第十五章 血による定罪



 『羔羊の怒(いかり)』(默示錄六・十六)

 我らは今この驚くべき主題の研究の終わりに達した。最後の言葉は警戒の言葉でなければならぬ。おお、願わくは、我らが自己のキリストの御血に対する態度によってその霊的状態を判断し得んことを。何となれば、これはすべて霊的宗教の試金石であるからである。我らは、宗教に重要なる真の敬虔に対する、擬似物を各方面に見る。すべてキリストの血に言及することを嫌うところの降神術や、クリスチャン・サイエンス、またキリストの血を信ずることを屠殺的の宗教と嘲笑する冒瀆的合理論、象徴を尊んで拝物教化せる英国カトリックやその元なるローマ教会、その他多くの贋宗教は、天への安易な広い道、すなわちキリストとその名のために辱めを受けることなき道を好む大衆の霊魂を欺きつつあるのである。

   一、血を等閑にすること

 『我ら斯のごとき大なる救を等閑にして爭でか遁るることを得ん』(ヘブル書二・三)

 私が既に述べたごとく、今日、多くの男女は、彼らが邪悪な恐ろしい罪を犯したためでなく、その救治を等閑にし、軽んじ斥けたというわけで地獄におるのである。これを説明するために、一つの単純な例話を記すは適当であろう。
 たとえば私が突然と致命的な病気に罹った。しかして医師たちはいずれも匙を投げた。しかるにここに或る医者があって、その人の治療はこの特別な病気の医癒を決して誤らないということを聞く。しかもその治療には金がかかるので私の力に及ばぬけれども、一人の友人が一切の費用を払うことを申し出たので、私はその医師に行った。しかして彼は注意深い用法を添えて薬を与え、必ず根本的に癒えることを私に保証した。しかるに私は家に帰り、その薬を戸棚に入れておいて、用いることを拒んだ。その結果、病は進行して数日のうちに死んだとする。そうすれば、厳密に言って、私はその病気のゆえに死んだのでなく、その薬を用いなかったために死んだのである。罪人にとってもその通りである。彼が永久に亡ぶとも、それは殺人その他の恐るべき罪を犯したために亡びるのでなく、キリストの御血の功徳とその効力を等閑にするゆえである。さればイエスの御血を世の常のもの、価値なきものとすることは、すべての咎、すべての不徳、すべての他の犯罪よりも一層悪しく、一層愚かな、一層悲劇的のことである。
 不信仰は、人々が罪もその救治の道も共に見ぬように、その目を眩ましている。不信仰はまた、霊魂がその欠乏やその要求を神の御前に主張し迫るすべての勢力も能力も失うほどに、それを麻痺せしめているのである。
 人は亡ぶためには何もなすを要せぬ。ただ主イエスの犠牲を等閑にし、無頓着にし、信ずることを遷延し、無視することが、数千の貴い霊魂を罪に定めるもとである。『等閑にして爭でか遁るることを得ん』。実に如何にして遁れようか。我らの方では何も値を払わず、何のいさおしなく、全く自由の、しかも考えも及ばない、祝福に満ちたる永久の賜物で、神の御子の側ではかく言うべからざる損失、苦痛、恥辱に値した賜物をば、等閑にすることが、いかで赦され得ようか。どうしてそれが見逃されることができようか。かくも不届きな、申し訳のない、愚かな無関心の者、もはや考慮の要なき有罪人の上に落ち来るべき審判をば、我ら如何にして遁れ得ようか。
 おお、我らをして急いで自らの危険を見せしめよ。我らの目の開かれるよう、神に叫ばしめよ。我らをして信仰をもって我らの永久の遁れ場にのがれるよう急がしめよ。しかして我らをして、イエスの御血を等閑にしたという我らの罪を言い表し、御血が聖霊を通して神の宇宙にて最も貴重のものと我らの目に見えるまで、『況て……契約の血を尋常(よのつね)のものとなす者の受くべき其罰の重きこと幾何(いかばかり)と意(おも)ふか』(ヘブル書十・二十九=元訳)という厳かな御言の重みと権威を感ずるまで、決して休まざらしめよ。

   二、血を誤用すること

 『御體を辨へずして飲食(のみくひ)する者は、その飲食によりて自ら審判(さばき)を招くべければなり。』(コリント前書十一・二十九)

 しかし、この最も貴重なる賜物を等閑にするよりももっと恐るべきことでさえあるは、これが誤用である。悲しいかな、今日いわゆるキリストの教会の内に一般に、我らは、生命、能力、自由、歓喜の飲食の代わりに、定罪に至る飲食の行われるを見る。神は諸時代を通じて、人に向かって種々の契約をなしたもうたが、その場合ごとにそれに聖奠が付いている。老監督ホールの言えるごとく、「エデンの園においては、神の聖奠そのものがアダムとエバの目の前に生長していた」。しかして神はノアとの契約においては虹を聖奠的表徴となし、アブラハムとの契約には聖奠となすべく割礼を命じ、ご自身の民にはシナイ山にて安息日の聖奠を与え、ダビデには日と月と星とをその契約の聖奠となし、我らにはキリストの裂かれたまえる御体、流したまえる御血の象徴なるパンと葡萄酒を聖奠として与えたもうたのである。
 悲しいかな、いずれの場合にも、神の恩恵の機に乗ずる恐るべきことども、すなわち神の与えたまえる象徴なる聖奠を通して来る神の恩恵の悪用があった。アダムは神が祝福のために与えたもうた樹木そのものを、御顔より自ら隠れる手段として用いたではないか。また大洪水から遁れ残った民らは、神が虹を徴として与えたもうた保証や約束を無視して、大洪水の再来を避けんとて天に達する塔を建てようとしたではないか。悲しいかな、ヤコブとその子らはその父祖に与えられた割礼の聖奠を、殺人、残忍、掠奪を蔽う申し訳とするほどに悪用した(創世記三十四章)。
 イスラエル人らは、安息日の意義とその祝福を無視し、その儀文を守ってこれを拝物的になしたではないか。悲しいかな、彼らは安息日が象徴する心の安息の何も知らなかった。
 荒野で銅の蛇の挙げられた竿は、それが壊されるまでは、偶像的礼拝の目的物とならなかったか。実にこれは我らの時代の十字架像の型となる何たる絵画ぞ! またユダヤ人は日や月や星がただその聖奠であったところの契約を守る代わりに、それらの天体の崇拝に陥らなかったであろうか。しかして今日、神の民たる我らに与えられた神の最大なる契約の象徴、すなわち我らの神たる贖い主の裂かれたまえる御体、流したまえる御血の記念となるパンと葡萄酒についてはどうであるか。我らが各方面にて見るところは、神の恩寵を利用して『天より降りし活けるパン』(ヨハネ六・五十)にてありたもうキリストを信ずる活ける信仰の代わりに、この儀式を守ることである。信心と享楽、世の慾と礼拝とを混淆するは現代宗教の特質である。もし男でも女でも、外面的に信心の符牒を備えて聖餐に与るならば、彼らはその好むままに世俗的であってもよいのである。もし第七日に教会と聖奠に出席するならば、六日間は無論、観劇、骨牌遊び、何をしても、それは正しい生活とせられる。もし世評の崇拝者らがその時間の一部分を聖奠の礼拝に与えるならば、陰口や饒舌はもちろんのこと、享楽愛好、利己主義、世慾耽溺、しかり、なお一層悪しきことどもも、「祭司」によって許容され大目に見られる。キリストの宝血のかくも嘆かわしい誤用は実に痛心の至りである!
 たとえ人々がかくして小羊の御血にその衣を染めることを求めるとも(彼らはその神聖なる流れにその衣を洗うことを嫌う)、彼らが自ら、かく御体を弁えずして主の肉と血を飲食し、自らその永遠の審判を招いたことを発見するその日、彼らは何たる恐るべき幻滅を感ずることであろうぞ!
 これらの最も神聖なる象徴そのものが、実にネホシタン(列王紀下十八・四)となっている。されば聖奠を尊重することそれ自らが、かえって謙って信ずる霊魂に契約によって約束された祝福を奪うことなきよう、注意すべきである。

   三、血を拒否すること

 『己らを買ひ給ひし主をさへ否みて』(ペテロ後書二・一)

 キリストの御血を知り弁えながら、理屈をつけてこれを拒否することは、これを等閑にし、誤用するより一層悪いことである。けれどもこの末の時代に、我らは各方面にそれを見出す。我らは教会にあるキリスト教の合理的理解、教会にある降神術やクリスチャン・サイエンスはみな、彼らを買いたまいし主を否むのである。
 論者は言う、キリストの死にたもうたのは、我らの罪の赦されることのできるためでなく、我らが彼の殉教を見ることによって、罪の赦しの願望を起すためである。十字架は単に心理的考案に過ぎない。それは何ら道徳的必要によって要求されたのではない。単に我らの心を動かして赦罪を願わしめ、間接に我らを導いて神に来らせる手段である。神は何ら公義の要求を満足せしめるものなしに我らの罪を赦したもう。キリストの死には赦罪を得るための功しもなく、我らを新生せしめる何らの効力もその内にない。赦罪と新生は我らの意志の努力と、十字架の幻に我らの愛情の動かされることによって生ずる。我らは十字架によってただ教えられ、諭され、励まされるのみである。換言すれば、我らは、救い主も仰せられその使徒らも言明したような、生まれながら『咎と罪とによりて死にたる者』(エペソ二・一)ではなく、『怒の子』(同三)、『不從順の子』(同二)ではなく、また『惡魔の子』(ヨハネ一書三・十)でもない。我らはただ環境の犠牲である。されば我らにただ適当な教育を受けしめ、キリストの自己犠牲の幻によって照らされ、輝かされることを得せしめたならば、我ら自身の衷なる高貴なるものが起き来り、自らキリストの御足跡に順わんことを要求するに至るであろう。しかして我らの意志の努力や、教育や、そのほか外部からの助けは、我らが光を受けた良心の指導に順うように能力を供給すると。
 誰でも自己の心を知る者が、かかる意見をただの囈語以外の何かであると自ら信じ得るならば、それは驚きあきれるほかはない。実に、かかる意見は単なる囈語というのほかはないのである。
 されど、これよりも一層恐るべく、一層断乎たる種類の御血の拒否がある。すべての妄想の中の最もサタン的な、クリスチャン・サイエンスはその一つである。それによれば、もし罪が聖き神に逆らうということが否定され、謙って告白することが無視され、すべてにまさって、神の御子の贖いの御血を信ずる信仰が斥けられるならば、悪魔の代理者によって、心の中に擬似の平和、顔に笑み、性質に愛らしさ、身体に医癒が与えられ、確保されるというのである。
 或る一流の著者は、サタンは決して、彼に従う者がみな大酒呑みか娼婦であるということにのみ興味を持つわけでないということを指摘している。「善」とは極めて相対的の語である。人が善なりとするところのことも、神の御目の前には『汚なき衣』(ゼカリヤ三・三)よりほかの何ものでもないことがあり得る。悪魔はもしただ我らが、我らを買いたまえる主と主が我らをご自身にまで買い戻したもうた事実とを否定するならば、我らがいかに「善」くあろうとも、それを意に介せぬのである。サタンの敵は神の御子イエス・キリストである。人はただ、頌むべき神の御子、栄光の主なる彼に忠誠を誓う限り、サタンの憎悪と攻撃の目的となるのである。
 このイエスの御血を拒絶すること、主が我らを買いたまえることを否定することは、永遠に我らを罪に定めるのである。我らはいかにして遁れるであろうか。我らはいかにして『羔羊の怒』より遁れ得ようか。何よりも最も恐るべきものは、殺されたまい、血を流したもうた、神の御子の御怒りである。『羔羊の怒』という語そのものが罪を示している。もしそれが、その大いなる頌むべき犠牲を等閑にし、誤用し、拒否する罪を暗示するのでないならば、何故に『審判主の怒』と言わずして『羔羊の怒』と言っているのであろうか。
 おお、我らをして自らを警戒し、心を探り、我らが我らと我らの不信仰に対して神の小羊の御怒りを惹き起すことのなきやを、顧みることをなさしめよ。
 『等閑にして爭でか遁るることを得ん』(ヘブル二・三)
 『契約の血を潔からずとなす(尋常のものとなす=元訳)者の受くべき罰の重きこと如何許とおもふか』(同十・二十九)
 『御體を辨へずして飲食する者は、その飲食によりて自ら審判を招く』ならば、その日いかになし、いずこへ遁れるであろうか。
 もし我らが『己らを買ひ給ひし主をさへ否む』ならば、誰が我らを救うであろうか。
 終わりに我らは、かくも多くの人に、かくも致命的なるこの等閑にすることと拒否することの原因を注意したい。
 この章のはじめの所で、私は天への広い安易な道、すなわちキリストとその名のために辱めを受けることなき道を好む大衆について語った。
 イエスの御血を拒否し、誤用し、等閑にすることは、その原因をちょうどここに見出すのである。それは知的のことよりもむしろ道徳的、実際的のことである。
 もし我らが血によって買われたならば、我らは我らを買いたもうた御方への献身の生涯を送るように、恩寵によって宣告されており、もし我らが血によって赦されたならば、その血を流したまえる御方に感恩の愛を献ぐべき者と宣告されている。
 もし我らが血によって聖められたならば、我らが自己の力にては決して到達しあたわぬ所のものを獲得し得るために、神の御前に自らを卑しうするよう宣告されている。
 もし我ら、この世に存える日の瞬間ごとに、その恐るべき御流血のゆえに我らに与えられる神の恩寵と能力に依り頼むならば、我らはこの嘲笑する世、不信の教会に対抗して、広く遠くそれを宣伝するよう宣告されている。
 私は言う、我らはこの幸いなる、しかも謙らしめる福音の宣伝者となるよう、宣告されているのである。しかしてこの恩寵の宣告から遁れる途はないのである。我らにはキリストの栄光のために生きるのほか、生きる途はない。しかるに、悲しいかな、我らの新生せざる心、或いは半新生(かかる言葉がもし許されるならば)の心はこの宣告を受けることを拒むのである。
 我らは治療を受けるよりも、むしろ病気を否定する方を撰ぶ。もし聖書の言明するごとく神の御子なるキリストが我らのために死にたもうたならば、我らのために開かれた道は、彼に対して絶対の降服をなし、彼の栄光と失われた霊魂の救いのために生活することのほかはない。しかるに、悲しいかな、このことのために備えしおる者のいかに少なきことぞ!
 かくして彼の顕現の大いなる日において、我らは小羊の怒りより我らを隠すように巌に向かって叫ぶであろう。何となれば、彼の御血によって罪に定められて立つからである。
 もし今日、聖徒となるべき恩寵の宣告を拒否するならば、契約の御血を尋常の価値なきものとするすべての人に臨む永遠の審判に至るべき宣告を受くべきである。



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