エジプトのヨセフ 



 茲にヨセフその側にたてる人々のまへにて自ら禁(しの)ぶあたはざるに至りければ人皆われを離ていでよと呼はれり ── 創世記四十五章一節


 今晩、同じように主は私共にご自身を顕したまいとうございます。主は初めから手を伸ばして、我ここにありと言いてご自身を顕したまいとうございます。ただ私共は不信仰のために、心の鈍いために、主の栄光を見ることができませんから、是非ともご自身を顕したまわねばなりません。ヨセフは初めに、兄弟の模様が分かりませんから、彼らを試すために、自らを現すことができずして荒々しく彼らに語りましたけれども、愛の眼をもって兄弟を見、愛の耳をもってその声を聞いておりましたから、しばしば忍ぶことができなくなり、彼らを離れ行きて泣き、また彼らに帰りてこれと語り、ついにシメオンを彼らの中より取り、その目の前にてこれを縛りました(創世記四十二・二十四)。これは兄弟を悔い改めさせ、その心を砕き、これに恩恵を与えるためでした。そして自らは部屋に帰りて窃かに泣きました。その時にヨセフの心を知りましたならば、その愛心の深きを悟ることができたでありましょう。いま漸次自ら忍ぶことができないようになりましたから、ついに自らを顕しました。
 このように彼らを愛する人は、彼らから如何に取り扱われた人でしたか。ヨセフは十人の弟でしたが、十人から追い出されました。十人に憎まれ、軽蔑された者でした。十人のために大いなる苦しみを受けた者でした。そのために愛する父を離れなければなりませんでした。そのために遠い国に引き行かれ、奴隷とせられねばなりませんでした。もとはカナンの地の君の息子です。実に安らかな楽しき生涯を送った者です。しかるに急にエジプトの奴隷となりました。そればかりでなく、また降りて牢屋に入れられた者の奴隷です。最も賤しき、牢屋に入れられた罪人に仕える奴隷です。一番賤しい身分で、一番苦しい目に遭いました。その時、兄弟等はヨセフが自分のためにそれほどの苦を受けていることを知りません。ただヨセフの奴隷たることだけ知っておりました。されども毎日の苦しみ、何よりもひどい苦しみを少しも感じません。ほとんどヨセフを忘れたようでした。ただ自分のことだけを思って生涯を送っておりました。兄弟よ、これは誰のことでしょうか。私共にも、ヨセフのような兄弟があります。主イエスはすなわち私共のヨセフです。私共はこの兄弟を軽蔑しました。追い出しました。苦しい目に遭わせました。死に渡しました。これは啻にユダヤ人の罪のみではありません。啻にローマ人の槍のみが主の脇腹を刺したのではありません。まことに私共の罪が刺したのです。兄弟よ、どうぞ自ら省みなさい。私共は神を追い出したことはありませんか。喜んで神を棄てたことはありませんか。自己が主となりましたことはありませんか、喜んで神の愛を拒み、喜んで自分の肉欲に従って、生涯を送ったことはありませんか。神を軽蔑し、ただ自分を高くし、喜んで神に苦しみをかけたことはありませんか。兄弟よ、主イエスの苦しみをご覧なさい。主イエスがその苦しみを受けたもうたのは私共のためでありました。ヨセフはその兄弟より受ける苦しみを避けることはできません。逃れる力がありませんでした。けれども主イエスは、自ら進んで私共のために、私共を救わんがために、その苦しみを忍びたまいました。ゲツセマネに伏したもう主をご覧なさい。私共はわがままな高慢なる生涯を送り、肉欲に従っておりました。栄光の主は何故この言い難き苦痛よりご自分を救いたまいませなんだか。天の使いは何故降りてその主人を救いませなんだか。何故でしょうか。主はもしご自分を救いたもうならば、私共を救いたもうことができないからです。私共は昔、主イエスを売りました。私共は主イエスをエジプトの奴隷といたしました。けれどもほとんどそれを忘れております。ヨセフの兄弟のごとく、あまりそのことに気を掛けません。主の苦しみを悟りません。自分の罪の結果であるのに、少しも主の苦しみを考えません。ただ自分のためにのみ生涯を送り、自分のことのみ致しております。兄弟よ、実にそうではありませんか。少しも主の苦しみを思わないで、カナンの地におりて自分のためにのみ生涯を送りましたではありませんか。けれどもヨセフは十三年ばかり苦を受けました。それから栄光権力を受けました。パロ王の位まで上げられました。兄弟等はその苦しみを悟りません、また、その栄光をも悟りません。私共もそれと同じことではありませんか。私共は主の苦しみを悟ることができませなんだと思います。また主の栄光はどうですか。主は昇天したもうた主です。天の中、地の上のすべての権を有ちたもう王の王です。万物を統べ治めたもう主です。万物の生命の源、万物の王の王です。私共はその栄光を見ましたか。私共は幾分か主の苦しみを悟りましたと思います。けれども主の栄光はどうですか。もはや天の位に昇りたもうた主の力、主の燃ゆる愛、主の潔めの力が分かりましたか、どうですか。
 この兄弟等は、ヨセフの栄光を悟らなかったのです。幾分かその苦しいエジプトの地に奴隷たる苦しみが分かったかも知れません。けれどもその栄光を悟りませなんだ。カナンの地にたびたび飢饉がありましたから、エジプトの主人の足下に参らねばならぬようになりました。そして、エジプトに行くたびごとに溢れるほどの恵みを受けました(創世記四十四・一)。けれども、カナンに帰りましてはその恵まれたものを漸次費やしてしまいました。そうですから、またエジプトに行って大いなる恵みを受け、また自分の地に帰ってその恵みを費やします。私共はどうですか、同じ道を歩んではおりませんか。私共は心の飢饉のためにたびたびヨセフなる主の足下に参り、神の恵みを頂戴しました。或いはこの部屋で神は私共に負い得るだけの恵みを与えたまいませなんだか。けれどもそれから後にどうですか、たびたびその恵みを失いました。漸次頂いた恵みを費やしました。何故そうなりましたか。これは、私共のヨセフなる主が私共の兄弟たることを知りませんからです。私共の兄弟の栄光を知らないからです。未だカナンの地を棄てて兄弟の足下に、すなわちヨセフなる主の足下に、住処を作らないからです。たびたび進みて主の恵みを求め、溢れるほど頂戴いたしますけれども、また主を離れて己に帰り、全くその受けた恵みを費やしてしまいます。また主の足下に恵みを受け、また費やします。私共はその通りに生涯を送りながら、時に恵みに満ち溢れ、時に全くそれを失い、また或る時は感謝の念に満ち溢れ、或る時は嘆き悲しみます。これは平らかなるキリスト信者の生涯であるべきはずではありません。私共は、主イエスの足下に住まいますならば、いつでも溢れるほどの恵みを受けることができます。啻に時々己を離れて主の許に来り、また帰り、また来るような生涯でなく、恒に主イエスの足下に住まいますならば、いつでも溢れる恵みがあります。私共がそのような生涯を送ることは主イエスの願いたもうところであります。
 主イエスは私共と共におることを喜びたまいます。主は私共と共におりて、或いは伝道に共に行き、或いは家の中に一緒におりたもうならば、私共はまことに幸いです。けれどもなお幸いな道があります。それは何でしょうか。すなわち主の足下、すなわち天の処に挙げられることです。地の上に生涯を送りながら天国におることです。主の足下におることです。主イエスが私共の乏しい時に降りたもうならば幸いです。けれども、ご自分のおりたもうところに私共を挙げてくださるならば最も幸いです。『されど神は憐憫(あはれみ)に富み給ふが故に我らを愛する大なる愛をもて、咎によりて死にたる我等をすらキリスト・イエスに由りてキリストと共に活かし、共に甦へらせ、共に天の處に坐せしめ給へり』(エペソ二・四〜六)。神は私共をこの通りに主の処に坐せしめたまいました。それは、絶えず溢れるほどの恵みを受ける秘訣です。地上におりて絶えず天国におる生涯です。主は真の人間となりたもうて世に降りたまいました。人間の聖い欲を持ちたまいました。人間と共に、汚れた世の中に生涯を送りたまいました。主は何時でも、賤しい飢饉のカナン(この世)に生涯を送りまして、豊かなるエジプト、すなわち天国に暮らしたまいました。兄弟よ、神は諸君の思いに過ぎたる恵みを与えたまいます。神はあなたがたに栄光を顕したまいとうございます。またその栄光を分け与えたまいとうございます。
 『ヨセフその側にたてる人々のまへにて自ら禁ぶあたはざるに至りければ』(一節)。私共のヨセフなる主は、今晩かような思いを持ちたまいます。私共と主との間に何か隔てはありませんか。何か覆いのようなものはありませんか。主イエスはそれを忍びたもうことができません。主イエスは親しき交際をいたしたいと願いたまいます。少しも隔てなく、主のみこころと私共の心とを合わせ、主の聖顔と私共の顔とを合わせ、交際を得とうございます。主はこれを得なければ満足することができません。主は愛する者と離れているのを忍ぶことができません。あなたを慕いたまいます。それによりて主の愛が分かりませんか。そうですから今晩、ご自分を示したまいとうございます。かの二人の弟子がエマオに参りました時、主が近づきたまいました。けれども二人はそれを悟ることができませなんだ。ただ二人は主の生命の言葉を聞き、喜び溢れ、心が燃えました。主と共に歩く時に実に楽しみを得ました。そうですからそのような人と離れることを好みません。ぜひ共に宿ることを願いました。そして共に食に就ける時に、ついに二人は明らかに主を知るようになりました(ルカ二十四・三十一)。ただいまヨセフは自らをその通りに顕します。今晩、主イエスは私共の眼を開き、新しき栄光を示したまいとうございます。新しき権能、ご仁慈、潔めの力、救いの力を示したまいとうございます。どうぞ眼をお開きなさい。何卒主を仰ぎなさい。
 ヨセフは『我はなんぢらの弟ヨセフなり』と申しました。輝けるエジプトの主人は汝の弟、汝の小さき兄弟、汝を愛するヨセフなりと申しました。あなたがたは実に栄光ある身分です。私共は栄光の主の兄弟です。私共は神の御座に坐することができます。神の栄光と権威、また御慈愛を暁ることができます。高い主人は私共の兄弟です。これをお悟りなさいますか。汝の弟なり、汝の兄弟なり。それを深く味わいとうございます。輝ける栄えの王は私共の兄弟です。親しき関係を有する者です。何よりも親しき関係のある者です。同じ一家族の者です。肉と血を分けた私共の兄弟です。ヨセフはこれを証しました時に、兄弟は最初は当惑しました。されども罪の赦しを得て、全く親しき交わりをすることができました。兄弟よ、何卒、昇天したもうた主イエスの、弟なることを悟りなさい。主はあなたのために苦を受けたまいました。兄弟たちは初めにそれを感じなかったのです。エジプトの主人は彼らのために苦しみ、彼らの罪のため、奴隷の奴隷、最も賤しい奴隷として、最もひどい苦を受けましたことは、少しも心に感じませなんだ。されどもその時までも彼らを愛し、その罪のためにこれを棄てず、なお愛の言葉をもって罪の赦しを与えました。兄弟よ、私共のヨセフは同じように今晩、親しい愛の交わりを願いたまいます。ご自分を顕したまいます。私共のために苦を受けたまいましたけれども、今に至るまで私共を愛したまいます。今までに行いし罪を赦し、これを隔てとならしめず、私共を罪のない者のようにあしらいたまいます。私共のヨセフは主の主、「全家の主」です(八)。私共はかくのごとき主と親しい交際ができます。いつでもいつでも全家の主と親しい交際ができます。
 兄弟に自分の栄光を示すことができましたのは、ヨセフに取りては実に何より嬉しいことでした。けれどもそれでも満足しません。自分の栄光を兄弟等に分け与えとうございました。自分と同じ栄光を兄弟等に有たせとうございました。そうですから、兄弟等がカナンに帰らずしてエジプトに住まうことを願いました。私共はヨセフに会い、穀物を持ってカナンの地に帰りましたように、ただ幾分か主の栄光を見て満足し、ただちに自己に帰りませなんだか。されども主イエスはそれに満足したまいません。私共をご自分のおる天の処に坐せしめたまいとうございます。ご自分の栄光を分け与えて親しき交際に入ることを願いたまいました主は、昇天したまいました時に、天国の全家の主となりたまいました。神たる栄光を受けたまいました。地の最も賤しいところから、天の最も高い栄光を受けたまいました。けれども、地上に残し置きたまいし者を忘れたまいませんで、その栄光を分け与えたまいます。いま主は私共に同じ天国を与えることができません。けれども、聖霊によりて私共の心の衷に天国を与えたまいます。活ける聖霊を分けたまいます。ご自分はすでに患難を離れて、今は休息と栄光を受けたまいます。けれども患難の中にあるご自分の教会を忘れたまわずに、私共に天国の一部を与えたまいとうございます。何卒栄光を受けたまいました主をご覧なさい。主をお仰ぎなさい。
 『我なんぢらにエジプトの地の嘉物(よきもの)をあたへん 汝等國の膏腴(あぶら)を食ふことをうべし』(十八)。『エジプト全國の嘉物は汝らの所屬(もの)なればなり』(二十)。主は最も良きものを私共に与えたまいとうございます。放蕩息子は自分の家に帰りました時、その父は最も良いものを与えました(ルカ十五章)。これが愛の性質です。主イエスは、ご自分が天国の位に坐したもうならば、ぜひともご自分の愛するものをも坐せしめとうございます。そうですから私共は天国の膏を食べることができます。「エジプトの良きものは汝らのものなり」と主は仰せたまいます(詩篇三十六・八、コリント前書三・二十一)。あなたの弟は栄光を受けましたから、あなたにこれを分け与えとうございます。今まではヨセフの兄弟はただ賤しい商人でしたが、ただいまはエジプトの主人の兄たる栄光を受けました。私共も、主と共にこの位に与ることができます。私共は天国の貴族、天国の君です。聖霊の言葉を借りますならば、天国の王の栄光に与ることができます。位も、力も、権威も、歓楽も、みな私共のものです。実に幸いではありませんか。兄弟よ、ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、神は私共にこの大いなる輝ける栄えを示したまいます。ただ信ぜよ。何卒、カナンより来りて主の足下に通うようなことをせずに、何卒絶えず天国におるように、天国に坐っておるように暮らしなさい。『荏弱(よわき)者を塵の中より擧げ窮乏(とぼしき)者を埃(あくた)の中より升(のぼ)せて王公(きみたち)の中に坐せしめ榮光(さかえ)の位をつがしめ給ふ』(サムエル前書二・八)。これは私共を指す言葉です。実にハレルヤ。兄弟よ、寂しいところにお帰りなさいましても天国があるはずです。想像の天国ではありません。考えばかりの天国ではありません。事実の天国であるのです。主と共に天国に坐することができます。兄弟よ、その時ヨセフの兄弟等はどうするはずでしたか。カナンの地を棄てて、ヨセフの足下に参ることでした。カナンは二年間飢饉でした。また後に五年間飢饉で、だんだん乏しく賤しくなって参りました。私共は、「自己」という心を持つならば、乏しくなり、飢饉のある国となります。けれども、これを棄てて主を受け納れるならば、輝ける主イエスを受け納れるならば、何時でも主の栄光に与りまして、何時でも養われます。兄弟姉妹よ、何卒今晩、全く己を棄てて、昇天したまいし私共の主をお受け納れなさい。

     赤 山 講 話 終
 


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