生命の水の河 


 
 斯てかれ我を室(いえ)の門に携へかへりしが 室の閾(しきみ)の下より水の東の方に流れ出(いづ)るあり 室の面(おもて)は東にむかひをり その水下より出て室の右の方よりして壇の南より流れ下る 彼北の門の路(みち)より我を携へいだして外面(そと)をまはらしめ東にむかふ外の門にいたらしむるに 水門の右の方より流れ出づ
 その人東に進み手に度繩(はかりなは)を持て一千キユビトを度り 我に水をわたらしむるに水踝骨(くるぶし)までにおよぶ 彼また一千を度り我を渉(わた)らしむるに水膝にまでおよぶ 而してまた一千を度り我を渉らしむるに水腰にまで及ぶ 彼また一千を度るに早わが渉るあたはざる河となり水高くして泅(およ)ぐほどの水となり徒涉(かちわたり)すべからざる河とはなりぬ
 彼われに言けるは 人の子よ 汝これを見とめたるやと 乃ち河の岸に沿て我を將(ひき)かへれり 我歸るに河の岸の此方彼方に甚だ衆多(おほく)の樹々生ひ立るあり 彼われに言ふ この水東の境に流れゆきアラバにおち下りて海に入る 是海に入ればその水すなはち醫ゆ 凡そ此河の往ところには諸(もろもろ)の動くところの生物(いきもの)みな生ん 又甚だ衆多の魚あるべし 此水到るところにて醫すことをなせばなり 此河のいたる處にては物みな生べきなり 漁者(すなどるもの)その傍に立ん エンゲデよりエネグライムまでは網を張る處となるべし その魚はその類にしたがひて大海の魚のごとく甚だ多からん 但しその澤地(さは)と濕地(ぬま)とは愈(いゆ)ることあらずして鹽地(しほち)となりをるべし ── エゼキエル書四十七章一〜十一節


 『人の子よ 汝これを見とめたるや』、神は今晩諸君に向かいこの問いを尋ねたまいます。すなわち神の聖位より流れ出ずる聖霊の活ける水を認めたるやと尋ねたもうのであります。私共はすでに十字架の下に至り、血を流し肉を裂きたまいし主を見上げ、これによりて罪の赦しを蒙り、救いの喜悦を味わい、永生の賜物を授けられた神の子供となることができました。これは実に幸いなことであります。けれどもかく十字架上のイエスを認めた者の中にも、未だ神の聖位より流れ出ずる聖霊の水を認めない人が多くあることは、実に悲しむべきことであります。どうぞ神が私共の霊の眼を開きたもうてペンテコステに溢れ出でた聖霊の河を見せしめたまわんことを祈りとうございます。
 さて、ただいま諸君と共に、エゼキエルの見ましたこの河について研究してみたいと思います。まず一節に『斯てかれ我を室の門に携へかへりしが室の閾の下より水の東の方に流れ出るあり 室の面は東にむかひをりその水下より出て室の右の方よりして壇の南より流れ下る』とありますが、この『室の門』というのはすなわちイエス・キリストのことであると思います。私共はひとたびこの門に来まして、永生を得、天国へ入りうる者となりましたが、聖霊はふたたび私共を導いてこの門に携え帰り、さらにまた主の足許に伏さしめたまいます。
 私共が聖霊を受けますのも、まずイエスなるこの門より受けるのであります。かのペテロがペンテコステの時に聖霊の証を人々の前に立てました時にも、その説教の眼目は神の子なる主イエスでありまして、彼はイスラエルの民をしてイエスの門に帰らしめ、聖霊の賜物を得させようと努めました。
 次にこの河は『壇より南に流れ下る』と記されてありますが、この壇とはイエスの十字架を指すものであります。主イエスは聖霊を賜物を私共に与えんがために十字架に上りたまいました。使徒ペテロも、聖霊のバプテスマを受けました時に、まず主イエスの十字架の説教を致しました。すなわち主の血の滴る十字架の下より聖霊の水は流れ出ずるものであります。そうですから私共のために十字架に懸かり、私共の罪悪の重荷を負い、全き贖いとなりたもうた主イエスをご覧なさい。主イエスは私共を罪悪の汚れより贖い出して、純潔無垢なる天使のごとく取り扱われるようになしたまいましたから、ここに初めてペンテコステのごとき聖霊を受けることができるのであります。
 次に『東にむかふ外の門にいたらしむるに水門の右の方より流れ出づ』(二)と記されてありますが、四十四章一節二節(斯て彼我を引て聖所(きよきところ)の東向なる外の門の路にかへるに門は閉てあり ヱホバすなはち我に言たまひけるは 此門は閉おくべし 開くべからず 此(こゝ)より誰も入るべからず イスラエルの神ヱホバ此より入たれば是は閉おくべきなり)を参照しますれば、この門は主が昇天なしたまいし際、天国に入りたもうた門でありまして、壇の南と同じ所であります。イスラエルの神なる主がこの門を過ぎて天国に入りたまいましたゆえに、主は聖霊を灌ぎたもうことができるのであります。聖霊の河もこの門より流れ出ずるのであります。そうですから私共はどうぞ、死に勝ち悪魔に勝ち凱旋の声と共に天に昇りたまいし主を見なければなりません。
 次に『室の右の方』とありますが、この室とは天国の記号であります。なぜそうかと申しますれば、室の右にある壇は主イエスの模型であります。しかるに使徒行伝二章三十三節に『イエスは神の右に擧げられ、約束の聖靈を父より受けて汝らの見聞する此のものを注ぎ給ひしなり』とあるのを見ますれば、この室はイエスが右に位するものでありますから、神の聖位の意味でありましょう。換言しまするならば神の聖位の右、すなわちイエスの許より、聖霊の河が流れ出ずるのであります。かく主イエスは既に神の聖位に即き父なる神より全能なる力を得たもうて、すべての権威と能力をもって神の国を統べ治めたまいますから、主は自由にこの聖霊を注ぎたまいます。兄弟よ、毫も怖れを抱き疑念を挟むに及びません。主は全能なる力をもっていかに堅き心をも打ち砕き、諸君に勝利を与えたまいますから、すべての権威と勢力を有ちたもう主よりどうぞ聖霊の賜物をお受けなさい。
 それならばいかにして聖霊なる河に達することができましょうか。
 『室の閾の下より水の東の方に流れ出るあり』(一)。この閾は、四十六章一節二節に『主ヱホバかく言たまふ 内庭の東向の門は事務(わざ)をなすところの六日の間は閉ぢ置き安息日にこれを開き又月朔(ついたち)にこれを開くべし 君たる者は外より門の廊の路をとほりて入り門の柱の傍に立つべし 祭司等その時かれの爲に燔祭と酬恩祭を備ふべし 彼は門の閾において禮拜(おがみ)をなして出べし 但し門は暮まで閉べからず』と記してあるものと同一で、すなわちこの閾は東向きの門であります。この閾より入りし者は神を拝することができました。しかしてこの閾より入りし君とあるはすなわち主イエスのことでありますから、この閾は主が肉体を備えたまいました際、神を拝したもうたことを示すものでありましょう。しかるに、主が肉体を備えたまいし際、神を拝したもうたのは、全く祈禱でありましたから、閾の意味は祈禱を指すものでありましょう。その閾の下より聖霊の水が流れ出ずるとありますから、この意味全体を総括いたしますれば、聖霊を得るには祈禱と称する閾に由らねばならないことが解りましょう。諸君がもし四福音書を繙いてイエス・キリストの御生涯を研究なさるならば、或いは独り人なきところに退いて終夜神に祈り、或いは朝早く神殿に入りて静かに神と交わりたもうたことを見なさるでありましょう。主ですらかく神に祈りたまいましたならば、まして私共は常に神と交わらねばなりますまい。もし主と共に主の祈りたまいし所に至りて祈り求めまするならば、必ず主の受けたまいし聖霊を受けることができましょう。『人の子よ汝これを見とめたるや』。諸君はこれを認めなさいましたか。
 『彼北の門の路より我を携へいだして外面をまはらしめ東にむかふ外の門にいたらしむるに 水門の右の方より流れ出づ』(二)。次に、この河に達しようと思いまするならば、エゼキエルと共に北の門に至らねばなりません。『北の門』とは死の意味であります。この河に達しようと思いますならば、まず己に死に、名誉に死に、この世に死ななければなりません。また『外を回らしめ』。これはヘブル書十三章十二節に『この故にイエスも己が血をもて民を潔めんが爲に、門の外にて苦難(くるしみ)を受け給へり』とありますように、全く世人の嘲笑軽蔑を甘んじて受ける意味でありましょう。諸君はかく主と共に囲いの外に出て、主と共に嘲られ、主と共に譏られることができますか。もし聖霊の河に至ろうと願いますならば、この外の道を歩まねばなりません。しかしまたこの道は『東にむかふ外の門にいたらしむ』とあります。これはこの道は望みの道であることを示すものでありましょう。毎朝東の空を眺めて日の出を待ち望むように新しき望みをもってこの河に至らねばなりません。ペンテコステの時に、弟子等は主の堅き約束を信じ、その成就せられることを望んで祈り求めましたから、聖霊の賜物を得ることができました。そうですから聖霊を受ける道は望みの道であります。諸君がもし新しき恵みを受け、新しき十字架を示され、新しき命令を伝えられることを望んでおられますならば、必ずこの賜物を受けることができましょう。
 ここよりエゼキエルは四度この河を渉りましたが、これはキリスト信者の経験すべき四つの階段であります。
 第一、『その人東に進み手に度繩を持て一千キユビトを度り我に水をわたらしむるに水踝骨にまでおよぶ』(三)。これは『もし我ら御靈に由りて生きなば、御靈に由りて歩むべし』(ガラテヤ書五・二十五)と記してあるごとくに、聖霊によって歩むことでありまして、言葉も行いも悉く聖霊の導きに従い、すべての罪悪を捨て、聖き生涯を送ることであります。諸君はかかる経験を味わわれましたか。これは信徒たる者が聖潔の生涯において有する第一の経験でありまして、ヨハネ伝十三章にイエスが弟子等の足を洗いましたように、聖霊の水をもって足を洗われました者は幸福なことであります。けれどもこれはただ聖潔の生涯における端緒であります。もしこのような恵みだけで充分であると思う者は、あたかも小児が浜の水辺に戯れて、未だ深い大洋のあることを知らないのと同じことであります。もちろん、聖霊によりて歩むことは聖霊を受けし後のことでありますけれども、これをもって甘んずることなく、浅き磯辺を行き越して、いよいよ大洋の深きに進み、神の愛の深さ広さを究めなければなりません。
 第二、『彼また一千を度り我を渉らしむるに水膝にまでおよぶ』(四)。膝は祈禱を表すものでありまして、聖霊に感じて祈る祈禱であります。私共はかかる恵みの程度に達しておりますか。聖霊に感じて祈ることができますか。アブラハムが遙かにソドム、ゴモラの邑を望み見ました時に、聖霊に感じて熱き祈禱を捧げました。エリヤは三年の間雨が降らなかった時、カルメル山の頂に登り、神の聖前に跪きて熱禱を捧げましたが、神はただちに彼の祈りに応えて雨を降らしめたまいました。私共もアブラハムのごとく、滅亡の巷に彷徨う罪人のために祈り、エリヤのごとく、聖霊の大雨が降って渇ける多くの霊魂に活ける水を与えられんがために祈ることができますか。ヤコブは怒れる兄に対面せんとする時、非常に恐怖を抱いていましたが、彼は聖霊の水に浸しし膝を曲げて神に祈り求めましたから、大いなる力を受け、満腔の熱愛をもって兄に接することができました。これは彼が神と人とに勝ちを奏したのであります。ブレーナードと称する宣教師は、北アメリカの野蛮人の間に身を投じ、非常なる熱心をもってアメリカ・インディアンに伝道いたしましたが、この地の土人ははなはだ蒙昧頑固で、長い間力を尽くしましたがその効果が現れませなんだけれども、彼は少しも失望落胆することなく、また非常なる祈禱の力を持っていました。寒い風が膚を裂くような冬の頃、終夜神の聖前に跪いて、土人の救われんがために祈り求めました。時としてはたくさんの雪が積もって身を埋めるようなことがありましても、熱心のあまり氷雪の寒さを忘れ、かえって汗を出して衣服を濡らすことがありました。私共もこんな赤誠熱血を濺いで罪人のために祈ったことがありますか。或いは私共は未だ祈禱の道を知りますまい。己の力によりてかかる祈禱を捧げることはできませんけれども、もし聖霊の河を見まするならば、神の力によりてこれをなすことができるようになります。
 第三、『而してまた一千を度り我を渉らしむるに水腰にまで及ぶ』(四)。腰は人の力を表すものでありまして、すなわち神と人との前に善く戦のできる兵士らしき信者を指すものであります。キリスト信者と称せられる人の中にも、その能力はなはだ弱くして、毫も肉と戦い悪魔と戦い人と戦うことのできない者があります。しかしまた常にこれらのものと戦って勝利を得る者もあります。かかる人は聖霊によって腰の力を得たのであります。『我らは血肉と戰ふにあらず、政治(まつりごと)・權威、この世の暗黒(くらき)を掌(つかさ)どるもの、天の處にある惡の靈と戰ふなり』(エペソ書六・十二)。これが私共の戦うべき強敵でありますから、私共もまた非常なる能力を得なければなりません。されどももし聖霊の水をもって腰を浸されますならば、すべての戦に勝ちを奏し、主の命じたもう十字架を負い、患難困苦を忍ぶことができるのであります。しかるに、ちょっとした困苦に遭えば忽ち失望し、僅かな迫害を受ければただちに怖れ、少しばかりの誘惑に会えばただちに罪を犯すようなことはありませんか。もしかかる境遇におる兄弟姉妹がありますならば、どうか聖霊の水を見、その力をご覧なさい。これが戦に勝ち患難に耐え得る力であります。『人の子よ 汝これを見とめたるや』。
 今まで申しましたように、聖霊の賜物を得ましても、或いは聖き生涯を送り、或いは力ある祈禱をなし、或いは戦に勝ち得る能力を得ることは、実に幸福なことでありますけれども、私共はこれのみをもって決して満足してはなりません。
 第四、『彼また一千を度るに早わが渉るあたはざる河となり水高くして泅ぐほどの水となり徒涉すべからざる河とはなりぬ』(五)。これまでは徒渡りすることができましたが、もはや川に沈んで泳いで行くものとなりました。これは聖霊のバプテスマであります。すなわち自分を全く神に沈めて、自分の力でなくただ聖霊ご自身であります。そしてついに神の愛の大海に流れ行きまして、神ご自身の大いさを認め、神に満てるものをもって己を満たされるようになるのであります。これがペンテコステにおける弟子等の経験でありました。またこれがパウロの経験でありました。
 終わりに『彼われに言ふ この水東の境に流れゆきアラバにおち下りて海に入る』(八)。私共もかくこの河の流れるままに流れ行きますならば、いよいよ神と人とに近づきまして、聖霊は私共を導いて霊魂の満足なき渇ける者や、世人に軽蔑されし者の許に伴い行き、神と人とのために喜んで生涯を送る者となしたまいます。これはただ想像でも譬えでもなく、明らかなる事実であります。
 『彼われに言けるは 人の子よ 汝これを見とめたるやと 乃ち河の岸の沿て我を將かへれり』(六)。兄弟姉妹よ、私共も今晩この河の岸に立っておりますが、あなたがたはどうか断然意を決してこの河に飛び込み、己を全く河の中に沈め、聖霊に由りて生くる幸福なる生涯に進みなさるようにお勧め申します。
 


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