聖霊の内住 


 
 五旬節の日となり、彼らみな一處に集ひ居りしに、烈しき風の吹ききたるごとき響、にはかに天より起りて、その坐する所の家に滿ち、また火の如きもの舌のやうに現れ、分れて各人(おのおの)のうへに止まる。彼らみな聖靈にて滿され、御靈の宣べしむるままに異邦(ことくに)の言にて語りはじむ。── 使徒行傳二章一〜四節


 ペテロはこれを説明しました。神はこれについていかなる準備をなしたまいましたか。二十二〜二十四節、三十二、三十六節はペテロの答えであります。これは聖霊降臨の道備えでありました。この準備がありませねばペンテコステはありません。神戸と大阪の間にはいま鉄道がありまして、ただちに往来することができます。ただ信仰をもって汽車に乗り込みますれば一時間経たぬ間に行けます。けれどもかく便利になるまでには、実に非常な力と時を費やして道備えをしたものであります。ただ今では信仰をもって聖霊を受けることができます。けれども神は私共にこれを受けしめたもうまでに様々なる計量を尽くしたまいました。神は地上に宝座を設けんとてその所を探したまいます。昔、エデンの園にて人と交際を望みたまいましたけれども、アダム、エバの罪のために去らねばなりませなんだ。その後、イスラエルの真中に現れ、幾分か御宿りを得たまいました。しかし罪のために神の栄光は彼らを去らねばなりませなんだ。エゼキエル書十章三節四節をご覧なさい。エゼキエルは『ヱホバの榮光ケルブの上より昇りて宮の閾(しきみ)にいたる 又家(みや)には雲滿ち その庭にはヱホバの榮光の輝光(かゞやき)盈て』る様を見ました。けれども彼はまた十八、十九節において、主の栄光ケルビムの上に立ち、ケルビムは翼を上げて出で行き、地より飛び昇りたるを見ました。すなわち神はこの聖めたまいし至聖所、契約の櫃の上を慕いたもうて下りたまいましたけれども、また去らねばなりませなんだ。ダビデ王が謀反人アブサロムのために悲しんでエルサレムを去らねばなりませなんだように(サムエル後書十五章)、王なる神は罪のために宮殿を去りたまいました。神はなお地上に住まんことを望みたまいます。そうですからエゼキエル書四十章のごとく聖所が備わりましてからは、再び喜びをもって四十三章二、四、五節のごとく帰りたまいました。けれどももちろんこれらは全き神の住処ではありません。永く留まりたもうことができません。そうですからついに、ペテロの説教のごとく、聖子を下して地上に聖き肉の宮を建てたまい、神はこの殿に喜んで住みたまいました。暖炉に火が消えますれば燃える火を入れます。主は火の消えたる世界に下りたまいし燃ゆる火であります。神は木や石や金の殿でなくして、肉なる人間を殿として普く地に住みたまいとうございます。主はこの神殿を建てんがために来りたまいました。
 ルカ伝三章二十二節をご覧なさい。霊なるこの鳩は、洪水のために地上に宿るところなくしてノアの方舟に帰った鳩のごとく、今まで罪に覆われたこの世界に宿るところがありませなんだが、ただ一つ、主なる全き聖き殿を見出して、その上に降りたまいました。そして四章を見ますれば、十四節、十八節などにあるごとく、この鴿はその後つねに栄光をもって主に宿りたまいます。主は私共のために生命の泉であります。けれども、神は主のみにて満足したまわず、普く世の罪を砕いて私共を生命の泉となしとうございます。主が世を去りたもうたのはこれがためでありまして、ヨハネ伝十六章七節のごとく、これは実際、私共の益であります。
 燃ゆる火はただ主のみでありまして、聖霊は他に宿るところがありません。みな汚れております。主は世界を潔めんがために、世界の中心に大いなる祭壇を作りてここにご自身を燔祭として捧げたまいました。旧約時代にありましては、神は天幕において、宮殿において、祭壇を築きたまいました。けれどもこれは皆ただイスラエルのみのためでありました。けれども神は世界のためにカルバリを備え、疵なき汚点なき神の小羊を屠りてこの世の贖いとなしたまいました。主イエスは万国万民の罪祭であります。人間はこれで潔められました。それで聖霊なる鳩は自由にその宿りを得たまいました。ペンテコステにおいて弟子等が聖なる火を受けて燃ゆる火となりましたのは、実に十字架の結果であります。
 かつてソロモンの神殿は神の住みたもう所でありまして、神はその栄光を充たしたまいました。しかしこの神殿の位置はいかなる所でありますかと申しまするに、これは実に汚れたる詛わるべき罪悪のエルサレムでありました。けれどもダビデはこのところに壇を築き、血を流し、神の怒りを引き留めましたから(歴代誌略上二十一・十八、下三・一)、ここに建てたるソロモンの神殿に聖なる神は降りたまいました。神は血の功績によりてこの詛いの街に住みたもうたのであります。
 ヒゼキヤ王の時になりまして、歴代誌略下二十九章六、七節のごとくに、この聖所は狼藉を極め、廊の戸は閉ざされ、燈火は消され、香火は絶え、燔祭の烟は失せ、主の栄光は去りました。ヒゼキヤ王は今一度礼拝を望みました。けれども聖所はありません。それで王は、二十節より二十四節までのごとく、レビ人を集めて罪祭を供え、聖所を全うして、二十七節以下のごとく再び礼拝を続けることができました。私共もカルバリの山の大祭壇によりて潔められ、各自の中に神の殿を成就せられました。私共は霊を宿す価値がありません。けれども血のために隔てが取り去られ、霊を宿す特権を与えられました。実にハレルヤであります。主イエスはこの準備をなしたまいまして昇天したまい、かの日に聖霊を降したまいました。
 大津と京都の間に水を通わせようとして、多年企てて疏水工事を起しました。山を穿ち、溝を作り、工事が全くできました時に、技師は上流の水門を開きまして、今まで一滴の水なき溝に琵琶湖の水が溢れるように流れてきました。かくのごとく、主の血は聖霊の通路を備えたまい、創世記三章以来閉ざされたる天国の門もその昇天によって開かれ、聖霊なる生命の水は、備えられたる私共の衷に溢れて流れ込むようになりました。自由にこれを通りて天国に入り得るようになりました。実に感謝すべきことであります。消え果てたる私共も燃ゆる火となり、渇ける霊魂も生命の泉となりました。ペテロの説教は恰もこの順序であります。第一は主イエスの降世、次に贖いと昇天、それから聖霊の降臨であります。
 兄弟姉妹よ、神は聖子を賜うほどに私共を愛し、誰にても聖霊を宿すことのできる道を立てたまいました。天の門はすでに開かれてあります。さて、これを宿し奉るにつき、私共の準備は何であるかを考えねばなりません。
 主の御在世中、ご自身に対する信仰を弟子等に起こさしめるために、或いは暴風を静め、或いは鬼を追い、或いは病を癒し、死者を甦らせたもうて、主の力を知らしめたまいました。後また彼らを各所に送り出したもうて、主の名によりて病を癒し、鬼を逐い出さしめ、主の在さざる時にも信仰を有すべきことを鍛錬したまいました。次に各自の弱きを悟らせたまいました。格別に十字架によりて彼らの主に対する肉に属ける考えを打ち破りたまいました。霊を受けんとするには、これをぜひとも打ち砕かねばならぬのであります。弟子等はこれに失望し、全く肉の頼むべからざることを知るを得ましたのは、大いなる幸いであります。私共の肉の心の打ち砕かれるのは恩寵の働きであります。これがために祈らねばなりません。その後、弟子等はユダヤ人を恐れて戸を閉じて神の国の善後策について考えておりましたけれども、恐れるばかりで謀がいっこうに出ませんでした。彼らはいよいよ自分の弱さを悟りました。この場に臨んで少しの力もなきことを知りました。私共はかくのごとく悟りましたか。主は弟子等のこの様を見そなわして、甦りの身をもってその真中に立ちたまいました。いかなる時にも主の常に在したもうことを信ぜしめたまいました。彼らの上に『聖靈をうけよ』と息を吹きたまいました。彼らはこのために霊の信仰を与えられ、主の約束を信じて聖霊を待ち受ける決心と力を与えられました。そのために、主の昇天後十日間の祈りをも耐えることができました。甦れる主が集会の中におりたまいましたごとく、昇天せる主も確かに活きて共におりたもうと信じました。この確信を持っておりましたから、彼らの共に集まりし祈禱会は実に力があったと思います。確かに主と平生祈っていたように祈ったことと思います。
 兄弟姉妹よ、主は今日まで長き時日の間私共を教育したもうて、見るところ、聞くところによりていろいろと信仰を確かならしめたまいました。そして主は今この集会の中に立ちて、エペソ書二章のごとく天の処に坐せしめんとて、聖霊に充たされんことを望みたもうではありませんか。もとより私共はこれを受ける価値がありません。恩寵に足らぬ者であります。されどただ主の血のゆえにより潔められて、これを宿し奉ることができるではありませんか。兄弟姉妹よ、聖霊なる神は鳩のごとく今あなたがたの上に翼を張りたもうではありませんか。主はその宿り所を求めたまいます。私共はたびたびこれを拒みました。聖霊をして憂えしめ、嘆かしめました。どうぞ今晩、ここを去る前に、聖霊の宿りを得とうございます。翼を広げていたもう聖霊を受けなさることを希望いたします。
 


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