出 エ ジ プ ト 記 講 演

大正十四年一月より六月まで神戸市御影、聖書学舎における
ソーントン先生の聖書講演


荒 野 の 目 的

──出エジプト記第十五章──



 出エジプト記十五章二十二節からはイスラエルの民の新しい歴史を見ます。この節までは神がその民をエジプトから救い出された贖いの問題で、これから先はその民に対する神の御教育です。またこの節より神は初めて人を神の子として取り扱われました。神が人を罪人つみびととして取り扱われるのと神の子として取り扱われるのとには大いなる相違があります。たいていの信者はこれらのことをよくわきまえないために、神のお取扱いを誤解して「神はなぜこのような困難や苦しいことに私をお遭わせになるのか」と疑いを抱き、あるいは不平をこぼすこともしばしばあります。
 いろいろな試練に遭った時たいていの信者は「こんなに苦しくてはたまらない、早くここから逃れたい」と願います。しかしこうした祈りはすぐ答えられません。ごらんなさい、エジプトから救出されたイスラエルの民を! この民を神はすぐに乳と蜜の流れるカナンの地に導き入れられましたでしょうか。

 『さて、モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野あらのに入り』(出エジプト記十五・二十二)

 驚くべきことに、紅海の危険から救出された民は、その期待に全く反した荒野のただ中に導き入れられました。ここには乳と蜜の流れるところは一つもありません。ですからエジプトから出て来た民衆は「なぜ私達はこんなところに来たのか」と幾度も幾度も呟きました。皆さん、確かに覚えて頂きたい。神が私達をエジプトから救い出されたのは、私達一人一人に乳と蜜の流れるカナンの国よりもはるかにまされる恵みと経験を与えんためであります。はるかにまされる恵み! すなわち罪のエジプトより出て神御自身のものとなることであります。
 多くの信者はいつも神の恵みを祈り、祝福を求めます。しかし神は熱心なそうした祈禱の答えとして、恵みの代わりに悩みを、祝福の代わりに困難災害を与えたもうことがしばしばあります。
 イスラエルの民衆は乳と蜜の流れるカナンの地に導かれることを願って紅海を渡りましたが、この民衆は意外にも驚くべき荒野のただ中に導かれました。しかもさらに驚くべきことに、

 『三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった』(十五・二十二)

 これは実に大変なことです。焼けつくような炎天の荒野の中を三日間も歩き続けたが一滴の水も得られなかったのです。その困難は私共の想像に絶します。
 神はなぜ民をこのような困難に導き入れられたのでしょうか。これこそは神の憐れみでありまして、神の民を教育するためでありました。イスラエルの民らのエジプトにおける生活は生まれつきのわがままな生活で、神の恵みを知りませんでした。水がほしいと思えば井戸に行けばいくらでも水はありました。そうしてどれほど豊かに神の恵みの水が与えられても、それは当然のこととして、その心にいささかも感謝も感激もなく、少しも神の恵みを感謝する心がありませんでした。
 しかしながらこうした民らを、井戸はなく、水は一滴もない荒野、しかも焼けつく炎天の下に耐えがたい渇きを覚えて求めても求めてもどこにも一滴の水もない荒野に導かれました。なぜ神はかかる地に民らを導き入れられたのでありますか。これこそは神が民らを自然的なところから引き出して超自然なところへ、自己に頼るところから引き出して神に頼る生活に導くため、神の恵みに慣れきっていささかの感謝も感激もない心を神の恵みを知る心にするため、感謝と讃美をその口に満たすためであります。
 信者の生活の大きい誤りはここにあるのです。私共はいつも、自分が持っているものよりも多く持っているように思っています。言葉を換えれば、あまりに自己を買いかぶり、うぬぼれすぎています。集会に出て少し恵まれると、誰よりも大いなる信仰をもって篤く神を信じているかのごとく思います。けれども二、三日経つと必ずその人には荒野が来ます。ハレルヤ、神を信じます、と大声で言いますが、実のところ少しも信じておりません。ただ神の真理を真理と認めたというに過ぎません。これは、事実心に信じているということとははるかに違います。私共はいつも、実際に自分が心に持っているものよりもはるかに大きいものを持っているかのごとくに思います。けれどもこれは実際の試練に当たらなければその真相はわかりません。神は最初から私共の真相をご承知でありますから、それを私共に悟らせようとして、カナンの地に導く前に必ずこの荒野に導き入れたもうのであります。
 この出エジプト記十五章と十六章を読みましても人間の真相がよく分ります。

 『パロの馬が、その戦車および騎兵とともに海にはいると、主は海の水を彼らの上に流れ返らされたが、イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行った。そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手に取り、女たちも皆タンバリンを取って、踊りながら、そのあとに従って出てきた。そこでミリアムは彼らに和して歌った、
  「主にむかって歌え、
  彼は輝かしくも勝ちを得られた、
  彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた」』(十五・十九〜二十一)

 紅海における神の一大奇蹟によって民らは神に対する感謝をもってかように踊り狂いました。そうしてこの大いなる神が自分たちとともにいたもうのであるから大丈夫だと、身も心も打ち込んで張り切ったでしょう。
 けれどもこれらの感謝感激はほんとうの信仰より出た、神をほんとうに知りきった信仰の叫びでなくして、ただ一時の感激に酔っての感謝であったのです。ですからそれから三日目にはあの大感謝、大讃美は全く失せて、すべての民の心は呟きと呪いの声に支配されています。

 『ときに、民はモーセにつぶやいて言った』(十五・二十四)
 『エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。
 そのとき主はモーセに言われた、……』(十六・一〜四)

 これがほんとうに神に依り頼んでいない、生きた信仰をもっていない人の心の真相です。紅海であれほどの一大奇蹟を見ながら、またあれほどの大讃美、大感謝を捧げながら、ちょっとした困難に遭うとすぐ呟きます。不平を言います。呪いの言葉が出ます。神はこのような心の民をこのままカナンの地に導き入れたもうことはできません。カナンの地は乳と蜜の流れる神の平安の地です。ですから神は全会衆をこの荒野に導き入れました。その心の真相を悟らしめるためでありました。新約においても同様にペテロの荒野を見ます。

 『彼らはさんびを歌ったのち、オリブやまへ出かけて行った。
 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう……」。するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。イエスは言われた、「よくあなたに言っておく、今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った』(マタイ二十六・三十〜三十五

 けれども数時間の後には、この弟子たちはどこかへ逃げ去り、ただ一人残ったペテロさえも、

 『「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた』(マタイ二十六・七十五

とあります。ペテロはこの荒野で今まで知らなかった自己の心の真相を知りました。ですから申命記を見ますと、神がイスラエルの全会衆をこの荒野に導き出したまいました理由をご説明になっています。

 『あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。あなたの神、主の命令を守り、その道に歩んで、彼を恐れなければならない』(申命記八・二〜六)

 神の恵みを忘れた人たちを導くには、事実をもって導くより他に方法はありません。神はかようにしてイスラエルの全会衆を荒野に導き、人の生きるのはパンのみによらず神のことばによって生きるものであることを教えたもうたのでありますが、これはイスラエルの全会衆のためばかりでなく、私共個人個人の導きについてもやはり同様でありますから、私共お互いにこの荒野で心して神御自身を知らねばならないのであります。



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