ダビデの三勇士 


 
 刈穫(かりいれ)の時に三十人衆の首長(かしら)なる三人下りてアドラムの洞穴(ほらあな)に往てダビデに詣(いた)れり 時にペリシテ人の隊レパイムの谷に陣どれり 其時ダビデは要害に居りペリシテ人の先陣(さきぞなへ)はベテレヘムにあり ダビデ慕ひていひけるは誰かベテレヘムの門にある井(ゐど)の水を我にのましめんかと 三勇士乃ちペリシテ人の陣を衝き過(とほり)てベテレヘムの門にある井の水を汲取てダビデの許に携へ来れり 然どダビデ之をのむことをせず これをヱホバのまへに灌ぎていひけるは ヱホバよ我決(きはめ)てこれを爲じ 是は生命をかけて往し人の血なりと 彼これを飲ことを好まざりき 三勇士は是等の事を爲り ── サムエル後書二十三章十三〜十七節


 いま私共の中に三人の勇士がありますか。私共の中に主のために三人の勇士と同じ精神を有つ者がありますか。主は今そういう兵士を招きたまいます。そういう義勇兵を求めたまいます。その時ダビデの故郷は敵の手にありました。敵はベツレヘムに陣取っておりました。これはダビデの歎きでした。その地はイスラエルに与えられたる地でありましたが、罪のため敵の手に渡されました。ダビデはその地に生まれて育てられました。家はベツレヘムの中にありまして、その近傍の野や畑をも愛しておりました。そうして夜も昼も近辺の山を逍遙しました。そこにて神の異象を見ました。そこにて神に祈りました。声を挙げて神を讃美しました。そこは実にダビデの愛する故郷であります。けれどもただ今ペリシテ人の手に渡されました。あなたがたはその譬話がよくお分かりと思います。私共のダビデは同じようにご自分の故郷を愛し慕いたまいます。私共のダビデは天を治めたもう御方です。天の王となりたまいました御方です。ご自分の領分中には天の星が幾万もあります。これらはみな喜んでその命令に従います。けれども私共のダビデはこの小さい世界を慕いたまいます。神の御子なる主イエスはこの小さい世界に肉を取りてお生まれなさいました。いま天の御位におりたまいましても、やはり人間の肉体をもっておありなさいます。そうですから肉を受けたまいました地を慕いたまいます。今この小さい世界を慕いたまいます。これはご自分の故郷です。これはご自分の宮都となります。外の広い領分を治めるための宮都となりますからここを慕いたまいます。けれどもただ今は敵の手に渡されてあります。ヨハネ第一書五章十九節、及びヨハネ伝第十二章三十一節に、世の主ということが記されてありますが、主イエスがこの世を去りたまいまする前にサタンを三度この世の君と言いたまいました。その一つはただいま申しましたヨハネ伝十二章三十一節です。それとヨハネ伝十四章三十節、及びヨハネ伝十六章十一節に、同じようにこの世の君と言いたまいました。今この世はペリシテ人の手に渡されてあります。主イエスはこの世の王であるはずです。この世の君であるはずです。けれども『彼は世にあり、世は彼に由りて成りたるに、世は彼を知らざりき。かれは己の國にきたりしに、己の民は之を受けざりき』(ヨハネ伝一章十、十一節)。この世のほんとうの主はこの世に来りたまいました。けれども世は謀反人に従っておりました。いま同じことを見ます。ほんとうのこの世の主は世より追い出されたまいました。処々方々を歩きまするならば、サタンが一人そのところを得ております。いま多くの人は喜んでこの世の主に従っております。また何処にでもこの世の主が持っている権威の結果を見ることができます。どこにでも罪、失敗、病気、死を見ます。この世の主の権威の結果は何処にでも見ることができますが、ほんとうの主なる神の子はそのところを得たまいません。主イエスが生まれたまいました時には、ベツレヘムの旅舎には入れ奉るべき部屋がありませんでした。けれども主はこの故郷を愛したまいました。この故郷を慕いたまいました。実に主は今でもこれを慕いたまいます。いま天国において涙を流すことがあると思います。歎きと悲しみがあると思います。未来において神は、人間の眼より涙を拭いたまいます。けれどもただいま天国において悲嘆があると思います。主は罪人のために悲しみたまいます。また天国において清い者、主と同じ精神を持っておる者は、同じく歎き悲しみます。この世におって天国に属する者はやはり今歎き悲しみます。未来においては天国に属する者は全き幸福を得、地に属する者は全き苦痛を受けます。けれども今はちょうど反対です。いま天国に属する者は歎き悲しみ、地に属する者はかえって笑い楽しんでその生涯を暮らしております。
 ダビデは喉が渇きましたゆえに故郷の水を慕いました。主イエスも同じようにただいま人間の魂を慕いたまいます。私共は聖書において主が二度、喉の渇きたまいましたことを読みます。一度はヨハネ伝四章七節です。これは身体の渇きのみではありません、魂の渇きです。『我に飲ませよ』というその願いは答えられませんでした。主はヤコブの井戸の水を飲みたまいませんでした。けれども後から考えますれば、主は実にこの世に属ける水を願いたまいませんでした。主は実に他の水のために自分の渇きをとどめたまいました(ヨハネ四・三十二)。主はこの世に属ける水を飲みたくありませんでした。罪人の魂を慕いたまいました。その者の愛を慕いたまいました。主はそれをもってご自分の渇きを消したまいました。またヨハネ伝第十九章二十八節をもご覧なさい。十字架に釘けられたもうた主イエスが『我渇く』と呼びたもうた意味はどうでしょうか。世に属ける水を慕いたまいましたのですか。否、そうではありません。人間の魂を慕いたまいました。人間の心の愛を慕いたまいました。『われ渇く』。主はただ今でもこれを叫びたまいます。いま主は渇きたまいます。ベツレヘムの水を慕いたまいます。人間の魂を慕いたまいます。『かれは己がたましいの煩勞(いたづき)をみて心たらはん』(イザヤ五十三・十一)。主イエスはご自分の苦しみの結果を見たもう時はその心に満足を得なさいます。その苦しみの結果は何でありますか。すなわち救われたる魂です。救われたる人間です。主はその救われたる者を見て満足を得たまいます。そのために喉の渇きが消えます。そのために苦しみが変わって喜びとなります。いま主の声、主の叫びを心の中に聞きとうございます。『われ渇く』『われ渇く』。サムエル後書二十三章十五節を見まするならば、この叫び声を聞くと思います。雅歌四章十節をご覧なさい。『わが妹(いも)よわが新婦(はなよめ)よ、なんぢの愛は樂しきかな、なんぢの愛は酒よりも遙にすぐれたり』。救われたる人々の心の愛は主に満足を与えます。主に喜びと楽しみを与えます。『われ渇く』。そうですから私共はどうして主に水を持って参ることができますか。第一には自分の心の愛を持って参りますならば、主の苦しみが変わって楽しみとなります。救われたる者の愛の心を持って参りまするならばカルバリ山の苦しみが変わって喜びとなります。婦人は産する時に苦しみますが、子の生まれたことによって喜びます。主が私共から愛を受けたもうならばそれによって満足を得たまいます。けれどもそればかりではありません。主はなおなおベツレヘムの井戸の水を飲みたまいとうございます。私共の周囲にある罪人の魂を慕いたまいます。目を挙げてご覧なさい、松江にも三万有余の魂があります。そのほか町々村々、或いは大いなる町、或いは山の中にある小さな村をご覧なさい。そこには活ける魂がたくさん亡びつつあります。主はそれをご覧なさいまして心の中に歎き悲しみたまいます。もう一度心の中に苦しみたまいて、『われ渇く』と叫びたまいます。どうぞ絶えずあなたがたの耳にこの叫びの響くことを祈ります。私共がもしこの叫びを聞かずにただ人間の亡び行くのを見て福音を宣べ伝えましょうか、人々がそれを受けません時には失望してしまうと思います。その果てはついに伝道をやめるかも知れません。或いは表面上それを続けておりましても、心中には伝道心が消えているかも知れません。或いは表面の信者を造るかも知れませんが、主の渇きをとどめる真正の信者を造ることはできません。けれども主イエスの渇きを見ますならば、主イエスが散り散りになりました魂を慕いたもうことを深く心の中に味わいまする時は、いつまでも伝道を続けとうございます。主に同情を持ちまして主の苦しみと歎きとを心の中に受け入れまして、いつまでも伝道を致しとうございます。魂を慕いたもう主イエスにいつまでも水一滴にても差し上げとうございます。十字架に釘けられたもうた主の『われ渇く』と言いたもう叫び声をお聞きなさい。
 三十人の中でただ三人がこれを聞きました。この部屋におありでなさいまする三十人の中でただ三人この叫びをお聞きなさいまするならば実に幸いです。その時ダビデはその兵士に水を持って参るように命じませんでした。主イエスも同じようにご自分の兵士に伝道をせよと命じたまいません。これは熱心なる兄弟でもたびたび陥る誤謬であります。私共は神の命令を受けるならば彼処の町に伝道しようと思います。神より特に命ぜられるならばここの村で説教しようと思います。けれどもそれは間違っていると思います。神はご自分の兵士にそういうことを命じたまいません。けれども兵士の心の中に『誰かベテレヘムの門にある井の水を我に飲しめんか』と叫びたまいます。或いはイザヤ書六章八節の叫びを聞かしめたまいます。神はイザヤに語りたまいませんでした。けれどもイザヤはこれを聞きました。どなたが喜んで主のためにかのところの町やこのところの村へ伝道に参りますか。そのところには必ず主の慕いたもう活ける魂があります。主は天国の栄光を得たまいました。けれどもそれらの栄光に勝りてそのところにある賤しい者の魂を慕いたまいます。どなたが喜んで主のために参りましょうか。
 兄弟姉妹よ、この叫びをお聞きなさい。今この声をお聞きなさい。ダビデの叫び声に聴き従った三人は如何なる者でありましたか。これらの三人はダビデが来るべき王であることを知りました。神の選びたまえる王なることを知りました。そうですから喜んでサウル王を捨てダビデの方に参りました。自分の安楽、財産、地位、家族など、すべてのものを捨てて喜んでダビデの賤しい洞穴へ参りました。これは何故かと申すならば、ダビデの栄光がその地を充たすべきことを待ち望んでおったからです。ダビデは必ず来るべき王であることを堅く信じておったからです。そうですから少しも疑わず、躊躇せずして、喜んでその洞穴に参りました。今までの栄華を捨ててダビデと共に苦しみと恥と貧困を得ました。それは幸いであると思います。ダビデと親しく交わることができました。だんだんダビデを愛する愛が、心に起こって参りました。喜んで生命をも捨てる心がだんだん起こって参りました。喜んでダビデのために身も魂をも捧げました。兄弟姉妹よ、神の兵士よ、私共各自に同じ精神がありますか。主イエスは来るべき王なることがわかりますか。それを確信することができますか。もし明らかにそのことがわかりませんならば私共はほんとうの献身ができないと思います。喜び勇んで人の魂を導く精神が起こりません。力を尽くし涙を流して伝道することができません。けれども主は来るべき王なることが明らかに分かりまするならば身を捧げて伝道することができると思います。兄弟姉妹よ、私共はほんとうに、この世を捨てた者ですか。サウル王に属しておった昔の栄華を捨てて、喜んでダビデの洞穴に参った者ですか。この世の快楽と名誉とを捨てて喜んで洞窟の中で主と共に苦を得ましたか。喜んでこの生涯の楽しみを捨てて主と共に来るべき栄光を待ち望む者でありますか。どうですか。兄弟姉妹よ、この三人は実にそういう者でありました。
 三人はダビデの声を聞きました。イザヤは神の御声を聞きました。パウロは主の御声を聞きまして、すべてのものを投げ捨てて喜んで国々を奔走して、主の渇きをとどめんがために主に水を注ぎました。ここにおありなさる兄弟姉妹の中に喜んで主の叫びを聞く三人がありますか。ダビデの叫びを聞きました三人が自分の愛する者の願いを充たすには、必ず困難を経なければなりませんでした。戦争を経て水を求めなければなりませんでした。自分のいる所と井戸の間には敵の軍勢がおります。その敵の間を通り抜けて水を汲まなければなりませんでした。ちょうどその通りにあなたがたと人々の魂の間には敵の軍勢が必ずあります。
 伝道は決して安楽なる事業ではありません。伝道は戦争です。あなたがたは心の安楽なるがゆえ、また身の気軽なるがゆえに伝道をしとうございまするならば、いま伝道をおやめなさる方がかえってよろしいかも知れません。伝道は必ず苦しみです。戦争です。十字架を負うことです。必ず敵に向かって困難と危険なる目に遭うことです。私共はその通りに伝道を致しませねば、必ず井戸より水を汲むことはできません。或いは表面の信者を造ることはできますかも知れません。または立派なる教会を建てることはできるかも知れません。けれども、主の渇きを止めることはできません。主に水を捧げることはできません。兄弟姉妹よ、あなたがたは武具を着けて戦争に出ることができましょうか。今この変貌山を降りてあなたがたは悪魔に向かわねばなりません。この幸いなる集会を辞して、隠岐、米子、境、今市、広瀬、浜田、大東など、各自持ち場に帰らなければなりません。そこにて安らかなる生涯を暮らすことはできません。悪魔と戦わなければなりません。今までの伝道をご覧なさい。ほんとうの戦でしたか。或いは義務ではありませんでしたか。一週間何回の訪問、何時間の説教、ただそればかりに留まりましたか。或いは果たしてほんとうの戦場でしたか。今までの伝道地は果たしてほんとうの戦場でしたか。どうか歎き叫びたもう主の御前に深くお省みなさることを望みます。今この教役者会を閉じますが、あなたがたはどういう目的を持って世に向かいますか。このサムエル後書二十三章十六節のような目的ですか。『三勇士乃ちペリシテ人の陣を衝き過てベテレヘムの門にある井の水を汲取てダビデの許に携へ來れり』。どうですか。そういう精神をもって帰りますか。この三勇士のように剣を抜いて戦争に出る精神がありますか、どうですか。主イエスを愛する愛のためにそれをなす決心がありますか。残りの二十七人はそれは愚かなことであると思うかも知れません。けれども三人はダビデを愛する愛のために喜んで参りました。あなたがたはいかがですか。
 よほど以前には、英国にても子供が工場に働いておりました。或る所に一人の寡婦と十二歳ぐらいの子供が住んでおりました。この寡婦は身体が弱いものですから充分に働くことができません。そうですからその子供は毎日毎日工場に働きに参りまして、母子二人やっとその日の烟を上げておりました。しかるにここに一つの心配すべきことが起こって参りました。それは他でもありません。その子供の働いております工場の煙突の礎が弛んで参り、いつ倒れるかも知れないということでした。或る日の朝、その子供は平生通りに起きて朝食を食べましたが、工場へ出ることを躊躇しております。母に申しまするには、あの煙突が今日あたり倒れるかも知れませんから今日だけは参るのを許して下さいと申しました。けれども母はその煙突の実状を知りませんから愛をもって行くことを勧めました。一日休みますならばその週間の家賃が払われませんから、愛をもって行くことを勧めました。その時にその子供は『お母さん、私はあなたのために参ります。あなたを愛する愛のために参ります』と申して、そのまま出勤いたしました。これは朝の五時頃のことでした。しかるに九時ごろその寡婦が家にいて働いておりますと、にわかに門前に多くの人の足音が聞こえました。そして倒れたる戸の前に白き布の上に横たわっているものがあります。それは何でありましたろうか。小さい子供の屍でした。すなわち煙突が倒れたために多くの人が死に、この子供も同じく死んだのであります。
 私共は主のために参りましょうと言うことができますか。私共のために生命を棄てたもうた主のために戦場に出て悪魔と戦うことができますか、どうですか。今までの安らかなる伝道を捨て、ほんとうに悪魔と戦うことができますか。ここに三人の勇士があれば必ず成功を得ると思います。この三人の精神はむしろ黙示録第十二章十一節の精神でした。『彼等は死に至るまで己が生命を惜しまざりき』。どうかこういう精神をもって伝道に参りたいものです。ピリピ書第一章二十節をご覧なさい。『生くるにも死ぬるにも我が身によりて、キリストの崇められたまはんことを切に願い』。そのとおりにパウロは喜んで主の犠牲となりました。灌祭となりました(ピリピ二・十七)。三人はその水を求めるためには自分の血を流すような事業をしました。『是は生命をかけて往し人の血なりと』。たとえ表面では血を流しませんでも、それほどの事業をいたしました。実にこれは尊いものです。人間の生命のように尊いものであります。神はこれを尊みたまいます。兄弟姉妹よ、あなたがたはこのとおりに死に至るまで生命を惜しまずに伝道いたしまするならば、たとえ教会や信者の前に名誉を得ませんかも知れませんでも、あなたの事業、あなたの生涯は神の御前に流されたる旨き酒となります。灌祭となります。『我が血を灌ぐとも我は喜ばん』。パウロは神の犠牲の灌祭とならんがために喜んで自分の血を灌ぎました。兄弟姉妹よ、あなたはあなたのものではありません。いま主は義勇兵を招きたまいます。民数記略二十八章二節をご覧なさい。『わが禮物(そなへもの)わが食物なる火祭わが馨(かうばしき)香(にほひ)の物は汝らこれをその期にいたりて我に献ぐることを怠るべからず』。神は火祭を求めたまいます。その言葉の響きは恐ろしいと思います。『一匹(ひとつ)の小羊を朝に献げ』(四節)『またその灌祭は小羊一匹に一ヒンの四分の一を用ふべし。即ち聖所(きよきところ)において濃酒(こきさけ)をヱホバのために灌ぎて灌祭となすべし』(七節)。神はもはやご自分のために小羊を供えたまいました。この小羊はもはや壇の上に載せられてあります。主はあなたのために生命を棄てたまいました。主はこの世の活ける魂のためにご自分を捨てたまいました。小羊はもはや壇の上に供えられてあります。けれどもそれは全き供え物ではありません。神の御前に全き供え物ではありません。それに七節にある灌祭を加えなければなりません。その小羊の上に自分の生命の血を流して神の御前に全き献げ物としなければなりません。どうぞ屠られたる小羊をご覧なさい。至聖所に入って流されたる血をご覧なさい。あなたがたはその上に自分の血を流して、主の御前に、父なる神の御前に灌祭をお供えなさい。
 


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