なんぢらの神いひたまはく なぐさめよ 汝等わが民をなぐさめよ 懇ろにヱルサレムに語り之によばはり告よ その服役の期すでに終り その咎すでに赦されたり そのもろもろの罪によりてヱホバの手よりうけしところは倍したりと
よばはるものの聲きこゆ 云く なんぢら野にてヱホバの途をそなへ 沙漠にわれらの神の大路をなほくせよと もろもろの谷はたかく もろもろの山と岡とはひくゝせられ 曲りたるはなほく崎嶇(けはしき)はたひらかにせらるべし 斯てヱホバの榮光あらはれ 人みな共にこれを見ん こはヱホバの口(みくち)より語りたまへるなり
聲きこゆ 云く よばはれ 答へていふ 何とよばはるべきか いはく 人はみな草なり その榮華(はえ)はすべて野の花のごとし 草はかれ花はしぼむ ヱホバの息そのうへに吹ければなり 實(げ)に民はくさなり 草はかれ花はしぼむ 然どわれらの神のことばは永遠にたゝん ── イザヤ書四十章一〜八節
もし私共に草のごとき己の肉の力があり、野の花のごとき肉の栄華がありますならば、聖霊は私共に息を吹きたもうて、すべてかようなものを根本より凋ませたまわんことを切望いたします。
よき音信(おとづれ)をシオンにつたふる者よ なんぢ高山(たかきやま)にのぼれ 嘉(よき)おとづれをヱルサレムにつたふる者よ なんぢ強く聲をあげよ こゑを揚ておそるゝなかれ ユダのもろもろの邑につげよ なんぢらの神きたり給へりと みよ 主ヱホバ能力(ちから)をもちて來りたまはん その臂(かひな)は統治めたまはん 賞賜(たまもの)はその手にあり はたらきの値はその前(みまへ)にあり 主は牧者のごとくその群をやしなひ その臂にて小羊をいだき之をその懐中(ふところ)にいれてたづさへ 乳をふくまする者をやはらかに導きたまはん ── イザヤ書四十章九〜十一節
神は常に「汝ら慰めよ」と命じ、聖霊なる慰め主を諸君に与え、「汝らの神来りたまえり」との福音を聞かしめたまいます。ただ今にても聖霊は私共の許に来り、未来においても神は必ず諸君の許に来りたまいますから、今晩、兄弟姉妹と共に主に対面せんとの希望を抱いてこの集会を開きとうございます。
先刻読み上げました『斯てヱホバの榮光あらはれ人みな共にこれを見ん』(五)という聖言は、この教役者会に集まる私共に与えたもうた約束でありましょう。神は常に豊かなる恵みを私共に与え、己が顔覆いを脱ぎ去りて輝ける栄光を顕わさんことを望みたまいます。ゆえにこのたびの教役者会においても、神は私共の上に聖霊の恵みを降したもうことと確信しております。されどもただいま読みました聖言のような神の栄光を見ようと思いますれば、『もろもろの谷はたかく もろもろの山と岡とはひくゝせられ 曲りたるはなほく』せられる(四)と記してあるごとくに、すべて神の栄光を見るに障害となるべきものを打ち棄てねばなりません。ちょうど、一銭銅貨をもって目を遮る時は太陽の光をも蔽い隠すがごとく、些細なる罪にてもしばしば神の栄光を蔽い隠すものであります。私共の過去の行為を省みまするならば、かく悲しむべき経験はありますまいか。実に銅貨一枚のごとき小さき罪により、或いはこの世に属ける僅かなる思念によりて、神の栄光を遮り暗くしたことはありませんか。どうぞかかる障害を悉く打ち棄てて神の栄光を見たいものであります。しからば神の栄光を見ることを妨げるものはいかなるものでありましょうか。
第一、罪悪であります。もし私共の心に汚れたる思念を抱き、私共の生涯に罪悪となる行為がありますならば、神の栄光を見ることができません。そうですからいま神の聖前に出て、各自の心を省み、日々の生涯を省みなければなりません。私共は一言一行神の聖旨に従い、朝から暮に至るまで日々神の聖旨を実行しておりますか。どうぞ公平な心をもって自分の実状を判断しなければなりません。もし私共の間に悪しき感情が蟠り、或いは高慢我欲の念がありますれば、神の栄光を見ることができません。人は多く、一方に肉に属けるものを楽しみながら、一方には霊の恵みを得たいと願います。けれどもこれは決して得るあたわざる不当の望みと言わねばなりません。空しき心をもって神の聖前に出なければなりません。兄弟姉妹よ、諸君はかかる赤誠をもって霊の恵みを求めることができますか。私共の往時を追想しまするならば、実に恥ずかしきことには、かかる恵みの座においてすらしばしば悪しき感情も起こり、争闘も生じましたことは、誠に怖るべき罪だと思います。神が一度潔めたもうたものを再び汚しますのは最も大いなる罪悪でありまして、神の重き刑罰を蒙らねばなりません。神が初代の教会を潔め、弟子等には非常なる能力を与えたもうて、神の栄光著しく顕れました時、アナニヤとサッピラの両人は僅かに数円の金銭を貪りまして、偽の献身をなし、神の栄光を汚しましたから、神は忽ちこれを罰し、即座に彼らを撃ち殺したまいました。しかるにその後、神の教会において彼らより甚だしき罪悪を犯す者が多くありますのに、未だかつてアナニヤやサッピラのような厳刑に処せられぬのは何故であるかと申すに、初代の教会においては神の特別なる祝福を蒙り、聖霊の栄光と能力の著しく顕れております時に、これを汚したからでありましょう。兄弟姉妹よ、どうぞ私共も一度潔められました神の教会を汚すことのなきよう、すべての罪悪を打ち棄て、これを全く撃ち殺して神の聖前に出たいものであります。オーストラリアの近海にフィジーと名付ける島がありますが、この島民は極めて残忍野蛮の民でありまして、常に争闘を好み、戦う時には互いに鬨の声を上げて殺戮をほしいままにし、惨状目も当てられぬ有様でありますが、鯨波にも二様の別がありまして、もし敵愾心が非常に盛んで仇怨の情がはなはだ激烈なる時は「アイバルサル」という鬨の声をつくって戦います。そしてこの時には啻に敵を撃ち殺すのみでなく、その首を粉微塵に砕いてしまうということであります。しかるにこの島にも熱心なる宣教師が渡り、聖霊の力ある働きによりてその伝道が大いに成功いたしました。或る時、悔い改めた土人が聖霊の恵みを熱心に証しました時、巧みに戦争の比喩を引用して申しまするには、私共が罪悪と称する仇敵と戦う時には、普通の鬨の声を揚げずに「アイバルサル」という鯨波を叫ばねばならんと語りました。その意味は、罪悪となるべきものは些少たりとも仮借することなく、全く撃ち殺さねばならんと申したのでありましょう。ただ今この集会に列られる兄弟姉妹よ、私共もこの説教者の教訓に従いとうございます。
第二、愛の欠乏であります。ペンテコステの時、百二十人の弟子たちが一所に集まりて聖霊の降臨を祈り求めました時、彼らは互いに心を合わせ、思いを一つにし、そのあいだ毫も怨恨嫉妬なく、反目離間なく、みな共に相愛し、相祈り、熱心に神の恵みを求めました。そのゆえに神も喜んで彼らの上に愛の聖霊を降したまいました。しかるに私共の中には、悲しいことにかかる愛と一致の精神が欠乏したために、しばしば神の恵みを妨げました。もし私共の間に反目嫉視、相和せざるようなことがありましては大いに神の恵みを妨げますから、かかることのなきよう充分気を付けなければなりません。私共はいま各自自分を顧みる時に、果たして兄弟を愛する愛がありますか。聖霊によって一心同体となっておりますか。水の乏しき痩せ地に草木を植えますと、枝や葉が変じて棘を生じますが、これと反対に、常は棘あるものもこれを水豊かなる肥たる地に植えますと、棘は自ら枝や葉に変じ、佳香のする美しい花を開くに至ります。ちょうどその通り、なぜ私共が他の兄弟姉妹に対して棘ある心を持ち、悪しき感情を抱くかと申せば、全く聖霊の水が乏しくして愛が足りないからであります。兄弟姉妹よ、私共はどうぞ聖霊の水を灌がれて心の棘を失い、一致和合して神の恵みを求めとうございます。
第三、神の聖旨に従うことを好まざることであります。私共が神の聖声を聞き、神の恵みを得ようと思いますならば、神の道を歩まねばなりません。また歩みたいと思う心を抱かねばなりません。私共がしばしば涙を流して神に叫び求めましても、毫も聖霊の恵みを受けることができず、私共の生涯が少しも変化しないわけは、神の道を歩むことを好まぬからであります。神は負うべき十字架を諸君に示し、歩むべき道を諸君に教えたまいましょう。諸君の周囲には、罪悪に沈んで滅亡の巷に彷徨い、神を離れ人に捨てられ、憐れむべき有様の中に苦しみ、未だ福音を聞いたことのない幾多の人々がありましょう。神がもし諸君にかような人々と交わり福音を伝えるべきことを命じたもうならば、喜んで自分の名誉や地位や権利を打ち棄て、全く己を殺して主のご命令に服従しなければなりません。これがすなわち主が一度歩みたもうた道でありまして、主は賤しき罪人のために己を捨て、諸君の負うべき十字架を示したまいました。しかるに諸君はかかる道を教えられながら、やはり自分の好むところを捨てず、旧来の行為を改めようとはせず、主の命じたもうた十字架を拒んでこれを負うことを好まぬがごときことはありませんか。神がもし新たなる道を教えたまいました時には、私共は神の聖旨に適わざるすべてのものを一切投げ捨てて、ただ神の道を歩みとうございます。
第四、人に眼を付けることであります。これはこんな集会において生ずる一大危険であります。もし人に眼を注ぎ、神を見ることがありませんならば、たとえばかの人の話には耳を傾けるけれどもこの人には注意せぬというつもりでは、決して神の恵みを受けることはできません。昔、神は堅き巌を打ち砕きて、イスラエルの民に水を与えたまいましたごとく、神は聖書に基づいて語る兄弟の口より活ける水を与えたまいます。そのゆえに、集会に出席する時にはただ神に対面せんとの希望を抱いて集まることが必要であります。またかような希望があれば、集会に出ない時でも、独り密室に退き神と共に静かなる交通をせねばなりません。諸君はこの集会に集まられる時のみ神のことを考え、旅宿に帰りては徒に世の中の空談雑話に時を移して、一度得たる恵みをも失ったようなことはありませんか。どうかこの三日の間、祈禱をもって送りたいものであります。一体、集会に集まった時は神の恵みを受けるに最も適当な時ではありません。かえって独り神と交わる時こそ、最も神より祝せられる時であります。私は英国におりました時、しばしばケズィック・コンベンションに出ました。かしこは実に聖霊に満たされた熱心なる人々が多く集まるところでありますから、非常に盛大な集会も開かれ、熱心なる説教を聞きまして大いなる恵みを蒙りましたけれども、しかし私の心霊上において非常なる恵みを受けました時は、むしろかかる公会よりも、自分の密室に退き、独り聖書を繙き、静かに神に交わった時でありました。愛する兄弟姉妹よ、私は諸君を愛する赤誠より勧めますが、今は実に諸君の心霊にとっては危急存亡の時(クライシス)でありますから、常に感謝と祈禱をもって神とお交わりなさい。かくして神の御前に出ますならば、神の聖旨を動かし、大いなる祝福を蒙るに至りましょう。
終わりにひとこと申し上げたいのは、各自自分の実状を知ることであります。これは最も幸福なることであって、また最も困難なことであります。かつて英国に或る熱心なる牧師がありましたが、この人は人の眼から見ました時には実に熱心なる牧師でありまして、その働きも著しき結果を生じ、多くの罪人が悔い改めましたから、牧師も心密かに満足しておりました。或る時、疲労のあまり覚えず椅子に倚って坐睡しておりました時、忽然、秤量や尺度や化学器械を持った見知らぬ人が牧師の許に近づいてきまして、「足下の熱心を我に示せ、我これを分析せん」と申しました。牧師は大いに喜んで、自分の熱心を取り出して分析を乞いました。しかるに夢の中にて、その熱心が一つの結晶体のごときものでありましたから、その人は分析の結果を以下のごとく書き下して牧師に与えました。
栄光の位を望む候補者の熱心の分析表
総量百ポンドのうち
凝り固まり‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥十
野心‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥二十三
好誉心‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥十九
宗派の自慢‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥十五
才知の自慢‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥十四
権勢を貪る心‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥十二
正味の熱心‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥七
神を愛する心‥‥‥四
人を愛する心‥‥‥三
どうぞ私共の心も神の分析を受け、深く心の奥を探られ、もし隠れたる罪がありますならば神の曇りなき光明に照らされてこれを示されるように願います。たとえこれがために私共の熱心の正味は僅かに百分の七のみになりましても、その真正の状態を示されることが最も必要であります。
私共が罪の世に住み、汚れたる肉を持ちながら神の栄光を見ることを得るのは、この上もない幸福なことでありますから、どうぞ私共はすべての障害を取り除き、信仰をもって神の聖前に出てかかる恵みを待ち望みとうございます。
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