出エジプト記第二十四章



 又モーセにいひたまひけるは なんぢアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老としよりとゝもにヱホバのもとのぼりきたれ しかして汝等なんぢらはるかにたちてをがむべし ── 一節

 神はここに七十人の長老もモーセとともに山に上ることを望みたまいましたのは、大いなる恩恵めぐみでありました。十九章二十章において、イスラエルのたみはすべて山の上にて神を拝せんとしました。けれども彼らは神の恩恵を受けようとは思わず、ただ神の誡命いましめだけを望みました。人の能力、人の意志をもって神を拝せんとしたのであります。人はおのれによりて神を拝する資格なく、また神の命令を守る力もありません。そのゆえについに失敗しなければなりません。そうですから十九章において彼らはのろいを得ました。しかし今、神はここに七十人をえらびて恵みを示し、再び神に近づき得る道を示したまいます。十九章においては、民はみな己を頼んで律法おきてを見ました。そのゆえにシナイ山は恐怖の処であり、また暗黒の処でありました。しかし二十四章においては、民は神に頼りて恩寵を見ました。そのゆえに同じシナイ山は感謝の処であり、光明の処でありました。神は常に同じく、シナイの山は終始変わりませんが、神の宝座に近づく時にこの反対の有様が私共の中に起こるのは何故なにゆえでしょうか。これはただ、贖罪しょくざいの血があるとないとにることであります。血をそそがれて後は()、モーセのごとく進んで山に上り()、神を見て拝することができます()。

 モーセ一人ひとりヱホバに近づくべし 彼等はちかよるべからず 又たみもかれとゝもにのぼるべからず ── 二節

 昔モーセはイスラエル人の仲保者で、神の前に血を灌ぎ、民の幾分なる七十人を率いて神に近づかせました。いま私共は主イエスの全き贖罪と仲保によりて恐れなく神に近づくことを得ます。これは実に大いなる特権であります。

 モーセきたりてヱホバのすべてことばおよびそのすべて典例おきてたみつげしにたみみな同音どうおんこたへて云ふ ヱホバののたまひしことばは皆われらこれをなすべし ── 三節

 民はモーセによりて神のことばを聞き、異口同音にみな我等これをなすべしと誓いました。彼らは大胆にこの誓言をなし、献身を決心しました。けれども彼らは三週間もしないうちに、三十二章においてきんの牛をてこれを拝し、罪悪の奴隷となりました。これは少しも怪しむべきことではありません。彼らはただ己の力に頼りてこの誓いをなしましたから、これを行うことができないのはむしろ当然のことであります。神の恩寵によらず、信仰によらず、霊によらずして、肉によりて誓いをなす者は、いつでもこの通りであります。

 モーセ、ヱホバのことばをことごとく書記かきしるし朝つとおきいでゝ山のふもとだんを築きイスラエルの十二の支派わかれにしたがひて十二の柱を建て しかしてイスラエルの子孫ひとびとうちわか人等ひとたちを遣はしてヱホバに燔祭はんさいを献げしめ牛をもて酬恩祭しうおんさいを供へしむ ── 四、五節

 神は、いまだ民が近づくことができませんから、彼らをしてけがれたる陣営より少しくのぼりて山のふもとに壇を築かしめ、そこで燔祭はんさい酬恩祭しゅうおんさいを献げしめ、罪のきよめをさせんとしたまいました。それゆえ一人進んで神の命令を聞いたモーセは、くだってその命令のごとく若き人等を遣わしてこれを行わせました。モーセはその血を取りて半分を壇に灌ぎ、半分を民に灌ぎて、罪のあがないをなし契約を確かめました(六〜八)。ヘブル書九章十三節より十八節まではこれを解釈いたします。すなわち遺書というものは破ることのできぬ契約であります。けれどもこれをしるした契約者の生きている間は、その契約の価値がありません。何故ならば、これを録した者は或いはこれを変え、またはこれを破ることができるからであります。されどもこれを録した者が死にましたならばもはや破ることができません。変わらない契約としていつまでも残ります。遺書の力ある所以ゆえんは、これを録した者が死んだことを表します。そうですから旧約においては牛や羊の血によりて契約を立てました。新約においては十字架によりて契約が成立しました。神の子が十字架によりて死し、人もまた十字架によりて死し、両方が死んで永久の契約が確かめられました。十字架の血は贖罪の材料で、また契約の印であります。謀反人むほんにんは王と契約する資格がありませんように、罪人つみびとたる私共は神と契約を結ぶことができません。まず契約を結ぶ前にその当然の罰を受けるか、または罪のゆるしを受けて義とせられなければなりません。人が聖なる神と契約を結ぶには、まず贖罪がなければなりません。カルバリの十字架の血は私共の罪を潔めて義としますが、それと同時に、その血は義とせられた私共が神のものとせられたという契約の印となりました。そのように十字架には二つの意味があります。一つは罪の贖い、もう一つは契約であります。聖晩餐の時にしゅの言いたまいました言葉は明らかにこれをあらわしております。すなわち、『これ新約のわが血にして罪をゆるさんとておほくの人のためながす所のものなり』(マタイ二十六・二十八)。

 かくてモーセ、アロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老としよりのぼりゆきて ── 九節

 彼ら七十人はこの血のゆえに山に上ることができました。罪に汚れたる私共も、カルバリにおいて流された血のために聖なる神に近づくことができるのであります。

 イスラエルの神を見るにその足のしたには透明すきとほれる青玉あをだまをもて作れるごとき物ありて耀かゞやける天空そらにさも似たり ── 十節

 神を見るとは心の中に見たのであります。詩篇六十三篇二節、ハバクク書一章一節にも同じ字が用いられてありまして、黙示を受けることと同じ意味であります。彼らは神の神聖なること、および天にける栄光を示されて見たのであります。青き玉の青い色は天の色を示し、聖なることを示します。

 神はイスラエルのこの頭人等かしらたちたちにその手をかけたまはざりき 彼らは神を見又食飮くひのみをなせり ── 十一節

 この節にある『神を見』の見るは十節の見るとは違って、イザヤ書三十章十節にある字と同じ字で、夢を見るとか幻を見るとかいう場合に用いられています。『食飮くひのみをなせり』とは酬恩祭において食い飲みしたので、もとより厳粛なることであります。けれどもこれは神と人との和睦を示すものであります。彼らは血によりて、近づくべからざる神とやわらぐことを得ました(ロマ書五・二)。

 さきに十九章においては民は恐れおののき、神は彼らを近づかせたまわず、もし近づくならば、神のきよきのゆえに彼らは殺されねばなりませんでした(十九・二十一二十四)。けれども今この七十人は神を見、恐怖はなく、喜楽よろこびあふれています。これは彼らが血を受けたからであります。十九章は旧約的であると言うことができます。いま私共は主の血によりて恐れることなくまたはばかることなくして神に近づくことができるのは、誠に幸いな恩寵ではありませんか。

 こゝにヱホバ、モーセにいひたまひけるは 山にのぼりてわれきた其處そこにをれ われわが彼等を敎へんためにかきしるせる法律おきて誡命いましめのするところの石の板をなんぢあたへん ── 十二節

 モーセは神に呼ばれて山に上り、長老を山の麓に待たせておらせました。けれども三十二章を見ますと、彼らはちょうどゲツセマネにおいて弟子等が祈ることができずして眠ったように、モーセを待つことができずして民の中に帰り、民と一緒になって偶像を作り、大いなる罪に陥りました。神の栄光を見ては喜びを得ましたけれども、不信仰なる彼らは待ち通すことができず、忍ぶことができませんでした。

 モーセその從者じうしゃヨシユアとゝもにたちあがりモーセのぼりて神の山に至る ── 十三節

 ここに一人、私共の学ぶべき人があります。すなわちヨシュアであります。彼は神に呼ばれたのではありませんが、神の栄光を望んでこれを切に望み、ついに大胆にも立ちてモーセに従いました。神はかかる大胆なる信仰を愛し、彼にご自身の栄光を示すことを惜しみたまいませんでした。エリシャがエリヤに従ったのもその通りでありました。どうぞ私共は憚ることなく信仰をもって進み、恩寵の座に近づきとうございます。七十人の長老のように退きて罪を犯してはなりません。彼らもまたヨシュアのごとく進めばよかったのですが、そうしませなんだ。神は私共にヨシュアのごとくあることを望みたまいます。進んで神の栄光をご覧なさい。退けば必ず罪を犯すようになります。

 しかしてモーセ山にのぼりしがくも山をおほひをる すなはちヱホバの榮光えいくゎうシナイやまの上にとゞまりてくも山をおほふこと六日むいかなりしが 七日なぬかにいたりてヱホバくもうちよりモーセをよびたまふ ヱホバの榮光えいくゎう山のいたゞきもゆる火のごとくにイスラエルの子孫ひとびとの目に見えたり ── 十五〜十七節

 ヨシュアはモーセと共に上りました。神は彼に大任を与えたまいました。彼らは十二節の約束のものを得んがために食を断って待つこと六日間、七日目に至って初めて聖声みこえを聞きました。彼らは聖声によりていよいよ深く進み、ついに雲の中に入りました。彼らはそのようにいよいよ幸福の中に進みましたが、イスラエルの民はいよいよ恐れました。遠ざかって恐れる彼らには、この恵みの座も燃える火と見えました。

 十九章のシナイ山も二十四章のシナイ山も同じように恐ろしい火のようでありました。けれどもさきには未だ上ってはならず近づいてはなりませなんだが、この時には上ることを得、近づくことを得ました。信仰により大胆に進み入りますならば、燃える恐るべき火も恵みと憐れみの場所となります。義の恐ろしき神も、血潮の功績によりて愛と和睦の神として私共に現れたまいます。されども臆して来ない者、また頑固で信じない者は、この神の真相を見ることができず、ただ恐るべき義しき外貌のみを見ます。私が初めて献身を教えられました時には、献身とはただ苦しい重荷のようにばかり感ぜられ、神は恐ろしい御方おかたとばかり見られました。されども己を見ず、神の恵みを見、血潮を信じて大胆にこの身を主の聖手みてに任せました時に、誠に平安を得、幸福を得ました。遠くより望む人の眼には燃える火のようなシナイ山も、近づいてその中に入りますれば神との楽しい交際の場所であります。ダニエル書三章の三人の青年には、炉の火もこれを害することなく、不信仰なるバビロン人には恐怖がありましたが、彼らはかえって平和で栄光の中にありました。大胆なる信仰は神の喜びたもうところで、私共の学ぶべきところであります。

 なお、終わりに一言ひとこと申したいことは、神は直接に民に語らんと望みたもうことであります。されどもイスラエルの民の耳には雷鳴のごとくまたラッパのごとくでありましたから、とてもそれにえることができず、怖れ戦いてこれを避け、モーセにその聖旨みむねを伺わせました。彼らは神より直接に聞く特権を捨てて、人によりて聞かんといたしました。今の私共にもこういうことはありますまいか。救われました私共は憚らず神の聖前みまえでてその聖声みこえを聞くべきであります。されども神の声は、肉に属ける弱い人にはあまりに強くてとても堪えられませんですから、或いは牧師により、或いは書物により、そのほかの方法によって神の栄光を見んとし、その聖旨を伺おうといたします。これは決して悪いのではなく、しりぞくべきことではありませんが、もしそのために自分が神に近づくことを怠り、神の栄光に遠ざかりますれば、実に危ういことであります。申命記五章の二十四節より二十七節までをご覧なさい。そのように彼らは神に近づくことを避け、モーセの仲保を願いました。神はこれをもとがめたまいません。二十八節にあるように、いずれにしてもよしとしたまいます。マリアとマルタの行為をご覧なさい。主はマリアのごとくあることを最も好みたまいますけれども、さればとてマルタの行いを咎めたまいません。それと同じく、神は彼らをしてその願いのごとく天幕に帰らしめ(申命記五・三十)、モーセをして立ちて命令を聞かしめたまいました(三十一)。さて、神は常になるべく多くの恵みを与えんと望みたもうのでありますが、私共はイスラエル人民のようにあることを選びましょうか、またはモーセのようにあることを選びましょうか。イスラエル人は自分らの天幕に甘んじて帰り、モーセはいよいよ進んで栄光の『濃雲あつきくも』に入りました(出エジプト記二十・二十、二十一)。彼は光より光に、恩寵より恩寵に進みました。私共は教会の礼拝において、また密室の祈禱において、たびたび神の栄光を示され、またその聖旨を聞かせられます。けれども軽率なるために常にそのおりを失い、低い処に満足して、再び自分の天幕に帰ることはありますまいか。濃き雲に進んだモーセは私共のよい模範であります。神の栄光を見、また神の聖声を聞きましたならば、どうか敬虔に敬虔を加えてますます神に近づき、いよいよ新たなる経験に進みたいものであります。



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