第四章 血による宥和



 『彼は我らの罪のために宥(なだめ)の供物なり。啻に我らの爲のみならず、また全世界の爲なり。』(ヨハネ一書二・二)

 我らはこの大主題の個人的方面、すなわち主の御流血が聖徒や罪人の一人ひとりにいかなる意義を持つかを一層進んで考える前に、まずその更に広い適用を考えよう。すなわちいかなる意味において、またいかなる程度に、それが全人類に影響するかを考えたい。或る人々は彼ら自身の心にその恩恵を当て嵌めることに余り深く関心するために、それが人類総体に実際的関係を持つことを現実視せず、他方には、悲しむべきことには、善人も悪人も同様、万人ことごとく救われるという普遍救拯が聖書に前言されおると空想する者がある。この普遍救拯説は「さらに大いなる希望」と称えられるが、実は数千の人々を欺き、多くの神の僕等の熱心を麻痺せしめたことを私が恐れるところの妄想である。
 それゆえいかなる意味において、またいかなる程度に、イエスの御血が全世界の罪に対して効力を持つかを理解することは、極めて肝要である。

   一、全般の贖罪(可能的)

 『それ神はその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠(とこしへ)の生命を得んためなり。』(ヨハネ三・十六)

 かつて唱えられた危険な異端説のうちで、カルビンによって強調された説、語辞を簡にするために今それを特殊贖罪説と称える、すなわちキリストは全世界のために死にたもうたのでなく、世界のうちの或る選ばれた者のためにのみ死にたもうたと説く異端ほどに有害なものはない。この節によれば、定まった若干の人々が永遠の生命に予定せられて生まれ出で、その人々のためにキリストはその御血を流したもうた。その他の人々は永遠の刑罰に予定されて生まれ出でたので、何の意味からしてもキリストが彼らのために死にたもうたとは言われ得ぬと言うのである。これを特殊贖罪説というはそれゆえである。
 この怖るべき信仰は今もなお多くの神の真の僕等によって保たれている。現代においてはかかる乱暴な説は露骨には説かれないけれども、確かに推論によってなお教えられている。
 全体、かかる有害な考えの起こりは、聖書における選択の教理の非聖書的理解からである。その恵み深い真理は甚だしく曲解されているが、神の聖言ははなはだ明白で誤解せらるべくもない。すなわち選択なる語は個人的と集団的と二つの異なった意味に用いられている。個人的選択は、救いに至る選びについては決して用いられておらず、或る特殊な御奉仕のための選びか、或いは格別に新約聖書において、既に神の召しを聞き信じ救われた者の聖潔に至るべきこと、聖化に至る選びかを、表すために用いられている。集団的意味(それが一般的用法である)に用いられているこの語は全教会に関しているので、教会の個々の会員に関してではない。
 これは数言の説明で明らかにせられる。神は来るべき諸時代における人類の将来の統治のために、主イエスと共に地に君臨し統治すべく選ばれうる一団の人々の、世界から集められ準備せらるべきことを明らかに企図したもうた。しかしてユダヤ国民はかく神に撰ばれ、かく定められていたが、彼等はその選びを拒否したために棄てられ、その代わりに神は天下の諸族諸民より集められる、ほかの団体、ほかの国民、ほかの民を選びたもうた。この団体は、教会すなわちキリストの新婦と称せられるもので、選ばれる若干数の人々である。その選ばれた者の数が全うされた時に主イエスは地上に君臨すべく帰り来りたもうのである。しかして誰でも神の恩恵によってこの選ばれた団体に入らんと欲する者は入り得る。もし今の世代の人々がその代の間にこの恵まれたる特権を拒否するならば、永遠の生命のこの提供のなさるべき新しき世代の人々が生まれねばならぬ。聖ペテロは、主の来臨を速やかにすることが我らの力のうちにあることを言っている。もし今の世代において非常な大リバイバルが起こって世界中に広まり、神の選びに与る者の数が全うせられるならば、必ずキリストはその新婦のために帰り来りたもうと我らは推論しうるのである。換言すれば、選択は集団的である。それは或る個々の人々が永遠の生命に選ばれ、したがってその残りの人々が永遠の定罪に予定されることではない。しかり、確かにそうではない! 何人でも願うならば、しかして信ずるならば、選ばれた者の一人にてあり得るのである。『誰にても望む者は』来るを得、『誰にても』御子を『信ずる者は』直ちに選ばれた者の中に入り得る(ヨハネ七・三十七、三十八)。キリストはすべての人のために死にたもうた。彼の血はすべての生ける人の子らのために注ぎ出されたのである。かかる全般の贖罪のために神を頌めまつれ。悲しいことに万人がみな救いを蒙らず、みなが救いを望むにあらずとも、それは神の過ちではない。神は罪人の死を悦びたまわず、その悪を悔い改めて生きることを欲したもうのである。
 いずれにしても我らは神を義とすべきである。人をみな虚偽者とするとも! キリストは『すべての人に代りて死にたり』(コリント後書五・十四)。『神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり』(ヨハネ三・十六)。すべての人の悔い改めて救われることは神の御意である。
 今この文を読む何人にしても、もし「特殊贖罪」の非聖書的観念によって不信仰の牢獄に投げ込まれおるならば、その人の急いで神に叫び求めることを望む。しかり『その思念(おもひ)をすてゝヱホバに反れ さらば憐憫(あはれみ)をほどこしたまはん 我等の神にかへれ 豐に赦をあたへ給はん』(イザヤ書五十五・七)。であるから断乎として、すべての人のためにその宝血を流したもうた主は、またあなた自身のためにもそれを流したもうたことを知り、完全なる極端までも救う救い主を信ずることを望む。

   二、全般の贖罪(現世の)

 『凡ての人、殊に信ずる者の救主』(テモテ前書四・十)

 されど、キリストが『罪のために宥の供物たり……また全世界の爲なり』(ヨハネ一書二・二)と録されていることには、すべての人がキリストの贖罪の犠牲より流れ出ずる祝福に与り得る別の意義がある。まずここに宥めという語の用いられおることに留意する必要がある。人に対して神が和らがせられたもうとは決して言っていない。和らがせるとはただ人に属する語である。人は神に和らぐ必要があるけれども、神は人に対して和らがせられることを要したまわぬ。神は宥められたもう、すなわち聖き神の義しき御怒りが止められるのである。
 その目聖くして肯んじて悪を見たまわざる神は、流された御血のゆえでなかったならば、これよりもっと早く既に、悪しきこの世にその御怒りを蒙らせたもうたはずである。神はノアの時代に、世の悪をその上ゆるし置きたまわず、洪水をもって地を滅ぼしたもうた。その神がその義しき御怒りの鉢を傾けることなしに、代々の積悪を看過し続けたもうことはいかにしてできたであろうか。そこに唯一の答がある。キリストの御血が神の御怒りを引き留めるために役立っているのである。恩恵の時代(すなわち人々の悔い改めに至り得るよう神が長く忍びたもう時代)がこのままに進行するのは、ただ流された御血のゆえにのみでき得るのである。それによりて、ただそれによりてのみ、義しき神が現世の恩恵を与えたもうことができるのである。照らす太陽、降る雨、さては生命、健康、力、食物、衣服などの祝福──しかり、すべての善き完き賜物が人の子らに与えられ得るは、ただ全世界の罪のために宥めの供え物としてイエス・キリストの献げられたもうたためばかりである。最も甚だしき冒瀆を敢えてする懐疑論者が一口一口の食物を安全に受け得るのも、主イエスの御贖いの犠牲によるのである。もしそのためでなかったならば、世界は神を知らず福音に従わない者どもの上に落ち来る燃ゆる火によって、長い長い以前既に焼き滅ぼされておったであろう。
 されば我らは、我らがキリストに在って受ける贖罪の恵みのその分を喜ぶと共に、万人に及ぶその恩のために神を頌めまつるべきである。我らは実に、ご自身より、その愛の御心の恩恵により、その御血により、信ずる我らのために信仰による宥めの供え物として立てたもうたばかりでなく、また限られた意味において『全世界の爲』の宥めの供え物としてキリストを立てたもうた、『憐憫あり恩惠(めぐみ)あり怒ること遲く恩惠と眞實(まこと)の大なる神』(出エジプト記三十四・六)を喜ぶべきである。
 聖子が聖父の御意に順ってその生命の御血を注ぎ出したもうたのは、かくも偉大なる、かくも偉効ある、かくも言うべからざる驚くべきことである。それは聖父と位を等しくしたもう、神の御子、宇宙の創造者、諸王の王、諸主の主、その名を『奇妙また議士 また大能の神 とこしへのちゝ 平和の君』(イザヤ九・六)と称えられたもう御方の血であった。彼は『世の罪を取り除く神の羔羊』(ヨハネ一・二十九)でいまし、『凡ての人』の(現世的)救主、『殊に信ずる者の(永遠の)救主』にていますのである。

   三、全般の贖罪(現実の)

 『幼兒(をさなご)らの我に來るを許して止むな、神の國は斯のごとき者の國なり。』(ルカ十八・十六)

 キリストの御血が全般的効力を持つということには、またほかの意義もあると私は思う。主の僕なる或る人が、人類の大多数は救われるであろうかと問われた時、彼は少し躊躇したあとで、それを肯定するよしを答えたので、何故にかと問われたれば、彼は答えて「人類の大多数は嬰児の時、或いは幼少で死ぬが、世界に生まれ出るすべての嬰児は贖われて生まれ出で、かくキリストの贖罪の血の御いさおしに与るから」と言った。
 もし全般の贖罪が真理ならば、「特殊贖罪」すなわち選ばれずして生まれた子供は永遠の苦しみに委ねるほかなしとする、かの怖るべき特殊贖罪の教理は全然虚偽である。(それが虚偽であることを神に感謝せよ。)されば『神の國は斯のごとき者の國なり』という主の御言は、普通に霊的に解釈される、それはもとより正当ではあるけれども、なお一層充分なる意義を持つのである。
 ごく熱心なるキリスト者で、嬰児のバプテスマの問題につき、いたく心を苦しめている者が少なくないが、彼らがもしキリストの贖いの御業について一層充分な見解を得たならば、その困難を逃れたであろう。一般の教会(僅少の除外例はあるけれど)が嬰児のバプテスマを用いおることは確かに無意義ではない。私は一般にカトリックの人々によって悪用され、英国教会の内にも多くの人によって悪用されることあるを承知している、バプテスマの儀式によって霊魂に霊的生命が伝達されるという見解は、ほとんど取り上げて論ずるに及ばないほど虚しい考えで、実際のことに似せた説である。されど新教各派の意見は、嬰児のバプテスマを可とすることに一致する。これが理由は贖罪の全般的なることに見出されぬであろうか。世界に生まれ出ずるすべての子供は「贖われて生まれ出ずる」、それはエペソ書一・七におけるごとく罪過のゆるしの意味においての贖いでなく、またロマ書八・二十三におけるごとく『體の贖はれんこと』の意味でもなく、それは原罪、すなわち性質の不義の詛いから贖われているという意味である。されば幼少にて死ぬる者は、キリストのいさおしある十字架と御受難の功を通して永遠に救われているのである。
 しかしてバプテスマは我らがかく信ずるということの確認すなわち印であり、キリストの宝血の効力を信ずる我らの信仰を表す外部のわざなのである。
 しかしそれがそうであってもなくても、全般の贖罪が嬰児のバプテスマの充分なる理由になるにしてもならぬにしても、キリストがすべての人のために死にたもうたという幸いなる事実、その御血は生まれたばかりや幼少で眠りに就いた誰も数えることあたわざるほど多くの者の救いを確保するという事実を我らは喜ぶべきである。
 幼児のバプテスマと似たことで、外国宣教師に肝要な一つの問題がある。異教から回心した熱心な改宗者らから、たびたび私は「福音を聞かなかったわが父わが母についていかに考えてよいか、教会の怠りから福音を聞く機会を得なかった、ほかの無数の人々はどうなるか」と問われた。かかる問いに私は或る時、次のごとく答えた。「偽ることあたわず、また不義にてあり得たまわざる神は、また愛の神よりほかではあり得たまわない。神はすべての人を知りたもうと共に、初めより終わりを知りたもう。ゆえにもし機会が与えられたならば信じたであろう人を知りたもうのである」と。もしかかる答が正当ならば、我らはキリストの贖罪の犠牲を通して、他の国々から、また過ぎ去った時代の、数え得ざる多くの人が、全世界の罪の宥めでありたもうたキリストの御血によって贖われ、永遠の代々を通じて、宝座をめぐって神を讃美するのが見られるということも、われわれは信じ得る次第である。使徒行伝十・三十四、三十五。
 キリストの犠牲の長さ、広さ、高さ、深さは誰がこれを述べ得るであろうか。彼の御血は極悪の者を浄くする能力をもつばかりでなく、万人のために有効である。それはすべての人の子らに天への道を開いた。それは聖き神の義しき報復が罪深き世に来ることを抑止した。それは人を悔い改めに導く神の仁慈の存続を保証し、叛ける人類の上に神の日ごとの賜物の給与を可能ならしめ、また多数の幼児を天父の御前に連れ来ったのである。
 実に、我らは主を頌めて、『なんぢは卷物を受け、その封印を解くに相應しきなり、汝は屠られ、その血をもて諸種(もろもろ)の族(やから)・國語(くにことば)・民・國の中より人々を神のために買ひ給へばなり。……屠られ給ひし羔羊こそ、能力(ちから)と富と智慧と勢威(いきほひ)と尊崇(たふとき)と榮光と讃美とを受くるに相應しけれ』(黙示録五・九、十二)。と言うべきである。ハレルヤ!
 私はこの大主題を終える前に、神御自ら宥めの供え物を備えまた立てたもうたという聖書の陳述を、今一度強調せんことを欲する。
 多くの人の心に一般に考えられる、怒れる神を我らが宥めるという考えには、これを正当とする何の理由もない。
 『神自ら……備へたまはん』(創世記二十二・八)はアブラハムの信仰の秘訣であった。神が宥めの供え物を備えたもう。もしそんな表現が許されるならば、神がご自身を宥めたもうのである。罪に対する神の御怒りを宥めることは道徳的必須のことであるが、神がすべてそれをなしたもうのである。神は律法の破毀に対して刑罰を科し、しかしてその犯罪人のために自らそれを払い、律法の違反の必ず罰せらるべきことを宣言し、しかして自らその罰を受けたもう。神の化身にてありたもうキリストが御自ら宥めの供え物となりたもう。されば神ご自身が悪に対するご自身の御怒りを宥めたもうたのである。これによって、神は罪の極めて罪深きことを顕すと共に、その御恩恵の極めて豊かなることを顕し、我らのすべて求めるところ、すべて思うところよりも、はなはだ勝れることをなし得ることを顕して、人間の知恵を辱めたもう。実にこれを信じ、頌め、喜ぶことこそ、我らのなすべきことである。



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