第十二 全 き 愛



十節『われはわが愛する者のもの 彼の恋愛はわれむかへり』(とも訳することができます)

 これは真正ほんとうに霊的の結婚であります。全く主イエスと共になりました。親しき交わりに入り、面帕かおおおいなくして主の栄光を見る事を得ます。もはや聖霊によりて一つになりました。心も一つ、意志も一つであります。先に申しましたように、六章十二節で聖霊のバプテスマを得ましたから、そのために主イエスと一体である事を経験するようになりました。

 『われはわが愛する者のものなり』、これは実に幸福であります。そのために安息もあり、そのために喜悦よろこびもあり、またそのために平和もあります。私共が愛する者のものとなったことは、何よりも幸福なことであります。愛する者は私共のために責任をっていたまいます。牧者は羊のために責任をもって守り、また養いますように、私共の新郎なる主イエスは私共のために責任をもっていたまいます。何故なれば私共は主のものとなったからであります。

 新婦は今や面帕かおおおいなくして新郎を知り、新郎と交わり、またその栄光を見る事を得ます。そうですから主イエスが神の子である事をよく知り、またその救いの力と栄光を経験いたします。昔の歴史の中にこういう話があります。或る王の皇太子が姿を変えて、他の国王の都に参りました。いろいろの紹介状をって参りましたから、その国の王や貴族と交わることを得ました。しかし誰もその人の身分を知りませなんだが、その皇太子が自分の国に帰ってからのちその人が皇太子であった事がわかりました。けれどもその時、その国の一人の皇女はわらわは初めから王子であると思いましたと申されますから、どうしてそれがわかりましたかと尋ねますと、その皇女の答えられますのには、わらわはその人にった時から、その人の品威ひんいを見、その話を聞き、またその挙動動作を見て、わらわは満足し、まことに感服のほかありませんでしたから、この人は必ず王の子であるに相違ないと思いましたと申されました。

 私共も主イエスの品位を見、その話を聞き、またその行いを見ますれば、それによりて主が神の子であるとわかります。それによりて心のうちに感服も満足もでき、また礼拝の心も起こります。そのように神の子を完全に知る事は『われはわが愛する者のものなり』という経験に達した第一の証拠であります。

 そうですからパウロがエペソびとのために祈った事はもはや成就しました。エペソ書三章十六節以下を見ますと、ちょうど雅歌に記してあるこの経験を得るために、パウロはエペソの信者らのために祈っております。まず十六節に、心が強められて主イエスを知る備えのできるように願い、第二に十七節に、真正ほんとうにキリストを宿すことを願い、また第三に十八節、十九節において、キリストの愛を知ること、第四に十九節の終わりにおいて、神に満てるものに満たされんがために祈っております。パウロはそのような順序に従って神に祈りましたが、これはちょうど雅歌に記されてある通りであります。私共が心のうちにキリストを宿す事を得ますれば、そのためにキリストと一つになり、またキリストの愛を悟り、またそのために神に満てるものに満たされます。これは全き愛であります。このように神を知り、神と一つになる事は、これはすなわちまことの宗教であります。

 飛んで、八章の六節を見ます。


第 八 章


六節『われをなんぢの心におきておしでのごとくし なんぢのうでにおきておしでのごとくせよ の愛は强くして死のごとく 嫉妬ねたみかたくして陰府よみにひとし そのほのほは火のほのほのごとし まことに神のほのほなり』

 (この終わりの句は『いともはげしきほのほなり』ということばの原語の意味であります。)

 もはや全き愛を経験し、愛の力、愛のうるわしさ、愛の聖潔きよめを心のうちに経験しました。これは実に神のほのおであります。この愛の特質を見ますれば、第一に愛は強くして死のごときものであります。死はどのくらい強いものですか。人を自分のものにしなければみません。すなわちその人を全く要求し、またその人をこの世より離らせます。またいろいろ世にける物よりも離らせる力があります。神の愛もちょうどそのような力があります。その人を全く自分のものとし、その人の所有物を全く要求いたします。またその人を全く世より離します。神の愛はそのように私共をこの世のけがれより全く離してご自分のきよきものとなし、私共をして自らもすべててる物もみな献ぐるに至らしめます。

 第二の愛の特質は『嫉妬ねたみは堅くして陰府よみにひとし』とあります。嫉妬ねたみは愛をほかの方面から言ったものであります。すなわち敵に対するとき表れる愛であります。神の愛は陰府よみのようであります。人が墓にくだって陰府よみに参りますならば、もはやその人に触れる事もできず、またその人に声を聞かせる事もできず、またその人を動かす事もできません。その人はもはや墓にくだりましたから全く陰府よみのものとなったのであります。神の愛はそのように私共を守るものであります。どんなに世の誘惑、世の力が攻撃して参りましても、神のご慈愛に保たれている者はそれを感じません。神の愛に引かれ、またその愛に満たされて、決していざなわれる事なくして生涯を暮らします。

 第三の特質は七節にあります。

七節『愛は大水おほみづけすことあたはず 洪水もおぼらすことあたはず』

 すなわちあなたの心のうちに神の愛が燃えておりますれば、悪魔は決してそれを消す事ができません。何をもって参りましてもそれを溺らすことはできません。私共が真正ほんとうにこの天来の神のほのおを得ますならばこの世にくだりましても決して消される事なく、かえってそのほのおはだんだん力をもって熱くなります。どんな妨害があっても決してそれを消す事はできません。おお愛する兄弟姉妹よ、あなたがたはこれからこの山を下りて寂しいところにお帰りになります。或いは真正ほんとういくさにお帰りになります。そこで悪魔の力が働きましょう。けれどもハレルヤ、大水も神の愛を消すことはできません。

 エリヤはカルメル山の上に壇を築いて、その上に祭物そなえものを献げました。その時そこへ水を注ぎました。大水を注ぎました。けれどもその物に、その祭物そなえものの上に神の火の燃ゆることが妨げられませなんだ。神の火はその水に浸された祭物そなえものを焼き尽くしました。あなたがこの神のほのおに満たされますならば、いかなる大水も決して消す事ができません。これはパウロの経験であります。ロマ書八章三十五節以下に書いてあることはこれと同じことであります。『キリストのいつくしみより我儕われらはならせん者はたれぞや 患難なやみなるか あるひ困苦くるしみ迫害せめ飢餓うゑ裸程はだか危險あやうき刀劍つるぎなる これわれら終日ひねもすなんぢのために死にわたされ屠ほふられんとする羊の如くせらるゝなりしるされたるが如し されども我儕われらいつくしめる者によりすべて此等これらの事に勝得かちえあまりあり そはあるひは死あるひはいのちあるひは天使てんのつかひあるひは執政つかさあるひは有能ちからあるものあるひは今ある者あるひはのちあらん者 あるひは高きあるひふかきまたほか受造者つくられしもの我儕われらわがしゅイエスキリストによれる神のいつくしみよりはならすることあたはざる者なるをわれは信ぜり』(三十五〜三十九節)。おおどうぞ皆様がこんな勝鬨かちどきを揚げてこの山をお下りなさることをお勧めいたします。神は燃ゆる愛によりてあなたに勝利を得させたまいます。悪魔の力に打ち勝ち、あなたの心のうちにだんだん愛が燃え上がって参ります。これは実に感謝すべきことであります。

 第四の特質は、

七節『人その家の一切すべての物をことごとくあたへて愛にかへんとするもなほいやしめらるべし』

 愛はとうといものであります。価値あるものです。あなたは決してそれを買う事はできません。これは神よりくだる賜物であります。私共はどんなに身も魂も献げましても、またどんなに身を犠牲にしましても、またどんなにおのれを低くいたしましても、そのような事のためにこのとうとい愛、価値ある神の愛、また新郎の愛を買う事はできません。『なほいやしめらるべし』、これは当然の事であります。しかるに私共はたびたび肉にける考えをもって、或いは自分の力で、或いは自分の藻搔もがきによって、或いはまた熱心に祈る事により、犠牲になる事によって、幾分か神の愛を買う事ができると思います。これは大いなる間違いであります。決してそれはできません。ただ愛のみ愛を買う事を得ます。神の愛は価値のある、天来のものでありまして、自分の力では得る事ができません。神が与えたもうのでなければ、それを得る事はできません。これは全く恩恵めぐみであります。いやしい私共にこのとうとい愛を注がれることは真正ほんとうに大いなる恩恵めぐみであります。けれども新郎はそれほどあなたを恵み、ただご自分の恩恵めぐみのゆえに、あなたに全き愛を与えたまいます。

六節『そのほのほ灰のほのほのごとし まことに神のほのほなり』

 おお神の愛のほのお! これはまことうるわしいものではありませんか。聖書にある天使のセラピムというのは、原語では燃ゆる者という意味であります。この天使はなぜきよい者でありますかならば、燃ゆる者であるからであります。この天使はなぜ力がありますかならば、燃ゆる者であるからであります。この天使はこの神のほのおを得て心より神を愛し、熱心に身も魂も献げて神につかえとうございます。セラピムは燃えている者であります。しかし私共もそれと同じほのおを受けることを得ます。それによりて私共も天にける者のように神の愛に燃ゆることを得ます。そしてこの世の中に小さい天国を作ることを得ます。

 火はいつでも進撃的の性質をっているものであります。他のものに移りやすく、また他を呑み尽くすものであります。神の火はそんな火であります。これは実に幸福さいわいなことであります。私共はこの日本に大いなるリバイバルの火事の起らん事を願いますが、それはどうして起こりましょうか。今まで歴史を見ますれば、神はたびたび或いはいやしい者を取りて用い、或いは小さな集会に火を燃やして、それによりてリバイバルを起したまいました。あなたが大いなる火を燃やしとうございますならば、小さいマッチを取って燃やしなさいますでしょう。そのために大いなるマッチでなければならぬわけはありません。愛する兄弟姉妹よ、私共はこのたびここでこの雅歌七章八章の意味を真正ほんとうに味わってそれを経験いたしますならば、私共はこの山を下りて他の人々に火を移す事を得ます。そのために他の人々も燃ゆる者となる事を得ます。神はそれを願いたまいます。あなたの力のためではありません。またあなたの熱心のためでもありません。あなたの上手な働きや上手な説教のためではなくして、あなたの心のうちに天来の神のほのおが燃えておりますればそのために自然に他の人々にも移ります。

 皆様は心のうちにそのような全き愛を経験しましたか。神はそのためにあなたをここに導きたまいました。ヨハネ第壱書四章十六節我儕われらために神のもてる愛を我儕われらすでにしりて信ず 神はすなはち愛なり おほよそ愛にをる者は神にをり神また彼にをる かくの如く我儕われらの愛全備まったきを得て鞫日さばきのひおそれなからしむ そは主の如く我儕われら世にあればなり 愛のうちおそれあることなし まったき愛はおそれのぞく …… われら神を愛するは彼まづ我儕われらを愛するによれり』(十六〜十九節)。神は私共に近づき、また私共と一つになりたまいまして、こういう全き愛を与えたまいます。かくして私共は愛のために働き、愛のために伝道します。愛によりて労します。愛がありますれば信仰をもって、また望みをもって戦場に出ます。例えば私があなたにこの家に火をつけてくださいと頼みますれば、私は小さい小屋ならばできますが、この家は私にとりてはあまり大きいとは言いなさいますまい。あなたが一本のマッチをっておいでなされば、乾いた藁を少しばかり集め、その上に木を並べてそこへ火をつけますれば、どんな大きな家にでも火事を燃やす事ができます。そのように私共の心のうちに愛が燃えておりますれば、信仰と望みをもって、勝鬨かちどきを揚げて悪魔の陣営に向って参ります。私共は明日この集会を終わって各自めいめい任地に帰ります時に、どうぞそのような心をもって帰りとうございます。



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