神はヨナ以前の預言者をもって、全世界の人類の罪悪を表しこれに刑罰を加えるべきことを宣べしめたまいました。されども愛に富みたもう神は、その罪人を救わんとして、この時ヨナをして福音を伝えしめたまいました。
ヱホバの言アミタイの子ヨナに臨めり いはく(一)
この時にヨナは神の使者となりました。私共も神の言葉を受けた、神より遣わされた伝道者でありますれば、ヨブ記三十二章十八節より二十一節までの経験がなければなりません。『われには言滿ち わが衷の心しきりに迫る わが腹は口を啓かざる酒のごとし 新しき皮囊(かはぶくろ)のごとく今にも裂んとす われ説いだして胸を安んぜんとす われ口を啓きて答へん かならず我は人に偏らず 人に諂はじ』。
起(たち)てかの大なる邑(まち)ニネベに往きこれを呼はり責めよ そは其惡はわが前に上り來ればなりと(二)
神の言葉はいかにしてヨナに臨みましたかならば、彼は忠実にたびたび神に祈りました時、ユダヤとほかの国々の有様を考え、なおダビデの詩篇やそのほかの聖書を読みまして、神が罪人を罰したもうことを知りましたでしょうから、そのために神は『起てニネベに往け』と命じたもうたと思います。神は私共に向かってもたびたびこの命令を与えたまいます。ピリポ、アナニヤ、ペテロらが成功しましたのは、この『起て往け』とのご命令に従ったからであります(使徒行伝八・二十六;九・十、十一;十・十九、二十)。このころ、ニネベはアッスリヤ国の首府でありまして、諸国を征服し、はなはだ繁盛を極めておりまして、従って罪悪も盛んに行われておりました。ヨナがそこの人々に福音を宣べ伝えた時、初めは必ず軽蔑と迫害とを受けたに相違ありません。さて、私共の行くべきニネベはどういうところでありましょうか。或いは近いところかも知れません。或いは遠いところであるかも知れません。頑固な町かも知れません。私共を迫害する村であるかも知れません。今日この集会において身も魂も神に献げて祈ることは易いことでありますが、勇ましく立ちてニネベに往くことは難しいことであるかも知れません。しかし神がニネベの幾十万の人々を悔い改めに導くべき命令をヨナに与えたまいましたことは、彼にとりてこの上もない栄誉でありましたように、私共に難しい伝道を命じたまいましたならばそれは大いなる栄誉であります。私共はいったん命令を受けてニネベに参りましたならば、その地の罪を知り、同情を表し、涙をもって福音を宣べ伝えなければなりません。これはキリストの精神であります。なお、ついでに申しておきますが、使徒行伝十六章九節は、神がほかの方法をもってその命令を与えたもうたところです。
しかるにヨナはヱホバの面(かほ)をさけてタルシシへ逃れんと起(たち)てヨツパに下り行けるが機しもタルシシへ往く舟に遇(あひ)ければその價値(あたひ)を給(あた)へヱホバの面をさけて偕にタルシシへ行んとてその舟に乗れり(三)
ニネベに往けと命ぜられましたヨナが、自分勝手にタルシシに行こうと企てましたように、或る人は神の聖声を聞くことを望まずに、専ら世のことばかり勉める者があります。ヨナはタルシシに伝道する目的があったかどうかは知りませんが、これは神の命じたもうたことではありません。私共もヨナのように、神の命じたもう所に行くことを好まずに、たびたびわがままに自分の欲する所に行くことはありませんか(創世記四・十六参照)。しかし何処に行っても神の聖顔を免れることはできません。『我いづこにゆきてなんぢの聖靈(みたま)をはなれんや われいづこに往てなんぢの前(みまへ)をのがれんや』(詩篇百三十九・七)。
ヨナがニネベに往くべき神の命令を避けて逃れんとしました時、サタンはその機に乗じてタルシシに行く船を準備しましたように、私共が神の聖顔を避けんとします時にサタンは船を準備して誘い、タルシシに至らせます。
時にヱホバ大風を海の上に起したまひて烈しき颺風(はやて)海にありければ舟は幾(ほと)んど破れんとせり(四)
ヨナは神を離れましたが、神はヨナを離れたまわず、彼に大風の困難を与えて彼を悔い改めに導きたまいました。私共も神を離れますならば神は困難の鞭をもって神に帰らしめんとしたまいます。
かゝりしかば船夫(ふなびと)恐れて各(おのおの)おのれの神を呼び又舟を輕くせんとてその中なる載荷(つみに)を海に投すてたり 然るにヨナは舟の奥に下りゐて臥て酣睡(うまい)せり(五)
神に逆らった預言者と同船しますれば危難を受けなければなりません。使徒行伝二十七章においては、神はパウロによりて同船の人々を救いたまいましたが、これに反してもし私共が神に逆らいますならば他人にまで害を及ぼすことがあります。さて、ヨナはかように暴風のために船が覆らんとしますのに安眠していましたように、堕落した信者は神の刑罰のもとにありてもかえって安眠して幸福を夢見ています。出エジプト記三十二章十節を見ますれば、人民が偶像を拝し、坐して飲み食いし、立ちて戯れていましたその時に、神はこれを滅ぼす決心をしていたまいました。今もなおその通りで、人々は神に逆らいて平気でおりますが、神の刑罰を免れることはできません。神の聖声に従わない伝道者もまた神の刑罰を免れることはできません。
船長(ふなをさ)來りて彼に云けるは 汝なんぞかく酣睡するや 起て汝の神を呼べ あるひは彼われらを眷顧(かへりみ)て淪亡(ほろび)ざらしめんと(六)
これはヨナの悔い改めの始まりでありまして、神を信ぜざる異邦人はヨナの心を刺戟しました。神の聖旨を異邦人に知らしむべき預言者たるヨナが、かえって彼らより勧められ、肉体の眠りのみならず霊の眠りよりも醒まされました。この時にヨナは堕落していまして、誠心より神を呼び、助けを求めることができなかったからであります(箴言一・二十五〜二十八参照)。
かくて人衆(ひとびと)互に云けるは 此災の我儕(われら)にのぞめるは誰の故なるかを知んがため去來(いざ)鬮(くじ)を掣(ひか)んと やがて鬮をひきしに鬮ヨナに當りければ(七)
これはヨナが悔い改めに至る第二の点であったと思います。彼が籤に当たりました時、必ず心の中に罪を犯したことを悟ったに相違ありません。また船中の人々も彼が罪人であることを知ったでありましょう。民数紀略三十二章二十三節に、『然ど汝らもし然せずば是ヱホバにむかひて罪を犯すなれば必ずその罪汝らの身におよぶと知べし』とあります。またルカ伝十二章二節に『蔽はれたるものに露れぬはなく、隱れたるものに知られぬはなし』とあります。今隠れたることも、後必ずみな顕れる時が来ります。主の再臨の時には誰の罪もことごとく顕れます。そうですから主の血によりてその罪を洗い潔められなければなりません。
みな彼に云けるは この災禍(わざはひ)なにゆゑに我らにのぞめるか 請ふ 告げよ 汝の業は何なるや 何處より來れるや 汝の國は何處ぞや 何處の民なるや(八)
船中の人々が、ヨナのヘブル人であるということを知らなかったのは、彼が言葉をもって神を顕さないのみならず、行いをもってその栄光を顕すことがなかったからであります。これは堕落した信者の有様であります。私共はよし言葉において神を顕さない時にも、行いにおいてこれを顕すべきであります。
ヨナ彼等にいひけるは 我はヘブル人にして海と陸(くが)とを造りたまひし天の神ヱホバを畏るゝ者なり(九)
ヨナは船に乗る時は神を畏れませんでしたが、今は神を畏れるようになりました。彼は以前には、外部には海と陸とを造りたまいし神を信じましたが、その確信はありませんでした。もし最初よりこれがありましたならば、決してこの船には乗らなかったに相違ありません。いま眼前に神の聖業を見、その与えたまいました災禍に遇って、初めて神を畏れる心が起こりました。これは聖霊がヨナの心に実を結んだためであります。
是に於て船夫甚だしく懼れて彼に云けるは 汝なんぞ其事をなせしやと その人々はかれがヱホバの面をさけて逃れしなるを知れり 其はさきにヨナ彼等に告たればなり(十)
船夫が懼れてヨナの悔い改めを助けました時、彼は自分の罪を怖れ、また神の大能とその御怒りとを知りて大いに懼れましたでしょう。
ヨナ彼等に曰けるは われを取りて海に投いれよ さらば海は汝等の爲に靜かにならん そはこの大なる颺風の汝等にのぞめるはわが故なるを知ればなり(十二)
ヨナは真に悔い改めましたからこのことを言うことを得ました。『わが故なるを知ればなり』。すなわち自分のために他人にまで災禍を及ぼしたのは悲しむべきことであると思いました。ヨシュア記七章を見ますと、一人のアカンが神に逆らいて罪を犯したために全体が戦に敗北しましたが、今ヨナのために船中の人がみな災禍に遇いました。私共もこのことによって警戒しとうございます。私共の過失は伝道の妨害となります。また私共の中に罪を犯す者がありますれば、その人が罰を受けるばかりでなく、他人にまで災禍が及び、教会進歩のために大いなる障碍となります。『一人の惡人は許多の善事(よきわざ)を壞(そこな)ふなり』(傳道之書九・十八)。
すなはちヨナを取りて海に投入たり しかして海のあるゝことやみぬ(十五)
ヨナが人々のために生命を捨てましたことにより海が静かになったのでありますが、罪なき主イエスが罪人のために自ら生命を捨てたまいましたから、私共が神と和らぐことのできないわけはありません。
かゝりしかばその人々おほいにヱホバを畏れヱホバに犧牲(いけにへ)を獻げ誓願を立たり(十六)
ヨナの悔い改めと神の聖業とを見ました船中の人々はみな主を畏れて悔い改めました。しかしこの時ヨナは、未だ全くその心が改まっていたのではありません。されども人々を導いたのでありますから、私共も心全く潔められていなくとも人々を導くことができます。しかしそれは神と偕に歩んでいる証拠ではありませんから、このことを深く覚えていて自ら戒めなければなりません。『その日おほくの者、われに對ひて「主よ主よ、我らは汝の名によりて預言し、汝の名によりて惡鬼を逐ひいだし、汝の名によりて多くの能力(ちから)ある業を爲ししにあらずや」と言わん』(マタイ伝七・二十二)。
さてヱホバすでに大なる魚を備へおきてヨナを呑しめたまへり ヨナは三日三夜魚の腹の中にありき(十七)
ヨナはその罪の罰として、いま暗き危うき所である魚の腹の中に虜となり、苦の中に囲まれました。されども二章においてそこより救われました。誰でも罪を犯しますならばヨナのごとく暗黒の経験を得なければなりません。
この全体の祈禱は詩篇より引いてきた言葉であります。神は私共に祈禱の手本として詩篇を与えたまいました。ヨナは平生からこれを学んでおりましたから、いま自分の境遇に当て嵌まる言葉をもって祈りました。主イエスは感謝祈禱の時にしばしば詩篇の言葉を用いて祈りたまいました。十字架上においても、やはり詩篇二十二篇や六十九篇の言葉を用いたまいました。また、昔から多くの聖徒も詩篇の言葉をもって祈りました。
ヨナが引用しました詩篇の言葉にはなはだ難しい所がありますが、しかしそれによりてヨナの堕落していた有様をよく知ることができます。私共も、神を離れてヨナのような境遇に陥りますならば、この五節のような懺悔をしなければなりません。
曰けるは われ患難(なやみ)の中よりヱホバを呼びしに彼われこたへたまえり われ陰府の腹の中より呼はりしに汝わが聲を聽たまへり(二)
イエスの御在世中に多くの癩病人がありましたが、癒された者はただ数人ばかりでありました。彼らは信仰をもって願いましたから癒されたのであります。誰でもヨナのごとき熱心をもって祈りますれば、イエスは私共の心の中にあるいかなる苦をも闇をも全く取り除きたまいます。『わが心くずほるゝとき地のはてより汝をよばん なんぢ我をみちびきて わが及びがたきほどの高き磐にのぼらせたまへ』(詩篇六十一・二)。『われ困苦(なやみ)にあひてヱホバをよびしかば 我にこたへたまへり』(詩篇百二十・一)。これはヨナの経験でありました。
汝我を淵のうち海の中心(もなか)に投いれたまひて 海の水我を環(めぐ)り汝の波濤(なみ)と巨浪(おほなみ)すべて我上にながる(三)
ヨナはこの罰が神の慈悲より出でたる刑罰であることを知りました。彼の有様は、ちょうど詩篇五十五篇五節及び八節の有様でありました。この節の終わりの方は詩篇四十二篇七節の言葉であります。その時ダビデはヨナよりもなお一層怖るべき有様でありましたから、ヨナはその言葉を用いました。この言葉は懺悔だけではありません。祈禱をも含みます。ヨナはこの怖るべき刑罰の中にありましたが、神は必ずこの罰より救い出す力のあることを信じて祈りました。私共にはそのような信仰がありましょうか。心に暗黒と苦痛があります時に、神はこれを取り除きたもうと信じますか。悪しき習慣の奴隷である時に、神はこれより救い出したもうと信ずることができますか。
われ曰けるは 我なんぢの目の前より逐れたれども復(また)汝の聖殿(きよきみや)を望まん(四)
この始めの半分は、詩篇三十一篇二十二節の言葉であります。『われ驚きあわてゝいへらく なんぢの目のまへより絕れたりと 然どわれ汝によびもとめしとき汝わがねがひの聲をきゝたまへり』。ヨナはまたソロモンの祈禱をも覚えておりました。すなわちこの終わりの半分は、列王紀略上八章三十三、三十四節の言葉より来ています。『若(もし)爾の民イスラエル 爾に罪を犯したるがために敵の前に敗られんに 爾に歸りて爾の名を崇め此家にて爾に祈り願ひなば 爾天において聽き爾の民イスラエルの罪を赦して彼等を爾が其父祖(せんぞ)に與へし地に歸らしめたまへ』。私共は神殿を望むことはありませんが、十字架を望みますならば、すべての禍より救い出されます。
われ山の根基(ねもと)にまで下れり 地の關木(くわんぬき)いつも我うしろにありき しかるに我神ヱホバよ 汝はわが命を深き穴より救ひあげたまへり(六)
このところを見ますと、ヨナは未だ魚の腹の中におりて、祈りの答えを得ず、救われていない時に、もはや答えを得て救われた者のように祈禱と共に感謝をしました。これは堅き信仰があったからであります。マルコ伝十一章二十四節を見ますと、『この故に汝らに告ぐ、凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、然らば得べし』とあります。ヨナはそのように未だ救いを得ないうちに、魚の腹の中より神は必ず祈禱を聴きたもうと信じて祈りましたから、救われました。前の二節においてもヨナは『彼われにこたへたまへり』、また『汝わが聲を聽たまへり』と申しております。詩篇三十四篇六節をご覧なさい。『この苦しむもの叫びたればヱホバこれをきゝ そのすべての患難(なやみ)すくひいだしたまへり』。
わが靈魂(たましひ)衷に弱りし時我ヱホバをおもへり しかしてわが祈なんぢに至りなんぢの聖殿におよべり(七)
この時、ヨナは詩篇十八篇六節を記憶していましたでしょう。『われ窮苦(なやみ)のうちにありてヱホバをよび又わが神にさけびたり ヱホバはその宮よりわが聲をきゝたまふ その前(みまへ)にてわがよびし聲はその耳にいれり』。私共も、艱難の時にも喜楽の時にも、常に聖書の言葉を記憶しておりますならば信仰がますます堅固になります。
されど我は感謝の聲をもて汝に献祭(さゝげもの)をなし 又わが誓願をなんぢに償(はた)さん 救はヱホバより出(いづ)るなりと(九)
ヨナは堅き信仰をもって、祈ると共に感謝をも致しました。私共も祈禱の時に得たりと信じますれば感謝すべきは当然のことであります。またヨナは初めは主の命令に従いませなんだが、今はその救いを得ましたので、神の命令に従う決心ができ、ただちにニネベに往くことを約束いたしました。
ヱホバ其魚に命じたまひければヨナを陸(くが)に吐出せり(十)
ヨナはこの時に祈禱の答えを得ました。すなわち光と自由を得ましたからいかに喜んだことでありましょう。いかに感謝したことでありましょう。私は答えを得ないために祈ることを中止したり、また何を祈ったか忘れるような場合もありますが、どうぞ答えを得るまで熱心に祈りとうございます。そして恵みを得ましたら、すぐさま喜びを人々に告げねばなりません。
ヱホバの言ふたゝびヨナに臨めり 曰く(一)
一度堕落しましたヨナに神はもう一度伝道の指令を授けたまいました。彼はさきに伝道の指令を受けました時、これを辞退しましたが、神はなおも彼に恵みを与えて彼を悔い改めに導き、その尊い使命を与えたもうたのであります。これはちょうど、ペテロが三度主を知らずと申しましたが、主はその罪を赦して、再び彼を立てて使徒となしたもうたと同じ憐憫であります。
起てかの大なる府(まち)ニネベに往きわが汝に命ずるところを宣よ(二)
ヨナは大いなる苦難に遭いました時、悔い改めの祈禱をなし、また神と約束を結びましたから、いま神はその約束をもって彼を試みたまいます。神はたびたびそういう試みをなしたもうことがあります。私共も苦難に遭います時、或いは厳粛なる集会の時に、神と契約を立てることがありますが、神は必ず試みを与えて、それが真正であるかどうかを調べたまいます。もしヨナの悔い改めは真正でありませんでしたならば、彼はこの時ふたたび逃げたでありましょう。けれども彼の悔い改めは真正でありましたから、ただちに立ちてニネベに往きました。
神は伝道者に伝道地を与えるばかりでなく、語るべき言葉をも与えたまいます。そうですから私共は神が遣わしたもうたところで、神が与えたもう言葉を語らなければなりません。神の遣わしたもうたところに参りましても神が命じたもう聖言を宣べ伝えませんならば、やはりこれも神に逆らうことになります。されども神の与えたもう聖言を伝えますならば、必ず大いなる結果があります。ですから神はたびたびその使者にその命令を与えたまいます。『ヱホバの使者(つかひ)バラムに言けるは この人々とともに往け 但し汝は我が汝に告る言詞(ことば)のみを宣べし』(民数紀略二十二・三十五)。『汝腰に帶して起ちわが汝に命ずるすべての事を彼等につげよ その面(かほ)を畏るゝ勿れ 否(しか)らざれば我かれらの前に汝を辱かしめん』(エレミヤ一・十七)。『彼等は悖逆(もとれ)る族(やから)なり 彼らこれを聽もこれを拒むも汝吾言をかれらに告よ』(エゼキエル二・七)。『人の子よ 我なんぢを立てイスラエルの家の爲に守望者(まもるもの)となす 汝わが口より言を聽き我にかはりてこれを警むべし』(同三・十七)。神の聖言を聴き、神に代わりてこれを宣べ伝えるのは、私共の職務であります。罪人は直接に神の聖声を聴くことができませんから、それを聴くことのできる私共が、いつも神の口より出ずる聖言、すなわち神より聴いたことを宣べなければなりません。私共は実際そう致しておりましょうか。自ら省みなければなりません。
ヨナすなはちヱホバの言に循ひて起てニネベに往り ニネベは甚だ大なる邑にしてこれをめぐるに三日を歷る程なり(三)
ヨナはニネベにおいて大いなる迫害に遭うかも知れんと怖れましたでしょうか。神の命令でありますから、やむを得ず立ちて参りました。彼には真正の伝道者の精神はありませんが、神の命に順う決心は善い決心であります。彼が人々に対する決心も、善くないというわけではありませんが、完全なる心ではありません。なぜかと申しますと、愛の精神から溢れ出たのでなくして、努めてしたことであるからであります。今日、ヨナのような伝道者が多くありますまいか。パウロのように愛に満たされた伝道者は実に少ないことであります。コリント前書九章十六、十七節をご覧なさい。『われ福音を宣傳ふとも誇るべき所なし、已むを得ざるなり。もし福音を宣傳へずば、我は禍害(わざはひ)なるかな。若しわれ心より之をなさば報を得ん、たとい心ならずとも我はその務を委ねられたり』。これはヨナの精神のようでありますが、その十六節の言葉にご注意なさい。『もし福音を宣傳へずば、我は禍害なるかな』。パウロはこれを深く感じていました。神の命は万国万民に福音を宣べ伝うべきことであります。コリント後書五章十四節には、パウロの真の精神がよく表れております。『キリストの愛われらに迫れり。我ら思ふに、一人すべての人に代りて死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり』。彼はキリストの愛に励まされて熱心に伝道をしたのであります。
ヨナその邑に入(いり)はじめ一日路を行つゝ呼はり曰けるは 四十日を歷ばニネベは滅亡(ほろぼ)さるべし(四)
ヨナはニネベに参りまして、ただ神の審判のみを伝えました。バプテスマのヨハネも、主イエスも、弟子等も、同じように神の審判を宣べ伝えましたから、私共も、神を知らない人に対して神の審判のあることを宣べ伝えなければなりません。ヨナは、四十日の後、その邑の滅ぼされることを感じて恐れましたが、諸君の伝道地はいかがですか。『ヨハネ、パリサイ人およびサドカイ人のバプテスマを受けんとて、多く來るを見て、彼らに言ふ「蝮の裔よ、誰が汝らに、來らんとする御怒を避くべき事を示したるぞ」』(マタイ三・七)。『斯く主の畏るべきを知るによりて人々に説き勸む』(コリント後書五・十一)。私共も自ら神の畏るべきことを知り、これを他人にも告げなければなりません。『われ神の前また生ける者と死にたる者とを審かんとし給ふキリスト・イエスの前にて、その顯現(あらわれ)と御國とをおもひて嚴かに汝に命ず。なんぢ御言を宣傳へよ、機(おり)を得るも機を得ざるも常に勵め、寛容と敎誨(おしえ)とを盡して責め、戒め、勸めよ』(テモテ後書四・一、二)。これは諸君に対する神の命令であります。
ルカ伝十一章三十節をご覧なさい。『ヨナがニネベの人に徴となりし如く‥‥‥』。またその三十二節『彼らはヨナの宣ぶる言によりて悔改めたり』。ヨナはニネベの人々に徴となりましたから、彼らはヨナの説教によりて悔い改めました。私共もヨナのような神の証人とならなければなりません。誰でも伝道者を見れば、その伝道者が神の能力によりて甦ったこと、すなわちヨナのように不思議なる救いの能力を経験していることを、悟るようでなければなりません。誰でも私共を見てこれを感じますれば、私共には必ず罪人を導く力があります。
神はたびたび、罪に陥った者のために伝道者を送って福音を宣べ伝えさせたまいますが、罪人はこれを聞かずして滅亡に向かって進みました。昔、ノアを遣わしたまいましたが、当時の人々はみな滅ぼされ、またロトはソドムに遣わされましたが、その町の民もみな滅ぼされました。神は今ニネベにヨナを遣わしたまいました。神は大いなる恩恵をもってこの滅ぼさるべき町に福音の使者を送りたまいました。神がヨナを送らずして初めからニネベを滅ぼしたまいましても、決して不公平なことはありません。されども愛に富みたもう神は、どうかして罪人を救わんとの聖旨より、滅亡の日に先立ちてこの福音の使者を送りたまいました。
かゝりしかばニネベの人々神を信じ斷食を宣(ふ)れ大なる者より小き者に至るまでみな麻布を衣(き)たり この言ニネベの王に聞えければ彼位より起ち朝服を脱ぎ麻布を身に纏ふて灰の中に坐せり また王大臣とともに命をくだしてニネベ中に宣(ふれ)しめて曰く 人も畜(けもの)も牛も羊もともに何をも味ふべからず 又物をくらひ水を飲べからず 人も畜も麻布をまとひ只管神に呼はり且おのおの其惡き途および其手に作(な)す邪惡(よこしま)を離るべし(五〜八)
この時ニネベ人はヨナが熱心な伝道者であると思い、その説教によりて悔い改めましたのを見れば、彼の働きは非常なものであったと思います。されども彼には真の熱心がありませなんだ。ただ神に命ぜられて、強いてやむを得ずニネベに参りましたので、神を愛する愛がありませなんだが、人間の眼には非常に熱心に見えました。私共は人間がいかに熱心であると見ましても、自ら深く省み、果たして燃え立つほどの熱心があって神を愛しているのか、或いはただ義務的に働く偽熱心であるかを、よく調べてみなければなりません。
ヨナはこの時、神より聞いた言葉のみを宣べ伝えましたから、ニネベは神の審判についてよく悟りました。すなわち審判は罪の結果で、救いを受けるためには悔い改めの必要なることを知りました。ヨナは審判だけを伝えましたのに、ニネベ人が悔い改めて救いを得べきことを悟りましたのは、ヨナと共に働きたもうた聖霊がこれを教えたもうたのであります。私共も、神学や聖書の教理を教えませんでも、ただ神の命じたもう言葉だけを伝えますれば、聖霊は必ず必要なる教えを悟らしめたまいます。ニネベ人は神の審判を聞くや否や断食をなし、麻布を着、ひたすら神に祈ることを致しました。今まで偶像を信じていましたニネベ人は初めて真の神を呼ばわり、各自罪を悔い改めんと決心しました。私共は、自分で人を教えようと骨を折るよりも、聖霊と共に働くことが肝要であります。聖霊と共に働きませんならば、いかに熱心に働き、いかに教え導きましても、何の成功もありません。
或は神その聖旨(みこころ)をかへて悔い其烈しき怒を息(やめ)てわれらを滅亡(ほろぼ)さゞらん 誰かその然らざるを知んや 神かれらの爲すところをかんがみ其あしき途を離るゝを見そなはし彼等になさんと言し所の災禍(わざはひ)を悔てこれをなしたまはざりき(九、十)
このニネベの町の人々は救われました。エレミヤ記十八章七、八節をご覧なさい。『われ急(にはか)に民あるひは國をぬくべし敗るべし滅すべしといふことあらんに もし我(わが)いひしところの國その惡を離れなば我之に災を降さんとおもひしことを悔ん』。このように、いま幾十万の人々が悔い改めましたから、神は災禍を下すことをやめて彼らを救いたまいました。そのために町中の人々はいかに喜びましたでしょうか。使徒行伝八章にあるサマリアのリバイバルの時に大いなる喜びがあったように、彼らも非常に喜んで、一所に集まって喜びまた感謝したことでありましょう。ただ人々の喜ぶのみならず、一人の罪ある者が悔い改めますならば天において大いなる歓喜がありますのに、まして何十万の人々が一時に悔い改めたのでありますから、天においてもいかに歓喜があったことでありましょう。
ヨナこの事を甚だ惡しとして烈く怒り(一)
神の預言者たるヨナは、かように天にも地にも大いなる歓喜のある時に一人喜ばないばかりでなく、かえって烈しく怒りました。彼には、神と共に喜び、また人と共に喜ぶ、同情の心がありませなんだ。私共の伝道においても、神と同じ心を有つことは第一の務めであります。
ヱホバ曰たまひけるは 汝の怒る事いかで宜しからんや(四)
神は同情なきヨナを怒らずして、かえって愛をもって彼の曲がった心を直そうとしたまいました。ああ神は実に寛容にして愛の充つる御方ではありませんか。
ヨナは邑より出てその東の方に居り己が爲に其處に一の小屋をしつらひその蔭の下に坐して府(まち)の如何に成行くかを見る ヱホバ神瓢(ひさご)を備へこれをして發生(はえ)てヨナの上を覆はしめたり こはヨナの首(かうべ)の爲に庇蔭(かげ)をまうけてその憂を慰めんが爲なりき ヨナはこの瓢の木によりて甚だ喜べり(五、六)
神はヨナの首のために蔭を設けて彼の憂いを慰めんがために、瓢をもって彼を覆わしめたまいました。これは、ヨナの身体に恵みを与え、どうかして彼を引き返そうとしたもうたのであります。列王紀略上十九章六節を見ますと、エリヤが同じような場合に陥っていた時に、神は同じように恵みをもって彼を取り扱いたもうたことを見ます。
ヨナは瓢の木によりて喜びました。これによりて彼の心はよく解ります。幾十万の人々の救われたのを喜ばなかった彼は、自分に蔭を覆うてくれる僅かばかりのものを喜びました。私共は何を喜んでおりましょうか。全世界よりも貴い価値ある霊魂の救われることを喜ぶべきであります。価値なき現世の物を喜んではおりますまいか。
されど神あくる日の夜明に虫をそなへて其ひさごを嚙せたまひければ瓢は枯たり かくて日の出し時神暑き東風を備へ給ひ又日ヨナの首を照しければ彼よわりて心の中に死ることを願ひて言ふ 生ることよりも死るかた我に善し(七、八)
ヘブル書十二章十節のごとく、神は苦難をヨナに与え、これを懲らしめたまいました。『そは肉體の父は暫くの間その心のままに懲しむることを爲(せ)しが、靈魂(たましひ)の父は我らを益するために、その聖潔(きよき)に與らせんとて懲しめ給へばなり』。神はヨナを捨てたまわず、なお深く彼を愛したまいました。
神またヨナに曰たまひけるは 瓢の爲に汝のいかる事いかで宜しからんや 彼曰けるはわれ怒りて死るともよろし ヱホバ曰たまひけるは 汝は勞をくはへず生育(そだて)ざる此の一夜に生じて一夜に亡びし瓢を惜めり まして十二萬餘の右左を辨へざる者と許多の家畜(けもの)とあるこの大なる府ニネベをわれ惜まざらんや(九〜十一)
神は慈愛をもってヨナを警醒したまいました。すなわち右左を弁えざる者や家畜を憐れみたもうことを彼に示して、それによりて彼の心を醒まさんとしたまいました。私共の悲しむことは何でしょうか。瓢の枯れたことではありますまいか。或いはまた真正に多くの人の滅亡に至ることを悲しんでおりますか。今や私共の周囲の多数の人々は日々永遠の滅亡に向かって進んで行っております。真正に悲しむべき有様であります。しかるに私共はこれらの人々のために悲しまず、僅かばかりの肉体の快楽を失って悲しんでいることはありますまいか。神はヨナの心を矯めようとなしたもうたように、私共の心を矯めるために聖霊の恵みを与えたまいます。私共がこの賜物を受けますならばパウロのような精神をもって伝道する者となり、自分の思考や名誉を慕う思いを捨て、この一身を献げて神に仕え、神と同情をもって働き、亡ぶる魂の救われるために熱心を尽くすようになります。
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