第十一 奉仕のための武装



十三節『歸れ歸れシュラミのをんなよ 歸れ歸れ われらなんぢんことをねがふ なんぢらなんとてマハナイムの跳舞をどりるごとくにシュラミのをんなんとねがふや』

 私共が聖霊のバプテスマを得ますならば、この世にける考えを全く捨てて天にるもののみを求めます。けれどもそこまで進んでおらない他の信者は、それを好みませんから、『歸れ歸れ』と招きます。彼らはただ『なんぢんことをねがふ』との好奇心よりそれを申します。面白い跳舞おどりを見るような考えでこの熱心な信者を見んことを願い、その経験を批評しとうございます。エゼキエル書三十三章三十二節に、『彼等にはなんぢよろこばしき歌 うるはしき聲 かなづる者のごとし 彼らなんぢことばきかされこれをおこなはじ』とありますが、彼らもちょうどその通りに、そのよろこばしき歌を聞くように新婦を尋ね求めますが、決してそれにならって行う心はありません。真正ほんとうに従う決心はありません。

 けれども周囲にある信者は、この新婦の中に神の働きと恩恵めぐみを明らかに見る事を得ます。また格別に奉仕のために全き用意のできていることを見ます。


第 七 章


一節『君のむすめよ なんぢの足はくつなかにありて以下にうるはしきかな ……』(以下各節とも聖句を略す)

 エペソ書六章十五節にあるように、この人は『和平おだやかなる福音のそなへくつとして足に穿はき』ました。またエペソ書二章十節に『我儕われらは神の造り給へる者なり』とありますごとく、『巧匠たくみの手にて作』られたにて作られた神のものでありますから(一節)、神が備えたまえる善きわざを全うすることを得ます。神はその御手みてを巧みに従えてヘブル書十三章二十一節にあるように『そのむねを行はせんがためすべて善事よきことおい爾曹なんぢらを全うせし』めたまいます。

 この一節より以下の記事と、四章一節以下の記事とを比較しますと、大概同じ事であります。四章の記事は新郎の言った事でありました。その時にはいまだ新婦の中にそのような恵みが成就せられておりませんけれども、新郎は『なきものをありし如くとな』え(ロマ書四・十七)、かつ新婦のためにその恵みを創造し、そのような聖潔を与えたまいます。ここでは他の基督キリスト信者が新婦の中にこのような恵みを見て言うところでありますから、新婦は、『キリストこれを得させんとわれとらへ給へる』(ピリピ三・十二)恵みをもはや実際に得たのであります。もはや、

 二節 においては新婦は子をはらむ力をち、また、

 三節 においては子供を養う力をっている事を見ます。これはペンテコステの力であります。

 四節 のうなじは意志を指します。今まできよめられぬ前には黒金くろがねのようでありました(イザヤ書四十八章四節『われなんぢがかたくなにしてうなじすじはくろがね、そのひたひはあかがねなるを知れり』。なお使徒行伝七章五十一節をも参照)。けれどもそのうなじきよめられて、今は戍樓やぐらのごとくなって、ただ神のために強うございます。またこれは『象牙の戍樓やぐらの如く』とあります。すなわち少しもおのれの利益を混えずして忠実に神のために意志を用いることを表します。

 またその目はうるわしい池のごとく穏やかであります。私共は目によって人の心を見る事を得ますが、この新婦の目の中には深い平安が見えます。これは心の中に深い平安がある証拠であります。

 五節 にあるかしらはそれをもっておのれを隠す事を得ます。コリント前書十一章十五節『かむりものゝかはりかみのけたまひたればなり』。聖霊を得ました者は、それはそのためにおのれを隠してただ主イエスのみを表します。

 七節 の『なんぢの身のたけ棕櫚しゅろに等しく』というのは、身の丈すなわち全体の様子が力あり、また早く成長して高く、また真っ直ぐになることを表します。ちょうど詩篇九十二篇十二節より十五節にあるとおりであります。『たゞしきものは椶櫚しゅろにごとく榮え レバノンの香柏かうはくのごとくそだつべし ヱホバの宮にうゑられしものはわれらの神の大庭おほにはにさかえん かれらは年老としおいてなほをむすび豐かにうるほひ綠の色みちみちて ヱホバのなほきものなることを示すべし』。

 また『なんぢの乳房ちぶさ葡萄ぶだうのふさのごとく』とあるように、他の基督キリスト信者はこの新婦より霊的の葡萄酒をも、また心を養うまことちちをも得ます。

 八節 を見ますと、新婦はそのような自分のうるわしさについて聞くことを好まず、ただ主イエスの恩恵めぐみと栄えのみを崇めとうございます。そうですから自分は棕櫚しゅろの樹のようなものでなくして、全き棕櫚しゅろなる主イエスに近づいて、主イエスより霊的の葡萄酒を飲み、主イエスよりうるわしき香りを嗅いで真正ほんとうに満足を得ます。

 九節 の中ほどより新郎は新婦のことばを遮りて、ご自分の恵みは全く新婦のためなることを言いたまいます。

『わが愛する者のためになめらかに流れくだり、ねむれる者の口をして動かしむ』

 そうですから十節において、新婦は一層明白に自分は新郎のものであることを経験します。



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