第四 甦りの生涯への召し



 二章の八節から三章の終わりまでは、とみがえりの生命いのちあずかる経験について書いてあります。すなわちよみがえりたもうた主を知り、この主と共によみがえり、この主と共に天のところに坐することを得る経験であります。その始めは何ですかならば八節をご覧なさい。

八節『わが愛する者の聲きこゆ』

 すなわち主の聖声みこえを聞くことです。そのために私共の目がまされます。私共は聖書によりて主の招きを聞くことを得ます。マリアは墓において主イエスのしかばねを求めました時に、その後ろからよみがえりたもうた主の声を聞きました。またとらわれて孤島におりましたヨハネは、祈禱いのりのとき後ろより主イエスの声を聞き、身を返してよみがえりの主イエスを見ることを得ました。そのように私共も度々たびたび愛する者の声を聞き、よみがえりの主にう事を得ます。

 このよみがえりの主と私共との間には、いろいろのへだてがあり、妨害があるかも知れません。けれども主はよみがえりの力をもってそのへだてを越えその妨害を飛び越えてきたりたもうことができます。すなわちその節の終わりに

よ 山をとび 岡ををどりこえてたる』

とあります。どんなへだてや妨害がありましても、それを飛び越えて、私共に近づき、私共にご自身をあらわしたまいます。

九節『わが愛する者はしかのごとくまた小鹿のごとし かれわれらの壁のうしろに立ち 窓よりのぞ格子かうしよりうかゞふ』

 そうですから幾分かご自身を示したまいます。よみがえりたもうた主がいろいろのへだてを越えて、弟子等にご自身をあらわしたもうたごとく、罪のへだて、サタンのへだてを越え、また私共の冷淡な心の妨害にも妨げられずして私共に近づき、ご自身をあらわしたまいます。これは実に幸いではありませんか。私共はどういう心の状態でここに参りましたか。たとえあなたと主との間にどんな妨害がありましても、よみがえりの主はそれを飛び越えてあなたに近づき、ご自身をあらわしたまいとうございます。

 たとえば詩篇十八篇四節五節のように、悪魔の権力に閉じ込められて、罪の力を経験しておりましても、神は祈禱いのりに答えたもうて、十九節にあるように『廣處ひろきところにいだして助け』たまいます。また詩篇六十六篇十一節十二節のごとく、サタンの網に引き入れられて苦しめられておりましても、神はその十二節の終わりのように、『われらをひきいだし豐盛ゆたかなるところにいたらしめ』たまいます。或いはまた詩篇百十八篇五節のように『患難なやみのなか』に閉じ込められておりましても、主は祈禱いのりに答えて『ひろきところにおき』たまいます。いま新婦はここで、そのように閉じ込められておって、自由もなく、また喜楽よろこびもありませんが、主はそれに近づきてご自身をあらわし、ご自身の力をあらわしたまいとうございます。

 私共はこのおんなのようにおのれの家に閉じこもって、暗いいえで休んでいたかも知れません。しかして戸外には春の来た事を少しも知りません。このおんなはこの時なお冬の時候であると思うて、自分の暗い小さいいえに閉じこもって、休んでいます。けれども新郎は何と言いたまいますかならば、

十一節よ 冬すでに過ぎ 雨もやみてはやさりぬ』
十二節『もろもろの花は地にあらはれ 鳥のさへづる時すでに至り 班鳩やまばとの聲われらの地にきこゆ』
十三節無花果樹いちぢくのきはその靑きを赤らめ 葡萄ぶだうは花さきてそのかぐはしき香氣にほひをはなつ』

 幸福な天気になりました。冬の恐ろしい天気は既に過ぎ去り、今は幸福な時代となりました。おお皆様、主イエスは私共に聖言みことばをもって、もはや罪の時代、サタンの時代が去ったことを耳語ささやきたまいます。今はペンテコステの時代、春らしい時であります。今私共はおのれを捨てて、自分の狭い暗い部屋をでて、神の太陽の光線の中にで、ペンテコステのうるわしい天気にあずかり、ペンテコステの幸福を味わう事を得ます。そうですから主は懇ろに

『わが佳耦ともよ わがうるはしき者よ おきいできたれ』

と招きたまいます。先に十節においてもこの招きを与えたまいましたが、今ここで再び懇ろに招きたまいます。もはや主は勝利を得たまいました。罪とけがれとサタンの力に全く勝利を得たまいましたから、私共もおのれの家をでて主のよみがえりにあずかりますれば、主の勝利を一緒に経験する事を得ます。また断えず心の中に花のごとき聖霊のうるわしさや、鳥のさえずるようなうるわしい聖霊の音楽を経験し、また山鴿やまばとの声のような愛の声を聞く事を得ます。また十三節にある無花果いちじくのようなうるわしい聖霊のを結ぶ事を得ます。おお主はそのために再び懇ろに『おきいできたれ』と叫びたまいます。今まであなたの心の中に暗黒があり、失望があり、また愛が冷淡である事を感じましたならば、また信仰の冷ややかなる事を悟りましたなら、『おきいできたれ』、春の天気に『おきいできたれ』。今は聖霊の時代、天国の時代であります。不信仰を捨て、おのれの力を捨てて起きてきたれ。どうぞ聖霊に身を任せて、このような天国の幸福を経験なさる事をお勧めいたします。

 けれどもそれのみならず、主はなお更に深い愛の勧めをもって勧めたまいます。今まで十節より十三節までを見ますと、私共が起きてきたりますならば、自分の利益、自分の幸福となり、私共自身が天国の空気を吸うことを得ますから、主は愛をもって招きたまいました。けれども十四節を見ますれば、主ご自身の幸福のために、主ご自身の喜悦よろこびのために『おきいできたれ』と言いたまいます。

十四節磐間いはまにをり 斷崖がけ匿處かくれどころにをるわが鴿はとわれになんぢのかほを見させよ なんぢの聲をきかしめよ なんぢの聲は愛らしく なんぢのかほはうるはし』

 おおこれは深い深い愛の声であります。私共が起きてきたりますならば、私共自身の幸福であるのみならず、そのために主イエスは喜び、幸福を感じたまいます。そうですから主イエスに幸福を与えるために、おのれを捨て、おのれに死に、自分の不信仰や低い考えを全く捨てて、信仰をもって聖霊の空気のあるところにでよと招きたまいます。おお主はそのような熱い愛をもって私共を招きたまいます。

 私共がその聖声みこえに従っておのれを励まし、信じてでますならば、第一に十五節のように、そのペンテコステのうるわしいを害なう者を、どうかして心の中よりことごとく取り除かねばならぬことを感じます。

十五節『われらのために狐をとらへよ 葡萄園ぶだうぞのをそこなふ小狐こぎつねをとらへよ 我等われら葡萄園ぶだうぞの花盛はなざかりなればなり』

 また第二に十六節にあるように主と一つになった事を感じます。もはや主のものとなり、主とうるわしい交わりができる事を知ります。

十六節(この節の始めの方は日本語の訳が弱うございます。むしろこういう風に読んだ方がようございます。)
  『わが愛する者はわがもの われかれものなり』

 おおこれは実にうるわしい経験ではありませんか。これは真の安息、真の喜楽よろこび、またこの世からの天国の経験であります。これはただいて身も魂も献げる事ではありません。厭々ながら十字架を負う事ではありません。愛のつなに繋がれて主と一つになる事です。これはまことの献身であります。主は私共各自にこういう経験を与えたまいとうございます。私共はこのように主のものになりましてから、前に申しましたような聖霊のうるわしい天気を経験することを得ます。すなわち十一節より十三節までの深い意味を体験いたします。

 そのような春の経験は、十六節のように主イエスを受け入れて、主のものとなる事によりて得られるものであります。

  「ただイエスこそ、聖徒の要するすべてなれ。
   れどイエスは全くいだかれ給はざるを得ず、
     しからずば満足し給はざるべし」 テルスチーゲン

 新婦はその時に信じて主のものとなりましたが、度々たびたび十七節のように、主がそのご臨在を示したもうように願います。

十七節『わが愛する者よ 日のすゞしくなるまで 影のきえるまで身をかへしていでゆき 荒き山々の上にありてしかのごとく 小鹿のごとくせよ』

 日の涼しくなるまで、影の消ゆるまで、すなわちご再臨の時までであります。どうかそのご再臨の時までたびたび私に近づいて、私にそのご臨在を示したもうように願います。



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