ソドム、ゴモラの滅亡 


 
 (ロト首を地にさげて)言けるは 我主よ 請ふ僕の家に臨み足を濯(あら)ひて宿り つとに起て途に遄征(すゝみ)たまへ 彼等言ふ 否我等は街衢(ちまた)に宿らんと 然ど固く强ければ遂に彼の所に臨みて其家に入る ロト乃ち彼等のために筵(ふるまひ)を設け酵(たね)いれぬパンを炊(やき)て食はしめたり 斯て未だ寢(いね)ざる前に邑の人々即ちソドムの人老たるも若きも諸共に四方八方(よもやも)より來たれる民皆其家を環(かこ)み ロトを呼て之に言けるは 今夕(このゆふべ)爾に就(つき)たる人は何處にをるや 彼等を我等の所に携へ出せ 我等之を知らん ロト入口に出て其後の戸を閉ぢ彼等の所(もと)に至りて言けるは 請ふ兄弟よ惡(あし)き事を爲すなかれ ──創世記十九章二〜七節

 ロト、ゾアルに至れる時日地の上に昇れり ヱホバ硫黃と火をヱホバの所より即ち天よりソドムとゴモラに雨(ふら)しめ 其邑と低地(くぼち)と其邑の居民(ひと)および地に生(おふ)るところの物を盡く滅したまへり ロトの妻は後を回顧(かへりみ)たれば盬の柱となりぬ アブラハム其朝夙に起て其嘗てヱホバの前に立たる處に至り ソドム、ゴモラおよび低地の全面(おもて)を望み見るに其地の烟燄(けむり)窖(かま)の烟のごとくに騰(たち)上れり ──同二十三〜二十八節


 神はかくのごとく、この地とその住民を亡ぼしたまいました。実に恐ろしき有様であります。このソドムとゴモラは、当時にありてははなはだ盛んなる邑でありまして、貿易、文明、教育などもずいぶん進歩しておりました。その邑の王もなかなか勢力がありましたけれども、神はひとときにことごとくこれを亡ぼし、その家財も人も残らず亡ぼしたまいまして、ソドム、ゴモラは跡形もなくなりました。その罪悪のために怒りの手は下りまして、誰もみな免れる道はありませんでした。注意してこの滅亡の絵をご覧なさい。何故神はかかる恐ろしきパノラマを私共に残したまいましたか。これは確かに、来るべき世の末の日の雛形であるからであります。主はルカ伝十七章において世の末の日のさまをお話しなされて、『ロトの日にも斯のごとく』(二十八)と仰せられました。天より火が下りてソドムを焼き尽くしたることをお話しなされまして、『人の子の顯るる日にも、その如くなるべし』(三十)と申されました。そうですから今このソドム、ゴモラの昔話を読みまして、来るべき滅亡について深く感じたいものと思います。
 このソドムには善人もありましたろう。敬虔なる人もありましたろう。たびたび神のことを思い出したる人もなかったではありませんと思います。けれどもこれらの人も救いに与ることはできず、皆ことごとく亡ぼされました。兄弟姉妹よ、私共が日々道に逢う人はソドムの人と同じではありませんか。家に来る人はゴモラの人と同じではありませんか。神の怒りはいよいよ近くあります。けれどもこの人々はこれには少しも気が付きません。商売や家造りなどばかりして生涯を送っております。刑罰は近づいてはいないでしょうか。実に恐ろしいことではありませんか。その日になりましてはソドムの金銀財宝は何の価値もありません。位が高くとも救いとはなりません。自己の道徳も力がありません。全く丸裸で神の聖前に出て審判を受けねばなりません。それなのに世の人はなお富、位、宝、名誉、己の義をもって安心しております。来るべき大いなる日を知らずに平気でおります。
 昔、神はヨハネの眼を開き、末の日の有様を見せたまいました。黙示録二十章十一節より十四節までをご覧なさい。
 これは活ける絵であると思います。十五節には、如何なる人も『すべて生命の書(ふみ)に記されぬ者は、みな火の池に投げ入れられたり』とありますが、私共の知っている人々のことを考えてご覧なさい。どうでありますか。すべて生命の書に記されざる者はみな火の池に投げ入れられなければならぬとは、神の偽らざる聖言であります。テサロニケ後書一章七節に『即ち主イエス熖の中にその能力(ちから)の御使たちと共に天より顯れ』とありますが、このことは九節にある『斯る者どもは主の顏と、その能力の榮光とを離れて、限りなき滅亡(ほろび)の刑罰を受くべし』ということでありまして、神がこれを私共に知らしめたもうたのは大いなる恵みであります。
 さて、滅亡の時になりまして神は二人の天使を送ってロトを呼び醒ましたまいました。ロトに『逃遁(のがれ)て汝の生命を救へ』(創世記十九・十七)と命じたまいました。そしてまたそれとともに『外(ほか)に爾に屬する者ありや』(十二)とて、他の者をも救う特権を与えたまいました。これは如何なる幸福なことでありましょうか。神はロトを救いたもうのみならず、ロトに関係ある娘婿、および邑にありて彼に属する者をも共に出ることを許したまいました。疾く走りて罪人を連れて出る特権を与えたまいました。それでロトは金や衣や旅支度をするのを捨て置きまして、婿に伝道しました。二人の娘にも妻にも告げ知らせました。私共はいかがでありましょうか。このロトのごとく救いの恵みを受け、また他人を救う特権を与えられているにもかかわらず、しばしば自分のことのみを考え、大切なる時を徒に費やしはいたしませんか。大切なる霊魂を忘れまして自分の勝手なことばかり思ってはおりませんか。罪人の亡びるのを見過ごしにしてはおりませんか。これは実に私の怠慢、また諸君の怠慢ではありませんか。私共はこの来るべき滅亡を信じないのです。神の真理を信じない不信者であります。ソドムの時にロトは使者の言葉を信じましたから、自己を捨てて罪人を救わんがために出で行きました。ロトの言葉を聞きました婿等は戯れごとだと見なしました。人々は嘲り笑いました。けれどもロトは来るべき滅亡を眼の前に信じておりましたゆえ、夜半なるにも構わずに罪人の目を覚まさんとて駈け回っておりました。『機(おり)を得るも機を得ざるも』(テモテ後書四・二)強いて家に入り、涙をもって神の言葉を伝えました。
 兄弟よ、私共はこの末の日を信じますならばこのロトのごとくあるべきはずであると思います。もちろん、神学により、学理により、聖書によりて信じておりますけれども、心の中にこれを信じておりますか。いかがですか。霊においてこれを信ずるために祈らねばなりません。使徒ヨハネをご覧なさい。彼は離れ島にあって人との交際は絶たれておりましても、神と親しく交わりましたから、神はヨハネに来るべき滅亡の有様を明らかに示したまいました。私共はこれを知るためにヨハネのごとく神と交わり、神より教えられねばなりません。どうか今晩、私共の心の顔覆いを取り去られまして、ヨハネが見ましたごとく、天開けてその真のさまを見たいものであります。これを見ましたならば私共はいかがいたすべきでありましょうか。
 創世記十八章十七、二十、二十一において、神はその友アブラハムにソドムの有様を見せたまいました。そのなさんとしたもうことを隠さずしてアブラハムに知らしめたまいました。その時、アブラハムは神にすがりつきまして祈りました。神の怒りを引き留めました。神が審かんとして下りたもうと聞いて、アブラハムは心に堪えられませなんだから、その邑のために繰り返して願いました。神はアブラハムに祈りの力を与え、大胆なる信仰の祈りを捧げしめたまいました。アブラハムは霊の歎きに従い、ソドムのために禱告しました。賤しき僕なれども栄光の王なる神の聖前に立ちてその審判を止めんとしました。この大胆を神は喜びたまいます。私共もかくのごとく霊によりて罪人のために信仰の祈りを捧げねばなりません。天地の神の審判を止めるとは実に大胆なることであります。私共は到底できぬと思います。けれどもアブラハムは二十七節において自分のことを申して、ただ賤しき塵と灰なりと申しました。私共は何故この大胆なる祈りができませんか。それはあまりに自分を力あるごとく思い過ぎるからであります。私共の自己はあまりに強くあります。アブラハムは真実自分を塵と灰に等しきものと知りましたから力ある祈りを捧げることができたと思います。灰とは何でありますか。灰とは、自分を神の聖前に燔祭といたしましたその焼け残りであります。このごとく私共も全く献身しまして己を焼き尽くされますれば、神の聖前に仲保者の祈りをなすことができると思います。神はこの滅ぶべき世の中にありましてこのような伝道者を求めたもうと思います。エゼキエル書二十二章三十節にあるごとく、神は神の聖前に憚らず立ちて罪人を滅ぼさしめざる者を求めたまいます。罪人のために祈るのは神の審判を止める石垣であるごとくに申されました。神は罪人を赦したまいとうございます。そうですから仲保者を求めたまいます。されどもその人がありませんから、余儀なく三十一節のごとく滅ぼさねばなりません。神はたびたび私共の心の中にかくのごとき祈りの霊を起こしたまいます。けれども私共はたびたびこれを消し去ります。主が霊に導かれて荒野に行きたもうように、私共も霊の導きたもうままに力ある祈りを捧げとうございます。アブラハムはソドムを救うことができませなんだ。けれども創世記十九章二十九節にあるごとく、ロトの救われましたのは彼の禱告の結果でありました。私共はどうしても祈らねばなりません。祈り助けねばならぬロトのごとき人が私共の中にありませんか。
 スコットランドに一人の鍛冶屋がありました。牧師は彼のために憂えまして、いろいろと方法を尽くして導こうとしました。けれどもその鍛冶屋はなかなか神を信じません。兄弟らもしきりに憂え、訪問に行って語り勧めましたけれども、何の感化も与えることができませなんだ。それで信者一同の大いなる重荷となっておりました。ところが或る正月の寒い夜、一人の兄弟はしきりに祈りの霊に満たされまして、夜を徹して祈りました。その鍛冶屋を愛する心がしきりに燃えてそれを制することができませなんだ。それで夜の明けかかるや否や、馬に乗りまして鍛冶屋の家に行きました。その時、鍛冶屋は窯を持ってこれから仕事に取りかかるところでありました。信者は馬から飛び降り、鍛冶屋の前に走り寄りまして、窯を持っているその両手を堅く握りしめました。けれども心が切になって来まして、一言も口に出すことができません。鍛冶屋は何事が起こって来たかと不思議に思いまして顔を見上げますると、その眼には涙が一杯です。信者はただ震え声で、あなたの救われるために夜通し‥‥‥と言ったきり、咽びまして言うことができません。それで手を握ったまま、暫くしましてまた馬に乗って家に帰りましたが、鍛冶屋の心は鋭き感じに打ち込まれまして、胸が騒いで落ち着いていることができません。不安心でたまりません。一時間ほど経って、後を追って信者の家に駆けつけ、全く砕けたる心をもって自分の救われんことを求めました。信者は狂喜して迎え、前夜祈り通したる自分の部屋に伴いまして、共に祈って、悶えていた鍛冶屋をまことの平安なる救いに入れました。霊に感じたる祈りは罪人を救います。私共は多く語りますが、自分で感じません。そうですから人を感じさせることができません。自ら感涙に咽びますれば罪人も涙を流します。不信者の冷淡であることは、多くは私共が冷淡で神を信じないからであります。十八章にあるアブラハムのごとく神の心に感じて熱心に祈り、十九章にあるロトのごとく来るべき災禍を見て己を捨てて働かねばなりません。ロトは滅亡を前に見まして『今は惠のとき、今は救の日なり』(コリント後書六・二)と信じました。そうですから一分間も猶予なく知人を訪ね回りました。ロトの顔は憂いに満ちておりますのに人々は嘲り笑いました。ロトは、滅亡を思うてはかれこれ言っているときではありません、頓着せずにこれを戒めました。ロトは誠に私共の学ぶべき訪問伝道者であります。使徒行伝二十章二十節および三十一節を見ますれば、パウロも家々を訪ね回り、涙を流して教えたことを知ります。これらは実に私共の模範であると思います。またテモテ後書四章一節二節においてパウロの言った言葉をご覧なさい。聖書の中にこれほど厳粛なる言葉はないと思います。『御言を宣傳へよ、機を得るも機を得ざるも常に勵め』と申しましたのは、彼の言いしごとく、彼は確かに神の聖前およびキリストの聖前にありて主の再臨の時、生ける者と死せる者の審判を明らかに認めて命令したことと思います。
 今からおよそ二百年ほど前でありましたが、英国において、或る一人の信者が馬に乗り、夜を通して或る地方に旅しました。その道で強盗に遭いました。強盗は金を出せと迫りました。信者は心易く出しました。強盗は馬を渡せと申しました。信者は渡しました。それで強盗はその馬に乗りまして立ち去ろうといたしました時に、信者は静かに「ちょっと」と呼び止めまして、救いの道を説き始めました。神の恩恵に背くことは実に恐るべきことであると申して、親切に誡めました。すると強盗は大いに怒りまして、「汝がかかることを言うなら殺してしまう」と刀を抜きました。けれども信者は少しも騒がず、懼れず、愛に溢れる顔つきをもって、「汝は私に金を求めましたゆえ与えました。馬を求めましたゆえ渡しました。いま汝は私の生命を求めなさるならばあげます。私の生命をあげまして、それで汝の生命が救われるのならば喜んであげます。お取りなさい。汝が救われるならば私は死んでも少しも苦しくありません」と申して身を突き出しました。これは実話であります。私共は果たしてこれだけの覚悟がありますか。エゼキエル書三章十七節以下二十一節までに神は鋭き言葉を残したまいました。その通り、私共は神に代わりて人を誡めるために選ばれた者であります。私共が誡めず、救いを宣べませんならば、ほかに誰か宣べる人がありますか。人を誡めず、救いを伝えずして自ら救われることは、神の禁じたまいましたところであります。人の霊魂を愛せず、彼らの滅亡を見過ごしにするのは、大いなる罪であります。実に私共は機を得ざるも道を宣べ伝えねばなりません。私共は霊において人の霊魂の真正の状態を見、世の終末の審判の事実を知りまして、罪人のために祈りまた働きとうございます。
 


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