● 第一章  国立画廊 ●


「私が新約聖書の中に見出した事共を何と形容して君に示すことができようか。私は長い年月の間、これを読まずして、反対の偏見に囚われておったが、これを取って読むに至って、私の上に臨んだ光はダマスコ途上でパウロの目を眩ましめたそれにも劣らぬものであった。その時、私は急にわがすべての希望の成就、哲学の最高の完全、また物質世界と道徳世界の表面的矛盾を解決する鍵を見出した。
 全世界は贖い主の宗教を前進せしめるという唯一の目的のために整えられているように私には見える。 この宗教が神の宗教でないならば、私は何事も了解し得ぬ。
 私は古代の歴史を研究して常に何ものかの欠乏を感じておった。そして我らの主を知るに至ってすべてが明らかになった。主と偕にならば解決されぬことは何もない。」
                ──マックスミュラー教授(彼の友人への書翰中より)

「その書物(聖書)を書いた御方が我を造りたもうたのである。」
                            ──支那の一キリスト信者

「我は聖書を信ずる、何故ならば聖書は私を見出すから。」
                            ──S.T.コールリッジ



第一章 ヘ ブ ル 人 の 国 立 画 廊


 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのではないことを、悟るのである。 (ヘブル書第十一章一節〜三節)

 我らがこれより共に学ばんとするヘブル書第十一章は、聖書におけるウェストミンスター聖堂と呼ばれているが、私はこれを国家的尊崇に値する人々の肖像の掲げあるその画廊に比し、ヘブル人の国立画廊と名付ける。これがたぶん一層正しい名称であろう。さればこの研究において、我らはこの十一章をかかる所となし、聖霊によって描かれた、古の聖徒の肖像を熟視瞑想しつつ、また教えられつつその諸廊を歩むごとく想いたいのである。
 さて今この建物に入るに先立ち、この第十一章はヘブル書の中でどんな位置を占めているかを考えるは、善い研究の仕方であろう。
 ヘブル書の主題またメッセージは何かと言えば、巻頭第一に見出される『神は……語られた』なる語がこれを表している。第二章は、慎んでその御声を無視しまたは等閑にせぬよう、厳かに命じてあり、第三章には聖霊なる神の御声に耳傾けぬことにつき繰り返して警戒されており、終わりには『言葉がひびいてきた山』(十二・十九)、『力強く語るそそがれた血』(十二・二十四)、『天から告げ示すかた』(十二・二十五)などと、この同じ主題をもって結んである。そして初めに『御子によって、わたしたちに語られたのである』(一・二)とあるを読めば、この声、この言葉、このメッセージ、この天よりの発言は普通の語り方でないことがわかる。すなわちこの書の主題は『神の言葉』にています『キリスト』であるのである。既にキリストがこの書の主題であれば、記者が福音書におけるごとくにキリストのご誕生、ご最期、ご復活、ご昇天、さてはその御言、御業、ご教訓、ご性格、父なる神と偕に歩みたもうたこと、悲しみ憂える人の子らに対して憐れみと同情をもちたもうたことなどについて書くであろうとは、自然に期待されることであるが、彼らはそれらのことは何も書いておらぬ。聖霊はかえって我らを旧約聖書に導き、そこに模型の中に祀られている、神の言葉なるキリストを我らに示したもう。すなわち模型を通してその実体なる主を啓示し、我らをして過去の御声に耳傾けつつ、それによって神のその御子を通して我らに語りたもう所を聴かしめたもうのである。
 我らもしヘブルの父祖たちの信仰に育てられたる知識あるユダヤ人に対して、神政ヘブル国の殊に誇りとするものは何かと問うならば、彼は躊躇なく答えるであろう。すなわち『それは七つのもので、第一は我らの先祖の神なる主なる神、第二は我らの国民的郷土パレスチナ、第三は我らに律法を授けた大指導者モーセ、第四は大祭司職、第五はシナイ山で与えられた神の契約、第六は犠牲による礼拝の道、第七は我らの宗教と信心の中心なる神殿である』と。
 そしてなお進んで、その他にヘブル人の中に尊崇の目的とせられるものは何かと問うならば、彼は空に輝く群星のごとき、古来ヘブル国の多くの勇者たちを挙げ、これを示さんとその国立画廊に導くであろう。そして今その一部を開いて我らの参観に供せられおるのが、すなわちヘブル書のこの第十一章である。
 以上述べる所はすなわちヘブル書の骨組みで、全体がかかる設計の上に建てられている。すなわち第一章は神としての主を語り、第二章は人としての主を示し、第三〜四章はその国民的郷土なる安息の地と、その所にその民を導く大指導者モーセについて語り、第五〜七章は大祭司職、しかもアロンの位のそれではなく、はるかに勝れるいと高き神の祭司なるメルキゼデクの位の大祭司職について語り、第八章においては神の契約、しかも石の板に書かれた古のそれに対照して、心に記される新しき契約が示され、第九章は大いなる犠牲、すなわち牡牛や山羊のそれに勝るところの血潮について語る。そして第十章においては神の殿、すなわち古の殿の幕の裂かれたごとく、その肉体の裂かれたまえるキリスト・イエスについて語る。その肉体の裂かれたもうたのは、既に昇天し高められたもうた主と偕に我らにも至聖所に入ることを得せしめるためであったのである。
 かくすべてこれら旧約の模型の示す所の大実体なる『御子によって、わたしたちに語られたのである』。我らはこれらの模型の中にキリストを見、懇ろに見まつり、これらを通して神の御声に耳傾けまた聴くのである。
 そしてその御声に対する我らの答えがすなわち信仰である。かく神の御声に応えまつることが、いかに死活的で、いかに本質的で、いかに霊的で、またいかに実際的問題であるかを明瞭にするために、我らは今いわゆるこの国立画廊に導き入れられ、『多くの証人に雲のように囲まれている』(十二・一)のを仰ぎ見せしめられる次第である。かくして我らは彼らの受け、学び、なし、忍び、また楽しみたる一切が、信仰の偉大な能力によってであったということを学ぶ。ここに彼らは、この信仰が彼らのその神なる主の御声に応えまつる仕方であったことを我らに示している。実にこの信仰こそ、彼らの生涯の大動力であった。
 我らは今この聖なる画廊に入らんとするに至り、ここに掲げられおる諸肖像を概観して、気付かれる著しい二、三の事実を見たい。
 第一、これらの肖像を描きたもうた聖霊はこれが選択に極めて注意深くありたもうたことが気付かれる。そして聖霊のこのご選択の目的が、これによって、キリスト信者の経験における種々の局面、種々の転機、種々の時期を例証せしめるためであったことは明らかである。それと同時にそこに何らの反復もなく、材料の無駄遣いもなく、描写の重複もない。
 第二に我らがこの画廊を通過して感ずるは、その排列順序の非常に正しいことである。これは霊的経験の順序を示して少しも誤っておらぬ。例えばそこに入り来りまず目に入るところの画像は、信仰による救いについて語っている。我らが最初に教えられることは、我らが何事かを行い、なし、また成し遂げ得る前に、まず受け、上より生まれ、生命に入らねばならず、順う前にまず信頼せねばならぬこと、また行為なき信仰は死にたるものであるけれども、信仰なき行為もまた全く死物であるということである。この順序は十一章全体を通じてよく注意されている。この点は詳論に至ってなおよく学ぶであろう。
 第三、一層よく見て我らの注意を惹くことは、これらの肖像がすべて一対ずつに排列され、一つは他のものの補充となっていることである。記者は、キリスト信者の七つの経験、すなわち七つの局面を例証するために、十四の絵画を提供している。すなわち二つの絵で一つの局面を示すのである。このことは一読しても十分に明らかにされる。すなわち、
 第一に見られる一対はアベルとエノクで、二つとも救いを受ける信仰を例証している。すなわちアベルは贖罪の犠牲を信ずる信仰、エノクは活ける臨在を信ずる信仰の例証である。
 第二はノアとアブラハムで、信仰の分離せしめる力を語る。前者は世をして死に至らしめる分離、後者はその子孫をして生命を得せしめる分離である。
 第三はサラとアブラハムで、信仰の実を結ぶ秘訣、すなわち生命を殖やす力を教える。前者は胤を宿す受ける力、後者は胤をして地に落ちて死なしめる力である。
 第四はイサクとヤコブで、共に臨終の床の場面である。一方はその子らを祝し、他方はその孫たちを祝している。
 第五はヨセフとモーセで、彼らは 一層広い視界を我らに提供し、国民の救い出しを示している。ヨセフはエジプトに留まることにより、モーセはそこから出ることによりてこれを示す。
 第六の一対は、人物よりはむしろ景色の絵画である。一方は死が彼らを『過ぎ越す』ことを描き、他方は彼らが死をとおして『過ぎ行く』さまを描いている。
 第七は戦いの場面である。一方は敵の要塞を全く破壊するさまを描き、他方はその捕虜のひとりの救い出しを描いている。
 かくて聖霊なる神の画工は悦んでなお多くのものを描き続けたもうたであろうが、場所が限られているので、この章の残りの部分には、充分に描いた肖像よりはむしろ記念の人名表が掲げられている。しかし我らはこれを見また読んで、ここに信仰は弱き男にも女にも生涯と奉仕に力を持つことを得せしめる動力であると共に、また苦難に堪え死をさえ甘受せしめる力であることを発見する。
 さて我らいよいよこの画廊に入らんとする前に、今一度立ち止まって、金色燦然とその入り口を飾るここに掲げられたる言葉を読みたい。この言葉は不思議なる動力(信仰)の作用を我らに語る。この定義は神的である。すなわち信仰は心に確信を、思念に満足を与えるものであると我らに示している。

一、心の確信

 信仰は望むところの物の実体、見えざる事実の確信なり。古の人これによりて証しせられたり。 (十一・一=原語直訳)

 『信仰は望むところの物の実体なり』とある、この『実体』は非常に面白い語である。パピルスに書かれた古文書の発見は、ギリシャ口語を解するに大いなる光を与えたことであるが、これによりて我らは、英語欽定訳に『実体 (または資産:substance)』と訳されおる『ヒュポスタシス』なる語は、我らが『証券 (title deed)』と称するもののごとき文書、すなわち我らの期待するごとく或る物が確かに自己の所有に帰することを保証する文書を言い表すによく用いられおることを見出す。人はよく、実現の機会のありそうにもない、空中に楼閣を建てるようなこと、一朝にして百万長者となり大商業王になるような、どんなことでも望むことはできるが、それは空しいことである。しかしながらその所有権に関する『証券』が自己のものとなっているならば、たとえその瞬間それが他人に属していても、これをわがものとすることは、空中に楼閣を建てることを望むがごときではない。我らは結局その所有権が自己に帰するという確証を持つ。信仰はかくのごときもの、すなわち我らが望みまた願うところの事物が現実に自己のものであるという確証である。そこで我らは我らの期待の理由、実質的な真実の理由を持つ。それは我らの希望が空中に楼閣を建てるごときことでないという保証となる基礎、すなわち実体である。我らは何々を受けかくかくありまたなすべき道理ある期待の伴わぬことを、むやみに感情的に願うことをせぬ。されど神の約束に対する信仰は、望むところのものを獲得するという確かな保証を我らに提供するものである。
 されどここになおそれ以上のことがある。すなわち次の句に『見えざる事実の確信なり』とある。今一度原語を参照することは有益である。この定義の初めの句の『望むところのもの』の『もの』という語は、原語ではただ『望む』という分詞の語尾の変化によりその意味の含まれおることを知るのであるけれども、次の句の『見えざる事実』の『事実』は『成し遂げられた事実』を意味する『プラグマトーン』なる語をもって表されている。されば信仰は、まだ自然のこの目には見えぬとも、既に成し遂げられた事実を確信することである。かくのごとき信仰が、今日流行する安価な気楽な信心主義とは非常に異なっているのは明白である。ペテロがこれを『尊い』信仰と言い、また神より『受けた』信仰と言っているのも道理である。そしてヨハネはこの信仰の彼に与えられたのは、第一『すべての不義からわたしたちをきよめて下さる』(ヨハネ一書一・九)父なる神の義、第二『もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる』(同二・一)とあるごとく、救い主の義によると言っている。実にその通りである。
 さてこの信仰が実地に成し遂げるところのことは何であるか。その独得の本質的な作用は何であるか。それはもちろんこれから、死ぬれども数千年の間なお語っているこれらの勇者たちから聴くに至って、一層充分に了解することではあるが、我らがそこに入る前に、まずここで、すべての秘訣のうちいと幸いなる秘訣、真の信仰が我らの心に確信を与えるということが示されている。すなわち『之によりて』古の勇者たちは『證せられたり』(十一・二=文語訳)とあるを読む次第であるが、なお付け加えて言うべきことがある。
 既に見たとおり、信仰は神の与えたもう賜物と言われているけれども、人の心と思念にもまたこれと共に働くところがなければならぬ。主イエスはかつて信仰を種にたとえて教えたもうた(ルカ十七・六)。種はその中に生命の胚芽と原質を持っているが、蒔かれたその土の協力なしにはその効力を現し実を結ぶに至り得ぬ。そのように『神の賜物』であり聖霊の御工であるところの信仰も、受ける人の心と思念によってこれを働かしめて初めて作用を起こし得るのである。いま我らがその肖像によって学ばんとするところの古の勇者たちは皆これを語る。彼らは神の栄光のために事をなし、断乎として敢行し、苦を忍び、死を甘受するその前に、まず神の御意に在り、その命ぜられたることをなすべく召され、撰ばれ、委任されているという、聖霊なる神の証をもっていたのである。そしてこの確信は何によって彼らの心に持ち来らされたかと言えば、それは信仰である。彼らは神の驚くべき仰せごと、またそのお約束をば大胆に自分のものと受け取った。彼らはそれが表面上不可能に見ゆるとも、これによって躊躇しなかった。そして彼らが「キリストに全く固着している」時に聖霊が天からこの証を与えたもうたのである。
 マデレーのフレッチャーは「私が不信仰の中に立つ時は、誘惑の太陽に焼かれて、干上がる泥水の一滴のようであったが、私がキリストを信じ、全くキリストに固着している時には、その同じ水の一滴が、光明と生命と純潔と愛と能力の際涯なく底知れぬ大洋の中に見失われてしまったようである」と言っている。
 これは証をその心に持ち来らす霊魂の協力である。聖霊をして我らの霊と共に、我らが『神の子』であり、『キリストと共に世嗣』であること、また我らが『ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって……きよめられた』こと(十・十)、『神に喜ばれ』つつあること、そしてまた我らが神の御意に在り、我らに委ねられた働きを成し遂げ、我らの神のために勲功を立て得るということを、証しするを得せしめる道は、世に遣わされたまえる神の言葉なる「キリストに全く固着している」このことである。もし我らがこれらのことの一つ一つについてもまたすべてについても、神のなされ方とその順序に従って『ただ信じる』ならば、別々にも全体としても神の御霊は順序にかなって証を与えたもうのである。

二、思念の満足

 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのではないことを、悟るのである。 (十一・三)

 信仰が心に確信を与えることは既に学んだが、信仰はなおそれ以上のことをなす。 すなわち精神(思念、mind)に満足を与える。ここに『信仰によって……悟るのである』とあるとおりである。感謝すべきことには、信仰というものは感情的な一種の主観的経験でなくして我らの推理的機能の働きである。そしてここに特に信仰によって悟り得られると言っている真理は創造の奥義である。創世記の始めの章は、信ずる者にとっては何も困惑すべき問題ではない。信仰ある者は、神の創造の御力の働きは、今日我らの周囲に行われおるを見るところの進化の勢力やその過程に顕れる神の力とは、その種類において根本的に異なることを信仰によって悟るのである。聖言は創造の御業について、『みわざは世の初めに、でき上がっていた』(ヘブル四・三)と言い、神がさらに新天地を造りたもうその日まではかかる御業の繰り返されぬことを示している。すなわち創造の後に来った安息の第七日は今なおその行程を進みつつあるのである。
 初めの創造の御業がいかなる過程を取ってなされたか、それについては聖書は絶対に黙している。ハーバード・スペンサーは、自ら「大工のような創造説」と呼ぶものに対して非難を加えているが、それは全く見当違いである。かかる創造説は創世記が教えるとは彼自らが想像するまでのことで、いわば詩篇十四篇一節のいわゆる『愚かな者』を喜ばすために、自分で立てて自分で罵倒する藁の案山子のようなものである。
 今なおその行程を進みつつある安息の第七日が数千年かかるならば、創造の六日間もそれぞれ同じ長さであったと想像しても差し支えない。殊に聖書の記者は、極めて注意深く自然の一日と創造の一日について語るに全然異なった語法を用い、前者をば『昼と夜』と呼び、後者をば『夕となり、また朝となった』と言っている。すなわち一日を『昼と夜』に分かつことを語るに当たっては、その語をこの順序におき、創造の時代を示す時は、光明すなわち朝の時期の前に、夕すなわち暗き時期のあったことを示しているのである。かくてその間における創造の過程については、聖書は黙して何も語っておらぬ。されば真の信者はこのことについて何の説も立てることをせぬ。ただ創造に当たって用いられた勢力或いは過程は、今日我らが周囲に行われるを見るところの種々の変化発達また進化などの過程とは、種類において異なったものであるということを信ずるのである。
 しかるに現代の進化論はこれを拒み、物の起源にあたっても、今日行われつつあるを我らが見るそれよりも、種類において異なった何らの勢力も過程もなかったと主張するのである。
 信ずる者が創世記の記事をそのまま受け入れるに何の困難も見出さぬは何故かと言えば、それは彼自身の性質の中に自ら神の創造の御力を経験しているからである。信ずる者は、自分の心の救いと更新は進化の結果でなく、神の創造の御業の結果であることを、決して疑う由のない確信をもって知るのである。かかる人は『キリスト・イエスにあって造られた』者である(エペソ二・十)。彼はダビデのごとく『神よ、わたしのために清い心をつくってください』(詩篇五十一・十)と叫んだ。そして神がその叫びに答えたもうた時に、彼は彼の世界、すなわち『神がその心に立てたもうた世界』(伝道の書三・十一=英訳には『神は人の心に世界を立てたまえり(also he hath set the world in their heart)』とある)は神の言葉によって新たに創造されたので、『見えるものは現れているものから出てきたのでないことを』知るのである。
 我らがこれよりこの国立画廊にて学ばんとするところは、神の創造の御力を信ずるこの信仰である。ここに掲げられおる古の勇者たちの肖像が我らに語らんとするところは、神の奇蹟を行いたもうその大いなる御能力である。
 神の創造の御能力に対する信仰こそは、彼らの生涯の動力であった。これが彼らを鼓吹し、彼らを衝動し、彼らに迫って、神の栄えと人間の益のために、恵みを受け、事を行い、苦を忍び、死を甘んぜしめたのである。彼らは信じた。また信じつつ神の働きたもうを見守った。彼らは『自分もわざを休んだ』(ヘブル四・十)。神は彼らに対して力ある働き手にてありたまい、彼らはまた神に一切の栄光を帰し奉った。これは人にとって最も学びがたい学課である。さりながら、我らが自己の生涯と奉仕の各部にわたって徹底的にこれを学ぶまでは、神をして失望せしめまつる。されば我らはこの点において塵灰の中に悔い改むべきである。そして我らが往く道の果てで、今その中で悔い改めたその灰が我らの唯一の糧でないならば、それだけでも充分感謝するに足るであろう。
 我らが今この画廊の敷居を越えて入り、これら勇者たちの研究を始める前に、私は読者諸君に一つのリーフレットを差し上げたいと思う。これは久しい以前に書かれたものであるが、信仰の道をば経験的に悟らんことを求める熱心な霊魂に対しては、黄金の重みを有する価値多き助言を含んでいる。すなわちその記者は言う:

 「私は信仰の性質に関して、これは受け取る或る物であると同時に、また献げる或る物であるという漠然たる観念に陥らぬよう、君の心を守りたいと切に願うものである。
 古の神学者たちが「律法的悔い改め」と言ったところのもの、すなわち性質上、信仰上に先立ちこれが準備をなすところの働きと、信仰に随い来るところの霊魂の奉献とが、はなはだ混同しやすいのである。前者は単に自己愛、すなわち我ら自身の滅亡を来らすところの悪から逃れたいとの熱心な願望から生ずる。さればこれは愛によってでなく、律法によって迫られる行為で、真の信仰に随い来るものとは性質上はなはだ異なった行為である。後者は真の信仰に在って、神から受けた力により、喜んで全く自己を神に降服せしめることである。この二つの行為は、あたかも自己の身体の組織から出る臭い息を吐き出し、神の聖い空気を吸い入れる呼吸の両作用のごとくに、離すべからざることである。君が神より受ける前に、まず神に受け納れられる何物かを献げることができると告げるものは、律法的福音である。神に自己を献げ聖別せんとする意向は、信仰の本質の一部ではない。それは信仰の結果である。君が求めつつあるところ、すなわち君が求める全部は、君自らを全く神に降服せしめるその能力である。聖アウグスティヌスの言った「神よ、汝の命じたもうものを与えたまえ、そして汝の欲するところを命じたまえ」という名高い言葉は、最も善く完全に福音の心髄と実質を含む言い顕しである。
 律法の下にある者は、常に神より或る物を受ける条件として、何物かを神に献げんと努める。これが信仰の働きであり生涯の条件であるごとくに語るのは、知識によらずして律法に熱心なるからである。実は信仰の働きも生涯の条件も、信仰の実なる愛がそれである。これは極めて明らかである。
 私がこの問題につきはなはだ熱心なる所以は、この信仰の行為について、献げることと受けることを混同したのが、長い間、私の大いなる間違いであったからである。そして人の生涯にこれほど妨害となるものはなく、この点において誤謬から明白に救い出されていることほどに霊魂の進歩に大いなる助けはない。」

 願わくは、我らが古の神の民の画廊に入り、彼らよりして生涯のこの大動力と霊魂の進歩に対する秘訣を学ばんとするにあたり、神がこの重要なる純金の言葉を我等すべてに役立たせたまわんことを!
 さて今、我らはいよいよこのヘブル書第十一章の門内に入らんとしている。我らがそこで見るべく期待するところは何であろうか。比喩を更えていえば、この美しい寄せ木細工の模型が我らの注意深い研究に対して開示するところは何であろうか。
 我らはそこで信仰、すなわちあらゆる事情のもとにあらゆる場所で働き、あらゆる驚くべき結果を成就するところの信仰を見るであろう。すなわち礼拝において、日々の歩みにおいて、神なき民衆の群がる場所において、天幕において、街において、揺籃の中に、臨終の床に、王宮に、小屋に、我らはそれを見るであろう。我らはまた戦場に、包囲された都市に、夜の恐ろしさに、海の危うきに、敵から逃れる場合に、それを見るであろう。
 我らはまたこの信仰の源泉、その秘訣、その所業、その報償、その動機、その経験、その視野、その奥義の或るものを学ぶであろう。そして我らはまた信仰がその美わしい模型また意匠を織り出すところの材料、すなわち神の義、忠信、能力、愛、キリストの血、その霊、その極めて大いなる貴き約束を見、この驚くべき織物の経糸と緯糸とを発見するであろう。
 さてまたこの天の護符とも言うべき信仰を所有することは、特殊の階級、年齢、男女、種族に限られないことを見るであろう。すなわち我らは太古の時代からこれを見る。すなわち最初の殉教者、若き聖徒、義の宣伝者、来るべきことを示す預言者、民族の創建者、故郷を離れた旅人、石女なる妻、異邦の娼婦、政治家、王など、各種の人々によって所有され、またこの代から次の代に、祖父から父に、父から子に、子から孫にと伝えられることを見、その軍隊を導く大将にも、定められた故国に移住しつつある全国民にも、これが所有されおることを見るであろう。
 我らはそこにまた、信仰が実に生涯の動力であることを見出すであろう。そしてそれが神を拝し神と偕に歩むを見、罵詈と侮辱のうちに説教するを見、それが低い平野に天幕を張り、高いピスガの峰に上り、永遠の都を見、来るべき事共を熟視し、最愛の一切を犠牲にし、上よりの祝福を呼び下し、死なんとする者を慰め、そしてまた来らんとする代々に黙示の伝灯を授け、遙かに人生の帰趨を達観し、王位も財宝も人生の栄華をも投げ棄てて、苦を忍び、自ら犠牲にし、人を贖い出し、国民を救出し、勝利の軍勢を戦に導き、敵の堡塁を攻め取り、一人の霊魂、殊に卑賤の者の証を通して、二百万の神の選民に霊感を与えつつあるを見るであろう。
 これらは我らがこの国立画廊において見んとするところである。我らは自らの無益な実を結ばぬ生涯において、果たしてこの信仰の力につき何事かを知りおるやを顧み、また驚くであろう。
 願わくは聖霊の神、我らがこれらの奥義によって益を受け、信仰が我らにとりてもまた、この世にも来世にも、生涯の最大動力であることを、遅くならぬ間に悟り得るよう、目に油を塗り、心を備えたまわんことを!



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