出 エ ジ プ ト 記 講 演

大正十四年一月より六月まで神戸市御影、聖書学舎における
ソーントン先生の聖書講演


シ ン の 荒 野 に て

──出エジプト記第十六章──



 『イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきた』(出エジプト記十六・一)

 イスラエルの民はエリムを出発しました。今はシンの荒野におります。ここは驚くべきところです。エリムとシナイの間、すなわち恩恵と律法の間です。この出エジプト記十六章はイスラエルの民の一大試練の時で、彼らはこれを知らなかったが、この十六章における彼らの態度如何によって千五百年間彼らがいかに神に取り扱われなければならぬかが書かれてあります。旧約聖書において私共の学ぶべきことは、神はなぜその民に律法を与えられたかということです。この十六章にある小さい問題を通して神が今後いかに民らを取り扱われるかが書かれてあります。これは実に注意すべきことで、私共もかような小さい問題において神から試みられていることを知らねばなりません。

 『その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」』(十六・二、三)

 イスラエルの民はここでまた呟いています。今度は飲み物ではなく、肉鍋の問題です。今は水の不足は覚えておりません。食物の不足を覚えて、またしてもエジプトのことを思い出しています。過去のことで、私共が思い出しまた考えても安全なものがただ一つあります。すなわちそれは過ぎ来し方において神がいかに慈しみ深くいましたもうたか、ということのみです。昔はこんなに苦しくなかった、こんなに見苦しいつまらぬ家には住んでいなかったと、いささかも思い出す必要はありません。ただ思うべきことは、私のために神はいかに恵み深くいましたもうたか、ということのみです。すべての人間の失敗の原因はほとんどこれです。
 ロマ書一章にあるように、彼らは感謝しなかったのです。神を知りつつもなおこれを神として崇めなかったゆえです。ですから何事にかかわらずまず感謝する心を養うべきです。たとえ悪魔が私共に、明日の食う物も何もないではないか、これでどうする、と迫って来ても、ハレルヤと力いっぱいに叫びなさい。これは、神様に働いていただく時ですから。このような時にこそ神様に働いていただく時です。神様はイスラエルの子孫のためにエジプトで、紅海で、また荒野において驚くべきことをなされました。この御方は今もなお変わりたまわない御方です。このゆえにいついかなる時にでもハレルヤと讃美すべきであります。たとえ悪魔が、あれをご覧なさい、と美味しそうなエジプトの肉鍋を指さしても。
 この食物はまずい、この洋服は見苦しい、この学校の舎監はあまり厳しすぎると、いつも不平ばかりで神にいささかも感謝しない人は、もう一度荒野へ行くべきです。苦しいこと、悲しいこと、悩ましいことばかりで、身も魂も下向きになって、耐えがたく、倒れ果てようとする時にも、何はともあれハレルヤと叫びなさい。その意味が今あなたに分らなくても、必ずあとで分ります。神様、あなたには間違いはありません、とまず神を信じて感謝なさい。私共にどれほどの変化があっても神はいつも変わりたまわない御方ですから。

 『そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう」』(十六・四)

 どうですか。神は驚くべき御方です。ちょうど雨が降ってくるように天からパンが降ってくるのです。そして私共が水を飲みたいだけ飽くほどまでに飲むように、天よりのパンを欲しいだけ、飽くまでに与えて下さるのです。けれども、

 『民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう』(十六・四下)

 日々の分を、毎日集める。これが大切なことです。神は彼らにパンを与えられましたが、同時に彼らを試みられるのです。これは、あなたが神の御命令どおりにそのまま従い、さらにそれに満足しているか否か、という問題です。
 マナとは「これは何であろう」という意味で、彼らはこの意味を了解しません。私共も同じように、驚くべき神の御業を見ても、その深い意味を了解できず、これは何であろうか、と常に言います。豊かなる神の恵みを見ても、これは何であろうか、その深い憐れみを見ても、これは何であろうかと言っています。神はこれによって試みんと仰せられましたが、それは何でしょうか。

 『主はモーセに言われた、「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。
 夕べになると、うずらが飛んできて宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。その降りた露がかわくと、荒野の面(おもて)には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである」』(十六・十一〜十五)

 第一、神の御言によって生きるか、すなわち神が彼らに命じられたとおりに行なって従順に従うかどうか、ということです。

 『主が命じられるのはこうである、「あなたがたは、おのおのその食べるところに従ってそれを集め、あなたがたの人数に従って、ひとりに一オメルずつ、おのおのその天幕におるもののためにそれを取りなさい」と』(十六・十六)

 毎日一人に一オメルずつ集めるということが命令の第一です。第二は、明日の朝まで残しておかないことです。

 『モーセは彼らに言った、「だれも朝までそれを残しておいてはならない」』(十六・十九)

 第三は、六日目には二倍を集めおくことです。

 『六日目には、彼らは二倍のパン、すなわちひとりに二オメルを集めた。……モーセは、彼らに言った、「主の語られたのはこうである、『あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい』と」(十六・二十二、二十三)

 これらの三つの試みは実に簡単なことで、子どもでもたやすくできることです。しかし彼らはどうしましたか。

 『ある者は多く、ある者は少なく集めた』(十六・十七)
 『彼らはモーセに聞き従わないで、ある者は朝までそれを残しておいたが、虫がついて臭くなった。モーセは彼らにむかって怒(いか)った』(十六・二十)
 『ところが民のうちには、七日目に出て集めようとした者があった』(十六・二十七)

 これらの誡めが守られませんでした。ある者は多く、ある者は少なく、またある者は朝まで残しております。ですから少しも愉快にすごされません。ある者は、「これだけでは足りないねえ、私は大食漢だから神様はいま少し多く私にくださるはずだ」と呟く者もあれば、「さあ、神様は明日も下さるだろうか、もし下さらねば困るから、まずこれを半分にして明日のために残しておこう」と戸棚の中に残しておく者もあります。「今日これだけしか食えぬのか」と思って食うとおいしくない。また神が食べよと命じられた量の半分しか食べないで、半分は身体に入れ、あとの半分は戸棚に入れているから、一日中腹が減って喜びなど少しもありません。こんな食物は困るなあ、腹が空いて困る、と一日中不平不満です。このようなありさまですから、神の驚くべき恩恵も受け入れることができませんから感謝の心など微塵もありません。
 ヨシュアもカレブも一オメルずついただいて喜んで感謝しています。彼らは一オメルずつのマナを食卓に並べて、ひとつ讃美しようではないか、すべての恩恵の源なる神をたたえ讚め歌えというぐあいに、感謝して食しました。それゆえに讃美に満たされ、喜びと感謝をもちながら日々を過すことができました。
 けれども神の命令に従わない人は、半分を身体に入れ半分を戸棚に入れておりますから、夜になって腹が空いて寝れません。朝になるのを待ちかねて昨夜残した半分を食べようと戸棚を開けてみると、おや、これは大変だ、せっかく残しておいたのが腐っている、こんな食物はだめだ。
 神を信じその命令を守った人々は、喜び讃美しながら食し、絶えず感謝に満たされているのに、不信仰の人々は、戸棚の中に入れておくために喜びはなく、讃美も感謝もありません。ただあるものは不平と不満と呟きだけです。六日目が来ました。彼らは朝早く集めに出ました。今日は二オメル集めました。「しかし待てよ、昨日は半分を戸棚にしまっておいたから腐っていた。また腐るかも知れないぞ。せっかく集めてきたものを腐らせてはつまらない。そうだ、今日は二オメルを全部食ってしまえ」と、苦しいのを無理して全部食ってしまいました。腹がいっぱいになって、苦しくて息をするのさえつらい、「これはいかん、しまった、こんなに食べなければ良かった。苦しくて仕事もできやしない」とまた呟きます。苦しいその日は終って安息日が来ました。

 『民のうちには、七日目に出て集めようとした者があったが、獲られなかった』(十六・二十七)

 いつものように集めに出て行きましたが、不思議に今日は何もありません。さあ、困った。食べるものは前の日に苦しいのを我慢してみんな食べてしまったので今日は何もない。昨日とは反対に今日は空腹で空腹でたまりません。「だいたい、神様がこのような馬鹿なことをするから悪いのだ、ばかやろう」と翌日は朝から晩まで呟き、不平不満でついに神様をのろい始めました。かようにしてイスラエルの民は大失敗をしましたが、これはまた現代の人々のありさまです。ごらんなさい。その生活の中にいささかの感謝もありません。毎日の食事のために不平と不満を並べ、恵みをもって与えられた金銭も、半分は銀行に貯えて明日のために無理な残し方をしますから、今日の分が足りなくて、「足りない、足りない、こんなつまらぬ世の中はだめだ」と常に呟き、喜びも感謝もない日を送っています。
 私共は食べる問題で絶えず試みられます。明日は何もない、食物は今晩限りですよ、というつらい経験はあなたにありませんか。こんな時の最後の食事は不味くてもおいしいものです。ある時、私は一銭の金もなくなりました。五人の子どもと妻を養うために明日食べるものが何もない。いったいどうすればよいかと私は思案に暮れながら家に帰りました。今日もまた一銭の金も得ないで帰ってきた私を見て妻は何と言うだろうかと、思い悩みながら重い足を引きずって家に着きました。玄関から入ろうとしていると、妻は微笑みながら出て来ました。彼女は私の様子を見て、ハレルヤ、All rightと言って輝いています。五人の子どもがあります。しかも明日の食物は少しもなく、お金もないではありませんか。けれども妻は輝いています。ふつうであれば私に向って、あなたはそれでも人間かと言うこともできます。しかし妻は、ハレルヤと言って輝いています。なぜ一言の不平も言わないで輝いているのですか。妻は私を見ませんでした。主イエスを見ていたからです。神がこのような時に私共に求められることはすなわちこれです。主イエスを見ることです。主よ、私共にはもはや食べるものがありません。枕するところがありません。しかし主よ、私はあなたを信じます。これがほんとうのキリスト者の生涯です。これがキリスト者の信仰です。これがなければほんとうに恵まれた信仰の生涯を送ることができません。



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