此等のことを言終りて、彼らの見るがうちに擧げられ給ふ。雲これを受けて見えざらしめたり。その昇りゆき給ふとき、彼ら天に目を注ぎゐたりしに、視よ、白き衣を著たる二人の人かたはらに立ちて言ふ、『ガリラヤの人々よ、何ゆゑ天を仰ぎて立つか、汝らを離れて天に擧げられ給ひし此のイエスは、汝らが天に昇りゆくを見たるその如く復(また)きたり給はん』── 使徒行傳一章九〜十一節
ただいま読み上げました記事は、主イエスの昇天なしたもうた栄光ある有様でありますが、私共もガリラヤ人と共にベタニヤの山頂に立ち、主イエスの昇天を見たきものと思います。またこれを見るのみでなく、これによりて主の再臨を待ち望む精神を起しとうございます。
『彼らの見るがうちに擧げられ給ふ』。主の昇天は、ただ理論でこれを知り、教訓でこれを弁えたのみでなく、実際肉眼で目撃した事実でありました。およそ主の授けたもう教訓はこれと同じでありまして、主は世の罪を贖いたもうときも人の見ることを得る肉体を取り、人の見ることを得る十字架にかかり、また人の見ることを得る復活をなしたまいました。それゆえに弟子等は自ら親しく目撃した事実を人々に宣べ伝えました。私共もこれと同じように、ただキリストの十字架を知り、その復活を弁え、その昇天を学べるのみで、未だこれらの真意を自分の霊に体験し、能力と結果を親しく感じませんならば、毫も自分をも他をも益するところがありません。主の御在世の当時、ご自分の昇天を預言したもうて、『さらば人の子の原(もと)居りし處に昇るを見ば如何(いかに)』(ヨハネ六・六十二)と宣いましたから、弟子等がもしこの聖言を信仰いたしましたならば彼らは主の昇天を待ち望んだでありましょう。
『遂にイエス彼らをベタニヤに連れゆき、手を擧げて之を祝したまふ。祝する間(うち)に、彼らを離れ天に擧げられ給ふ』(ルカ二十四・五十、五十一)。主は昇天なしたもう際、弟子等を祝福なしたまいました。弟子等はただ驚いて天を仰いでおりましたが、主イエスは地を眺めていたまいました。かのステパノが石に撃たれてまさに死のうとする時、彼は天を仰ぎてその栄光を見ました。けれども主の昇天したもうときには彼は天を仰ぎ見ず、かえって地上を見下ろし、小さき群なる弟子等を祝したまいました。これによりて考えますれば、主が昇天したもうて栄光と権威を取りたもうのは、畢竟私共のため、また教会のためでありまして、ご自身の受けたもうごとき栄光と恩恵を私共にも分け与えんことを望みたもうのであります。
『雲これを受けて見えざらしめたり』。主は雲に乗りて天に昇りたまいました。これは主が万物をつかさどりたもう能力あることを示したものであります。主はこの世に在したもうた時に、或いは激しき浪の上を歩み、或いは吹き荒む嵐を鎮め、或いは多くの魚を集め、或いはすべての病を癒し、或いは悪鬼を追い出して、神の能力あることを示したまいましたが、最後に雲に乗り天に昇りたもうたことによりて全能者の能力あることを示したまいました。
『水のなかにおのれの殿の棟梁(うつばり)をおき 雲をおのれの車となし 風の翼にのりあるき』(詩篇百四・三)とありますのは神のことを申したものでありまして、これは『ヱホバ雲の中(うち)にありて降り彼とともに其處に立ちてヱホバの名を宣たまふ』(出エジプト記三十四・五)、『エジプトにかゝる重負(おもに)のよげんいはく ヱホバははやき雲にのりてエジプトに來りたまふ』(イザヤ十九・一)と記してある聖言を参照いたしましても明らかなる事実であります。しかるにイエスも昇天なしたもう時、雲をご自分の車として、これに乗りて天の父の許に昇りたまいましたから、これによりて主は万軍の主に在して神の栄光と権威を具えたもう御方であることを明らかに知ることができます。ちょうど、マノアが主の使いと語りながらその主の使いであることを知りませなんだが、主の使いが壇の焔の中にありて昇るのを見て初めて主の使いなることを知り、地にひれ伏しましたように(士師記十三・二十)、私共も主が雲の中に昇天したもうたのを見ますれば、これによりて主の神なることとその栄光を知りまして、主の聖前にひれ伏し主を拝さねばなりません。
主の天に昇りたまいしは、主が霊をもって私共と偕に住みたまわんがためであります。これは主の昇天の栄光でありまして、主は昇天したまいましたからその聖声をこの世に出したもうのであります。私共も主の昇天の栄光を見まするならば、その栄光を神に帰し奉り、己が弱きを悟りまして、主の全能なる力を認めるようになります。そのところで昇天したもうた主はペンテコステの恵みを私共に賜います。ペンテコステの日に、弟子等は主の昇天の栄光を見ましてこれを拝しましたから、主は彼らに聖霊を降したまいました。イスラエルの神は私共のイエス・キリストであります。神の聖名はほむべきであります。主の聖名は貴ぶべきであります。
『神はよろこびさけぶ聲とともにのぼり ヱホバはラッパの聲とともにのぼりたまへり』(詩篇四十七・五)。これは、主の昇天したもうた時、天の溢れるばかりの栄光喜悦を記せるものでありまして、弟子等はこの声を聴きませなんだでしょう。けれども天の使いは確かに狂するがごとく歓呼の声を挙げて、凱旋の主イエスをお迎え申したに相違ありません。また、主の再臨したもう時にも、必ずかような歓喜の声とラッパの声とともに来りたもうでありましょう。詩篇六十八篇は主の昇天を預言したものでありますが、その四節に『神のみまへにうたへ その名(みな)をほめたゝへよ 乗て野をすぐる者のために大道(おほぢ)をきづけ かれの名(な)をヤハとよぶ その前によろこびをどれ』と記されてあります。
また詩篇二十四篇は、主と共に天に昇りし天使の叫び声でありますが、神の国の石垣の上に立てる天使尋ねて、『ヱホバの山にのぼるべきものは誰ぞ その聖所にたつべき者はたれぞ』と申しました時に、主と共に昇った御使いはこれに答えて、『ちからをもちたまふ猛きヱホバなり 戰鬪(たゝかひ)にたけきヱホバなり 門よ なんぢらの首(かうべ)をあげよ とこしえの戸よあがれ 榮光の王いりたまはん』と申しましたが、主は実に十字架の戦いに勝ちを奏したもうて王の聖位に凱旋したまいました。主は暫時賤しき生涯をこの世に送りたまいまして、人々に嘲弄罵詈せられ、無惨なる虐待を蒙りたまいました。けれども今や天に昇り、神の栄光を受け、万軍の主となりたまいました。ああ、このとき主の栄光と天の喜悦は如何ばかりでありましたろうか。実に天は讃美歓呼の声に響き渡ったことでありましょう。主の栄光権威は光り輝いておりましたでありましょう。しかるに、かく幾千万の天使に迎えられ父の聖位に帰りたもうときですら、なお地上の賤しき百二十人の弟子等を忘れたまわずして、殊に二人の天使を送り、弟子等の寂寞悲哀の心を慰めたまいました。主イエスが父の許に帰りたもうとき、王の聖位には輝ける数多の天使がおりますのに、なお罪に汚れたるこの世の弟子等を覚えたもうてこれを愛したもう御愛心は、実に驚くべきことではありませんか。またこの二人の天使の服従は実に感ずべきものであります。天は凱旋の喜悦に満ち、栄光讃美に溢れる時でありますから、他の天使らとともに天の喜悦栄光に侍りたきは自然の情でありますのに、これらを棄ててただ神の命令に従い、主の聖言を弟子等に伝えんがため賤しきこの世に降りましたことは、私共の学ぶべき服従の模範でありましょう。
『我また夜の異象(まぼろし)の中に觀てありけるに人の子のごとき者雲に乗て來り日の老たる者の許に到りたればすなはちその前に導きけるに』(ダニエル書七・十三)。主の昇天なしたもう時、ただちに神の聖前に導かれたまいました。また『之に權と榮と國とを賜ひて諸民 諸族 諸音をしてこれに事へしむ その權は永遠の權にして移りさらず又その國は亡ぶることなし』(同十四)。かく父なる神は主イエスに権威と栄光を与えたまいました。もっとも主イエスは世の初めより権威と栄光を具えたまいましたけれども、昇天に由りて新しき権威と栄光を与えられたのであります。
『ヱホバわが主にのたまふ 我なんぢの仇をなんぢの承足とするまではわが右にざすべし』(詩篇百十・一)。これは、主の昇天なしたまいし時、父なる神が主イエスに語りたもうた言葉であります。『それダビデは天に昇りしことなし、然れど自ら言ふ「主わが主に言ひ給ふ、我なんぢの敵を汝の足臺となすまでは我が右に坐せよ」と』(使徒行伝二・三十四、五)。しかるに主はペンテコステの日に聖霊を降したまいましたから、主は確かに神の聖位に昇りたまいしことを知ることができます。『又いづれの御使に曾て斯くは言ひ給ひしぞ「われ汝の仇を汝の足臺となすまでは、我が右に坐せよ」と』(ヘブル書一・十三)とあるによりて考えますれば、神の聖位に坐したまいましたことによりまして主イエスの神なることを知ることができます。そして主の昇天は全く私共のためであります。主はさきに、私共を救わんがために天国とその栄光を棄ててこの世に降りたまいましたが、再び私共のために昇天してこれを取り返したまいました。そうですから主の昇天に由りて五つの恩恵を受けることができるのであります。今これを逐次申し上げますれば、
(一)『イエス我等のために前驅(さきがけ)し』(ヘブル書六・二十)。主イエスは私共の先駆けをして天に昇りたまいましたから、私共も主イエスの昇天と同じ栄光に入ることができます。すなわち主は先に昇りて私共のために準備したもうのであります。
(二)『永遠(とこしへ)にメルキゼデクの位に等しき大祭司となりて、その處に入り給へり』(ヘブル書六・二十)。主イエスは私共の祭司の長でありますから、主イエスによりて父なる神に近づき(我等には、もろもろの天を通り給ひし偉(おほい)なる大祭司、神の子イエスあり。然れば我らが言ひあらはす信仰を堅く保つべし──ヘブル書四・十四)、また主の備えたまいし道によりて(かつ神の家を治むる大なる祭司を得たれば、心は濯(すゝ)がれて良心の咎をさり、身は清き水にて洗はれ、眞の心と全き信仰とをもて神に近づくべし──ヘブル書十・二十一、二)、恵みの座に近づくことができるのであります。
(三)『この故に彼は己に賴(よ)りて神にきたる者のために執成をなさんとて常に生くれば、之を全く救ふことを得給ふなり』(ヘブル書七・二十五)。主は絶えず私共のために父なる神に執り成したもうのであります。『汝らが罪を犯さざらん爲なり』(ヨハネ一書二・一)と記されてありますように、信徒なる者は常に罪を犯すことなき清浄無垢なる生涯を送るべきはずのものでありますが、実際自分の生涯を省みますれば数多の罪悪失敗のあることを発見いたします。さらば私共は未だ神の恩恵を受けないものと思って自ら失望すべきでありましょうか。否、決してさようなわけのものではありません。神の聖前に在りて常に私共のために執り成したもう祭司の長なる主イエスがいたまいますから、決して失望するには及びません。『この二(ふたつ)の玉をエポデの肩帶(かたあて)の上につけてイスラエルの子等の記念(おぼえ)の玉とならしむべし 即ちアロン、ヱホバの前において彼等の名をその兩(ふたつ)の肩に負て記念とならしむべし』(出エジプト記二十八・十二)と記されましたように、主なる祭司の長は常に私共の名を神の聖前に憶えたまいます。また『われ掌(たなごころ)になんぢを彫刻(ゑりきざ)めり』(イザヤ書四十九・十六)とあります様に、私共の名は祭司の長なる主イエスの掌に彫り刻んであります。しかるに主イエスの掌には十字架の釘の痕がありますから、主は私共の贖いの記号とともに私共の名を父に示したまいます。
(四)『されどキリストは更に勝れる約束に基きて立てられし勝れる契約の仲保(なかだち)となりたれば、更に勝る職(つとめ)を受け給へり』(ヘブル書八・六)。私共は主イエスによりて、新しき契約の恩寵を蒙ることができるのであります。しかしてこの契約はいかなるものであるかと申しまするに、ヘブル書八章十節より十二節の中に記してある栄光ある恩寵の約束でありまして、主はこの契約の仲保であります。これはすなわち主の昇天の主眼たるべき目的でありまして、モーセは最初の契約の仲保でありましたが、主イエスは新しき契約の仲保で、私共のモーセであります。そうですから主イエスはモーセのごとく、神の約束や、神の命令や、神の活ける言葉や、神の恩恵を授けたまいます。『なんぢ高處(たかきところ)にのぼり虜者(とりこ)をとりこにしてひきゐ禮物(いやしろ)を人の中よりも叛逆者(そむくもの)のなかよりも受たまへり ヤハの神こゝに住たまはんが爲なり』(詩篇六十八・十八)。主はかような恵みを私共に与えたまわんがために昇天したもうたので、決してご自分の栄光のため、或いはご自分の平安のために昇天なしたもうたのではありません。『されば云へることあり「かれ高き處に昇りしとき、多くの虜をひきゐ、人々に賜物を賜へり」と』(エペソ書四・八)。されば既に聖霊の賜物を得ました人は、主の与えたまいし賜物、昇天なしたまいし主より授けられた賜物を得たのであります(使徒行伝二・三十三)。かくひとたびこの世に臨み、十字架上に血を流したもうた主は今や天に在して新しき契約の仲保となりたまいましたから、必ずその約束を成就なしたもうて、確かに聖霊の賜物を降したもうのであります。
(五)『彼を萬(よろづ)の物の上に首(かしら)として敎會に與へ給へり』(エペソ書一・二十二)。これは実に教会の位置の高貴なことを顕すものであります。すなわち万軍の主なる神は私共の教会のかしらであります。今から四百年ほど以前に、ウェールズが英国に反旗を揚げて戦を開きましたが、ついにウェールズは敗れ、英国に降参し、英国の皇族を頂いて自国の君主とならんことを願いました。その時英国の君主は己の愛子を与えてウェールズの君主と致しましたことは歴史上の美談でありますが、神の私共に対して賜う恵みはこれにいやまさりて、賤しき地上の教会にご自分の独り子を賜い、これを教会のかしらとなしたまいました。ああ、なんと幸福なることではありませんか。実に栄光あることではありませんか。主の昇天の栄光は何処に顕れるかと申しますれば、無論天国に輝きわたるものでありましょう。しかしながら殊に教会の中に顕れるものでありまして、これは主の望みたもうところであります。主はまた、ご自分の力と栄光と愛を豊かに教会の中に顕したまいます。ちょうどランプに火を点しますれば自ら光輝を放つごとく、教会は主のランプとなりまして、主の栄光と主の恵みをこの世に放つ器とならねばなりません。そうですから教会は己を表さず、或いは教会の政治を表さずして、ただ主の光明のみを顕すものとなりとうございます。主イエスは教会のかしらでありますから、私共の教会のかしらは万軍の主なる神であります。これは実に幸福なることではありませんか。
以上申し上げましたように、五つの身分を取りたまわんがために主は昇天なしたもうたのであります。ああ、私共もかような主の昇天の栄光を見とうございます。また主はこれを顕わさんことを望みたもうのであります。かつ主の昇天に伴うすべての恵みの約束を成就なしたもうて、主の再臨の預言を実際目撃することができるのであります。『次には終きたらん、その時キリストは、諸々の權能・權威・權力を亡して、國を父なる神に付(わた)し給ふべし』(コリント前書十五・二十四)。これは私共の望みでありまして、また必ずこの幸福なる日を見ることができるのであります。また『降りし者は即ち萬の物に滿たん爲に、もろもろの天の上に昇りし者なり』(エペソ書四・十)。『ヱホバの榮光の全世界に充わたらん如く』(民数記十四・二十一)とありますように、主の昇天の栄光はすべてのものに充ちわたるに相違ありません。
かく心の中に主の栄光を見ました者は、聖き生涯を送らねばなりません。『(我等を)共に甦へらせ、共に天の處に坐せしめ給へり』(エペソ書二・六)とありますように、私共は主と共に甦り、主と共に昇天すべき者でありますから、この世とこの世に属ける思いを棄て、主と共に天に属ける者とならねばなりません。創世記四十五章を通読いたしますれば、ヤコブの子ヨセフが穴より引き上げられて(甦りて)エジプトの家司となりました時、ヨセフの十一人の兄弟はエジプトに参りまして、ヨセフと同じ栄誉と幸福に与りましたことが記されてありますが、ちょうどそれと同じことで、私共の兄なる主は昇天なしたまいましたから、私共も主と同じ栄光に与ることを得るのであります。されば朽ち果つるこの世のものを慕うようなことのなきようにせねばなりません。天につくすべての善き者はみな諸君のものであります。主の恵みも主の栄光もみな諸君のものであります。私共は主の愛したもう弟でありますから、兄なる主の行きたまいし父のもとへ参りまして、主と同じ力と生命を受けることができます。『父よ、望むらくは、我に賜ひたる人々の我が居るところに我と偕にをり、世の創の前(さき)より我を愛し給ひしによりて、汝の我に賜ひたる我が榮光を見んことを』(ヨハネ十七・二十四)。これは私共の祭司の長の祈りであります。主は私共に主の栄光を顕わさんことを望みたまいます。そうですから私共は今もかくのごとき主の栄光を見ることができるのであります。
『爰に信ずべき言あり「我等もし彼と共に死にたる者ならば、彼と共に生くべし」』(テモテ後書二・十一)。もしこの世に在りて主と共に苦痛を受けますならば、未来においては必ず主と共に王となることができるのであります。どうぞ諸君が一人ももれなく王となりて、主イエスと共に神の聖位に坐し、栄光の冠を得られますように切に望む次第であります。
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