癒えんことを願うや 


 
 この後ユダヤ人の祭ありて、イエス、エルサレムに上り給ふ。エルサレムにある羊門のほとりにヘブル語にてベテスダといふ池あり、之にそひて五つの廊あり。その内に病める者、盲人(めしひ)、跛者(あしなへ)、痩せ衰へたる者ども夥多しく臥しゐたり。(水の動くを待てるなり。それは御使のをりをり降りて水を動かすことあれば、その動きたるのち最先(いやさき)に池にいる者は、如何なる病にても癒ゆる故なり)爰に三十八年、病になやむ人ありしが、イエスその臥し居るを見、かつその病の久しきを知り、之に「なんぢ癒えんことを願ふか」と言ひ給へば、病める者こたふ「主よ、水の動くとき、我を池に入るる者なし、我が往くほどに他の人、さきだち下るなり」イエス言ひ給ふ「起きよ、床を取りあげて步め」この人ただちに癒え、床を取りあげて步めり。── ヨハネ傳五章一〜九節


 『我を池に入るる者なし』(七)とは、今の罪人の叫び声であると思います。私共はこのベテスダの有様を考えますならば、サタンの働きを明らかに見ることができます。神の愛の働きを見とうございまするならば、創世記二章の天国の有様をご覧なさい。愛と喜楽に充ちております。サタンの働きを見とうございまするならばベテスダの池の辺をご覧なさい。病に悩める者ばかりです。今この世の模様はどうですか。サタンの疵を受け、サタンの毒を受け、サタンの病を受けました者ばかりではありませんか。病者、跛者、瞽者、また衰えたる者など、多く臥しおるではありませんか。
 けれども今日は幸いに、病人の真中に病を癒す力ある救い主を見ます。天の王は病める者の中に降りたもうてこれを癒したまいます。実に大いなる幸福ではありませんか。けれども私共はただいま他のことを考えたくありません。ただ自分のことのみを考えとうございます。この部屋はどうですか。ここにもまたベテスダの池の有様を見ませんか。ここには心の病める者、心の弱い者、心の衰えたる者はありませんか。私は愛する兄弟姉妹を判断したくはありません。ただ自分の心を判断いたしとうございます。いま霊の眼を開きますならば、ここにもまたベテスダの有様を見ると思います。その時はちょうどエルサレムの大いなる節筵の日でしたから、健やかなる人は神の宮殿に上り、神を讃美し、歓喜をもって神に犠牲を捧げ、そして神の言を聴いておりました。けれども山の麓にあるベテスダの池の辺に伏している者は、神の聖き宮殿に上り、この喜ばしき節筵に与り、犠牲を捧げ神を讃美することはできません。かえってその下にあるベテスダの池に伏しておらねばなりません。兄弟姉妹よ、どうぞこの話によりてとくと自分の有様を考えとうございます。神は私共のために主イエスの十字架によりて節筵を与えたまいますから、私共は絶えず神を讃美するはずです。歓喜をもって至聖所にあるはずです。実に私共は天に昇るべき身分であります。神は私共にこのような特権を与えたまいました。今は恵みの時、救いの日であります。歓喜をもって、勝利をもって神を讃美するはずであります。けれども実際の有様を見ますれば、宮殿に上りて神を讃美する代わりに、ベテスダの池の辺に伏しておらねばなりません。宮殿に上る力もなく、神を讃美する力もなく、ただ心の病のためにそこに伏しておらねばなりません。
 兄弟姉妹よ、私共はしばしば目を閉じて自分の真正の模様を知らずには、満足を得ることのできない御方はありませんか。或いは説教することはできましょう。伝道することもできましょう。けれども家庭の裡で時々刻々の小さいことにおいて跛ではありませんか。或いは気の短いこととか、或いは心の鈍いこととか、または愛の足らないこととかで跛ではありませんか。どうですか。或いはまた瞽で全く見ることのできない御方はありませんか。或いは他人の過失をよく見ることはできましょう。けれども自分の過失を見ることができませんならば瞽です。聖書を開きまするときは、神の深い愛のために溶くるばかりの思いをなすはずであると思います。けれども私共は瞽たるために、始終その経験を持つことができません。どうですか。私共はまた瞽たるために、この世の中に顕れたる神の栄光を見ることができません。私共は日々見るところのすべての事物、或いは山、或いは谷、或いは太陽、或いは星などによって、神の能力とその存在とが解るはずです。けれども瞽たる者はそれを見ることができません。近いところならば瞽でも手で触ることができます。けれども遠いところになりますれば少しも解ることができません。どうですか。私共もそのとおりに瞽たる者ではないでしょうか。ただいまの時ばかりは分かりますが、遠いところまで見えますか。主の再臨まで見えますか。新しきエルサレムまで見えますか。もしそれを見ることができませんならば瞽です。今晩ここに衰えたる者はありませんか。罪人を導く力のない者、たびたび世に負ける者、たびたび肉欲に負ける者、たびたび他事によって負ける衰えたる者はありませんか。どうですか。
 兄弟姉妹よ、私共は神に造られたる者であります。神の大切なる者であります。生まれかわりました私共は神の栄光を顕すはずです。けれどもかように不具なる者でありまするならば、とうてい神の栄光を顕すことはできません。神の聖意を喜ばすことはできません。或る大いなる会堂には壱千円もするピアノが置いてあります。そのピアノの前面にはそれを造った人の名前を金文字で録してあります。その名を見まするならば、そのピアノは必ず美しい音を出し、人々を喜ばすはずであります。けれどもそれを奏してみるときに、或る節は真正の音を出しませずして悪しき音を出し、また或る節は全く音を出しませんならば、いかほど不愉快でありましょうか。兄弟姉妹よ、あなたがたの中にこのピアノのような御方はありませんか。あなたがたは神より新たに造られたる者であります。そうですから神の耳に絶えず美しき音楽を奏するはずです。天の使いの耳にいつでも美しき音楽が響くはずです。私共の行為、私共の言語、私共の生涯は、神にいつでも美しき音楽であるはずです。しかし実際の有様はどうですか。或る節は悪しき音が出ませんか。愛の節はどうですか。愛の節の代わりに嫉みの音が出ませんか。熱心の節はどうですか。たびたび黙っておりませんか。信仰の節はどうですか。服従の節はどうですか。兄弟よ、そのピアノがぜひ美しき音を出すはずであるのに出ませんのは、その器械に損じたるところがあるからであります。あなたがたも神に造られたる者ですから絶えず美しき音の出るはずであるのに出ませんのは、やはり損じたところがあるからであります。けれどもそのピアノの器械を直すことができます。あなたがたの損じたるところをやはり直すことができます。幸いではありませんか。私共の心を癒すことができます。ベテスダの池の中に立ちたもう主イエスをご覧なさい。主は、病のためにその辺に伏しているすべての者を癒す力を持っていたまいます。主はその人々に全癒を与えたもうことができます。今晩同じ救い主は私共の真中に立ちたまいます。『我は復活(よみがへり)なり、生命(いのち)なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん』(ヨハネ十一・二十五)。主はただ王の王たる力を持ちたもうのみならず、『我は復活なり、生命なり』と仰せたまいます。これは実に幸いなることではありませんか。主を信ずる者は死ぬるとも生きます。水はものを潤します。ものを潤すのが水の性質です。火は必ずものを焼きますから、いかほど汚れたるものでも潔めます。また光を放ちますから、どのような暗いところでも火を投げ入れまするならば闇を追い出します。これが火の性質です。その通りに何ものでもその性質に適う働きのあるのは当然です。主イエスの性質は何でありますかならば復活です。生命です。これは幸いではありませんか。主は実にその時にベテスダの池の辺に伏している人々の復活でした。けれども人々は主を拒んで、その癒されることを信じませなんだから、ことごとく癒されることができませんでした。もしもすべての人が信じて受け入れましたならば残らず癒されたでありましょう。『我は復活なり、生命なり』。これは真に幸いなることであります。どうか私共は今晩その復活に与ることを希望いたします。
 英国に一人の牧師がありました。熱心なる人でしたが、気が短くてよく怒る癖がありましたから、そのために常に心を痛めておりました。いつでも怒った後で涙を流して神に赦しを願いました。けれどもその癖が直りませんから幾度も同じ罪を犯しておりました。或る時に、この罪を強く犯しました後で、自分の部屋に帰り非常に苦しみまして、啻に罪の赦しのみならず、心が潔められ怒る癖の取り除かれることを熱心に神に求めました。しかるにその夜ひとつの夢を見ました。それは、自分の部屋に主イエスが来りたもうはずであります。そして部屋を見ましたときに、大変汚いものですから、主が来りたもうまでに掃除をせねばならぬと思いまして、箒をもって掃き始めました。けれどもどういうわけですか、掃けば掃くほど塵が立って、なお汚くなりました。その間に主は来りたもうて入ることを求めたまいますから、非常に焦りましたが少しも甲斐がありません。ついに入りたもうて、我は汝に聖き水を注ぎて汝の部屋の汚れを潔めんと言いたまいました。そして部屋が全く潔められたという夢でした。翌朝目が覚めまして、今までは自分の力をもって心を潔めんともがきましてもできなかったのが、ただ主イエスが心の中に来りたもうならば全く潔められることを悟り、実に平和を得、喜び勇んで、朝飯の時に自分の息子にもそのことを話し、潔めの道を悟ったことを語りました。息子も非常に心を刺されまして、父の入った同じ道に自分も入ることを願いました。そして一緒に神の聖前に跪いて、主が心の中に来りたもうことによって父と同じ潔めを得んことを求めました。
 兄弟姉妹よ、主は甦りなり、生命なり、主は癒しなり。主がこのベテスダの池に来りたまいました時に、その池に伏している病人はことごとく主を知っていたかも分かりません。けれども癒される信仰がありませなんだから残らず癒されることができませなんだ。それと同じく、今晩主がこのところに在したもうても信仰がありませんならば、心の癒されることはできません。主はサタンの働きのために汚れと罪に充ちているこの天地を潔めて、未来において新天新地を造りたもう御方であります(黙示録二十一章)。そうですから今でもあなたがたの小さい心を潔めたもうことができます。この世界は六千年の間サタンの領分でありまして、サタンとその部下はここに働いて勝利の戦争をいたしました。けれども、主イエスは再臨の時にご自分を顕したもうことによって、この世界を潔め、新しき天地を造りたまいます。ここに主はご自分のために備え所を造りたまいます。そうですから、あなたの心よりサタンの毒を追い出したもうことができます。『主イエス御口の氣息(いき)をもて彼を殺し、降臨の輝耀(かゞやき)をもて彼を亡し給はん』(テサロニケ後書二・八)。あなたの心の中に新しき天地を造りたもうことができます。ハレルヤ。
 どうぞ主を見上げなさい。ただ主イエスを見上げなさい。あなたの心を癒さんがためにここに立ちたもう主イエスを見上げなさい。その時にベテスダの池の辺に伏している者が皆々主を見上げましたならば、皆々主に癒されたでありましょう。主は一番難しい病に罹っている者に会いたもうて、その病の久しきを知り、癒えんことを願うやと仰せたまいました。私共はどうですか。この人は三十八年間も患いましたが、十四節を見まするとこれは自分の罪の結果でありました。実に難しい病で、ただそのままに残る生涯を終えるのほか、もはやほとんど望みがありませなんだ。実に難しい病でした。三十八年のあいだ汚れのために苦しみ衰えておりました。それほどの病人です。それほどの病人でも主イエスは癒したもうことができます。それほどの難しい病でも主イエスは癒したもうことができます。私共も心の病を治し、汚れを潔めることができませんで、そのために三十八年間も長い間苦しみ衰えておりましても、主イエスは癒したもうことができます。主の栄光はサタンを追い出すことができます。主は実にその権能をもってこの世に降りたまいました。主の栄光は罪人を救うことができます。罪人の心よりサタンの毒を追い出すことは主イエスの栄光です。おお三十八年間患っていた病人をも主は癒したもうことができます。主は癒えんことを願うやと仰せたまいます。おお、どうですか、主は癒えんことを願うやと仰せたまいます。私共は何を癒されんことを願いますか、心の苦しき病ですか、主はそれを癒したまいます。人に打ち明けて告げられぬ心の痛みですか、主はそれを癒したまいます。心の中に誇り、欲などの己の残ってあることを癒されんことを願いますか、主はそれを癒したまいます。おお、三十八年も患っていた病人に主は癒えんことを願うやと仰せたまいました。この人は主の意味を解ることができませなんだ。けれども主はまた「起きて歩め」と命じたまいました。そしてその言葉と同時に力を与えたまいました。「起きて歩め」、これが造化の主の命令です。それは力ある言葉です。主はご自分の言葉を出したまいました時にこの天地は造られました。太陽も星も主の言葉によって造られました。いま同じ力ある言葉によって起きて歩めと命じたまいます。潔くなれと命じたまいます。それ神には能わざるところはありません。必ずサタンの業に対して能わざるところなき不思議なる力を施したまいます。潔くなれと命じたまいますならば潔くなることができます。兄弟よ、あなたは今晩このところで潔くなることができます。どうか信仰をもって甦りの力をお受けなさい。今まで心の中に、幾分か癒されるだろうという望みの分子があったかも分かりません。いつかは癒されるだろうという望みの分子があったかも分かりません。けれどもそのような望みの代わりに、ただいまという信仰がなければなりません。神はただいまの信仰を求めたまいます。いつかは癒されるだろうという曖昧の望みは少しも役に立ちません。いつかはというような未来における曖昧の信仰は少しも役に立ちません。今晩癒されるという信仰がありまするならば今晩癒されます。兄弟姉妹よ、主の力をお信じなさい。主の癒しの力をお信じなさい。主は今晩あなたがたを癒したまいます。ただいまあなたがたを癒したまいます。おお、癒えんことを願うや。その人は床を取りあげて帰りました。喜んで主の力を言い表しました。今まで泥の中に伏しておった有様を告げて、主に癒される喜悦を感謝しました。今晩あなたがたもこのように癒されまして、神を讃美することは幸いであると思います。その時にベテスダの池の辺に伏している者もたくさん癒されずにそのままにおりましたように、もしあなたがたもただ心に励まされたるだけにて癒されずに帰りまして、家族の前で、今日は実に喜ばしきことがあった、主ご自身が一、二の衰えたる病人を急に癒したもうた、実に幸いであった、とお話しなされまする時に、あなたはどうですか。あなたは癒しを受けましたか、と問われまするならばどうですか。いいえ、私は癒されませんと言いますか。何故です。主はあなたを癒すことを惜しみたまいますか。いいえ、そういうわけはありません。主はあなたでも私でも誰でも、最も衰えたる者でも癒すことを惜しみたまいません。また癒す力を持っていたまいます。それならば何故あなたは癒されずに家に帰りましたか、と問い返されまするならばどうですか。兄弟姉妹よ、どうですか、何故ですか。主は今晩力をもってここにいたまいます。救いの力、癒しの力、甦りの力をもってここにいたまいます。あなたがたの心の中に新しき天地を造る力をもってここにいたまいます。そうですから癒えんことを願うや。おお、癒えんことを願いませんか。
 


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