私共の務めは何でありますかならば、荒野において渇く者に水を分け与えることであります。それを考えますと、自分の力に依り頼むことは愚かなことです。私共はモーセのごとく神の力に依り頼まなければなりません。当時、会衆は水を得なかったので、相集まりてモーセとアロンに迫りました(二)。ここには種を播くべき処なく、無花果もなく、葡萄もなく、石榴もなく、また飲むべき水もありませんでした(五)。だんだん模様が悪くなって参り、だんだん太陽が山より照って暑くなってきました。持っていた水がなくなり、もう望みもなく、ただ死ぬよりほかに道がない。いま渇きがあります。また未来において死ぬばかりです。実に憐れむべき有様です。兄弟よ、私共の四周に、同じ場合に陥った者があると思います。その時、ほとんど三百万人が水なき荒野にさまよっておりました。同じように三百万人が渇きまして、死に至る道を歩んで参ります。荒野にさまよっております。水がありません。望みがありません。だんだん模様が悪くなって、死よりほかに道がありません。仕方がありません。これは詩篇六十三篇と同じような有様です。しかしモーセには何もできません。その時に、神はご自分を現したまいました。人間の力のなくなる時に神はご自分を顕したまいます。人間の望み、肉体に付ける望みのなくなる時に、神は神たる力を顕したまいます。『ヱホバつひにその聖(きよき)ことを顯したまへり』(十三)。実に幸いです。神はそこに在してご自分を顕したまいます。ヨハネ伝二章十一節は、この十三節と同様の場合です。その栄えを現したまいました。その聖きを顕したまいました。人間の望みのないところで神が顕れたまいます。神はただ人間の能力を助けたもうのみならず、望みのない処に至れば神はいつでもご自分を顕したまいます。そうですから、望みのないところはいつでも望みに満たされるところです。実に失望のところは大いなる満足を得るところです。『われ河をかぶろの山にひらき泉を谷のなかにいだし また荒野を池となし乾ける地を水のみなもとと變(なさ)ん』(イザヤ四十一・十八)。これは神の働きです。天理に反対して乾ける地を水の源となしたまいます。私共の神はそのような神ですから幸いです。そうですから、この飢え渇く地をご覧なさい。この山陰道をご覧なさい。日本をご覧なさい。世界をご覧なさい。人間の眼から見ますれば望みがありましょうか、いいえ、ありませんです。けれどもそこにて神はご自分を顕したまいます。そこにて神はご自分の聖なること、忠実なること、またそのご権能を顕したまいます。『主はいはを池にかはらせ石をいづみに變らせたまへり』(詩篇百十四・八)。そうですから望みがあります。どうぞ神を信じて働きたいものです。神を望んで働きたいものです。今、渇ける者はたくさんありまして、罪人の哀れなる有様を明らかに見ます。けれども神は活きて在したまいますから急に流れる水を出したもうことができます。
『當時(そのころ)會衆水を得ざるによりて相集りてモーセとアロンに迫れり』(二)。この通りに呟きました。けれども二人は答えません。『是(こゝ)においてモーセとアロンは會衆の前を去り集會の幕屋の門(かど)にいたりて俯伏(ひれふし)けるに』(六)。実にそれは忠義の道です。人々が私を侮るならば、答えずに去って、神の聖前に出とうございます。二人は会衆の司人です。けれども水を造る力はありません。そうですから答えずに神の聖前に参りました。兄弟よ、私共は人々が呟きます時にどういたしますか。かえって一緒に呟きますか。または反対して争いますか。否、どうぞ静かに神の聖前に退きとうございます。その時に主の栄光が顕れました(六)。二人はそこにて勝利を得ました。会衆と争わずに、かえって柔和に神に祈りました。神はその祈りに答えたもうて、主の栄光が彼らにあらわれました。そういう時に神の栄光をよく見ることができます。望みのない時に、そういう仕方のない時に、神に近づくことができます。神の栄光を見ることができます。神はこの時どう言いたまいますか。人々を咎めたまいますか。咎めたもうても正しいことです。イスラエル人は、自分の過ちのため荒野に迷いました。神はもう少し前に、十四章十五章において、イスラエル人に溢れるほどの導きを与えたまいました。恵みに充ちたる地を与えたまいとうございました。けれどもそれを断ったから、そういう場合になったのです。また、それのみならず、自分の咎を懺悔せずに、自分の咎の結果なることを承知せずに、かえって恵みの源なる神を離れて呟きました。けれども神は忍耐をもってこの人々をあしらいたまいました。神はその罪をとがめずに、かえって渇くこの人々を憐れみたまいました。以前の罪を忘れて、かえって只今の哀れなる有様をご覧なさいまして、水を与える用意を致したまいます。それによって神の憐憫と忍耐をご覧なさい。神は私共を同じように取り扱いたまいます。私共は自らの罪のために荒野にさまよって渇いております。またそれのみではありません。神の摂理を呟きますけれども、神はそれを耐え忍びたまいます。かえって私共に恵みを分け与えたまいとうございます。神は私共の罪に従って私共をあしらいたまいません。かえってご自分の慈悲の約束に順って私共をあしらいたまいます。
神はどういう風に水を与えたまいますか。それは、モーセを導きたまいましたごとくしてであります。兄弟よ、どうぞ神の導きを聞きとうございます。そして飢え渇く者を飽かせとうございます。それには神の導きを聞かねばなりません。神の命令を聞かねばなりません。私共の働きではできません。私共はただ神の力、神の命令、神の導きに従わなければなりません。その命令は何でありまするか。『汝杖を執り汝の兄弟アロンとともに會衆を集めその眼の前にて汝ら磐に命ぜよ 磐その中より水を出さん 汝かく磐より水を出して會衆とその獸畜(けもの)に飲しむべしと』(八)。『アロンとともに會衆を磐の前に集めて之に言けるは 汝ら背反者等(そむくものども)よ聽け 我等水をしてこの磐より汝らのために出しめん歟と』(十)。第一に、モーセは岩の足下にこの人々を聚めました。この岩はどんな岩でしょうか。この岩は「撃たれたる磐」であります(出エジプト記十七・六)。兄弟よ、罪人に生命の水を与えんことを願いますれば、撃たれたる磐、すなわち主イエスの足下に、人々を聚めなければなりません。人々の眼の前に撃たれたる磐なる主イエスを示さなければなりません(ガラテヤ三・一)。それによってイスラエル人は活ける水を得ました。これは愚かなることのようです。人間の知恵より見ますれば愚かなることです。けれども人間の愚かなることは神の智慧なることです。そうですから十字架を人間の眼の前に示さなければなりません。十字架を宣べ伝えなければなりません。十字架によって、神の愛、救いの道、罪の赦しを明らかに示さなければなりません。兄弟よ、私共は説教します時にどうですか。人々を岩の前に導きますか。主イエスの十字架を示しますか。どうかそう致しとうございます。そして活ける水の出るのを待ち望まなければなりません。第一にそれを学びとうございます。
第二に『モーセすなはちその命ぜられしごとくヱホバの前より杖を取り』(九)とある、この杖はどういう杖でしょうか。この杖は、民數紀略十七章八節の杖であります。すなわち甦りました杖であります。その節において、アロンは神ご自身が選びたまいました祭司の長たることを示します。神は私共の眼の前に祭司の長を示したまいます。私共は、人々に活ける水を出さんと致します時には、この杖を持たねばなりません。すなわち主イエスの復活という印をもって働かねばなりません。『彼(アブラハム)はその信じたる所の神、すなはち死人を活し、無きものを有るものの如くに呼びたまふ神の前にて我等すべての者の父たるなり』(ロマ書四・十七)。アブラハムはそのような神を信じました。神はそれほどの力を持ちたもうことを信じました。死し者を活かし、無きものを有りしごとく称える神を信じました。私共も復活の力を持ちたもう神を信じねばなりません。エゼキエルは、神の教えに従って枯れたる骨に説教しました時に、その骨は甦りました(エゼキエル三十七・十)。私共は、神はよく死人を甦らせたもうと信じなければなりません。それを信じなければ、エゼキエルの話は愚かなることです。私共は復活の主イエスを信じなければ、私共の説教は愚かなることです。盲人は神を見ることができません。そうですから主を説教して見せねばなりません。聾者は神の声を聞くことはできません。そうですから生命の言葉を説教せねばなりません。私共は、復活の力を持ちたもう神を信ずるならば、神の生命の真理をかかる人々に説教せねばなりません。主イエスはサマリアの婦人に実に深い真理を宣べ伝えたまいましたが、その婦人はこれを悟ることができませんでした。これは自然のことで、愚かなることのようです。無学の者に真理を話すのは愚かなるようです。けれどもイエスは枯れたる骨に説教したまいました。その生命の言葉によって、生命の種によって、枯れたる骨が生命を受けました。復活の神を信じて説教しとうございます。甦りの杖をもって人々を岩の下に集めとうございます。けれどもこの杖は、なおほかの意味を持っていると思います。新しきこの杖を持つ者は、神の選びたもうた祭司の長、やはり神と人との仲保たることを示します。神はその人によりて人間を恵み、その人は人々に代わりて神に人々の願いを示し、また人々のために神に祈ります。そうですから、この杖は私共の祭司の長たる主の祈りを示すと思います。そのとき何のために水が出ましたか。祭司の長の禱告がありましたからです。神の聖前に祭司の長たる仲保者があります。そのために溢れるほどの生命の水を頂戴することができます。主イエスは昇天したまいましたから、神の聖前に顕れたまいましたから、私共のために祈りたまいますから、私共は溢れるほどの生命の水を頂戴することができるのであります。
第三に、使徒行伝二章とは同じ真理です。使徒行伝において、ペテロは聞く人々に生命の水を与えました。まず初めに二十三節に主の十字架を示します。十字架にかかりたまいし主イエスを示します。そして撃たれたる磐のもとに人々を集めます。そして、二十四節より三十二節までの間に主の復活を示します。アロンがその杖をもってイスラエル人を岩のもとに集めたのと同じことです。甦りの杖を示し、その大いなる勝利を示します。また『イエスは神の右に擧げられ、約束の聖靈を父より受けて汝らの見聞する此のものを注ぎ給ひしなり』(使徒行傳二・三十三)。私共の祭司の長は神の聖前に顕れ、その祈りとその仲保により、ただいまペンテコステの霊を頂戴することができます。真理は同じことです。私共は、主の祈りによって説教するならば、十字架によって説教するならば、撃たれたる磐より溢れるほどの水が流れて参ります。それは神の約束です。神の堅い約束です。神は何故そのとき水を与えたまいましたか。それは、四百年前に与えたまいました約束があるからです。古い約束のために、岩を開いて水を出したまいました。私共は神の堅い約束を持ってそれを信ずる時に、神は水を注ぎたまいます。『われ渴けるものに水をそゝぎ乾(ひ)たる地に流をそゝぎ わが靈(みたま)をなんぢの子輩(こら)にそゝぎ わが恩惠(めぐみ)をなんぢの裔にあたふべければなり』(イザヤ四十四・三)。この『流をそゝぎ』とあるところは、英語では「flood」すなわち洪水という意味であります。そうですから、先祖に与えたもうた約束に従い、神は必ずその約束を成就いたしたまいます。神は忠実なるものであります。そうですからご自分の約束に従って水を与えたまいます。
第四に『磐に命ぜよ』(八)。これは祈りを指すと思います。命令のような祈りであると思います。『磐に命ぜよ』。この語の中に深い真理を見出すことができます。『命ぜよ』。これはあまりに強いようです。しかしそれによって祈りの力を見ませんか。エゼキエル書三十七章九節をご覧なさい。これは実に荘厳なることです。霊に命ずることです。それによって祈りの力の大いなることを学びたいものと思います。マルコ伝十一章二十三、二十四節は、信仰の祈りを指します。けれども二十三節は祈りではありません。『移りて海に入れ』。これは命令です。信仰の命令です。兄弟よ、私共にはその真理がよく分かりません。けれども聖書に見えますから、どうか霊の悟識によってその意味を悟りとうございます。神は私共にそれほどの力を授けたまいます。祈りの力のみならず、命令の力を与えたまいます。けれども、小児が大人の武器を持つならばかえって害がありますように、小児なる私共はこの命令の祈りを用いる力がありませんでしょう。けれども私共は信仰の祈りを捧げることはできます。岩に命ずることはできません。けれども岩に信仰の祈りを捧げることはできます。私共は、人間の前に十字架の主、復活の主を見せ、また祭司の長たる主に頼まなければなりません。けれどもそれのみならず、岩にそのような祈りを捧げて説教いたさねばなりません。そう致しますれば水は多く湧き出でます。実に楽しいことです。荒野の中に水が多く湧き出でます。飢え渇く者は自由に清水を飲むことができます。今まで、ただ穢れたる濁水を飲んでおりましたけれども、ただいま神の手より清い水が出ました。喜び楽しんで、いかほどなりとも飲むことができます。それは神の富に従う賜物です。ペンテコステの日に同じ水を与えたまいました。エゼキエル書四十七章に同じ水を見ます。だんだん湧きて、大きく深くなり、世界の荒野に流れて来る、生命の河となります。兄弟よ、神は私共に、その河を流す特権を与えたまいます。神は各所に生命の水を流すことができます。私共はその管となりとうございます。
けれども、その時にモーセは種々の過ちを犯しました。暫くその過ちを考えとうございます。兄弟よ、私共は神のため過ちをすることは大いなる罪です。どうぞ恐れて、この過ちに陥らずに、神の奇蹟を待ち望みとうございます。第一に、モーセはこの過ちのために、カナンの地に入ることを許されません。モーセは、イスラエル人をエジプトよりカナンに導くために、自分の栄誉も財産も高位も捨てました。けれども、この過ちのために事業を遂げることができません。神は公平なる御方です。この罪はそれほど大いなる重い罪です。その時イスラエル人は神の溢れるほどの恵みを拒みました。また呟きました。神は忍耐をもってこれを忍びたまいました。けれどもモーセの罪を赦すことができません。私共はそれによって、私共の聖き職務の中に過ちを犯すことの大罪なることを悟りとうございます。その罪とは、彼が「自己」を出したことです。『聽け 我等水をしてこの磐より汝らのために出しめん歟と』(十)。モーセは「自己」を出しました。使徒行伝三章十二節の反対です。ペテロは己を出さずに神を出しました。モーセは己を出しました。兄弟よ、神の聖き働きの中に「自己」を出すことは実に恐るべきことです。私の能弁、私の学力、私の心霊上の知識を出すことは恐ろしい罪です。どうぞ兄弟よ、気を付けとうございます。実に伝道者の身分は危ないものです。私共は伝道者の務めを勤める大胆がありません。かえって恐れて断ることがよいではないかと思います。神の聖き奇蹟を待ち望む時に己の力を出すことは、何よりも重い罪です。王の王なる神の働きたもう時に自己の働きを出すことは大いなる罪です。
また第二に『汝ら背反者等よ聽け』(十)とモーセは申した。実に恐るべきことです。私共もその通りに神の愛を説教したことはありませんか。神の愛とその恵みを説教する時にあたって、『汝ら背反者等よ』と説教したことはありませんか。私共は、心によって、自分の眼の光によって、顔の色で、罪人を愛する愛を示さなければなりません。私共が人々の中で神の愛を説教する時には、神の代人ですから、神の心をもって説教いたさなければなりません。愛と忍耐をもって説教いたさなければなりません。この時、神は格別にイスラエル人に忍耐と恵みと愛とをもってあしらいたまいましたから、モーセも同じ精神をもって神の恩を示すはずでした。兄弟よ、神の恩を得ようと思いますれば、どうか罪人を憐れむ心を用いとうございます。
第三に、モーセは神の命令に順いませんでした。神は『磐に命ぜよ』と明らかに命令をなしたまいました。しかるにモーセは二度、磐を撃ちました。一度、神は磐を撃つことを命じたもうたことがありました。モーセはそのことによってその方法によりて、古い方法を用いて、神の新しい命令に順いませなんだ。兄弟よ、神は一度私共を通して人々を恵みたまいますならば、次回からは神を頼まずに同じ方法をもって、死んだ方法をもって人々に接してはなりません。どうかなお一度神の聖声を聞き、新しい導きを受けとうございます。神の導きが古い方法を使うに差し支えなければ、大切に祈りによってその命令を受けとうございます。
第四にまた『磐を二度(ふたゝび)擊けるに』(十一)。これは肉の元気を示します。肉の元気です。ただ少しばかりの熱心をもって自分の力を現します。ただ磐に命ずるならば、神の働きによって水が出るのです。しかるに二度、力を入れて磐を撃つならば、モーセの力によりて水が出たようになって、肉に属ける元気を示します。肉体の元気はいつでも神の栄光を隠します。どうか肉の力を隠して、神の栄光を現しとうございます。
モーセの罪の源は何の点ですか。『汝等は我を信ぜずしてイスラエルの子孫(ひとびと)の目の前に我の聖(きよき)を顯さゞりしによりて』(十二)。神はかくモーセとアロンに仰せたまいました。不信仰の前に、モーセはいつでも高い信仰を持っていました。ただいま神が奇蹟を行いたもうを信じて、人々を磐の前に集めました。これは高い信仰でありますけれども、不信仰の分子が後より来ました。私共の信仰はどのように高くとも、不信仰の分子があれば、必ず過ちに落ちるはずです。すぐ過ちに落ちるものです。『神を信ぜよ』(マルコ十一・二十二)。『神の業はその遣し給へる者を信ずる是なり』(ヨハネ六・二十九)。これは肉に属ける信者より見れば愚かなることと思います。けれどもこれは神の智慧です。信ずることによって神は働きたまいます。モーセはこれほどの過ちを犯しました。けれども神は祝福なしたまいました。神はモーセの働きのために働きたまいません。モーセが働かなくとも善く働きたもう神です。私共の働きは、かえって恵みの妨害を致すことがあります。けれども神は大いなる恵みをもって、妨害を構わずに恵みを降したまいます。私共に誇るところがありますか。否、少しもありません。私共がモーセのように三百万人に充分なる生命の水を与えることができましても、少しも誇るところはありません。かえって自分の過ちのために恵みを妨げたことを思うはずです。神の働きは大いなるものです。神は大いなる力をもって働きたもうゆえに、私共の小さい妨害をみな追い出して、ご自分の栄光、ご自分の聖いこと、ご自分の忠実なることを示したまいます。けれども、私共が過ちに陥るのは大いなる罪ですから、よくよく慎みとうございます。私共はモーセの過ちのためにイスラエル人が飲む水を妨げられなかったことを知ります。けれどもモーセの過ちは恐ろしいです。どうか恐れと慎みをもってこの事業をお務めなさい。少しも神の導きを考えずに祈らずにたびたび説教することなく、どうか神の命令を求めて、祈りをもってそれをなしとうございます。説教する時は何よりも危ない時です。サタンは私共を落とさんとしますから、何よりも危ないことです。けれども、ユダ書二十四節に記されてあるとおりに、神は私共を守りたもうことができます。私共はこの通りに守られている者です。そうですから、愛する兄弟よ、今から各自自分の伝道地に帰りまして、荒野において水の出ずるのを見物いたしとうございます。そして渇ける者に生命の水を飲ましめとうございます。
| 序 | 一覧 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
| 目次 |