エゼキエル書三十六章を見まするならば、神はどうして私共の心の中に霊を働かせたもうかを見ます。三十七章を見まするならば、どうして神は私共によってほかの人々の心の中に霊を働かせたもうかを見ます。三十六章の結果は潔めです。三十七章の結果は甦りです。罪人に新しい生命を与えることです。
爰にヱホバの手我に臨み ヱホバ我をして靈にて出行(いでゆか)しめ 谷の中に我を放(おき)賜ふ 其處には骨充てり 彼その周圍(まはり)に我をひきめぐりたまふに谷の表には骨はなはだ多くあり皆はなはだ枯たり 彼われに言たまひけるは 人の子よ 是等の骨は生(いく)るや 我言ふ 主ヱホバよ 汝知たまふ 彼我に言たまふ 是等の骨に預言し之に言べし 枯たる骨よ ヱホバの言を聞け 主ヱホバ是らの骨に斯言たまふ 視よ 我汝らの中(うち)に氣息(いき)を入しめて汝等を生しめん 我筋を汝らの上に作り肉を汝らの上に生ぜしめ皮をもて汝らを蔽ひ氣息を汝らの中に與へて汝らを生しめん 汝ら我がヱホバなるを知ん
我命ぜられしごとく預言しけるが 我が預言する時に音あり 骨うごきて骨と骨あひ聯る 我見しに 筋その上に出(いで)きたり肉生じ皮上よりこれを蔽ひしが氣息その中にあらず 彼また我に言たまひけるは 人の子よ 氣息に預言せよ 人の子よ 預言して氣息に言へ 主ヱホバかく言たまふ 氣息よ 汝四方の風より來り此殺されし者等(ものども)の上に呼吸(いきふ)きて是を生しめよ 我命ぜられしごとく預言せしかば氣息これに入て皆生きその足に立ち甚だ多くの群衆となれり ── エゼキエル書三十七章一〜十節
私共の働きも同じことです。私共の事業は枯れたる骨に生命を与えることです。それを考えまするならば、自分の力では決してできません。私共はその力を何処から得ることができましょうか。『爰にヱホバの手我に臨みヱホバ我をして靈にて出行しめ谷の中に我を放賜ふ 其處には骨充てり』(一)。エゼキエルは神の手に触れしを覚えて、骨のために出で行きました。私共もそんな感情をもって働きに出ますならば、必ず骨を甦らすことができます。『ヱホバの手我に臨み』、『ヱホバの手』とは何でありますかならば霊です。霊はエゼキエルの上に留まりたまいました。またエゼキエルは霊に従って谷に参りました。『我をして靈にて出行しめ』。そうですから私共は霊に感じ、霊に導かれて出でまするならば、この世の真正の有様を見ることができます。
当時、エゼキエルの時代には或いは智慧のある者もありました。或いは立派なる人もありました。義人もたくさんありました。宗教に熱心なる人も多くありました。けれどもエゼキエルは霊の眼をもってそれを見ました時に、みな枯れたる骨に見えました。肉の眼をもって見まするならば立派なる有様を見ることができたでしょう。位の高い者もあり、学問の優れたる者もあり、種々の善いことも社会の表面に行われておりました。けれども霊の眼をもって見ました時に、ただ枯れたる骨ばかりでした。兄弟よ、神の聖手の下にこの世を見まするならば、私共も同じことを見るでしょう。私共は霊に属ける者でありましても、たびたび肉に属ける考えをもってこの世を見ます。霊に充たされたる者でありましても、たびたび肉に属ける眼をもって世の人を見ます。どうぞ絶えず神の眼をもって世の人をご覧なさい。『されば今より後われ肉によりて人を知るまじ。曾て肉によりてキリストを知りしが、今より後は斯の如くに知ることをせじ』(コリント後書五・十六)。パウロはかく決心を致しました。私共は今まで肉によって人を識ったと思います。肉によって人を計りましたと思います。けれども今より後はかくこれを識るまじと決心なさい。どうぞ外部のことを見ませずして、神の見たもうことのみに眼をつけとうございます。サムエル前書十六章七節をご覧なさい。『しかるにヱホバ、サムエルにいひたまひけるは 其容貌(かたち)と身長(みのたけ)を觀るなかれ 我すでにかれをすてたり わが視るところは人に異なり 人は外の貌(かたち)を見 ヱホバは心をみるなり』。どうぞ神の眼をもってこの世の有様を見とうございます。神の眼をもって人間を見とうございます。私共は人間の肉の眼をもって見まするならば、世の繁栄なる有様、人間の尊き位、または財宝などを見るかも分かりません。どうぞ肉によって人を見ませずして神の眼をもって見とうございます。
私共はどうして神の考えを悟りましょうか。私共は聖書によって、人間についての神の考えを明らかに悟ることができます。私共は人間の真正の有様を聖書によって深く味わいとうございます。『また神を心に存(と)むるを善しとせざれば、神もその邪曲(よこしま)なる心の隨(まゝ)に爲(す)まじき事をするに任せ給へり。即ちもろもろの不義・惡・慳貪(むさぼり)・惡意にて滿つる者、また嫉妬(ねたみ)・殺意・紛爭(あらそひ)・詭計(たばかり)・惡念の溢るる者、讒言する者・謗る者・神に憎まるる者・侮る者・高ぶる者・誇る者・惡事を企つる者・父母に逆ふ者、無知・違約・無情・無慈悲なる者にして、斯る事どもを行ふ者の死罪に當るべき神の定を知りながら、啻に自己(みづから)これらの事を行ふのみならず、また人の之を行ふを可(よ)しとせり』(ロマ書一・二十八〜三十二)。神は私共の心の眼を開くため、このような引照を与えたまいます。これは人間の真正の有様であります。どうぞこれを深く味わい、伝道に出ます時に霊の眼をもって人間を見とうございます。『錄して「義人なし、一人だになし、聰き者なく、神を求むる者なし。みな迷ひて相共に空しくなれり、善をなす者なし、一人だになし。彼らの咽は開きたる墓なり、舌には詭計(たばかり)あり、口唇のうちには蝮の毒あり、その口は詛(のろひ)と苦(にがき)とにて滿つ。その足は血を流すに速し、破壞(やぶれ)と艱難(なやみ)とその道にあり、彼らは平和の道を知らず。その眼前に神をおそるる畏なし」とあるが如し』(ロマ書三・十〜十八)。神は私共にもこの枯れたる骨を見せたまいとうございます。私共は人間の真正なる有様を見ませんならば、必ず人間を導くことができません。人間のために重荷を負うことができません。神はエゼキエルを枯れた骨の谷に導いて人間の真正の有様を見せしめたまいました。神はどうして私共にも同じことを見せしめたまいますかならば、聖書によってであります。神は私共に聖書の悟りを与えたまいます。聖書によって神の異象を示したまいます。また聖書によって人間の異象を示したまいます。神は私共に聖書によって人間の真正の心を見透す力を与えたまいます。エペソ書二章十二節をご覧なさい。『曩にはキリストなく、イスラエルの民籍に遠く、約束に屬する諸般(もろもろ)の契約に與りなく、世に在りて希望(のぞみ)なく、神なき者なりき』。罪人はそんなものです。或いはその四章十八、十九節をご覧なさい。『彼らは念(おもひ)暗くなりて其の内なる無知により、心の頑固(かたくな)によりて神の生命に遠ざかり、恥を知らず、放縱(ほしいまゝ)に凡ての汚穢(けがれ)を行はんとて己を好色に付せり』。
どうぞ霊に導かれてたびたびこの枯れたる骨の谷をご覧なさい。『彼その周圍に我をひきめぐりたまふに谷の表には骨はなはだ多くあり皆はなはだ枯たり』(二)。神はエゼキエルをその周囲に引き巡りたまいました。そうですからエゼキエルは深くその有様を感じまして、人々の有様を明らかに見ることができました。兄弟よ、神はたびたび私共をもその谷の周囲を引き巡りたまいとうございます。たびたび私共にいま読みました聖句の引照を感じさせたまいとうございます。けれども私共はたびたびそれを怠りませなんだか。そういう引照をたびたび疎かに読みましたことはありませなんだか。もしこれらの引照を味わいますならば人間の有様を見ることができます。それによって枯れたる骨の谷に参りまして、人間の真正の有様を明らかに見ることができます。どうぞたびたびそんな引照を開きまして、深く心の中にそれを感じ、その霊の意味を悟りたいものであります。もしそのように致しまするならば『骨はなはだ多くあり皆はなはだ枯たり』。実にそのとおりであります。いま読みました聖書の引照を見まするならば、『皆はなはだ枯たり』。たとい生ける人間の有様を見ましてもはなはだ枯れたり。喜びがありません、平安がありません、望みがありません、来世の望みがありません。光がありません。ただ失望、嫉妬、怨恨、苦痛に充ちております。『はなはだ枯たり』。私共が顔と顔とを合わせて話す者の有様はそういう有様ではありませんか。『はなはだ枯たり』。どうぞそれを深く感じとうございます。『谷の表には骨はなはだ多くあり』。私共は小さき集会に出まして、人数の増えるのを見て喜びます。小さき教会に出まして信者の増すことを見て感謝します。けれどもかえって『谷の表には骨はなはだ多く』あるのを見ることを致しません。教会の中に五、六十人救われておりまするならば幸いです。けれども教会の外に今でも何万人が亡びつつあるではありませんか。この小さき松江の中でも三万五千人がまだ教会に入れられておらぬではありませんか。そのほかの町々村々に、たとえば米子には信者の数がいかほどありますか。未だ救いを得ません者の数はいかほどありますか。兄弟よ、『はなはだ多くあり』。どうぞそれをお感じなさい。この近辺にも二百五十万人の活ける魂があるではありませんか。彼らは果たして何処から救いを得ましょうか。人間の方から考えてみまするならば、ただ私共からです。私共によって救いを得ませんならば限りなき滅亡に往かなければなりません。実にこのところに集まりましたる僅かに二十五人の教役者兄弟姉妹によって生命を得ませんならば、永遠限りなき滅亡に往かねばなりません。おお『はなはだ多くあり』。それを感じまするならば伝道を怠ることができますか。それを感じまするならば涙の流るることを止めることができますか。もし私共はそれを感じませんならば、冷淡なる心をもって説教することができましょう。けれどもそれを考えまするならば、大切なる救いの時を徒に費やすことができますか。世に属けるものを慕うことができますか。それを考えまするならば私共はいかなる時でもいかなる所でも救いを宣べ伝えねばなりません。『はなはだ多くあり皆はなはだ枯たり』。どうぞこの二つのはなはだをお感じなさい。そして涙の流るるのをお止めなさいますな。イザヤ書二十二章一節より四節をご覧なさい。『異象の谷にかゝる重荷のよげん 曰く なんぢら何故にみな屋蓋(やね)にのぼれるか 汝はさわがしく喧(かまび)すしき邑(まち)ほこりたのしむ邑 なんぢのうちの殺されたるものは劍をもて殺されしにあらず 亦たゝかいにて死しにもあらず なんぢの有司(つかさびと)はみな共にのがれゆきしかど弓士(いて)にいましめられ 汝の民はとほくににげゆきしかど見出されて皆ともに縛められたり この故にわれいふ 回顧(ふりかへり)てわれを見るなかれ 我いたく哭きかなしまん わが民のむすめの害はれたるによりて我をなぐさめんと勉むるなかれ』。これは今あることではありませんか。この美しい日本はちょうどそのとおりではありませんか。どうぞエレミヤ記九章一節をご覧なさい。『あゝ我わが首を水となし我目を淚の泉となすことをえんものを 我民の女(むすめ)の殺されたる者の爲に晝夜哭(なげ)かん』。またルカ伝十九章四十一節をご覧なさい。『既に近づきたるとき、都を見やり、之がために泣きて言ひ給ふ』。おお、キリストの霊を抱きました兄弟よ、どうぞこれをお味わいなさい。キリストの霊を抱きました者は必ずこの四十一節のごとく歎き悲しみましょう。『ああ汝、なんぢも若しこの日の間(うち)に平和にかかはる事を知りたらんには』(同四十二)。私共もそんな霊を得とうございます。『はなはだ枯たり』、『はなはだ多く』ございます。
『彼われに言たまひけるは 人の子よ 是等の骨は生るや』(三)。神はあなたがたに同じことを尋ねたまいます。「松江の枯れたる骨は生くるや」。主は小さい声をもってあなたがたに尋ねたまいます。主よ、さよう、生きます。私は熱心に働きまするからこれらの骨は生きましょう。私は熱心に福音を伝えますから罪人は悔い改めましょう。主よ、さよう、生きます、と、答える兄弟はありませんか。私は神学校を卒業しましたから必ず罪人を導くことができます。私は今までこれほどの経験がありますから必ず罪人を生かすことができます。『是等の骨は生るや』。主よ、さよう、生きます。わたしを遣わしたまえ。私のような伝道者が参りますならば必ず罪人は生命を得ます。
兄弟よ、私共の唇にはこのような恐ろしい言葉が出ませんでしょう。けれども心の中はどうですか。どうぞ自らの心を省みなさることを望みます。神はもう一度静かにこれを問いたまいます。『人の子よ 是等の骨は生るや』。
いいえ、主よ、必ず生くることはできません。彼らは頑固なる者ですから、汚れたる者ですから、賤しい者ですから、罪の奴隷ですから、必ず生くることはできません、と、答える兄弟はありませんか。
或いはまた主がそれを尋ねたまいまする時に、主よ、必ず生くることはできません。私は実に弱い伝道者です。経験がありません。熱心がありません。今までの伝道はただ失敗のみでしたから、私が参りましても無益です。必ず生くることはできません、と、答える兄弟はありませんか。おお、あなたの心にいくらかそういう考えがありませんか。ただ自分の弱いこと、自分の不足なることのみを見まして、生くることはできませんと答える兄弟はありませんか。
兄弟よ、私共はどう答えましょうか。この三節の終わりをご覧なさい。『主ヱホバよ汝知たまふ』。エゼキエルの答えは実に信仰の答えであると思います。あなたが生命を与えたもうならば、この頑固なる賤しい罪人でも必ず潔められることができます。あなたが霊を与えたまいまするならば、この賤しい伝道者をもって罪人に生命を与えたもうことができます。『主ヱホバよ汝知たまふ』。おお、どうか信仰をもってこの答えを致しとうございます。
エゼキエルはその枯れたる骨のみを見ましたならば必ず望みがありませなんだ。おお、私共はいかに熱心に働きましても、罪人の有様だけを見まするならば全く望みがありません。けれども主を見上げまするならば望みがあります。或る兄弟は、私共の伝道地は頑固ですからとうてい罪人を導くことはできませんと申します。或いは私の働いている土地の人々は格別に罪の奴隷になっておりますから成功がありませんと申す兄弟もあります。私共は伝道地の模様を尋ねまする時にたびたびそういうことがあります。私共は罪人の有様のみを見まするならば、罪人を導くことはできません。人間の方面より見まするならば、罪人を救うことには少しも望みがありません。
神の働き、霊の働きがありませんならば、とうてい死にし者を甦らすことはできません。ただ主を見上げまするならば望みがあります。兄弟よ、罪人を導くことは何処でも同じです。英国で罪人を導くことも、日本で罪人を導くことも同じことです。この間もある兄弟と話を致しまして、英国で罪人を導くことは日本で罪人を導くことよりも易くはありませんと申したことがあります。どこにでも罪人は死んでおりますから、私共は神の力、霊の息がありませんならば、決して罪人を導くことはできません。キリストを顕すことはできません。或いは洗礼を施すことはできましょう、教会の会員とすることはできましょう。そういう働きはできましょう。けれども罪人を救うことは、神の力、霊の息がありませんならば決してできません。
神は私共に伝道の仕方を教えたまいとうございます。『彼我に言たまふ 是等の骨に預言し之に言べし 枯たる骨よ ヱホバの言を聞け』(四)。預言することは第一の必要であります。預言するとはどんなことであるかならば、聖書の引照を説明することではありません。キリスト教義について自分の考えを説明することでもありません。預言することはキリストについて自分の思想を陳べることとは違います。美しい説教をすることとは違います。預言するとは、直接に罪人の心を刺す神の音信、神の使命、神の宣言を伝えることです。鋭く罪人の心を刺す神の使命を与えることは、すなわち真正の預言であります。預言するとは神の力をもって話すことです。もし神の力がありませんならば、神の福音をどのように宣べ伝えましても決して罪人を導くことはできません。神の力がありませんならば、必ず悪魔の国を攻め取ることはできません。預言するとは、神の力をもって直接に神の使命を宣伝することです。預言するとは多くの人数を集めまして盛んなる説教会を催す時のみではありません。主はサマリヤの井戸の傍らに坐して一人の婦人に預言したまいました。どうぞ訪問する時に預言なさい。客が訪ねて参りました時に預言なさい。どうぞ直接に罪人の心を刺す神の使命を宣べ伝えなさい。けれども私共は預言いたしとうございまするならば、必ず精神を尽くし、意を尽くして話さなければなりません。預言いたしとうございまするならば身の苦しみもあります。精神の労もあります。預言することは容易なることではありません。罪人を導くことは安らかなることではありません。私共は預言いたしまするならば必ず心身の疲労を覚えます。この頃、オーストラリアのジョン・マクニールは一晩の集会で百人ほどを悔い改めに導きましたが、その人の申しますることには、私が一つの魂をキリストに導きまするならば、その一つの魂ごとに産みの苦しみをしなければなりませんと。
その兄弟は、たびたび、集会が終わりました後も一人あとに残って、教会の中でひれ伏して神に祈っております。ほかの伝道者は集会の済みました時にみな散り散りに帰ってしまいましても、自分はただ一人静かに神に祈っております。或る晩、集会の終わりました時に、会衆に向かって明朝五時頃再びこの会堂へ集まるようにと申しました。そして自分はその晩、集会の終わりました時、すなわち十一時頃から、終夜そこで祈っておりました。翌朝五時に多くの人々が集まりました時まで、これらの人々のためにそこに跪いて一心に神に祈っておりました。兄弟よ、預言いたしまするならば身の痛みも覚えますし、精神の労も感じます。預言することは決して容易なることではありません。
『主ヱホバ是らの骨に斯言たまふ 視よ 我汝らの中に氣息を入しめて汝等を生しめん 我筋を汝らの上に作り肉を汝らの上に生ぜしめ皮をもて汝らを蔽ひ氣息を汝らの中に與へて汝らを生しめん 汝ら我がヱホバなるを知ん』(五、六)。預言するとは、神の恵みを多くの人に宣べ伝えることであります。神の救いの大いなる結果を罪人に宣べ伝えることであります。神はあなたに生命を与えたくあります、力を与えたくあります、喜びを与えたくあります、平安を与えたくあります、と、預言いたしとうございます。兄弟よ、どうかそのとおりに預言いたしとうございます。枯れたる骨に自分の枯れたる有様を見せましても利益がありません。罪人に自分の汚れ、自分の不義、自分の罪悪を宣べ伝えましても利益がありません。けれども神ご自身のなしたもう救い、神の霊の働きを宣べ伝えまするならば、枯れたる骨は甦ります。
『我命ぜられしごとく預言しけるが 我が預言する時に音あり骨うごきて骨と骨あひ聯る』(七)。私共は罪人を生かしとうございまするならば、霊に服従しなければなりません。命ぜられしごとく働かなければなりません。私共は一節のごとく神の霊、ペンテコステの霊を得ることは第一に大切です。けれどもその受けました霊に服従することは第二に大切なることであります。私共は命ぜられしごとく働きませんならば枯れたる骨が甦りません。『我命ぜられしごとく預言しけるが』。おお、枯れたる骨に預言することは実に愚かなことです。コリント前書一章二十一節をご覧なさい。『世は己の智慧をもて神を知らず(これ神の智慧に適へるなり)この故に神は宣敎の愚をもて、信ずる者を救ふを善しと爲給へり』。兄弟よ、説教会を開くことは愚かなことです。枯れたる骨に説教することは愚かなることです。神の力がありませんならばあなたはそういう働きをやめる方が宜しいかも分かりません。人間の方面より考えまするならば、伝道することは愚かなることです。主の十字架を宣べ伝えることによっては人間の心を変ずる望みがないと思いましょう。けれどもこの愚かなることによって神は罪人を救いたまいます。神は伝道の愚かなるをもって信ずる者を救うを善しとしたまいます。
或る兄弟は肉の考えをもって、こういうことは罪人にとうてい分かりませんと申しまして、少しもそのことを宣べ伝えません。たとえば主の甦りについて宣べ伝えません。或いは救いについて宣べ伝えません。けれどもそれは肉に属ける考えです。罪人はその福音を解りません。けれども神はこれによってその罪人を生かしたまいます。神はその罪人を救いたまいます。かのサマリヤの女は水の話が分かりましたか。いいえ、少しも分かりません。けれども主は水についてお話しなさいました。しかして枯れたる骨なるこのサマリヤの女はその愚かなる働きによってだんだん甦りました。兄弟よ、この愚かなる働き、この愚かなる伝道をお勉めなさい。
私共は預言いたしまするならば、預言する時に音があります。やはり神は私共と共に働きたまいます。これは表面の声ではありません。神が罪人の心の中に語りたもう声であります。神は、私共が預言する時に、罪人の心の中にご自身の声を響かせたまいます。兄弟よ、私共の声をもって説教いたしまするならば、罪人を生かすことはできません。けれどもその説教の時に神の声がありまするならば、罪人は必ずその声を聞きまして甦ります。それは十字架を宣べ伝えることの力です。私共は十字架を宣べ伝えまする時に、罪人の心の中に声があります。ヨハネ伝五章二十五節をご覧なさい。『誠にまことに汝らに告ぐ、死にし人、神の子の聲をきく時きたらん、今すでに來れり、而して聞く人は活くべし』。これはいま主の声であります。いま罪人の心の中に聞こえる神の生命の声です。そうですから大いなる結果が顕れました。『骨うごきて骨と骨あひ聯る。我見しに筋その上に出きたり肉生じ皮上よりこれを蔽ひしが』(七、八)。漸次そういうことによって、枯れたる骨が動きて相聯ります。罪人は以前のことを捨てて、新しい順序に従って参ります。だんだん新しい筋ができ、新しい肉が生じて参ります。今まで枯れたる骨と見えましたのが、実に美しい身となりました。これは悔い改めの働きです。まことに幸いです。私共はたびたびそれを見ました。これは悔い改めの働きです。けれども全き救いではありません。『氣息その中にあらず』。そうですからたとい立派に見えましても生命がありません。彼らは立派なる信者です。聖書を研究します。寄附金を致します。集会にも出席します。外面から見まするならば、ただ美しい聖い身です。けれども息がありませんならば、その身はだんだんに腐ります。だんだん元の姿に還ります。いま立派なる信者となりましたことは実に幸いです。けれども聖霊を受けませんならば、また元の通りになります。また枯れたる骨となります。兄弟よ、パウロは何故教会についてさほどに歎きましたか。何故霊を受けよと勧めましたか。何故信者に潔めを受けることを勧めましたか。それは何故ですかならば、信者は霊を受けませんならばまことに危ういからです。たとい全き身でありましても、息がありませんならば漸次腐ります。たとい立派なる信者でも、霊を受けませんならば今まで得ました恵みを失います。だんだん元の有様に立ち帰ります。兄弟よ、私共はたびたびそれを見たことがあると思います。どうぞ熱心に信者に霊を受けることを勧めとうございます。
信者はどうして霊を受けましょうか。神は九節においてそれを教えたまいます。『彼また我に言たまひけるは 人の子よ 氣息に預言せよ 人の子よ 預言して氣息に言へ 主ヱホバかく言たまふ 氣息よ 汝四方の風より來り此殺されし者等の上に呼吸きて是を生しめよ』。前には枯れたる骨に預言しましたが、今は息に預言いたします。息に預言せよとの意味は、神の力をもって御霊に祈れよとの意味であります。枯れたる骨に預言することは、神の力をもって罪人に神の使命を与えることです。息に預言することは、神の力をもって御霊に祈ることです。御霊に神の使命を与えることと言われましょうか。言われましょうと思います。御霊に与える神の使命とは何でありますかならば、罪人の心の中に御霊の働きたもうことを指します。モーセが岩に命じて岩が水を出しましたごとく、神は私共に御霊に預言する権威を与えたまいます。神は私共にそんな権威を与えたまいます。どうぞ信仰をもって、この与えられたる権威により御霊に預言するような祈りをなさい。
『我命ぜられしごとく預言せしかば 氣息これに入て皆生きその足に立ち甚だ多くの群衆となれり』(十)。どうぞ説教と一緒に祈りを致しとうございます。説教よりもむしろ祈ることを努めとうございます。そうしますならば息これに入りて罪人は甦ります。このとおりに、御霊を得まするならばその足に立ち、多くの群衆となります。神の強き兵卒となります。いま信者を見まするならば、たいてい寝ておる病人ではありませんか。その足に立ちて戦うことができない弱き兵卒ではありませんか。けれども御霊を得まするならばその足に立ちて戦う強い兵卒となります。
枯れたる骨が谷の中にありました時に何処から生命を得ますかならば、ただ一つの望み、すなわちエゼキエルによって生命を得ることのただ一つの望みがありました。エゼキエルが神の命じたもうごとく働きませんならば、必ず息が息吹きませずして骨が生きません。エゼキエルが神に服従して働きませんならば、必ず罪人は生命を得ることができません。兄弟よ、神はあなたを枯れたる骨の谷に遣わしたまいました。神はあなたの四周にある罪人に生命を与えることを命じたまいました。神は賤しいあなたをもって、愚かなるあなたをもって、その大いなる働きを命じたまいます。あなたの責任は実に重大なるものであります。兄弟よ、私共は命ぜられしごとく働きませんならば、御霊が働きたもうて罪人が生命を得るようになることはできません。どうぞ神の聖前に心を用いなさい。神はあなたの手をもって実に大いなる働き、栄えある働きをなしたまいとうございます。神はあなたを捉えて天国の嗣子を造りたまいとうございます。神の子供を造りたまいとうございます。枯れたる骨を生かして主の新婦となしたまいとうございます。どうぞあなたの大いなる責任を感じまして、感謝をもってそれを受け入れとうございます。私共はこの大いなる責任を感じませんならばむしろ断然伝道をやめる方が宜しいかも分かりません。けれどもこの大いなる事業を勉めまするならばどうぞその責任をお感じなさい。あなたはあなたの四周にある罪人を見、これに預言し、御霊に祈る責任があります。そうですから御霊を得たる伝道者は、第一に見ることを得ます。第二に預言することを得ます。第三に祈ることを得ます。兄弟よ、あなたはこの三つの中に不足がありまするならば、どうぞ御霊のバプテスマをお求めなさい。人間の有様を見ることができませんならば御霊の力をお求めなさい。預言することができませんならば御霊の力をお求めなさい。祈りの力がありませんならば、どうぞそのために御霊の力をお求めなさい。
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