第十六章、十七章 結 論


 『不信仰というものは、地獄にいる悪魔もそんな罪を犯すことをなし得ざるほどに深い罪である。我らの救い主が祈り、泣き、血を流し、死にたもうたのは、決して悪魔のためではなかった。主は悪魔共にむかって『あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない』(ヨハネ五・四十)とは決して仰せたまわなかった。……悪魔の罪よりさらに深いこの罪があなたのために蓄えられている。おお、無頓着なる罪人よ。』
                  マデレーの牧師 ジョン・フレッチャー

  主の御声は 大水の上にあり
  主の御声は 勢いあり
  主の御声は 稜威あり
  主の御声は 香柏を折り摧く
  主の御声は 火焔を分かつ
  主の御声は 野を震わす
  主の御声は 林を裸にす
                  聖詩第二十九篇



第十六章 地獄よりの声


 『こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。』(ヘブル十二・一、二)

 或る巨匠によって描かれた肖像画を見る時、その像の目が、いずれの角度から見ても、またいずれの方に我らの身を転じても、常に我らに向かっていることを誰でも認めるであろう。このことが実感される時に、ほとんど気味悪くさえ感ぜしめる。これはなお、この画工によって不朽のものにせられたその名士が今なお生きていて、その場合に応じて我ら一人一人を或いは驚き、或いは非難し、或いは愛情のまなざしをもって見つめるように思わしめるからである。
 我らは、すでに遙か以前にこの世を去ったヘブルの聖徒のこの画廊を通り、彼らの顔を見、その声を聞き、また彼らが喜んで教えんとする学課を学ばんとした時に、彼らの死より甦れる人のごとくに我らに目をつけることを感じたであろうか。そしてこの雲のように多くの証人から我らの心に響く声を聞いたであろうか。かく彼らの語る声を我らに聞かしめることが、たしかにヘブル書の記者に霊感を与えたまえる聖霊の御目的であったのである。我らは彼らに目をつけていたけれども、彼らはいま我らをして彼らに目をつけることなからしめる。もちろん彼らは神の全能の力とその恩恵の証人として、我らが前に置かれたる馳場をいかに走るかの手本であるとは言え、彼ら自身に目をつけさせず、彼らから目を離して転じ(原語にはそれが明らかにしてある)我らの信仰の導師また完成者なる主イエスを仰ぎ見せしめる(信仰の導師としての主イエスの予表はモーセ、完成者としてのそれはメルキゼデクである)。
 主イエスを仰ぎ見、その御声に耳傾けることは全体の結論である。何となれば、我らがこれらの信仰の勝利を見ることより実際に益を受けるは、ただかく主イエスを仰ぎ、彼に聴くことのみによるからである。
 私は本書の結論となる最後の二つの章の初めの分に『地獄よりの声』という題目を付けた。何となれば、私は、我らが共に学びつつあった主題に相対立する恐るべきものについて語らずして、本書を閉じることができぬように感ずるから。そして我らの学びつつあった主題、信仰に対立するものは、無論不信仰である。この不信仰は、一般に世界においてそうであるごとく、教会においてもまたすべての罪悪、悲嘆、失望の源である。この章の始めに掲げた簡単な、しかも生き生きした聖句にこれが『からみつく罪』(『いたって陥り易い罪』=英訳)として暗示されている。英語改正訳の欄外注には『多くの人に嘆美せられる罪』とある。
 この『多くの人に嘆美せられる罪』という用語に関して、ついでに思い出すことは、私がかつてウェールズで数日連続の公開集会でこの問題について話したことがある。その時、聴衆の中にその地方にて或る重要な地位の人があった。さてその集会のことがその地方の新聞に出たので、彼は大いに憤慨的文章を寄せて、私のごとき霊的なことの解らない者を講壇に立たせたことに抗議した。彼の言うところは、元来不信仰というものは一種の徳である。それは疑問を刺戟し批評を起すので、知識と科学的進歩の源である。語を換えて言えば、不信仰はすべて思索し感受し易き人々に嘆美奨励さるべきものである。しかるにいずれの意味からでもこれを悪と呼び、取り除くべきものと論ずるは、たまたまその無学無教育を曝露するものであるというのである。
 もちろん私はそれに何の答えもなさなかったが、もし答えたとするならば、もし君と君の細君との間に相互の信仰と信任が欠けたとするならば、それは涵養し奨励すべき徳であろうかと言うように誘われたかも知れんと思う。この人はもとより信仰というものとこれに対立する不信仰というものの性質について全く無知であった。私は道徳的範囲においての信仰について語り、彼のそれにつける観念はただ知的のことのみであったのである。
 次の章において我らは、天的動力なる信仰の唯一真の源泉なる『天よりの声』を考察せんとしているが、ここ、この章においては地獄からの声を考えたい。この地獄からの声は最初エデンの園で『ほんとうに神が言われたのですか』(創世記三・一)と語られ、幾十世紀の間ひそひそ語り伝えられているところで、今なお、更生せざる人の霊魂には最有力な積極的な権威を持っているのみならず、さても、神の聖徒に対しても常に襲撃する最も恐るべき敵である。
 不信仰は人の霊魂の中にあるすべての悪の本源である。私は本章において、悪の底なきこの泉から、その恐ろしく残酷なる性質の数例を引き出して示そうと思うのである。

第一、不信仰は社会組織を破壊する

 事実、人はその隣人を信ずる。人は大部分互いに信頼し合うのに、なお神に信頼することをせぬのは不思議である。もし人々が大部分相互に信頼し合わないならば、社会はもとより一日も存立することができぬ。我らすべての人の毎日の生活はこの原則の上に行われている。我らは日毎の生活に起こり来る無数の行為において相互に信じ、また人の言葉と約束に対して信用を置くのである。
 もしかくせぬならば、われわれは限りなき苦労と困難に遭遇するであろう。我らの隣人に対する不信用、不信任の甚だしいところには悲惨なことやあらゆる悪事が行われる。我らはその実例として、ロシアのことを考える。過激主義はこの理由で悲哀と苦痛の収獲をなすのである。誰も人を信頼せず、互いに相疑う。かかる環境において地獄を描くには大いに想像力を働かすの用はない。
 猜疑、不信頼、不信用、不信認は結局社会の全組織を破壊し終わり、言うべからざる残酷とあらゆる悪魔的罪悪に陥らしめるのである。

第二、不信仰は我らの判断を誤らしめる

 不信仰、すなわち他に対して信任を欠くことは常にその人々の動機を疑う。あらゆる善い行為の背後にも、不信仰は何か隠れたる動機があると想像する。人が全く高潔で、自己の利害に関せず親切を施す場合にも、不信仰はかかる親切の裏にも何か隠れた利己的理由があると思わせる。しかしかかる場合、邪推する人それ自身の心が顕れる。すなわちその人は自己の心にあるものが他人にもあると考え、彼自身の悪い考えの標準によって他人を判断するのである。彼は自ら自己の利害を超越した親切を人に施すことができぬから、他の人もみなその通りと推測するのである。
 『どうして心に疑いを起こすのか(何故にあなたがたの心にこの思いが起こるのか=欽定訳)』(ルカ二十四・三十八)。かかる悲劇はみな人がかく神を疑うという事実に起因している。不信仰は、神が純粋無私な愛を施し得たまわぬということを暗示する。人は神を己にさも似たるものと想う。そしてその歪み捩れた想像は、不信仰の悪しき心から起こるのである。
 悲しいかな、私は人の心には多くの隠れた動機があって、猜疑と不信に多くの口実を与えるということをよく承知している。けれどもその猜疑と不信をご慈愛深き天父に向かって持つというに至っては実に言語道断である。神に向かって邪推し、信頼せず、疑い、また反感を持つことは、我らの心がその源泉において毒されており、そして我らの想像力が不信仰の恐るべき惨害によって捩れ歪められていることを顕す。

第三、不信仰は我らの愛を破壊する

 信認のないところに愛はあり得ぬ。我らは信ぜぬところで愛することをなし得ぬ。人々が神を愛しあたわぬのは、神の道が必ず最善であるということ、神の御意を行うことが地上において必ず最も安全、最も甘美なることであると信ぜぬ(言い換えれば神の道が必ず最善であるとの事実を信仰をもって把握せぬ)からである。人々はそれを信ぜぬので神を愛しあたわぬのである。不信仰はすべての困難の根本にある。人の心は神に対するこの悪しき疑念、この心寂しき恐れ、この不自然なる不信認をもって浸潤されているのである。
 常識が想像のかくも法外なる堕落を大いに非難することを私は知っている。我らの住みおるこの世界のごときかくも美しき世界を造り得たる神は、我らの愛と渇仰、礼拝、信認、満悦に価するということは、事物を正しく考え得る人には五分間の考慮も費やさずして明瞭にし得ることである。されども我らの心を支配する強い恐るべき凶悪なる力があって、良心と常識のいずれからの勧めも揉み消してしまう。かくて我らには神を愛する何らの願望も興味も志望もない。不信仰が霊魂のこれらの道理ある本能を打ち壊したのである。

第四、不信仰は我らの能力を麻痺せしめる

 信仰が困難のあるごとにそこに善をなす機会を見るごとく、不信仰は善をなす機会のあるごとにそこに困難を見る。不信仰の執拗なる不断の叫びは『神は……なし得るや』である。その背後に悪魔の嘲笑が控えている。
 不信仰はいつでも、境遇事情は神よりも強いもの、現代社会の情勢は神にとってもあまりに困難であると示唆する。それはすべての善き願望を妨げ、すべての幻示を曇らせ、我らの熱心を鈍らせ、すべての努力の筋を断つ。サタンを大文字をもって綴り、神を小文字をもって綴る。それは教理においては充分正統派であり得るも、実行においてはすべての霊的生活を不具ならしめる。
 カデシ・バルネアにおけるイスラエル人たちは、ただ彼らの目前にある約束の地が神の仰せたまえるごとく乳と蜜の流れる地であることを決して疑わず、また神がその地を彼らに約束し、彼らに与えたもうたということも決して疑わなかった。けれども不信仰が彼らを荒野に死なしめ、沙中に葬ったのである(申命記九・二十三)。
 不信仰は必ずしも疑惑と同義ではない。我らは何の疑惑を持たないでも不信仰をもって麻痺せしめられることがあり得るのである。
 不信仰は領有力の欠乏であり、霊的能力の麻痺であり、霊魂の神経衰弱である。
 不信仰は我らをして祈らぬ者にならしめる。かくして神が我らを祝福せんと備えおりたもうことを得、かくなすことを欲し、また実際なしたもうということを信ぜぬようにならしめるのである。我らが祈禱の必要を実感する時、またかかる場所においても、不信仰はひそやかに、神によく勧め込まねば聴きたまわぬと思うように示唆する。それゆえに我らは信仰の祈禱でなくして不信仰の祈禱を祈る。我らの願望の祈禱が決して信仰の祈禱にまで進まぬのである。

第五、不信仰は他人の助けとなることを妨げる

 マンチェスターのフランク・クロスレーという人がほとんど無差別に慈善の施興をなすので、或る人がかつて彼を諫めて、彼は度々欺かれて助ける価値なき悪者共の犠牲になることを注意した。すると彼は答えて、度々忠告者の言葉のごとくであるは自分もよく承知しているが、主イエスは五千人を養いたもうた時に、弟子たちに命じてその人々の中から徒の者を選び出して去らしめたもうたと書いてあることを読まぬと言った後、『私は第六人目の貧しい霊魂を助ける機会を失いたくないために敢えて五人の悪漢共に欺かれる危険を冒す』と言ったということである。
 不信任不信仰は世間一般に行われる不正直や邪悪に惹起される故をもって多くの場合申し訳もあるけれども、これは人間の親切の乳を乾かし我らの同情の腸を閉じる。そしてこの悪しき精神が実際に乏しく真に苦しむ者の前にその感化を及ぼしその勢力を働かす場合には、いかに無情残酷冷淡なることぞ!
 不信仰の人は、彼に同情と信認を求める人に苦しみを与えると同様に、また自分もその不信仰の力によっていかに苦しむことぞ。
 かつまた不信仰は全く別の意味において、助けを要する人を助けることから我らを妨げる。すなわちその乏しき人の心中に不信任不信仰の存在する時には、それはその人を助けることを不可能ならしめる。
 例えば私の方に極めて無私の動機、最も憐れみ深い精神があり、その好意と能力と決心とがあっても、私が助けたいと思うその人々の心に私に対する不信任不信仰があるならば、私をして彼らのために絶対に何事もなし得ざらしめる。かく私の助けんとするその人々の不信任のゆえにわが手は縛られ、わが提言は斥けられ、わが約束は信ぜられず、彼らを救済せんとするすべての企ては軽蔑をもって取り扱われるに至る。ここに不信仰の恐るべき理論がある。されば不信仰は全能の神の御手を縛り、その我らを恵まんと思し召すご企図を破り、その御恩恵と御仁慈を無効ならしめるのである。

第六、不信仰は我らの霊魂を萎縮せしめる

 なお語らるべき最悪のことがある。不信仰ほど人の心を萎み衰えしめるものはない。不信仰は人をして皮肉家にならしめ、辛辣に、無情に、そして批判好きにならしめる。もし我らが常に信頼し得ず、また我らが信頼することを欲せぬ男女の中に置かれるとしたならば、それが我らの性格にいかなる影響を及ぼすかを想像してみよ。直ちに我らは険しく、皮肉に、辛辣になる。不信仰或いは不信任ほどに人の心を荒ましめるものはない。それは我らを我ら自身に追い返す。我らは自分の心のほかには何物も我らを助け得るものはないと考えるようになる。もちろん『自分の心を頼む者は愚かである』(箴言二十八・二十六)という言葉はいつでも真理であるけれども。
 恐るべきことには、我らは価値なき人に対する不信任をば、知らず識らずに、信頼すべき人々に移す。この恐るべき習慣は成長する。批判好みはただ残酷になるばかりでなく、また慢性的になる。
 ハーバート・スペンサーはその生涯の終わりに至って、彼がその批評力を働かすことなくしては何物も何人も見得なかったという事実、しかもそれが実際的の病となり、彼の見たすべての人またすべての物に対する不信任がその全眺望を苦くするに至ったことを悲しんだ。
 神はご自身を我らの『愛情ある信任』を受ける価値あるものと顕わさんとてあらゆる能力を用いたもうた。もし悲しくも、当てにならぬ信任の価値のない人間に対する不信頼が、我らの性格精神にかくも恐るべき荒廃を生ずるならば、愛の神としてご自身を示すべくそのご能力にあらゆる方法を用いたもうすべての恵みの神を信頼せず、信ずることに失敗するならば、それが我らの心に及ぼす甚だしき結果を誰が測ることができようか。
 人に対する我らの不信任を神に移すということは、神の宇宙における最も荒廃的な無道理なことである。
 おお願わくは、我らそれを憎み、それを恐れ、それを言い表し、そのものの永久に我らの霊魂より取り去られるまで、決して休まざらんことをこそ!

第七、不信仰は神を憂えしめまつる

 私は不信仰に関する最も恐るべき点を最後まで残した。不信仰は何事にもまさって神の御意を傷つける。これは哲学者を俟って初めて理解されることではない。これは街頭の人にも明々白々のことである。
 我ら自身の経験にても、他に信頼されず、虚言者と思われ、疑われ、信ぜられぬほどに苦しいことはない。もし我らが自分の能力あること、正真なること、慈愛深きことを非難することのできないほどに顕した上で、かく疑われるならば、その傷は実に肺腑に徹するであろう。
 我らが繰り返して親切を施し、その言葉の真実なる証拠を示し、我らの約束の言葉を実行する能力を顕したる後に、信任のできない当てにならぬ詐欺者とせられるならば如何。そのとき我らは何たる失望と共に、心に痛みを覚えることであろう。少なくともそれは我らをして善をなすことを不可能ならしめるばかりではない。我らが既に指示したごとく、いかに助けたいと願っても、我らを信ぜぬ人を助けることを不可能ならしめる。
 それは我らの顔の前に戸を閉ざし、我らが助けんとしたすべての努力の無益に帰したことの、悲しい失望をもって心を満たすのである。
 今これらの考えを神と我らとの関係に当て嵌めしめよ。我らが霊魂の中なる不信仰によって眩まされ、愚かにせられ、欺かれ、歪められているために、神が我らに恵みを施すことから振り向きたもう時に、我らの愚鈍なる心も初めて神の御失望とお悲しみを悟り始めあたわぬであろうか。
 注意せよ、不信仰は神をして我らを恵むことを欲したまわぬようにするのではなく、恵みたもうことのできぬようにするのである。
 それが全体の哲理で、不信仰の論理は頑として動かすべからざるものである。
 私は私に信頼せぬ人を助け得ぬ(欲せぬでなく)。もちろん私はその人が私の誠実を侮辱するにかかわらず、間接の方法で手を回してその必要なる物質的援助を与えることはできる。けれども彼が私を信ぜぬならば、霊的すなわち道徳的意味においては助けることができぬ。
 されば不信仰が神のこの宇宙においてすべての極悪のうち最も絶望的なるもの、すべての悪の根であるということは道理である。
 神がそれを『汚れたもの』(コリント後書六・十七)、『からみつく罪』(ヘブル十二・一)、『悪い心』(ヘブル三・十二)、神から我らを切り去るもの(ローマ十一・二十)、我らの視覚から神の栄光を隠すおおい(コリント後書三・十五)、目にある梁(ルカ六・四十一、四十二)、約束の地に入ることを妨げるもの(ヘブル三・十九)、隔離の山(マタイ二十一・二十一)などと呼びたもうも当然である。それは神の宇宙を毀損し、汚すところの、悪く残酷なる悪魔来のもので、そのものが亡ぼされるまでは人の子らには何の平和も喜びも愛も能力も、確かにまた永遠の祝福もあり得ないのである。

 我らは不信仰というものの来らしめる悪しき結果、それが人の心と性質に及ぼす荒廃を幾分か簡単に考察してきた。けれどもなお残る問題は、それは元来何物であるかということである。何故にそれが人の霊魂の中に存するか。何故に人の良心も常識も意志の力もこれを除きあたわぬか。それは我らが棄てようと決心することによって除き得る或る考え方、または思念の態度であるであろうか。
 神の言葉はそれを一つの状態、不信仰の悪しき心、霊的の本質、霊魂中の毒、捩れ歪み腐った性質で、神の敵なる『肉の思い』の別名であると言っている。
 終わりに特に強調を要する今一つの事実がある。少なくとも真のキリスト者(更生の経験を持つ真の信者)の場合においては不信仰は必ずしも意志にあるのではない。それは我らが信ぜぬというよりは、むしろ信じている我らに『不信仰な悪い心』(ヘブル三・十二)があるのである。それは聖パウロの言えるごとく『わたしの内に宿っている罪』(ローマ七・二十)である。それは天の馳場を走らぬということでなく、容易くこのからみつく罪に妨げられるということである。それはわが思念、記憶、愛情、願望、想像を毒するこの腐敗である。それはもはやわが意志と良心の中にあらざれどもなお意志を虜にし、良心を苦悶せしめる或る一物である。
 されば我らは神と更生したる性質の側に立ち、その一物をそこにあるべからずまたあることを必要とせぬ変態なるもの、一箇の闖入者、既成物、霊魂の一種の病気であることを認めて、これに反対すべきである。我らがこのことを見また悟る時には、我らは既に勝利の道程にあるのである。
 我らが今このヘブルの国立画廊を去らんとするに当たり、我らの見たすべての顔、我らの聴いたすべての声はみな、『不信仰な悪い心のあらんことを恐れて心せよ』『不信によって折られざるよう、高ぶりたる思いを持たず、かえって恐れよ』『まずおのが目よりうつばりを取り除け』『纏える罪を除け』『その顔おおいの取り除かれるために心を主に帰せよ』『この山に移りて海に入れと言え』『穢れたる者に触れるなかれ』、かくして『信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見るべし』と命ずる。
 おお願わくは、イエスを仰ぎ続けよ。もし天の馳場のこれらの観覧者たちの声が我らの耳に聞こえるならば、今は栄光の群の中に加わりおる或る人がかつてその群に語ったごとくに、彼らも語るであろうと思う。曰く、『私は生命と豊かなる命を与えたもう主イエスの前にてあなたがたに命じ、信仰のすべての行為によって、希望のすべての緊張をもって、あなたがかつて感じたすべての愛の焔をもって、あなたがたに懇請する。自らを卑しうする悔い改めの一層深い深みに沈み、キリストを崇める喜びの一層高い高みに登れ。そして「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることのできるかた」(エペソ三・二十)をして、万物をご自身に順わせたもう御力をもって、あなたがたの信仰の働きを進め、また全うせしめまつれ。希望に堅くあれ。忍耐と愛に不動であれ。常に愛の内外の労に富み、あなたがたの信仰の極み、すなわち霊魂の救いを受けよ』と。
 私は二つの書面を保存し、聖書に挟んでいるが、その一つは人生において不信仰の荒廃し寂寥ならしめる力を思わしめ、今一つは勝利する信仰の栄光ある力を思わしめるものである。前者は次のごとくである。悲しいかな、一読自ずから知れるごとき、かくのごときものである。

 『かつての日の親しき友よ。あなたがこの終わりの記名を見られるならば、たぶん数年前、貴下と、貴下がご自身に持ちまた楽しんでおられるその光明と平和に導かんと徒に努められた、その霊魂との通信を思い出されることでありましょう。
 さて、それは確かに貴下の過誤ではないのですが、私はいま中年をずっと過ぎて、勢力も願望も興味も既に長く生命を失ってしまいました。私は今日、長い徒費した空しい記録を回顧して、自ら無益な、何の目当てもない、不幸な老婆であることを思います。
 私には特権も機会も多くありましたが、何一つ抱き締めることを致しませんでした。神は誠にご親切で、多くの物質的賜物をもって恵みたまいました。私は今もなお生ける名を持っています。疑いもなく或る人々にはキリスト者として数えられているでありましょう。しかし私が真の生命と能力と安息と満足については全く空しいものであることを知る者は、たぶん神のみでありましょう。あなたのお分かりになる通り、かの一つのものも持たず、他のものも持ちませぬ。私はこの世のものにも心を用いず、神のものも持たず、実に貧しいものであります。
 私は今更変更するにはあまりに固定し、また年取りました。人は自ら播いたものを刈り取ることができるのみであり、また、私は自分の生涯を全く無用不能のものにしました。このような場合のみが残るのは当然であります。さらば何故にかくあなたに書き送るか? 私はあなたに会っていただきたいのでも、ご返事をいただきたいのでもありませぬ。けれどもたぶん私の衷にこんな考えが潜んでいるのでしょう。貴下は祈禱というものを信じておいでになる。全能にして愛(?)なる神を個人的知識を通して知っておいでになる。それゆえにもし昔、神が或る人に仰せられたように、『この霊魂のために祈るな』と明白に仰せたまわぬ限りは、或いは貴下がこの際どい時にでも、私、このように遠くさまよい出でたる者、自分で自分の祈ることもせぬ者、よし誰が何と考えるにしても、自ら自分の生涯を全く失敗しまた汚してしまったことを知っているこの者のために、祈る瞬間を見出し得なさるためであります』と。

 第二の書面は最も感動すべき事情の下に書かれたものである。その人は美しい英国の家庭で、豊富、豪華な環境のうちに育てられたのであるが、まだ娘の時に世的の生活から回心した。そして古のアブラハムのごとく神の召しを聞いて、ここ日本に来て極めて献身的なスパルタ風の簡素な生活を送ったのである。その奉仕の最後の年は、そこから数里のうちにはヨーロッパ人の住む者なき異教国の町に住んでいた。
 この手紙は、医師が彼女の病気が癌であると診断した一両日後に書かれたものである。霹靂一声、もはや六週間しかその生命が保たれぬと知らされたのである。彼女はその友人に多くの手紙を書いたが、次に掲げるものは彼女のキリストに導いた一日本人(今は大学の一つで哲学の教授をしている人)に書き送ったものである。それは最大の敵なる死に直面した時に、彼女の信仰が決して彼女を失望させなかったことを雄弁に物語っている。

 『わが親愛なる友よ。私は電報にてお送りくださった美わしい御言をいただき、また慰安と助けに満ち、愛の籠もったお手紙を昨日いただき感謝しております。
 貴下の仰せられるごとく、神が祝福の波紋をいよいよ広くなしたまわんことを望みます。しかり、死なば多くの果を結ぶべし。私はその波紋を起すために水に投げられた小さい石であることをたいそう喜びます。
 わが愛する兄弟よ、神は何たる美わしい考えを貴下に与えて私に送らせたもうことよ。私の足は今やもはや天の梯子を登らんとしております。やがて、美わしき様なる王を見まつると考えるは何たる栄えあることぞ。
 おお私はいかに熱心に、心一杯お勧めしたいことぞ。それはすべての重荷を棄て、また貴下を妨げるあらゆるものを棄てて、ひたすらに貴下の前に置かれたる天の馳場を走られんことである。さらば生命の終わらんとする時、貴下はどんなにお喜びなさることでありましょうぞ。そしてまた『からみつく罪』を棄てなさい。その罪は不信仰であります。それは実にほかの多くの恐るべき罪に導く、最も恐るべき罪であります。断えず主イエスを仰ぎ続けなさい。御憶えなさることでありましょう。ペテロが主イエスに目をつけている間のみ、よく水の上を歩んだが、主イエスより目を離すと直ちに沈み始めたことを。
 それから、行く道の困難なるがために気落ちするような場合には、ただ主イエスを思いなさい。主イエスは我らが堪えるよう召されたよりいかにはるかに多くの苦を耐え忍びたまいしかを憶えなさる時に、疲れて心を喪いなさることはないでありましょう。私はヘブル書六・一〜六を貴下に送ります。
 私はもっともっと書くことを得ますけれども、今はお別れせねばなりませぬ。私はいつも喜びと平和に満ちております。どなたでも驚きなさいますが、それは神のお恵みでございます。
 私は貴下に願います。たとえ悪魔が全世界を提供しようと言いますとも、いかに大いなる賜物をもってするも、高い地位をもってするも、決して天国を失いなさるな。神が貴下を祝し、護り、慰め、助け、貴下の要するいっさいでありたもうように!
 温かいキリスト者の愛とローマ書十五・十三と共に、下には永遠の御腕があることと、かく私が安息、甘美なる安息、平和、甘美なる平和、喜び沸き立つ喜びを常に持っていることを貴下に確言しつつ、
                            貴下の真の友より』

 我らは次に来る最後の章において、我らが不信仰より遁れる経路、救い出しのために神の定めたまえる道を考えるであろう。すなわち新約の仲保なる主イエスを仰ぐ時、天より語りたもうその御声を聞くことを得、かく聴きつつある間に主はその贖いたまえる霊魂から、深く根ざしたる絶望的なる地獄の動力でさえも全く除き去りたもうことを発見し得るということを学ぶであろう。



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