第二章 血による啓示



 『神は……己の義を顯さんとて、キリストを立て、その血によりて信仰によれる宥の供物となし給へり。』(ロマ書三・二十五)

 地上歴史のいずれの時代においても、現代ほど神的啓示を必要とする時代はない。願う、人々のこれに注意しまた了解し得んことを。
 私は現代を光明赫々たる時と想うけれども、事実今ほど深い暗黒に閉ざされおる時代はないのである。
 すべて世の政策や計画の上には、銘して『暗き中を步む者は往方(ゆくて)を知らず』(ヨハネ十二・三十五)と録すが適当である。しかも世の三大光明である科学、哲学、歴史もただ明滅する鬼火に過ぎない。これらは人類の到達すべき目標について何らの光も与えぬ。科学は『種の起源』について甚だ賢く語り、しかして哲学と歴史の助けを得て社会の進歩発達を興味深く論ずるけれども、すべての疑問のうち最大にして最肝要なる『我らは何処に向かって動きつつあるや、人類の進み行く目標目的は如何』という疑問に対しては、心ならずも、みな等しく沈黙するのみ。人は限りなく生まれまた死するや、その終わりはあらざるや、罪と死は今日のごとくつねに力強くあるべきものなるや、これが絶滅は何処にも見られざるや。これらの問いには何の答も与えぬ。
  「世界は似たり、水車
     絶えず回り続けつつ
   さながら粉挽くごとくにぞ
     生死善悪を引き出だす
   それには何の意図もなく
     心も思いも意志もなし」
という不可知論の陰鬱な詩に、死なんばかりに疲れ果て、科学・哲学や、さてはまた自然宗教などのいわゆる光なるものを求め、それがまた鬼火のごときに過ぎぬを見て失望し、立ち帰って『暗き處にかがやく燈火(ともしび)』(ペテロ後書一・十九)なる預言の言葉、すなわち神の啓示に来る時、我らはそこに何たる慰安と確信を喜ぶことぞ。
 文化によって千年期の至福時代が導き入れられるという哲学者の夢は、それは興味を感ずるにさえもあまりに空想的である。されども我らは『預言の言葉』が我らの時代の暗黒を照らす燈火である事と、神の速やかに来らんとすることを知らしめいたもうこととを実感するに至って、初めて我らは何処に向かって進み行きつつあるか、また主イエスの再び地上に帰り来りてご自身の権能を執りたもう時に達せらるべき、全うせられたる人類の到達点のいかなるものであるかを確かに知るのである。
 されども人の最も必要とするところは事物の終極に関する啓示ではない。
 悲しいかな、我らはすべて霊的、永久的、不可視的事物につきては生来の知力にて何も知り得ぬ。されど、頌むべきかな、神は証者なしに我らを棄て置きたまわぬ。神は聖書に、人類の救いと祝福に関するすべてのことの啓示を与えいたもうのである。
 しかしてそれらのことのうち、今この章にて我らが論ぜんとするところはただ一つ、神の義の啓示である。
 血による啓示──これは奇妙な表題ではあるが、実に大いなる意味に満てる語である。
 聖パウロは、自然界を通して神の権能とその神性の顕れおること、また聖書を通し、古昔の預言を通し、休徴を通し、また種々なる道また方法をもって福音の啓示されおることを語っているが、ここに彼は神がその御子の血を通して、ご自身の義を顕したもうことを語っている。
 自然界の不思議な事どもはみな神の権能と偉大さと威厳とを顕しているゆえに、パウロの言うごとく人は『言ひ遁るる術なし』(ロマ書一・二十)なのであるが、かの『全世界をまどはす古き蛇』(黙示録十二・九)は、人の心を眩ませてこれを信ぜざらしめている。しかしキリスト者の眼は開けて、創造者の権能と神性を見るばかりでなく、感謝すべきことにはさらにより多くの事を見る。
  「上なる天は蒼色いよよ快く
     まわりの地は緑色いよよ美わし
   いずれの色にも我らは見る
     生ける或る者を
   キリストなき眼の
     さらに見ざりし或る者を」
 されども、我らのここで語らんとするは神の義である。しかしてそれはただカルバリにおいてのみ顕れ、血の文字をもって書かれている。これ、悩める人の心には畏るべくもまた幸いなる啓示である。神の義! この語のうちには何たる驚異の存在することぞ! これには、同情と公平、憐憫と真理、親切と怒り、憎悪と慈愛を含む。しかしてこれらがみな、流されたる血を通して啓示されているのである。

   一、愛の啓示

 『神の愛われらに顯れたり。……神われらを愛し、その子を遣して我らの罪のために宥の供物となし給ひし是なり。』(ヨハネ一書四・九、十)

 誠に奇異に感ぜられ、神に対して殆ど不敬なる考えと思われるけれども、カルバリにおける崇高なる犠牲は、驚くべき必然のことであったということは真実である。もし神が在し、しかしてその神が愛にてありたもうならば、かかる犠牲のなかろうとは考えられも、期待されもせぬ。愛が愛、同情、親切、憐憫として理解せられるには、それは最上の試験なる自己犠牲をもって験されねばならぬ。何の値も払う必要のない愛は道徳的価値あるものと言われようか。もし神の愛が、宇宙における最も純潔な最も崇高なものであるならば、それは最上の犠牲によってのみ顕されうるのである。
 神の愛は費え無きものであろうか。またかくあり得ようか。神の与えたもう贖罪、神の備えたもう救いは値なき恵みであろうか。神の優愛と憐憫は実際的でありまた効果的であるにかかわらず、それはただ御心の感情、或いはその御権能の行使のみであろうか。否、決してそうではない。神は父にてありたまえば、何らの犠牲も示さぬ赦罪、ご自身の不変の公義を無視するほか何の値も払わぬ救いを与えたもうという感傷的な観念は永久に拒否さるべきである。創造者なる神が、ご自身に受造物の受ける制限を受けたもうということは、確かに驚くべき奥義ではあるけれども、それは真である。しかして、それによってこそ全能の神の愛、同情、親切、憐憫が我らに顕されるのである。
 さてこの主題を終わる前に、神の愛の実際の性質をよく考えおくことはよいと思う。聖書には、『それ義人のために死ぬるもの殆どなし、仁者のためには死ぬることを厭はぬ者もやあらん。然れど我等がなほ罪人たりし時、キリスト我等のために死に給ひしに由りて、神は我らに對する愛をあらはし給へり。……我等もし敵たりしとき御子の死に賴(よ)りて神と和ぐことを得たらんには……』(ロマ書五・七、八、十)とある。
 諸国民の歴史は自己犠牲の多くの貴い実例を我らに示している。人々はその国のため、その妻子のため、その友のため、その名と誉れのため、学術のため、しかり、しかしてその名誉と光栄を得べき功績を成し遂げるために、その生命を捨てた例に乏しくない。『然れど……神は』ああこれは何たる幸いなる言葉ぞ! 『然れど……神は我らに對する愛をあらはし給へり』、我ら、しかり、この罪深き、賤劣なる、奸悪なる、背叛せる我ら、全く愛らしくも愛せらるべくもない、その上に敵であった我らのために、御子が死にたもうたことによって、神は我らに対するご自身の愛を顕したもうた。ここに完全なる天的愛がある。されば今一度、インマヌエルの血管より流れ下る宝血を仰ぎ見、記憶によってそのさまを明らかならしめ、信仰によって心を衝動して、神の愛のかかる様なる啓示を頌讃嘆美し、俯伏礼拝するに至らしめられたきものである。
 かつて日本において、有名な殺人犯人が死刑の宣告を受け、それが執行されたが、その死刑囚がその刑の宣告と執行の間に自己の生涯の物語を書き、死の宣告の下における日毎の日誌を残したので、後に『死刑囚より聖徒へ』という表題にて出版された。(英語にも訳され『獄中の紳士』と題して英国にて出版された)。この人は多くの罪を犯し、その中に三度も人を殺し、長く法網をくぐって逮捕を遁れ、二度も二人の警官に重傷を負わせたということである。しかし彼はその余罪のために服役中、一人の無罪の人が、彼自身の犯した一つの殺人罪のために捕らえられて死刑の宣告を受けたということを同囚の者から伝え聞き、その無罪人を免訴せしめるために、直ちに自己の犯罪を告白したということである。
 かくこの死刑囚人が変化したのは次のごときことからであった。すなわち彼がその審問を待ちおる頃、一人の婦人宣教師が新年の贈り物として果物と菓子の籠の中に小型の新約聖書を入れて差し入れた。彼はその淋しい獄舎に、疲れ果て失望しており、気の進まぬながらその聖書を取って開いて見、図らずも『父よ、彼らを赦し給へ。その爲す所を知らざればなり』(ルカ二十三・三十四)とあるところを見出したので、その意味を知らんために十字架の物語を読んだ。すると忽ちその有罪の暗い心にも神の愛の啓示が閃いたのである。
 そのとき地上において誰も彼を教える者はなかったが、そこでその監房で、彼は覚醒し認罪し神へと回心した。しかしてそれはただ、罪ある者のために無罪の御方の受けたまいし御受難と、贖い主の御流血の物語によってであった。しかして彼の衷に起こった変化は典獄をはじめ一同に知れ渡るほどに即刻のまた驚くべきことであった。
 彼の絞首台に上るまでの日誌は、神が十字架の物語を通して、いかに驚くべきことを彼のうちになしたもうたかを顕している。

   二、神の公義の啓示

 『これ今おのれ(神)の義を顯して、自ら義たらん爲、またイエスを信ずる者を義とし給はん爲なり。』(ロマ書三・二十六)

 我らはこの聖句に、神の悪に対して持ちたもう憎悪と共に、神の真実と公義が主イエスの御流血によって我らに顕されているということを読む。
 『されどヱホバはかれを碎くことをよろこびて之をなやましたまへり』(イザヤ書五十三・十)とは実に不思議な言葉である。けれどももし愛が顕され、実行さるべきならば、それは公義を犠牲にしてなさるべきものではない。それゆえに『義をいつくしみ惡をにくむ』(詩篇四十五・七)聖父は、我らのためにその悦びたもう御子を砕くことを善しとしたもうた。すなわちカルバリにおいて『あはれみと眞實(まこと)とともにあひ 義と平和はたがひに接吻(くちづけ)』したのである(詩篇八十五・十)。神は愛深く憐憫に富みたもうゆえにではなく、『眞實にして正しければ、我らの罪を赦し、凡ての不義より我らを潔め給はん』(ヨハネ一書一・九)とあるは誠に幸いである。すなわち我らの赦罪は神の公義を根拠としているのである。
 さて罪は律法を犯すことであるという意味からしては決して赦さるべきものでない。それは必ず罰せらるべきもので、赦されることはできない。もっとも、罪は律法を犯すことであると同時に天父の御心を傷めることである。しかしてこの天父の御心を傷めるという意味においては普通に父がその子の愚行と罪を赦すごとく、赦され得るということは私も承知している。けれども罪はその最も真実なる最も恐るべき意味においては決して赦されることのできないもの、必ず罰せらるべきものである。一般の道徳観念はこれを要求し、宇宙の全組織はこれを必要とし、天におる神の使い等も、地獄におる悪魔も、神の公義という点からこれを期待している。しかしてこの要求、この必要、この期待はことごとくカルバリにおいて満足された。すなわちそこで罪は罰せられた。そこで罪はほかの御方の上に置かれた。永遠の罪は、限りなく永遠の御方の上に置かれ、世界一般にわたる罪は、すべてのすべてにいます御方の上に置かれ、犯罪は神の律法を完全に守り遂げたもうた御方の上に、生来遺伝の罪は元来罪なき御方、神の聖者にてありたもう御方の上に置かれたのである。さればそれを信じ、それを受ける者にはもはや罰というものはないのである。
 この肝要なる題目につき現代の或る著者は次のごとく力強く論じている。
 「我らの中に多くの不注意な浅薄な思想家があり、自分で自明の第一真理に想到せざるため、神の罪を取り扱いたもう方法につき、未熟な不可能な観念を持ち込む。かかる思想家の一人はプリーストリである。彼は言う、『もし我らの兄弟の一人が我らに罪を犯した時、ただ悔い改めるならば、よし一日に七度それを繰り返しても赦すべきことを要求されている。されば神の我らに対するお取り扱いも同じ寛大な法則によると結論せざるを得ぬ』と。
 この説は一見甚だ尤もらしく見えるゆえに、多くの不用意な人はその詭弁に捕らえられる。すなわちもし神がただ悔い改めるだけの単純な条件で我らの互いに赦すことを要求したもうならば、何故に神は我らを赦す前にまず我らの悔い改めの上にほかのこと、たとえばキリストの死を要したもうであろうか。神が悔い改めという単純な条件の下に相互に赦すことを教えながら、ご自身が我らを赦したもう前にご自身の御子の死を要したもうとは、道徳に反する教理ではなかろうかと、こう考えるのである。
 しかしもし我らが事の性質から探求する原理を想起するならば、かかる議論が単なる詭弁に過ぎないことを悟るは容易である。
 『神は愛なり』。ここから出発せよ。
 愛は神をしてご自身の宇宙道徳的安全幸福を求めざるを得ざらしめる。しかして神はこの安全幸福を欲することなくして、これを求めたもうことは彼に不可能である。しかも神のその道徳的受造物に対して欲したもうところはご自身の道徳的御支配である。さて神の御支配として考えられ得るところに私的支配と公的支配の二つがあるが、神の御支配はこの二つのいずれであろうか。我らは既に、神の道徳的御支配はその安全幸福を求めたもう道徳的存在者の一切を含まねばならぬことを見、また神の愛は神をしてご自身の宇宙の一切のものの安全幸福を求めざるを得ざらしめるがゆえに、神の支配は一般的でなければならぬ。一般的なる支配は必然に公的である。されば神の御支配は私的ではあり得ないのである。
 今これが例を家族に取れば、親の愛はその子供の安全幸福を求める。さればまたこれを欲する。したがって親のその子供に対する意志は、子供の安全幸福のために子供の従うべき種々の規律を生じ、その家族の支配はこれから成り立つのである。さてまた親が或る子供一人のみのために、すべてこのほかの子供等の安全幸福を目的とせぬ私的規律を設けるならば、それは義しくない。親は子供等一人一人のことを考える時、同時にまたほかのすべての子供の利害をも考える。かくその家族の支配は一般になる。さればそれは公的である。すなわち父の支配のおよぶ限り、すなわちその家族の最後の一人の子供に至るまで、その考えに入れるというところでそれは一般的である。しかして子供一人一人と父の意志との関係が自己の安全幸福の関係なると共に、ほかのすべての子供等の安全幸福にも関係するという事実においてそれは公的である。
 さてプリーストリの哲学は結局いずれに帰着するかを見よ。それは神の支配をして公的でなく、私的ならしめる。すなわち神の宇宙の道徳的支配の基礎をば、神が我ら人類の相互間の私的関係を律するために与えたもうた主義の上に置かしめるのである。
 一私人なる国民は、国家の安全幸福の関わるところの法律は少しも攪乱せずして相互の過失を赦すことができる。けれども公人なる支配者がそのごとく公の罪過を赦すならば、それは公の秩序を破壊に至らしめる。神は宇宙において至上の私的存在者でなく、至上の公的存在者にてありたもう。しかして我らの神に対する関係はすべてまた、神を通して宇宙の道徳的知覚ある者の安全幸福に対する関係である。これはかくあらねばならぬ道理である。何となれば神に対して我らの持ち得る関係は御身位に対する関係であり、御身位における根本的なるものはその御性格であり、御性格の積極的の表現はその御意志である。しかしてその御意志はその道徳的御支配の律法であり、その支配は宇宙の安全幸福をもってその目的としている。かく論じ来れば、我らの神に対するすべての関係は宇宙の安全幸福との関係である。されば神と我らとの関係において公的、一般的でない私的関係というものはあり得ない。
 一国の治者は、人民が私人の資格で赦すように、公の役所で人の罪過を赦すことはできぬ。そのごとく神は我らの私的関係にのみ影響する罪を相互に赦し合うよう命じたまえるように、人のご自身に対する罪、したがって神の宇宙に対する罪を赦したもうことはできぬ。我らが相互にそれを相赦す時にそれは人間どうしの私的関係調整のことであるが、神が我らを赦したもう時にはそれは宇宙への公的関係調整のことである。かくプリーストリの理論は浅薄にして愚かなる詭弁である。しかしてもしそれを論理的結論に推し進めるならば、すべて人間の支配を破局に至らしめるのみでなく、宇宙の道徳的支配を破るものである。ゆえに結局、神が罪人を赦したもうならば、それはこれより異なった基礎の上にて行われねばならぬが、それは何であるべきであろうか」と。
 かく論じている。しかり、その赦罪の基礎はすなわち十字架である。キリストの十字架の血を通して、審判主の公義、王の怒り、聖者の憎しみ、主の真理が神の同情と愛、また悩み恵みとすべて調和して顕れているのである。これは何たる啓示であろうか。これは人をして謙らしめまた立ち上がらしめ、罪を悟らしめ、また慰めを得せしめ、驚かしめまた満足せしめ、悲しましめまた喜ばしめる。今一度我らのカルバリを仰ぎ見たい。神の聖言の全体を貫通しているこの一条の赤き紐は、我らに対して神がつねに「赦しを好み」また「赦すべく真実に正しく」ありたもうことを示す、神の公義の証拠である。しかり、ご自身の律法の何一つも破らず、ご栄光の何一つも損せずして、不義なる者を義と認め、不敬虔なる者を義とし、なお御自身義にてありたもう、宇宙における、義しき神のこの最も驚くべき奇蹟によって、道理の一切の要求を永久に満足せしむべきである。我らの霊魂に慰安を与えると共に光明と認罪を来らしめる、人のすべての智慧と悟りを超越したるこの啓示を、おお我ら喜ぶべきである。

   三、罪に対する神の怒りの啓示

 『その福音のうちに……神の怒は……天より顯る』(ロマ書一・十七、十八)

 聖パウロが、福音を通して神の怒りが顕れていると書いたのは不思議に見えるかも知れぬ。けれども、元来罪というものは重大な事実であり、宇宙の無政府主義は甚だ恐るべきことで、その結果『來らんとする御怒』(マタイ三・七)のいかに厭悪すべく戦慄すべきことであるかは、神の御子の死によってのほか適当に顕れ得ぬところである。
 私は前にも現代の一著者の言葉を引用した。ここにまた今一人の著者の注意すべき言葉を引用する。彼は「あなたは不義なる神をもって満足するか」「正直に考えて、罪がついに罰せられずして終わることを願うか」などと適切な質問を発したあと、進んで言う。
 「我らの最後の反問は、『あなたは結局、キリストなしに、また神の全啓示なしに満足することができるか』というこれである。無神論の大闘士インガソール大佐は『地獄の論拠は聖書である。聖書の霊感の存在する限り地獄を片付けてしまうことは決してできぬであろう』と言っている。キリスト教の基礎的信仰をすべて否定するに至った宇宙神教の諸団体は、まず永遠の刑罰を否定することから始まった。それは論理的である。何故なれば、壁の中から、その成り立っているいくつかの煉瓦を取り外して、その壁を弛めるならば、やがてその建築物全体の崩壊するに至るは当然であるからである。『多くの人がその生涯、永遠の刑罰に反対の説を保ち、臨終の床で悔い改めてこれを信ずるに至ったことは聞いたが、死に臨んで、聖書信仰から万人みな救われるという信仰に転向した一人のことをも聞かない』とミセス・スチュアートは言っている。もし地獄のないことを我らに信ぜしめたいということが聖霊の願いであるとすれば、この事実をいかに説明することができようか。あなたはまたこれを否定して、すべての啓示の中心なるイエス・キリストと別れることを願うか。使徒のうちなる『雷の子』は最も絶望的色彩をもって悪人の審判を描いており、柔和優愛の化身にてありたまい、世界の救い主たる偉大なる熱情に動かされたまえる主は、地獄を事実として最も厳かに断言することを躊躇したまわなかった。主が地獄について語りたもう時、その比喩においてでさえも、その恐ろしさに何の軽減も緩和もなく示しいたもう。もし主の地獄について言いたもうたところが虚偽であったとするならば、天につき神につき語りたもうところにも信頼を置くことができないであろう。消えざる火、尽きざる蛆、決して赦されざる罰、身体と霊魂との共にゲヘナに入れられること。これらはすべて地獄より遁れる完全な救いをすべての人に提供しそれを確保するために死にたもうた主の御言い顕しである」と。
 しかり、主がこの救いを我らに得せしめるために死にたもうたことは真であるが、その死はまた我らが逃れねばならぬ来るべき御怒りのあることを、争うよしなきほどに証拠立てるためである。それは、悔い改めず赦されざる罪に対する神の御怒りが、神の救いを拒みつつ死ぬる罪深い世人の上に必ず落ち来るという事実の啓示であったのである。もし我らの遁れねばならぬ、来るべき御怒りもなく、恐るべき審判もないならば、カルバリの物語は、実際生活に演出されたる最も驚くべき伝奇的戯曲で、我らは驚きあきれて顔を背けるほかはないであろう。されども神は頌むべきかな。主の御血による来るべき神の御怒りの啓示は無益でなかった。何となれば、それは我らをして繰り返しまた繰り返してこれを仰ぎ見せしめる。しかして我らはここに永遠の神の御怒りと共に、その永遠の御愛と永遠の公義を見るからである。
 かの愛の大使徒、マデレーの牧師ジョン・フレッチャーは、「人類堕落の教理を取り去れ、さすればイエス・キリストによって建てられたる福音の塔はもはや磐上に建てられたものでなく、砂上のそれである。その堂々たる建築もたちまち崩壊して最も粗野なる比喩の屑に覆われ、極めて不適切な儀式に埋もれる、エピクテトスの無味乾燥な道徳のほか何も残らないであろう。かくして我らは、すべて神の知恵の宝蔵を貯え持ちたもう神の御子を、無罪の受造物のために贖罪をなすべく、罪に定められもせぬ人間の処刑を猶予すべく、奴隷ともせられおらざる人類を贖い出すべく、詛われもせぬ人類を詛いから救出すべく、真に正直な、善良な類の人々に代わって、絞首台よりもさらに恥ずべき木の上に、その神聖なる御手御足の烈しい痛苦の傷をもって打ち付け懸けられ、しかも地獄に行く何の危険もなき人々を地獄より救わんために、天の怒りを心に感じつつ息絶えたもうた、比類なき愚者となすであろうか」と言っている。
 元来、人には啓示そのものの必要を認めることを好まない何ものかがある。それが人をして未知のことを解決せんとする企図に一種の喜びを感ぜしめ、啓示されたことをば、それが自己の才能や熟練によってでないという理由で、価値なしとせぬまでも、興味なしとして退けるのである。
 これはただ知的虚栄心に過ぎぬけれども、悲しむべきことには多くの人の破滅の因をなしている。我らはかかる人々のうちにあらざるようにしたいものである。神の義の啓示が、いかなる意味からにても我らの才知の結果でないから、我らには無代償のものであっても、神の御子が天の王位を空しくして降りたもうたこととその御犠牲の値を決して忘れてはならぬ。しかり、神は、我らの救いとしてその義を顕したもうべく、その御愛の最も親愛なる最も貴重なる対象なる御方を、犠牲にするほどの値を払いたもうたのである。
 さればその啓示を侮り、等閑にし、無視し、斥けるは赦さるべからざることである。ほかのすべての咎と罪は赦されることができるけれども、このことだけは、もしそれを続けるならば赦されることはない。
 されば我らは誠にこの罪、この危険を警戒し、神の御子の御血による神の義の啓示に対し一層熱心なる注意を払わねばならぬ。



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