが民らの中になされると、サタンはそのまま捨てておきません。必ず憎むべき業をします。私共神の民は天国へ凱旋するまでは、この恐るべき敵と烈しい戦闘をなし続けねばなりません。しかし悲しむべきことに、大部分の信者はいざ戦闘だという時になると戦闘の方法を忘れてしまいます。しかし私共の軍旅ぐんりょの将は戦にたけきエホバであります。主イエス・キリストご自身が私共の軍旅の将であります。救の主であります。これは困った時に助けて下さるというのではありません。彼が私共の軍旅の将なのです。かつてヨシュアがエリコの辺で、一人の抜き身の剣を手に持った王を見て、『あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか』と尋ねました時に、彼は『わたしは主の軍勢の将として今きたのだ』と言いましたが(ヨシュア記五・十三、十四)、これはヨシュアの軍を助けるために来た、というのではありません。ヨシュアの軍旅の将として来たというのであります。ヨシュアがイスラエルの軍旅の将でなく、神ご自身が軍旅の将なのです。イスラエルの統帥者は神ご自身であったのであります。キリスト者がよく戦に敗北する理由はここにあります。「神は私共を助けて下さる。だから私共は最善を尽そう。行き詰まれば神に助けを求めればよい」と考えます。これは大きい間違いであります。皆さん、確かに記憶して下さい! 神があなたの軍旅の将なのであります。神ご自身があなたの軍の大将なのです。私共は戦闘のことについては何一つ知らぬ百姓の子で、入営したばかりの新兵です。この世の暗黒を掌る、天の処にある悪の霊との戦について、あなたは勝利の秘訣を知っていますか。信者にはこの霊界の戦がわかりません。戦のことについて最もよく知っている者はその軍の大将であります。キリストはすなわち教会の大将です。大将は全軍の一点一画に至るまでことごとく知り尽くしているように、キリストは教会のすべての真相を知り抜きたまいます。大将に従う兵卒の務めは何かというと、ただ「服従」です。全き服従です。兵卒が作戦計画をする必要はなく、全軍を指揮することもありません。なすべき唯一のことは「無条件の服従」です。たとえその命令が理にかなっていようといまいと、それが自分に理解できようとできまいと、兵卒の務めは、ただ無条件の服従です。この全き服従こそ、全軍に勝利をもたらす秘訣です。ある牧師は朝から晩まで、晩から朝まで、絶えず計画をめぐらし、苦心をしながら、「主よ、助けて下さい、恵んで下さい」と泣き声を上げています。教会のかしらはキリストです。牧師も信徒も教会のかしらなるキリスト、軍旅の将であるキリストの命令にただ従っておればよいのです。
 軍旅の将はその戦のために何をなされるかと言えば、まず第一に彼が一切の作戦計画をなしたまいます。これは彼の仕事で、私共がこれをする必要はありません。またすることもできません。私の友人に陸軍の大佐がおります。彼はその部下とともに第一線に出て戦っていますが、その軍の総指揮者である大将は、戦線より百マイルもはるか後方にあって一切の作戦計画をめぐらせております。ある夜のこと、彼のところへ命令が来ました。「明朝、おまえのところへ自動車を送るから、それに乗って部下とともに××の地点にまで進軍せよ」と。彼は、それから先は何をしてよいのか、何のために行くのか、いっさい分りません。知っている者はただ大将だけで、部下の者はそれを尋ねる必要もなければ、知る必要もありません。これはこの十四章と同じです。

 『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない』(十四・一、二)

 これは作戦計画です。イスラエルの民らは「こちらの道を行くにちがいない」と最も楽な道を選ぼうとしました。けれども軍旅の将である神がモーセを呼んで、これに命じて「海の方へ行け」と。これはいったいどうしたことか。両脇は山で、前は海。この海の方へ進んで行けと。これはいったいどうしたことであろうか。これは指導者モーセの考えではありません。もしもモーセの考えどおりにするならば、一刻も早くエジプトを逃れ出るために近道をしてもっと楽な道を選んだに違いありません。しかしこれは神の御命令でした。神は民を導くために、ところもあろう、困難でしかも最も危険な場所へ導きたまいました。前は海、両脇は山、進むこともできねば退くこともできません。もはや滅び去るよりほかに道はありません。これは実に愚の骨頂です。しかしこの愚の骨頂と思われるところが、神の選びたもうた道なのです。神が民のためにわざわざ選びたもうた道は、この愚の骨頂と思われる所でした。ですが、こここそ、神がその民のために勝利の秘訣を学び得させんとして、選びに選びたもうた最も善き地なのであります。

 『パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉を得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう』(十四・四)

 これは実に驚くべきことではありませんか。神は宣教に愚かなる者をもって信ずる者を救い、愚かなる者、弱き者、卑しき者、軽んぜられる者、無きがごとき者を選び、かしこき者、強き者を辱め、有る者を無くして、神の前に人の誇ることなからしめんとなしたもうた御方であります。
 勝利の秘訣とは何ですか。早く逃げる足ではありません。ただ神への服従と信仰です。神は民らにこれを学ばしめようとして、かかる困難な場所をわざわざ選ばれ、また備えられたのであります。私共は危険や困難な場所をなるべく避けようと努め、病気にはかからぬよう、困ったことには遭わぬよう、金がなくならぬよう、なるべく幸福が続くように願います。これは肉的信者の願望です。或る人は「神よ、私にいかなることがあっても動かぬ信仰を与えて下さい」と祈りますが、神はその祈りに応えて、烈しい困難な場所へと彼を導かれます。すると、こんなはずはない、と多くの人々は呟きます。信仰とは、全く不可能なるところで、西を見ても東を見ても行き詰まり、全く動きのつかぬ困難のどん底にあっても、なお神を信じ、神を見上げて勝利を確認するのが真の信仰です。神はかく驚くべき愛と恵みとをもってその民を取り扱っていたまいます。これはイスラエルの民に対してだけでなく、今日もなおかかる御計画をもって私共一人一人の生涯を導き、また教育をなしつつありたもうのであります。ですから困ったこと、苦しいことに遭った時には、泣き言を言わず「ハレルヤ、主イエスよ、もう一度勝利を得させていただきます」と申し上げましょう。かかることによって神は私共に神ご自身の法を学ばしめ、さらにそれによって神の栄光を現さんとなしたもうのであります。
 次に、神は敵の行動を予め知りたまいます。

 『パロはイスラエルの人々について、「彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった」と言うであろう。わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう』(十四・三、四)

 この驚くべき神のみことばを見なさい。私達の大将は敵の一切の行動を熟知しておられます。偉大なる名将は、敵の行動を予知できる人です。ただ身体が大きくて金モールをピカピカさせている人が名将ではありません。名将ナポレオンは絶えず地図を拡げて「ここで戦闘が行われる」と言うので、傍らの若い士官が「どうしてですか」と尋ねると、「敵をどうしてもここで戦わしめるのである」と答えたということでありますが、これはナポレオンが敵をよく知り、その行動と力とをよく知っていたからであります。名将中の名将である万軍の将である神が、このゆえにモーセに命じてそこに進軍せよと命じたまいました。それで敵のパロはかく思い、かく言い、かくなすであろうと。これは驚くべき神の作戦であり、また予知であります。この神が私共のためにいますことを知ると、聖書によって何と慰められ、励まされることでありましょうか。この偉大なる軍勢の将、かかる名将のもとには、その部下と兵卒どもはただ従うことのみで十分であります。
 かくのごとく神は驚くべき作戦をもってその民らに命じたまいましたが、ただ困ることは、その兵卒どもがよき兵卒ではないことです。なかなか大将の命令に従いません。文句を言ったり、呟いたり、疑ったりして全き服従をいたしません。
 ジョージ・ワシントンは偉大なる名将でありました。彼の伝記を読みますと数多く教えられますが、ある時彼は戦場にありましたが、残念なことにその部下の兵卒どもはみな百姓ばかりです。夏の麦刈りの時となると畑で仕事をするために国へ帰ってしまいます。いくら訓育をしても、翌朝目覚めてみると一人の部下もおりません。みな逃げてしまっています。大将だけで部下の兵卒がいなければ戦争はできません。せっかくの作戦も水泡に帰します。皆さん、あなたはいかがですか。キリストのよき兵卒ですか。ある信者は少し気に入らぬことに遭うとすぐ自分の国に帰ってしまいます。この食物はまずい、この着物は見苦しい、といろいろさまざまな呟きや不平を並べて、戦闘のことなど少しも念頭に置いておりません。それゆえに主はご自身の作戦計画がしばしば水泡に帰して嘆いておられるのであります。信者たちは、百姓の兵卒どものようにあまりに自分のことのみを考えて、己が職務を忘れております。「こんなところでは困る、こんなはずがない」と自分勝手な理屈を並べて働きません。「主よ、あなたは何を命じたまいますか。語って下さい」と全き服従をするよき兵卒を求めていたまいます。かかる兵卒でなければ戦には決して勝利を得られません。多くの信者は全く服従することをしないで、ただ「主よ、私を憐れんで下さい、祝して下さい」と求めてばかりおります。
 次に神はいかにして戦いたまいますか。

 『このとき、イスラエルの部隊の前に行く神の使は移って彼らのうしろに行った。雲の柱も彼らの前から移って彼らのうしろに立ち』(十四・十九)

 神は民と敵との間を断ち、そこにご自身が立ちたまいました。そして一歩も敵が民に近づくことを許したまいません。信者の霊の戦いにおいても、かくのごとく神は敵と私達との間に立って戦いたまいます。

 『エジプトびとの部隊とイスラエルびとの部隊との間にきたので、そこに雲とやみがあり夜もすがら、かれとこれと近づくことなく、夜がすぎた』(十四・二十)

 敵には闇ですがイスラエルには恵みの光です。

 『モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分れた。イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった』(十四・二十、二十一)

 神は海を陸とし、水を乾ける地として、逃げるべき道を開きたまいました。

 『エジプトびとは追ってきて、パロのすべての馬と戦車と騎兵とは、彼らのあとについて海の中にはいった。暁のこうに、主は火と雲の柱のうちからエジプトびとの軍勢を見おろして、エジプトびとの軍勢を乱し、その戦車の輪をきしらせて、進むのを重くされたので、エジプトびとは言った、「われわれはイスラエルを離れて逃げよう。主が彼らのためにエジプトびとと戦う」』(十四・二十三〜二十五)

 敵をいざない、これを悩まし、

 『そのとき主はモーセに言われた、「あなたの手を海の上にさし伸べて、水をエジプトびとと、その戦車と騎兵との上に流れ返らせなさい」。モーセが手を海の上にさし伸べると、夜明けになって海はいつもの流れに返り、エジプトびとはこれにむかって逃げたが、主はエジプトびとを海の中に投げ込まれた。水は流れ返り、イスラエルのあとを追って海にはいった戦車と騎兵およびパロのすべての軍勢をおおい、ひとりも残らなかった』(十四・二十六〜二十八)

 神はかく驚くべき勝利を現したまいました。私共はこのゆえに、ただ信じ、ただ従い、ただ見上げるのみで十分です。その結果、

 『このように、主はこの日イスラエルをエジプトびとの手から救われた。イスラエルはエジプトびとが海べに死んでいるのを見た』(十四・三十)

 彼らは永遠に葬られ、再び立つことができません。そしてイスラエルは海辺に死んでいる敵を見ました。

 『イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た』(十四・三十一)

 そしてさらに大いなる驚くべき神の御業みわざを見ました。

 『それで民は主を恐れ』(同)

 かくして神を恐れかしこみ、

 『主とそのしもべモーセとを信じた』(同)

 主を信じ、またそのしもべモーセを信じました。

 『兄弟たちよ、このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた』(コリント前書十・一、二)

 モーセはすなわちキリストの型で、彼らがモーセにつけるごとく、私共も己に、世に死んでキリストに属する者とならなければなりません。

 『そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手に取り、女たちも皆タンバリンを取って、踊りながら、そのあとに従って出てきた』(出エジプト記十五・二十)

 ここに美わしい女の画があります。ミリアムが出て来て男たちを導いたとはありません。女たちを導いたのであります。使徒行伝には『終りの時には……むすこ娘は預言を』するとあり(二・十七)、ミカ書六・四には『わたしはエジプトの国からあなたを導きのぼり、奴隷の家からあなたをあがない出し、モーセ、アロンおよびミリアムをつかわして、あなたに先だたせた』とあります。ミリアムは神より遣わされて女たちを導いたのです。



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